1-5
第三室を出て、ユーリスと並んで王宮の白い廊下を歩く。
朝の王宮はすでに多くの人間が行き交っており、すれ違う侍従や文官に混じって同じ宮廷魔法局の制服もちらほらと見える。その中の何人かがこちらを振り返っていることに、ノエルはすぐ気がついた。
もっとも、その視線が自分へ向けられたものではないこともわかっている。
羨望、嫉妬、畏敬、あるいは単純な好奇心。
直接向けられていないノエルにすら、それぞれが異なる意味を持っていることはなんとなくわかるのだから、当のユーリスにはなおさらだろう。
「変わらないね」
「何がだ」
「アカデミーの頃も凄かったけど、今もユーリスは人目を引くなぁと思って」
「面倒なだけだ」
「うん。少しわかるよ」
ユーリスとは意味が違うが、ノエルも人の視線には晒されてきた。
名門アルヴェイン家の子息であり、大魔術師オズワルド・アルヴェインの孫でありながら、その名に似合わない平凡な才能しか持たない人間。
向けられる感情こそ違えど、どこへ行っても誰かに見られている息苦しさなら、ノエルにも覚えがある。
ユーリスが横目でノエルを見る。
「お前は昔から、視線が煩わしくない奴だった」
「そうなんだ」
「ああ」
「でも、在学中はほとんど話さなかったよね」
「ああ」
「あの頃はまさかユーリスと同期になるなんて、考えもしなかったなぁ」
「そうか」
「うん」
少し歩いてから、ノエルは笑った。
「でも今思えば、ちょっと勿体なかったね」
「何がだ」
「同期とか関係なく、もっと早く話してみればよかったと思うよ」
ユーリスがノエルを見る。
ノエルは前を向いたまま、昔のことを思い出していた。
アカデミー在学中、常に首席を維持していた上流貴族、ヴァレンベルク家の子息。
ユーリス・ヴァレンベルク。
その存在はもちろん知っていたし、むしろ知らない生徒はほとんどいなかっただろう。
けれど専攻も違えば交友関係もまるで違い、同じ学年にいながらまともに話した記憶はほとんどない。
唯一、はっきりと覚えているのは、一度だけ。
偶然、食堂で隣の席になった時のことだ。少しドキドキしたのを覚えている。しかし、すぐにその横顔がなんだか青白いような気がした。
どことなく、たまに季節性の頭痛で薬を飲んでいる時の父に似ているような。そう思うと、自然に口から言葉が出ていた。
『ユーリス君、具合悪い?』
『……いや。少し頭痛がしただけだ』
『そっか。あまり酷くなるようなら、医務室に行った方がいいよ』
『……ああ』
たった、それだけ。
ノエルにとっては、それだけの記憶だった。
一方で、ユーリスはその日のことを今でも鮮明に覚えている。
ヴァレンベルク家では、感情や体調を不用意に表へ出すことを良しとしなかった。
苦痛を顔に出さず、不快を態度に出さず、疲れていても背筋を伸ばし、人前では常に余裕を保つ。それはユーリスが幼い頃から身につけてきた、ヴァレンベルク家の人間として当然の振る舞いだった。
だからこそ、あの日。
『ユーリス君、具合悪い?』
そう尋ねられた時、ユーリスは驚いた。
頭痛がしていたのは事実だったが、自分では普段通りに振る舞っているつもりだったし、ましてや声をかけてきたのは親しい友人でも同じ専攻の学生でもない、顔を知っている程度の同級生だった。
それだけでも珍しかったが、さらに妙だったのはその後だ。
『……いや。少し頭痛がしただけだ』
『そっか。あまり酷くなるようなら、医務室に行った方がいいよ』
それで終わった。
薬は必要かとも、一緒に医務室へ行こうかとも言わず、頭痛の原因を尋ねることもなければ、それをきっかけに別の話題を振ってくることもない。
本当に、ただ隣に座った人間の顔色が悪かったから声をかけただけらしい。
ユーリスには、それがひどく珍しかった。
ヴァレンベルク家の名を知って近づいてくる者は昔から多く、アカデミーへ入ってからは、そこへ首席という肩書まで加わった。
一度言葉を交わせば、それをきっかけに距離を縮めようとする者がほとんどだったし、何を専攻しているのか、どの教授に師事しているのか、卒業後はどこへ進むのか、次の講義は何か、昼食はいつもここなのかと、こちらが会話を切り上げなければ質問はいくらでも続いた。
それが悪いことだとは思っていなかった。
当時のユーリスにとって、人間関係とはそういうものだった。
自分はヴァレンベルク家の人間で、アカデミーの首席で、周囲から一目置かれるだけの魔術の才も持っている。
だから人は自分に興味を持ち、自分と関係を持つことを望む。
傲慢ではあったが、それまでの人生で経験してきたことだけを材料にすれば、当時のユーリスにとってはそれが当たり前だった。
だから当然、あの同級生もまた話しかけてくるのだと思っていた。
翌日か。
数日後か。
次に食堂で会った時か。
いつになるのかはわからないが、その時も向こうから何か別の話をしてくるのだろうと、特に根拠もなくそう考えていた。
その時に何を話すのかまで、ぼんやり考えたこともある。
専攻について聞かれれば答えればいい。
あの日の頭痛について尋ねられたなら、たまにある一過性のものだと言えばいい。
相手の専攻について、こちらから聞いてみてもいいのかもしれない。
そんなことを考えている自分を、不思議だとは思わなかった。ただ、次に話しかけられた時のために考えているだけだと思っていた。
ところが。
何日経っても、何もなかった。
廊下ですれ違っても、向こうから声をかけてくることはない。食堂で見かけても、こちらを気にしている様子すらない。
ならば自分から声をかける、という発想は――なかったわけではない。
ただ、どうやって声をかければいいのかわからなかった。
これまで人間関係というものは、相手がユーリスへ話しかけることで始まっていた。
誰かと話したければ自分から話しかければいいという、ごく当たり前のことを知識としては理解していても、自分がそれをするとなると、何を理由に近づけばいいのかわからない。
そもそも、なぜ自分があの同級生と話したいのかすら、ユーリスにはよくわかっていなかった。
だから、とりあえず相手が何者なのかを調べた。
ノエル・アルヴェイン。
そこで初めて、あの大魔術師オズワルド・アルヴェインの孫だと知った。
アルヴェイン家ならば家格としても申し分なく、ヴァレンベルク家の人間である自分が友人として付き合っても何の問題もない。
そんなことを考えた。
今のユーリスが振り返れば、随分と傲慢な考え方だったと思う。
そもそも相手の家格がどうであろうと友人になるのに許可など必要ないし、それ以前にノエルの方はユーリスと友人になりたいなどとは一言も言っていない。
だが、当時のユーリスは悪気もなく大真面目だった。
家柄に問題はない。
成績は――ごく普通。
魔術の腕も――ごく普通。
素行に問題はなく、教師からの評価も悪くない。
交友関係にも特に変わったところはない。
調べれば調べるほど、名門アルヴェイン家の人間であること以外は驚くほど普通の学生だった。
そして、そんなことを調べておきながら声はかけられなかった。
代わりに、目で追うようになった。
食堂で見かければ視線が向き、廊下ですれ違えばなんとなく振り返り、講義棟の向こうに姿を見つければ、今日はあそこにいるのかと思う。
そうして見ているうちに、ノエルがあの日と同じことを他の人間にもしていることに気づいた。
誰かが困っていれば声をかける。
自分にできることなら手を貸す。
けれど必要以上に踏み込もうとはせず、相手が大丈夫だと言えばそれ以上は追わない。
どうやら自分だけが特別だったわけではないらしい。
それがわかると興味を失う――ということもなかった。
むしろ、ますます気になった。
今思えば、あの頃のユーリスはノエルと友人になりたかったのだ。
ただ、誰かと友人になりたいなどと思ったことがそれまで一度もなかったから、自分の中に生まれたものが何なのか、本人にすらわからなかった。
わからないままノエルを目で追い、話しかけられるのを待ち続けて。
結局、一度も声をかけられないまま卒業した。
その頃になってようやく、自分が何をしたかったのかに気づいた。
話してみたかった。
もっと早く、自分から声をかければよかった。
人生で初めて覚えた後悔だった。
だからこそ、宮廷魔法局へ入局したあの日。
同期として紹介された人間の中に、見覚えのある黒髪と眼鏡を見つけた時、ユーリスは呼吸が止まるほど驚いた。
そして、自分でも驚くほど嬉しかった。
『あ、ユーリス君』
先に気づいたのはノエルだった。
アカデミーにいた頃と変わらない、穏やかな顔でこちらへ歩いてくる。
『久しぶり。まさか同期になるとは思わなかったなぁ』
『……ああ』
『これからよろしくね、ユーリスく……いや、ヴァレンベルク君』
『ユーリスでいい』
ほとんど間を置かずに答えた。
『え?』
『同期だ。家名で呼ぶ必要はない』
少し考えて、もっともらしい理由も付け加えた。
本当は、そんなことはどうでもよかった。
ノエル・アルヴェインと再会した。
しかも同じ宮廷魔法局へ入局し、同期としてこれから働くのだ。
アカデミーでは一度きりだった機会が、今度は向こうからやってきた。
ならば今度こそ、同じ失敗をするつもりはなかった。
『そう?』
ノエルは少しだけ目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑った。
『わかった。よろしくね、ユーリス』
『……ああ。よろしく頼む』
それだけのことだった。
それだけのことなのに、ユーリスは密かに満足していた。
ようやく名前で呼ばれた。
今度こそ話せた。
しかもこれからは、次にいつ会えるかわからない同級生ではなく同期なのだから、話す機会はいくらでもある。
もちろん、その内心はヴァレンベルク家の人間らしく顔に出ることはなかった。
一方のノエルはといえば。
――ユーリス君って、意外と気さくな人なんだなぁ。
そんな、彼を知る者が聞けば首を傾げそうな感想を抱いていた。
しかし無理もない。
在学中はほとんど話したことがなかった雲の上の人物が、会って早々に同期だからという理由で名前を呼んでいいと言ってくれた。
それは、偶然とはいえ場違いな場に来てしまったと考えているノエルにとって、とても嬉しいことだった。
表情は固いけれど、ユーリス君は優しい人なんだな。それを知れただけで、入局した意味があったかもしれない。
そんなことを考えながら、ノエルはそれ以上深く考えず、少なくとも同期とはこれから上手くやっていけそうでよかった、と素直に思った。
「懐かしいなぁ」
隣を歩くノエルが呟く。
「食堂で一度だけ、話したことがあったよね」
「ああ」
「ふふ、本当に覚えてる?」
「覚えている」
即答だった。
ノエルは少し驚いたようにユーリスを見る。
「そっか、凄いね。よく覚えてたね」
「……」
忘れるはずがない。
だが、さすがにその一言は口にしなかった。
「ユーリス?」
「なんでもない」
「そう?」
「ああ」
「そっか」
それだけ言って、ノエルは前を向いた。
何故覚えているのかと尋ねるでもなく、黙った理由を追及するでもない。大丈夫だと言えば大丈夫なのだろうと、それ以上踏み込んでこない。
ユーリスも前を向く。
――やはり、変わっていない。
あの頃は、それがわからなくて何年も待ってしまった。
今なら、もう少しわかる。
ノエルは来ない。
話したければ、自分から話しかけなければならない。
「ノエル」
「ん?」
「ザーレンに着いたら連絡しろ」
「うん。もちろん」
「必ずだ」
「わかったよ」
あっさりと返事が返ってくる。
それでいい。
ユーリスは今度こそ、自分からそう言えたのだから。




