2-1 新天地編
王都を出てから、しばらくは穏やかな道が続いた。
整備された街道の両脇には畑が広がり、その向こうには小さな村や森が見える。時折すれ違う荷馬車や旅人の姿も珍しくなく、北へ向かっているとはいえ、まだ王都の影響が強い地域なのだろう。
乗り合い馬車にはノエルの他にも何人かの客が乗っていたが、皆それぞれに本を読んだり、眠ったり、窓の外を眺めたりしている。
ノエルも最初のうちは流れていく景色を眺めていた。
王都から離れるにつれて建物が減り、代わりに緑が増えていく。
それ自体はなかなか新鮮だったのだが、さすがに一時間も眺めていると飽きてきた。
「さて、と」
足元に置いていた鞄を引き寄せ、中から一冊の本を取り出す。
出発前、レオニスから渡された本だった。
『最低でも三章までは目を通しておきたまえよ』
そう言っていた本人の顔を思い出しながら表紙を開く。
レオニスが自ら選んだだけあって、内容は北部地域における魔術運用についてまとめられたものだった。寒冷地における術式の変化や、低温下での魔道具の管理、積雪時の結界維持など、ザーレンで働くなら知っておいて損はない内容が並んでいる。
もっとも。
「…………」
数頁読み進めたところで、ノエルは瞬きをした。
もう一度、同じ行を読む。
それから、その前の行へ戻った。
「……難しいなぁ」
小さく呟く。
内容が理解できないわけではない。
ただ、ひどく専門的なのだ。
一つの説明に対して当然のように複数の理論が引用され、注釈の先にはさらに別の術式論が顔を出す。
さすがはレオニスが選んだ本である。
おそらく本人なら、これを「基礎的な内容だ」と言うのだろう。
第三室にいると、時々そういうことがある。
ユーリスの「魔獣避けくらい」といい、優秀な人間の言う「このくらい」は、あまり信用してはいけない。
まさか今日だけで、二度もそれを実感することになるとは思わなかった。
ノエルは苦笑しながら、それでも本を閉じることなく読み進めた。
わからないところは後で調べればいい。
少なくとも三章までは読むように言われている。
レオニスのことだから、王都へ戻った時に本当に読んだか確認される可能性も十分にあった。
それに、ザーレンで役に立つなら覚えておいて損はない。
そうして本を読み、時々休憩がてら窓の外を眺めているとあっという間に昼を過ぎ、夕方になる頃には、景色も少しずつ変わり始めていた。
平坦だった土地には緩やかな起伏が増え、遠くには山々が見える。
日が傾くにつれて空気も冷え始め、ノエルはリディアから貰った毛織物のマフラーを鞄から取り出した。
首に巻くと、柔らかな毛が冷たい空気を遮ってくれる。そこでようやく、このマフラーにもわずかに魔術が施されていることに気づいた。
羊毛そのものの温かさだけではない。おそらく自然魔術の火と風を応用して、熱を逃がしにくくしているのだろう。
自然魔術を得意とするリディアらしい細やかな工夫に、ノエルはマフラーへ少しだけ顔を埋めた。
「あったかいなぁ」
出発が決まったのは昨日だというのに、随分と気を回してくれたものだ。ありがたいことこの上ない。
ラザから貰った飴も鞄に入っている。
ユーリスからは指輪。
レオニスからは本。
リディアからはマフラー。
そう考えると、随分いろいろ持たされて出てきたものだ。
「…………」
ふと、第三室の自分の机を思い出す。
ちゃんと空けておく。
ラザはそう言っていた。
「……早く後任が決まるといいなぁ」
小さく呟いて、また本へ目を落とした。
◇
その日の夜は、街道沿いの宿場で一泊することになった。
夜中、何気なく窓の外を見ると、いつもより星がはっきりと見えた。
今日はやけに星が綺麗だなぁ、と思ったあとですぐにラザの即興魔術を思い出す。
星空だけではない。
辺りを見回してみれば、薄暗い室内も、窓の外の静かな街並みも、昼間とさほど変わらず細かいところまでよく見える。
これは、例えば夜営中の騎士なら誰もが欲しがる魔術だろう。
「騎士団に術式提供は……うーん、所長、面倒くさがりそうだなぁ。いや、ザーレンの天体観測日誌とかと交換条件ならやってくれるかも?」
ラザのことだから、星を餌にすれば意外と簡単に頷くかもしれない。
とりあえず、王都に戻ったら交渉してみよう。
そんなことを考えながら、ノエルはいつもより美しく輝いている星空を、気が済むまで眺めていた。
◇
翌朝。
まだ眠気の残るうちに再び馬車へ乗り込み、北へ向かう。
昨日よりも明らかに空気が冷たい。
吐く息が白くなるほどではないものの、王都とは季節が一つ違うように感じられた。
景色も変わっている。
畑や村は次第に少なくなり、代わりに森が増えた。
街道そのものはきちんと整備されているが、その左右には深い森が続いている。
北部には魔獣が多い。
その話を思い出して、ノエルは何とはなしに周囲へ視線を向けた。
とはいえ、魔獣らしいものは一度も見ていない。
それどころか、普通の獣の姿すらほとんどなかった。
「今日は運がいいなぁ」
休憩のため馬車を止めた時、御者がそんなことを言った。
ノエルは水筒を手にしたまま振り返る。
「運がいいんですか?」
「ああ。この辺りまで来ると、ちょくちょく獣が街道に出てくるんだよ。魔獣まで出ることはそう多くないが、鹿だの猪だのが飛び出してきちゃ、馬が驚くからな」
「なるほど」
「昨日から一匹も見ねぇ。こんな静かな日は珍しいよ」
「へぇ……」
感心したように返しながら、ノエルは自分の荷物へ目を向けた。
その中には、昨日ユーリスから押しつけられた指輪が入っている。
正確に解析したわけではないが、魔獣避けの術式が組み込まれていることはわかっている。
そして、おそらく。
(……これ、魔獣だけじゃなくて普通の獣にも効いてるんじゃないかなぁ)
術式の組み方によっては十分あり得る。
というより、この状況を見る限り、そう考える方が自然だった。
昨日から一度も獣を見ていない。
御者が珍しいと言うほどに。
「本当に運がいいよ。この調子ならミレニアにも予定通り着けそうだ」
「それはよかったです」
ノエルはにこやかに答えた。
わざわざ「たぶん僕が持っている指輪のせいです」と説明する必要もないだろう。
ふと昨日のユーリスの真顔を思い出し、また少しだけ笑いそうになって、ノエルは水筒へ口をつけた。
◇
ミレニアへ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
王都を出発してから、およそ一日半。
北部へ向かう街道の中継地点として栄えているらしく、王都ほどではないものの人通りは多い。
旅人向けの宿や食堂、商店が並び、大きな荷物を積んだ馬車も何台も停まっていた。
ここで馬を休ませるため、しばらく停車するらしい。
ノエルは馬車から降りると、大きく伸びをした。
「んー……」
ずっと座っていたせいで、身体のあちこちが固まっている。
ザーレンまではまだ先だ。
移動扉なら一瞬なのになぁ、と少しだけ考えてしまう。
あれを怖がる人の気持ちは理解できるが、一日半も馬車に揺られた後では、多少怖くても使いたいという人がいる気持ちもよくわかった。
「あ」
そこで思い出す。
「連絡しないと」
ユーリスと約束していた。
ノエルは鞄から、小さな水晶を取り出した。
手のひらに収まるほどの大きさで、透明な水晶の内部には細い魔術式が幾重にも刻み込まれている。
正式には《対話水晶》という。
二つの水晶をあらかじめ同じ術式で結びつけておくことで、離れた場所にいても互いの声を届けることができる魔道具だ。
姿を見ることはできない。
伝えられるのは声だけ。
それでも遠方との連絡手段としては画期的で、今では王宮や軍、各地の魔術機関などでも広く使われている。
そして、この魔道具を開発したのが。
「お爺様なんだよなぁ……」
オズワルド・アルヴェイン。
ノエルの祖父である。
幼い頃から家にあったため、ノエルにとってはそれほど珍しいものではない。
祖父本人も時々これを使って、
『ノエル! 元気にしておるか!』
と、別に遠方にいるわけでもないのに連絡してきた。
同じ王都にいるのだから家へ来ればいいのに、と父が呆れていたのを覚えている。
もっとも、その祖父が開発した魔道具を今こうして王都から遠く離れた場所で使おうとしているのだから、本来の用途としては正しい。
ノエルは水晶へ魔力を流した。
内部の術式が淡く光る。
しばらく待つ。
『……ノエル』
「あ、ユーリス」
聞き慣れた声が水晶から響いた。
「今、ミレニアに着いたよ」
『そうか』
「うん。予定通り。特に何もなかったよ」
『怪我は』
「してないよ」
『体調は』
「大丈夫」
『魔獣は』
「出なかったよ」
一つ答えるたびに次の質問が飛んでくる。
ノエルは思わず笑った。
「本当に心配性だね」
『確認しているだけだ』
「そういうことにしておくよ」
『…………』
水晶の向こうが黙った。
顔は見えない。
けれど、たぶん少し不満そうな顔をしているのだろうな、となんとなく想像できた。
「あ、それでね」
『なんだ』
「御者さんが、昨日から獣を一匹も見ないのは珍しいって言ってたよ」
『そうか』
「……ユーリス」
『なんだ』
「これ、指輪が関係してるよね?」
『そうだろうな』
あっさり認められた。
「やっぱり」
『何か問題があるか』
「ないけど……」
ノエルは鞄の中の指輪を思い浮かべる。
「貴重なものすぎて、なくさないかってハラハラするよ」
『なら身につけておけばいい。その方が身を守る力も強まる』
「うぅん……それはわかってるんだけど」
『魔獣避けだと言っただろう。なくしたら、その時は別のものを渡す』
「簡単に言うなぁ」
ノエルは小さく笑う。
これが冗談なのか本気なのかは判断が難しいが、少なくともユーリスなりに友人を心配し、身の安全を案じてくれているということは伝わる。
「ありがとう、ユーリス」
『何がだ』
「うーん、全体的に? あと指輪も。びっくりしたけど助かってるよ」
『そうか』
「でも帰ったら返すからね」
わずかな沈黙。
『……好きにしろ』
「うん。そうする」
水晶の向こうで、何か言いたそうな気配がした。
しかし、それより先に、ユーリスの背後から突然賑やかな声が割り込んできた。
『はははっ! ユーリス、お前、指輪なんて渡してたのか!』
『待ちたまえ。まさかヴァレンベルク家の指輪ではなかろうね? ユーリス君、さすがに違うね?』
『……静かにしているという約束だったはずですが?』
低いユーリスの声に、どうやら向こうでは少しばかり騒ぎになっているらしい。
『いやぁ、お前の友情が重――いやいや、涙が出るほど美しすぎて堪えきれなかったわ』
『あの……複数人でお話しされるのでしたら、大水晶に繋ぐことも可能です。必要であればご用意しますが』
最後に聞こえてきたリディアの声に、ノエルは思わず笑った。
どうやら第三室で話しているらしい。
時間帯を考えればユーリスが職場にいるのは当然なのだが、普段の彼ならこういう時は席を外しそうなものだ。
おそらく、ラザあたりに「ここで話せばいいだろ。静かにしてるから」などと言われたのだろう。
そしてユーリスも、それを信じたらしい。
「ふふ」
光景が目に浮かぶようだった。
まだ王都を出て一日半しか経っていない。
それなのに第三室の声を聞いただけで、少し懐かしく感じる。
『ノエル』
「ん?」
『そろそろ馬車が出るんじゃないのか』
「あ」
振り返ると、御者が乗客へ声をかけ始めていた。
「本当だ、そろそろ行かなきゃ。所長、あんまりユーリスをからかわないでくださいね。レオニス先輩、本は読んでます。リディアさん、マフラー早速使ってるよ、ありがとう」
水晶越しに声をかけると、それぞれ短い返事が返ってくる。
「ユーリス、またザーレンに着いたら連絡するよ」
『待っている』
「うん。またね」
『……ああ』
水晶から魔力を抜く。
淡い光が消え、聞き慣れた声も途切れた。
ノエルはしばらく水晶を見つめ、それから大切に鞄へ戻した。
「さて」
まだ旅は続く。
馬車へ戻り、再び北へ向かった。
◇
ミレニアを越えると、景色はさらに大きく変わった。
森は深くなり、街道を行き交う人の姿も減っていく。
遠くに見えていた山々はいつの間にか近くなり、その頂には白いものが見え始めていた。
雪だ。
王都ではまだ冬の気配すら薄かったというのに、ここまで来ると季節が明らかに違う。
ノエルはリディアから貰ったマフラーへ顔を埋めながら、口の中にラザから駄賃として貰った飴玉を転がし入れた。甘く、懐かしい味に心がほぐれる。
森の木々の間から差し込む光。
遠く連なる山々。
時折見える小さな川は澄み切っていて、王都の近くとはまるで違う。
レオニスの本を読み進めては、疲れると窓の外を見る。
また本を開き、難しいところで止まっては景色を見る。
そんなことを繰り返しているうちに、三章まではどうにか読み終えることができた。
「……よし」
これで少なくとも、帰った時にレオニスへ怒られることはないだろう。
もっとも、内容を質問されたら少し困る。
あとでもう一度読み直そう。
本を閉じて、ノエルは窓の外へ目を向けた。
夕方が近づいている。
空は少しずつ茜色に染まり始め、その下を馬車は北へと進んでいく。
「明日の昼前にはザーレンに着くよ」
御者が言った。
「本当ですか?」
「ああ。この調子ならな。しかし今日は本当に静かだ。ここまで何も出ねぇのは初めてかもしれん」
「そうなんですねぇ」
ノエルは曖昧に笑い、それから再び窓の外へ目を向ける。
遠くに見える山々は高く、その向こうの空は王都で見るよりも広い。
夜になれば、魔術のおかげもあって一層星がよく見えるのだろう。
『ザーレンの星はお前に任せた』
あの時の言葉を思い出した。
「星の聖地、かぁ」
ザーレン。
今まで名前しか知らなかった土地が、もうすぐそこまで近づいている。
どんな場所なのだろう。
どんな人たちがいて、どんな仕事が待っているのだろう。
不安がないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に。
「ちょっと楽しみになってきたなぁ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ノエルは流れていく北の景色を眺めた。
ザーレンまでは、あと少しだった。




