6-8
「……ふわぁ……」
朝食の席で、ノエルは小さなあくびを漏らした。
目元を指で軽くこすってみるものの、どうにもまぶたが重い。昨夜も結局、雲が晴れたのをいいことにラザと外へ出て、ずいぶん遅くまで星の観測に付き合うことになってしまった。
もっとも、さすがに二晩続けて夜を明かすようなことにはならなかったし、前の日よりは随分早く解放してもらえた。
……うん。昨日より早かったから、よしとしよう。
そう自分に言い聞かせながら、温かい飲み物を口に含む。
昨夜は雲の切れ間が広がるのを待ちながら、見えている星の位置を確認したり、以前の日記と照らし合わせたりしていた。しかし、肝心のあの星は、とうとう姿を見せなかった。
……昨日も、見えなかったなあ。
初めて見つけた時には、まさかこんなに気になる存在になるとは思ってもいなかった。
ラザから教わったことを思い出し、見えなかった時間や周囲の星の様子も、昨日の日記にはできるだけ詳しく記してある。
それでも、見つからないものは見つからない。
今夜はどうだろうか、とぼんやり考えていると、向かいから声がかかった。
「ノエル君、今日も眠そうじゃのぉ」
「すみません。昨日も少し遅くなってしまって」
「また星を見ておったのかね?」
「はい。雲が晴れたので、つい」
「ふむ。所長殿も熱心なことじゃ」
オリバーがラザへ視線を向けると、当の本人は何食わぬ顔で朝食を食べていた。
「せっかく星が見えたんだからな。見ねえ手はねえだろ」
「まあ……ラザさんはそうですね」
まったく悪びれる様子のない返事に、ノエルはそれ以上の抗議を諦めた。
今日は二人とも、いつまでものんびりしていられるわけではない。
オリバーが後任を探す旅へ出発する日であり、同時にラザの休暇が終わる日でもあった。
オリバーは昼頃、移動扉を使ってロゼへ向かう予定だ。そこを起点に各地を回り、ザーレン支部を任せられる人材を探すという。
一方のラザは、夜に王都へ戻ることになっている。最後にもう一度、星を見てから帰りたいらしいが、今夜の天気はどうなるだろうか。
そして、そんな二人が出発した後は、しばらくノエルが一人で支部を預かることになるのだった。
「しかし、やはり少し惜しいのぉ」
食事を進めていたオリバーが、不意にそんなことを口にした。
「何がですか?」
「いやなに。ノエル君がそのまま、ここの後任になってくれるのが一番よいんじゃがのう」
「えっ?」
思いがけない言葉に顔を上げると、オリバーは何やら含みのある顔で、ちらりとラザへ目を向けていた。
「若く、仕事は丁寧じゃし、村の者たちともすっかり馴染んでおる。わしも安心して任せられるし、これ以上の適任者はそうそうおらんと思うんじゃが」
「そんな、大げさですよ」
「いやいや、本心じゃよ。どうかの、所長殿?」
最後の一言は、明らかにラザへ向けられていた。
ラザはその視線を受け止めると、軽く口元を緩めた。
「残念ながら、こいつは一時貸出だ」
「ほう?」
「うちの連中も、首を長くして帰りを待ってるもんでな。そう簡単にはやれねえよ」
「……!」
ノエルは思わず、ラザの顔を見た。
あまりにも自然に言われたので、一瞬、返事をするのを忘れてしまった。
第三室の皆が自分の帰りを待ってくれている。
もちろん、そうであれば嬉しいとは思っていたし、ユーリスやリディア、レオニスとも離れる前にいろいろと話をしている。
それでも、ラザの口から改めて聞くと、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……そうですか。それは残念じゃ」
オリバーは大げさに肩をすくめてみせた。
もっとも、その表情からは本気で落胆している様子はうかがえない。最初から答えはわかっていて、あえて尋ねてみたのだろう。
「まあ、ノエル君ほどの人材を、そう簡単には手放さんわな」
「そういうこと」
「ふむ。では、わしも負けずに、よい後任を見つけてこねばならんのぉ」
「大物を掘り当ててくるこった」
「ほっほっほ。任せておけ」
二人のやり取りを聞きながら、ノエルは嬉しさとわずかな気恥ずかしさを誤魔化すように、もう一度温かい飲み物へ口をつけた。
ザーレンでの生活も、仕事も、今ではすっかり気に入っている。
けれど、第三室に戻る日を楽しみに思う気持ちも、確かにそこにあった。
◇ ◇ ◇
その日の支部は、朝からいつになく賑やかだった。
オリバーが今日出発すると聞きつけた村人たちが、入れ替わり立ち替わり顔を出しては、旅先での無事を祈ったり、別れの挨拶をしたりしていく。
最初にやって来たのは、村でも顔なじみの年配の女性だった。
「オリバー、本当に今日行くのかい?」
「うむ。昼には出発するつもりじゃよ」
「そうかい。まあ、後任探しなら仕方ないねえ」
女性は腕を組んでオリバーを眺めた後、豪快に笑い飛ばした。
「ノエルちゃんがいるんだから、こっちは何も問題ないよ! 心配してないで、さっさと行ってきな!」
「はっはっは! まったく、随分と頼もしい言葉じゃの」
「当然さね。むしろ、あんたは昔から村に居ずっぱりで久々の旅なんだろ? たまには羽を伸ばしておいでな」
「うむ。そうさせてもらうかの」
「ただし、ちゃんと帰ってくるんだよ! あんたの墓はここにもう用意しとるんだ」
「当然じゃ……いや墓はまだいらん!」
軽口と気遣いが混ざり合うやり取りは、いかにもこの村の人らしかった。
ノエルが女性を玄関まで見送って戻ると、今度は森で仕事をしているという若者が顔を出していた。
「支部長、旅に出るって聞いたんで」
「おお。わざわざ来てくれたのか」
「ええ。あんまりはしゃいで、旅先で体調崩さないでくださいよ」
「なんじゃ。お主までわしを年寄り扱いするのか」
「年寄りでしょうが」
「まだまだ若いもんには負けんぞ」
「はいはい。それは知ってますけど、無理はしないでくださいね」
若者は呆れたような顔をしながらも、道中で使ってほしいと小さな包みを差し出した。
中には、旅先でも手軽に食べられるようにと用意された保存食が入っていたらしい。
「おお、これはありがたいのぉ」
「母さんが持ってけって。どうせ向こうで食事を忘れて歩き回るだろうからって言ってましたよ」
「まったく、皆してわしを何だと思っとるんじゃ」
「昔から知ってるから言うんですよ」
そう言い残して帰っていく若者を見送りながら、オリバーは少し困ったように頬をかいた。
その後も、旅先の知人へ手紙を届けてほしいと頼む人や、近隣の街で評判の店を教えてくれる人、わざわざ焼き菓子を差し入れに来る人まで現れた。
仕事の相談で訪れたはずが、気づけばオリバーの旅の話を始めている村人もいる。
出発前だというのに、支部長本人が一向に荷物の最終確認へ戻れないほどだった。
「……オリバーさん、すごい人気ですね」
ひと息ついたところでノエルが言うと、オリバーは照れくさそうに髭を撫でた。
「長くここにおるからのぉ。皆、親戚のようなもんじゃ」
「それだけじゃないと思いますよ」
「そうかの?」
「はい」
ノエルは玄関の方へ目を向けた。
ここへ来てから、村の人々がどれほど気軽にオリバーを頼りにしているか、何度も目にしてきた。
魔術の相談だけではない。天候のこと、家族のこと、仕事のこと。用事がなくてもふらりと顔を出し、世間話をして帰っていく人もいる。
この支部は単なる魔法局の出先機関ではなく、村の人たちの暮らしの中に、ごく自然に溶け込んでいるのだ。
「……ふふ。僕も、見習わないとですね」
「いやいや、ノエル君はもう十分やってくれとるよ」
オリバーは穏やかに目を細めた。その顔を見ると、自然と背筋が伸びる。この村を守ってきた頼もしい支部長が帰ってくるまで、支部を預かるのは自分だ。
まだわからないこともあるけれど、これまで教わったことを思い出しながら、一つずつ真剣に仕事を進めていこうとあらためて思った。
そこへ、今度は子供たちが何人か駆け込んできた。
「オリバーじいちゃーん!」
「おお、どうしたんじゃ。そんなに慌てて」
「ほんとに遠く行っちゃうの?」
先頭の小さな男の子が、オリバーを見上げた。
その後ろにいる子供たちも、いつもより少しおとなしい。
「うむ。しばらく旅に出るんじゃよ」
「どこ行くの?」
「まずはロゼじゃな。それから、あちこち回ってみようと思っとる」
「いつ帰ってくる?」
「そうじゃのぉ。よい人が見つかったら、なるべく早く帰ってくるつもりじゃが」
「……すぐ?」
「すぐ、とは約束できんのぉ」
オリバーが正直に答えると、男の子は唇を尖らせた。
「……やだなあ」
「ほっほっほ。そんな顔をするでない」
オリバーは腰をかがめ、男の子と目線を合わせた。
「わしがおらん間は、ノエル君がおるじゃろう? 困ったことがあれば、何でも相談するんじゃよ」
「……うん」
「それに、旅先で面白い話を見つけたら、帰ってからたっぷり聞かせてやろう」
「ほんと?」
「もちろんじゃ」
「じゃあ、すっごい面白いやつね!」
「おお。そりゃあ、なかなか難しい注文じゃの」
子供たちの間に、ようやく普段の明るさが戻ってきた。
「おみやげも!」
「ぼく、王都のおかしがいい!」
「こらこら、欲張るでない」
「えー!」
そんなやり取りをしながら、オリバーは一人ひとりの頭を撫でていた。
ノエルは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
出発を惜しみながらも、皆が安心して送り出そうとしている。
長い年月をかけて築かれた関係というのは、こういうものなのだろう。
オリバーが支部長として積み重ねてきた日々を、ほんの少しだけ見せてもらったような気がした。
◇ ◇ ◇
昼が近づく頃には、訪ねてくる人の数もようやく落ち着いていた。
オリバーは旅用の外套を羽織り、鏡の前で最後の身だしなみを整えている。結局、あれだけ迷っていた上着は鮮やかな青色に決めたらしく、先ほどから何度か襟の形を直していた。
「……うむ。やはり、これにして正解じゃったな」
「もう時間だぞ。そろそろ襟はいいだろ、爺さん」
荷物を確認し終えたラザが、横から口を挟んだ。
「何を言うとる。旅先でどんな出会いがあるかわからんのじゃぞ。第一印象は大切じゃ」
「はいはい」
ラザは適当に手を振ったが、オリバーは気にした様子もなく、満足そうに襟元を整えた。
荷物の準備が整ったところで、三人は支部の移動扉が設置された部屋へ向かった。
オリバーは扉の前に立つと、持っていた鞄を足元へ下ろし、二人へ向き直った。
「では、行ってくるかの」
「はい。道中、どうかお気をつけて」
「うむ。ノエル君も、あまり無理をするでないぞ」
「ありがとうございます。何かあれば連絡しますね」
「そうしておくれ。わしも時々、連絡を入れるつもりじゃ」
オリバーは頷き、続いてラザへ視線を向けた。
「所長殿も、いろいろと世話になりましたな」
「いや、俺は休暇で遊びに来ただけだしな。むしろこっちが世話になった」
「いやなに。この田舎での時間は、よい休暇になったかの?」
ラザはニッと笑いながら目を細めた。
「おう。おかげさんで、久々に退屈しねえ休暇だったわ」
「それはなにより」
オリバーは穏やかに応じると、再びノエルへ顔を向けた。
「ノエル君」
「はい」
「支部を頼んだぞ」
それまでの和やかな口調とは少し違う、支部長としての言葉だった。
ノエルも、あらためて姿勢を正し、しっかりと頷く。
「はい。責任をもってお預かりします」
「うむ」
オリバーは満足そうに微笑むと、鞄を持ち上げた。
取っ手に魔力を流すと、扉に刻まれた術式が淡く光り始めた。オリバーがゆっくり扉を開けると、そこに現れたのは、ザーレンの支部とはまるで異なる景色だった。
扉の向こうには、北の街ロゼの入り口が広がっている。
「おお……リディア嬢が使ったところは見とったが、こうして実際に使ってみると、やはり不思議なもんじゃ」
オリバーは少しの間、まじまじと扉の先を眺めていたが、意を決したように振り返る。
「では、行ってくるぞい!」
「いってらっしゃい、オリバーさん!」
「気ぃつけてなー」
オリバーは軽く手を振り、迷いのない足取りで扉をくぐった。
青い上着の裾が、最後にひらりと揺れる。
その姿が光の向こうへ消えると、移動扉は静かに閉じられ、部屋には元の静けさが戻ってきた。
「……行っちゃいましたね」
「そうだな」
ノエルは、閉じた扉をしばらく眺めていた。
数日前まで、オリバーが旅に出るという話は、まだ少し先のことのように感じられていた。
けれど、こうして実際に見送ってみると、本当に今日から自分がこの支部を預かるのだという実感が湧いてくる。
少しばかり緊張もするが、不安ばかりでもない。まずは一歩ずつ。今日の仕事を、きちんと終わらせなければ。
「……よし」
ノエルは小さく拳を握った。
「頑張りますよ!」
「お、やる気じゃねえか」
「はい。任せていただいた以上、しっかりやらないと」
「ま、気負いすぎんなよ」
ラザは気軽な調子で言いながら、ノエルの隣を歩き始めた。
「一人で抱え込む必要もねえんだし、何かあったら連絡しろ」
「ありがとうございます」
「それに、俺も夜まではいるしな」
「ふふ。そうですね」
ノエルはラザと並んで廊下を歩き、支部の居間へ戻った。
今日の午後は、午前中に届いた依頼の整理と、森の見回りで確認したことを報告書にまとめる予定だ。オリバーが不在の間に必要となる連絡先も、もう一度確認しておきたい。
そんなことを考えながら、居間の扉を開ける。
「わっ!」
足を踏み入れたところで、ノエルは思わず立ち止まった。
先ほどまで誰もいなかったはずの部屋に、一人の青年が立っていたからだ。
見慣れた銀髪に、整った顔立ち。窓際に立つその姿は、少し前までここにいたかのように自然で、扉を開けたノエルの方へ静かに視線を向けている。
「……ユーリス?」
「お?」
後ろから入ってきたラザも、青年の姿を見て足を止めた。
「なんだ、お前。いつの間に来たんだ?」
「つい先ほどです」
「来るなら連絡してくれればよかったのに」
「急だったからな」
そう言いながら、ユーリスの視線がノエルの顔をジッと見つめる。そしてわずかに怪訝な顔をした。
「少し、寝不足か?」
「あ……わかる?」
ノエルは自分の目元に触れた。
朝よりは随分ましになったと思っていたが、どうやらまだ眠そうに見えるらしい。
「昨日も結構遅くまで、……所長と話し込んでたから。ちょっと眠気が残ってるかも」
馴染みの呼び方が喉から出かかったが、少し考えて仕事の時の呼び方に戻し、ノエルは小さく笑った。
「昨日も、ということはその前もか?」
「うん。一昨日は夜が明けるまで話してたんだけど、昨日はそれより早く休めたから大丈夫だよ」
「……そうか」
ユーリスは短く返した。
そして、ゆっくりとラザへ顔を向ける。
「…………」
「……何だよ」
「…………」
「おい」
ユーリスは何も言わない。
ただ、まっすぐラザを見ている。
ラザはしばらくその視線を受け止めていたが、やがて観念したように片手を上げた。
「あー、わかったわかった。悪かったから、無言で俺を責めんなって」
「別に何も言っていませんが」
「言ってなくてもわかるんだよ、その目は」
「そうですか」
「そうですか、じゃねえよ」
ユーリスは表情を変えないまま、ノエルへ視線を戻した。
「仕事に支障は出ていないか?」
「うん。オリバーさんが朝は少し休ませてくれたし、それからは普通に仕事してたよ」
「ならいいが、無理はするなよ」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
ノエルがそう答えると、ユーリスはひとまず納得したらしい。
そのやり取りを横で聞いていたラザが、少し不満そうに口を挟んだ。
「俺が無理やり付き合わせたみてえな言い方すんなって。こいつだって星見るのは好きなんだからな」
「それは知っています。ノエルが嫌々付き合ったとは思っていません」
「おう」
「ただ、部下の体調を案じる心遣いを持っていただきたいとは思いましたが」
「……お前、容赦ねえな」
「そうですか」
ノエルは二人を見比べながら、思わず口元を緩める。
つい夜更かしをしてしまったのは事実だが、確かにラザの考察を聞くのは面白かったし、自分も観測を続けたかった。
そのことを説明しようかとも思ったものの、ユーリスが心配してくれているのもわかるので、今は黙っておくことにした。
「……ったく。休暇中の上司を詰めるなよなぁ」
ラザがぼやくと、ユーリスはそこで思い出したように口を開いた。
「休暇といえば」
「ん?」
「今回の休暇については、王宮に戻り次第、ローゼンフェルト補佐からいくつかお話があるそうです」
「…………」
ラザの動きが止まった。
「なんの?」
「詳しくは伺っていません。ただ、事前の申請自体には問題がないものの、休暇の日程と業務の引き継ぎについて、確認したいことがあると」
「引き継ぎはちゃんとやっただろ。仕事は残してきてねえぞ」
「その辺りの見解も含めて、直接お話ししたいそうです」
「……その言い方、絶対キレてんだろ」
「少なくとも、所長が帰還されるのを待っているのは確かですね」
「嬉しくねえ待たれ方だなあ……」
ラザは天井を仰いだ。
ノエルは少し気の毒に思いながらも、レオニスが何を言いたいのかは何となく想像がついた。
休暇の申請はきちんと通っているとはいえ、レオニスへ十分な相談がないまま日程を決めたことについては、ラザ自身も心当たりがあるはずだ。
普段から第三室の業務を取りまとめているのはレオニスなのだから、ひと言くらい事前に話しておいてほしかったのだろう。
「はぁ……」
ラザは大げさにため息をつき、ノエルの肩へぽんと手を置いた。
「俺の味方はお前くらいだ、ノエル」
「えっ?」
「王宮に帰ったら、またあいつに小言を言われんだぞ。少しくらい同情してくれよ」
「うーん……」
ノエルは困ったように首を傾げた。
「僕も、味方かと言われるとちょっと……」
「おい」
「ふふっ、すみません。来ていただけたことは嬉しかったですよ」
それは本当だ。
久しぶりに仕事を離れたラザとじっくり話せたことは、懐かしさと気安い心地よさがあった。
「星のお話もたくさんできましたし、魔術も教えていただきましたから。ありがとうございました」
「そうだろそうだろ」
ラザは途端に機嫌を直したらしく、満足げに頷いた。
それを見ていたユーリスが、静かに口を開く。
「ノエル」
「ん?」
「それと、休暇の取り方が適切だったかどうかは、別の問題……らしい」
「らしい……?」
「少なくとも、ローゼンフェルト補佐はそういう認識だった」
「だろうねぇ」
多分、ユーリスはさほど気にしていない部分なんだろう。ラザさんとユーリスって実は考え方似てるんだよなぁ。
ノエルはそんなことを考えながら、ふとユーリスへ尋ねた。
「あ、結局今日はどうしたの? 僕に何か用事があった?」
思えば、ユーリスが突然訪ねてくること自体は、それほど珍しくない。
ただ、今回は少し様子が違っていた。
ユーリスはノエルの問いにすぐには答えず、まず部屋の中を見回した。
「オリバー殿は、もう出発したのか?」
「え? うん。今さっき見送ったところだよ」
「そうか」
ユーリスは短く答えた。
「なら、ちょうどよかった。少々内密な話だ」
「……?」
ノエルが首を傾げると、ユーリスはラザへ向き直った。
先ほどまでの会話が途切れ、部屋には静けさが戻る。
ユーリスの表情は相変わらず落ち着いていたが、その視線は先ほどまでとは違い、まっすぐラザへ向けられていた。
「所長」
「ん?」
「緊急招集です」
「……あ?」
ラザが片眉を上げた。
休暇が終わるのは今日の夕方だ。それを待たずにユーリスが直々に呼びに来たということは、王宮で何か急ぎの事態が起きたのだろう。
「何かあったのか?」
「はい」
ユーリスは短く答えると、そこで一度言葉を切った。
ノエルは思わず背筋を伸ばす。
第三室所長へ急ぎで報告しなければならないほどの用件なら、決して軽い話ではないはずだ。
先ほどまで軽口まじりのやり取りをしていたユーリスとラザの間にも、真剣な空気が漂う。
そして、ユーリスは静かに口を開いた。
「ミリザリア殿下が消えました」
王宮から遠く離れたザーレンの地で、その報せはあまりにも静かに告げられた。




