1-6
「着いたら連絡をしろ。途中、何かあった時も。いや、特に何もなくても一度連絡はしろ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
馬車に乗り込む直前まで、念を押すように何度も言われ、ノエルは困ったように苦笑した。
ユーリスには自分が小さな子どもにでも見えているのだろうかとも思ったが、綺麗な顔をした友人から真顔で迫られるとなかなか抗い難い。
結局、王都とザーレンの中間地点にある街ミレニアへ到着したら一度連絡を入れることになった。
「それじゃあ、また連絡するね」
乗り合い馬車へ乗り込み、車窓から顔を出して告げる。
ユーリスはじっとノエルを見たまま、何故かすぐには返事をしなかった。
「ユーリス?」
「……ノエル」
「うん?」
少しの沈黙の後、何かを決めたように懐へ手を入れたユーリスは、そこから取り出したものをノエルへ差し出した。
「ん? これ……」
「持っていろ」
半ば押しつけるように手の中へ握らされ、ノエルは反射的にそれを受け取った。
手のひらを開く。
そこには、見覚えのある意匠が刻まれた銀色の指輪があった。
「え、え!?」
さしものノエルも驚き、指輪とユーリスを交互に見たのとほぼ同時に、
「出発しまーす!」
御者の声が響き、がたん、と乗り合い馬車が動き出した。
「ゆ、ユーリス! これ、あの……ヴァレンベルクの、っ」
「防衛魔術を一通り組み込んである。俺は不要だから、お前が持っていろ。魔獣避けくらいにはなる」
「いや、いや! これ、ヴァレンベルク家の! ユーリス!」
慌てて窓から身を乗り出すが、馬車はそんなノエルの事情など知ったことではないとばかりに速度を上げていく。
せめて返さなければと指輪を掲げてみても、ユーリスは追ってくるどころか、その場から一歩も動かずにこちらを見送っている。
「ユーリスー!」
遠ざかっていく馬車の窓から呼ぶ声も、次第に王都の喧騒へ紛れて聞こえなくなっていった。
ユーリスはしばらく、その姿を目で追っていた。
やがて馬車が大通りの向こうへ消えて完全に見えなくなると、わずかに目を細める。
これでいい。
ノエルであればヴァレンベルク家の紋章が刻まれた指輪を、何の意味もないただの贈り物だと受け取ることはないだろう。
本来、貴族が家紋の刻まれた指輪を他人へ渡すことは、求婚の意味を持つことが多い。自らの家の名を相手に預け、これから同じ家に属することを望むという意思表示でもあるのだから、そこに込められる意味が軽いはずもない。
もちろん、求婚だけでなく戦地へ赴く家族や親しい友人へ、その無事を願って家紋の品を預けることもあるが、どちらにせよそこに込められる思いは生半可なものではない。
だからこそ、渡した。
ノエルは指輪を自分のものにはしない。
必ず返さなければならないと考えるはずだ。
ならば、返すためには帰ってこなければならない。
もちろん、指輪一つがあれば無事に帰ってこられるほど世の中が単純ではないことくらい、ユーリスにもわかっている。それでも、帰る理由は多い方がいい。
そもそもノエルは、昨日突然ザーレンへの異動を命じられたというのに、あまりにもあっさりとそれを受け入れていた。
正式な後任が見つかるまでの一時的な異動なのだから、当然戻ってくるつもりではいるのだろうが、その期間がどれほどになるのかは誰にもわからない。
ましてや、あのノエルである。
ザーレンで困っている人間に頼られでもすれば、「もう少しだけなら」と平然と滞在を延ばしかねないし、そのうち自分が王都へ帰ることより、現地で必要とされていることを優先し始めてもおかしくない。
『ザーレンの方が僕には合ってるみたいだから、このまま正式に支部長になっちゃおうかな』
想像の中のノエルが、人の良さそうな顔でそんなことを言う。
ああ、簡単に想像がつく。
それがノエルの長所であることは、ユーリスも知っている。同時に、時折ひどく厄介なところでもあると思っている。
だから、返さなければならないものを一つ持たせておくことにした。
少なくともあの指輪を見るたびに、自分が王都へ帰る予定であることくらいは思い出すだろう。
そして当然、あの指輪に組み込まれている防衛魔術も、ただの口実ではない。
北方には魔獣が多く、ザーレンへ向かう道中も王都周辺ほど安全が保証されているわけではない。本来ならば自分で送っていくのが一番確実だったのだが、それはノエルにもリディアにも却下された。
ならば、せめて自分の代わりになるものくらい持たせておくべきだろうと考え、あの指輪には物理攻撃への防壁をはじめ、魔術への抵抗、一定以下の魔獣を遠ざける術式など、ユーリスが必要だと判断した防衛魔術を一通り組み込んでおいた。
そうして出来上がった指輪は、ユーリスの中では間違いなく「魔獣避けくらい」という認識だったが、実際には優秀な護衛を数人つけて歩くのと遜色ないほどの守りを備えていた。
だが、それがなんだというのか。
ノエルは友人だ。
ザーレンは魔獣被害の多い北方の地だ。
そこへ向かう友人の無事を願い、防衛魔術を組み込んだ指輪を渡した。
何もおかしくはない。
少なくとも、ユーリスの中では特に問題なくそういうことになっていた。
ふと、先ほどのノエルの顔を思い出す。
『え、え!?』
普段は滅多なことでは大きく動じないくせに、珍しく目を見開き、慌てて自分と指輪を交互に見ていた。
あの指輪を渡せば、ノエルは驚くだろう。
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
馬車が動き出す直前に渡したのは、返される暇を与えないためだったのは間違いないが、ほんの少しだけ、ノエルがどんな顔をするのか見てみたかったのも事実だった。
結果は予想以上だった。
あれほど慌てるノエルを見ることは滅多にない。
「……ふ」
誰も見ていないこともあってか、ユーリスの口元がほんのわずかに緩んだ。
それから何事もなかったように踵を返し、いつもの無表情に戻って王宮へと歩き出した。
◇
その頃、ユーリスがそんなことを考えているとは露ほども知らないノエルは、窓から見える友人の姿が完全に消えたところでようやく座席へ腰を下ろし、手のひらに残された指輪をしげしげと眺めていた。
「どうしよう、これ……」
宝飾品の鑑定は専門外だが、間違いなくヴァレンベルク家の指輪である。なにせヴァレンベルク家の人間本人から渡されたのだから、間違えようもない。
ノエル自身は貴族ではないが、アルヴェイン家も長く続く魔術の名家であり、貴族との付き合いも少なくない。
家紋の刻まれた指輪を他人へ渡すことが一般的にどういう意味を持つのかくらいは知っていた。
間違っても、期限付きで異動する友人への餞別として気軽に渡すようなものではない。
「…………」
ノエルはしばらく指輪を見つめた後、困ったように眉を下げた。
「まあ……死地に赴く親友に渡す、という話も聞くし。そういう感覚なんだろうなぁ」
ザーレンは寒冷な北方の地であり、魔獣被害も多い。
別に死地へ赴くつもりはないのだが、出発直前まであれだけ心配していたユーリスからすれば、似たようなものなのかもしれない。
そう考えれば、少なくとも理由はわかる。
改めて指輪を目の高さまで持ち上げると、銀色の台座にはヴァレンベルク家の紋章が刻まれ、その周囲には装飾に紛れるように細かな術式が彫り込まれていた。
「これを、魔獣避けくらいって……」
詳しく解析しなければ正確なところまではわからないが、単純な魔獣避けの術式だけではないことくらいはノエルにもわかる。
複数の術式が幾重にも重ねられ、それぞれが干渉しないよう精密に組み上げられている。それをこれほど小さな指輪の中に収めるとなれば、術式そのものへの深い理解だけでなく、相当な技術が必要になるだろう。
少なくとも、ノエルには到底真似できそうにない。
「ユーリスらしいというか、なんというか……」
おそらく本人にとっては、本当に「魔獣避けくらい」の感覚なのだろう。
あの移動扉を作った人間である。
ユーリスの言う「くらい」を、自分の基準で考えてはいけない。
ノエルはそう結論づけると、もう一度指輪へ目を落とした。
「でも、これはちゃんと返さないとなぁ」
いくら友人からの餞別だとしても、ヴァレンベルク家の家紋が刻まれた指輪を貰ったままにするわけにはいかない。
ザーレンでの引き継ぎを終え、正式な後任が決まり、王都へ帰ってきたら、その時にきちんとユーリスへ返そう。
そう決めて、ひとまず指輪を大切にしまう。
窓の外では、王都の街並みがゆっくりと後ろへ流れていた。
石造りの建物が立ち並ぶ大通りを、朝の荷馬車や人々が行き交っている。店先では一日の商いを始める準備が進み、通りの向こうには《星降祭》に向けて飾られた星の意匠が風に揺れていた。
祭りまで、あと三か月。
王都ではすでに至るところで準備が始まっており、これから祭りが近づくにつれて、街はますます賑やかになっていくのだろう。
「この分だと、今年の星降祭は見られないかなぁ」
少し残念に思う。
正式な後任がいつ決まるのかはわからない。
ガレスには、そう簡単には見つからないだろうと言われたばかりだし、ザーレンまで行って引き継ぎを済ませ、三か月もしないうちに王都へ戻ってこられるとは、ノエルもさすがに思っていなかった。
今年の星降祭は新たな百年の節目。
次の百年目を見ることは、まずできない。
「ちょっと残念だなぁ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ノエルは窓枠へ頬杖をついた。
とはいえ、行けと言われたものは仕方がない。
昨日までは、今日この時間に自分が王都を離れているなど考えもしなかった。
昨日の朝にはいつも通り第三室へ出勤し、いつも通り仕事をして、いつも通り皆に薬草茶を淹れていたはずなのに、今は荷物を抱えて北へ向かう乗り合い馬車の中にいる。
我ながら、随分と慌ただしい話だ。
やがて建物の数が少しずつ減り、代わりに王都を囲む高い城壁が車窓いっぱいに見えるようになった。
巨大な城門へ続く道には王都を出入りする馬車が列を作っており、門を守る騎士たちが一台ずつ確認している。
乗り合い馬車もその列へ加わり、しばらくして順番が来ると、簡単な確認を受けて再び動き出した。
暗い門の下へ入る。
一瞬だけ車内から朝の光が消え、車輪と蹄の音が石壁に反響して大きく響いたが、それもほんのわずかな間だった。
再び光が差し込む。
窓の外から高い城壁が後ろへ流れていき、その向こうに、王都の外へ続く街道と広い空が見えた。
「……出ちゃったなぁ」
思わず呟く。
ようやく、本当に王都を離れるのだという実感が湧いてきた。
三年間、毎日のように通った王宮も、第三室も、しばらくは遠い場所になる。
みんなは、もう仕事に戻った頃だろうか。
リディアはきっと机に向かっていて、レオニスは何かに文句を言いながらも仕事をしていて、ラザは――仕事をしているかどうか少し怪しい。
そしてユーリスも、もう宮廷魔法局へ戻った頃だろう。
そう思ったところで、先ほどの光景が脳裏に蘇った。
『持っていろ』
あの真顔である。
ヴァレンベルク家の指輪を渡しておきながら、まるで資料の一枚でも預けるような顔をしていた。
しかも、
『俺は不要だから、お前が持っていろ。魔獣避けくらいにはなる』
魔獣避けくらい。
思い返して、ノエルは手で口元を押さえた。
「ふふ……」
ユーリスらしい。
アカデミーにいた頃はもっと、何を考えているのかわからない近寄りがたい人なのだと思っていた。
それが実際に話してみれば、意外と気さくで、優しくて。
三年も一緒に働いてみれば、時々とんでもないことを真顔で言い出す人でもあった。
出発する直前まで何度も連絡しろと言い聞かせて、最後にはヴァレンベルク家の指輪まで押しつけてくる。
そのくせ本人は、何もおかしなことなどしていないという顔をしているのだ。
窓の外では、王都の城壁が少しずつ遠ざかっていく。
その景色を眺めながら、もう一度あの真顔を思い出すと、今度こそ堪えきれなかった。
「……あはは」




