6-7
夕方から空を覆い始めた雲は、夜になっても晴れる気配がなかった。
ノエルは窓の外を見上げ、少し残念そうに息を吐いた。厚い雲の向こうに星の姿はなく、昨日あれほど鮮やかに見えていた夜空が、今夜はすっかり隠されてしまっている。
「……今日は、観測できそうにないですね」
「そうだなあ」
隣で空を眺めていたラザも、さすがに諦めたらしい。
もっとも、昨日から調べ続けている消えた星のことを思えば、今夜も観測したかったのだろう。窓の外へ向けられた視線には、少しばかり未練が残っているようだった。
「じゃあ、ラザさん」
「ん?」
「今日は魔術を教えていただけるんですよね?」
ノエルが尋ねると、ラザはようやく窓から離れた。
「ああ、そうだったな。約束してたもんな」
「はい。今夜こそお願いします」
「わかってるって。んじゃ、まずは基礎からやるか」
ラザはノエルの机へ近づき、紙と筆記具を借りると、手早く二つの円を描いた。
それぞれの円の中心に、太陽と月を表す記号を書き込んでいく。
「まず確認な。光魔術と闇魔術の違い、どこまで覚えてる?」
「ええと……光魔術は太陽の魔力を基にしていて、闇魔術は月の魔力を基にする、ですよね」
「おう。続けて」
「光魔術は、光や熱、生命に関係するもの。闇魔術は、影や冷気、静寂……それから、死に関係するものです」
「そうそう。基本はそれでいい」
ラザは二つの円を線で結び、さらに周囲へいくつかの文字を書き足した。
「光魔術は太陽の魔力エネルギーを利用する。光、熱、生命、力、朝。大きく分けりゃ、そういう性質を持つ術式が多いな」
「はい」
「で、闇魔術は月の魔力エネルギーが基礎になる。影、冷、静寂、夜、それから死。こっちはこっちで、扱う範囲が結構広い」
ラザは筆記具を置き、二つの円を指で示した。
「重要なのは、こいつらが表裏一体だってことだな」
「表裏一体……」
「おう。光があれば影ができるし、生きてりゃいつかは死ぬ。熱と冷たさだって、切り離して考えられるもんじゃねえだろ」
「なるほど」
「だから光が善で闇が悪、なんて話じゃねえ。どっちも必要だし、どっちかに偏りすぎると都合が悪い。結局は釣り合いの問題なんだよ」
ノエルは頷いた。
光魔術と闇魔術は、どちらも呪術的な性質を含んでいる。
特に生命や死に関わる術式は、単に魔力を流して何かを動かすような魔術とは異なり、対象との結びつきや作用する範囲を慎重に定める必要があった。
「じゃあ、今回の夜目の魔術にも、その呪術的な要素があるんですか?」
「あるぞ。人体に直接作用させるなら、なおさらな」
ラザは新しい紙を取り、今度は簡単な目の断面図を描き始めた。
「そもそも、暗いところが見えにくいのは何でだと思う?」
「目に入る光が少ないから、でしょうか」
「そう。なら、目に入る光を増やせばいい……って考えるのが一番単純な方法だな」
「でも、それだと明るくする魔術になりませんか?」
「お、いいじゃねえか。まさにそういうこと」
ラザは筆記具の先で机を軽く叩いた。
「周りを明るくすりゃ見えるようにはなる。けど、それじゃ自分の居場所まで周囲に知らせちまうし、そもそも他人には見えねえようにしたい場合もあるだろ」
「ああ……騎士団の夜間警戒だと、特にそうですね」
「だろ? だから今回は、周囲を照らすんじゃなくて、暗い場所でも目が情報を拾えるようにする」
ラザは先ほどの図に、いくつかの線を書き加えた。
「まず、光魔術の生命に関係する部分で、視覚器官の働きを調整する。そこに光の性質を重ねて、入ってきた僅かな光を効率よく扱えるようにするんだ」
「……なるほど」
「で、それだけだと明暗の差が強すぎたり、見え方が不安定になったりする。だから闇魔術の影に関する術式を組み合わせて、暗い部分の変化に対する感度を上げる」
ラザは二つの術式を重ねるように線を引いた。
「光魔術で視覚の受け皿を調整して、闇魔術で影の情報を拾いやすくする。大雑把に言うと、そんな感じだな」
「……言われてみると、理屈はわかる気がします」
「だろ? まあ、実際の術式はもうちょい細かいけどな」
ラザが差し出した紙を見て、ノエルは思わず眉を寄せた。
先ほどまでの簡単な図とは違い、そこには複数の魔術式が入り組むように配置されている。
光魔術の基礎構造なら読み取れるが、その途中に闇魔術の術式が組み込まれていて、どこからどこまでが一つの機能なのか、すぐには判別できなかった。
「……ちょっと、難しそうですね」
「そりゃまあ、二系統組み合わせてるからな」
「しかも、人体に付与するんですよね?」
「本来のやり方だとな。ただ、お前にいきなりそれをやらせる気はねえよ」
ラザはノエルの顔を指さした。
「まずは、その眼鏡にかけてみろ」
「……眼鏡に、ですか?」
「おう。視覚器官そのものをいじるんじゃなくて、眼鏡を通して見える情報を調整する。こっちの方がずっと簡単だ」
ノエルは自分の眼鏡に指を添えた。
確かに、人体に直接作用させるのと、魔道具として加工するのとでは、必要な技術も違ってくる。
「それに、騎士団の連中に使わせるなら、こっちの方がいいかもしんねえな」
「……ああ、そうですね」
ノエルも、その意味に気づいた。
「身体に直接魔術をかけられるのが苦手な方でも、道具としてなら使いやすいかもしれません」
「そういうこと。眼鏡が嫌なら、あとで別の形にしたっていいしな」
「なるほど……」
ノエルは自分の目元へ軽く触れた。
そういえば、ラザがこの魔術を施してくれた時も、事前に詳しい説明があったわけではなかった。
いきなり人体に魔術を付与するというのは、普通の魔術師がやれば、あまり褒められた行為ではないだろう。まして、生命に関わる術式を含んでいるのだから、相応の知識と技量が求められる。
騎士団の人々の中には、魔術師に身体を預けること自体を嫌がる者もいるはずだ。もし自分と同じように、突然魔術をかけられたら、怒る人がいてもおかしくない。
……そう考えると、結構よくないことだったのかもしれないなあ。
とはいえ、ノエル自身は特に気にしていなかった。
生まれた時から魔術が身近にある環境で育ったこともあるが、何より、ラザが術式を間違えたり、危険な状態のまま放置したりするとは、少しも思っていなかったからだ。
もちろん、信頼しているからといって、誰にでも同じことをしてよいわけではない。
……まあ、ラザさんだしなあ。
そう結論づけてしまう自分も、やっぱり少し魔術師寄りの感覚なのかもしれない。
「じゃあ、まずは眼鏡への付与を覚えます」
「おう。それでいい」
ラザは頷き、術式の一部を指で囲んだ。
「んじゃ、ここからな」
◇ ◇ ◇
「……あれ?」
しばらくして、ノエルは書きかけの術式を見つめながら首を傾げた。
「ここ、光魔術の変換式ですよね?」
「そうだぞ」
「でも、以前読んだレオニス先輩の本では、別の解釈が書かれていたような……」
「ああ?」
ラザが覗き込む。
「どれだ?」
「この部分です。確か、光の性質を変化させるというより、対象の受容機能を拡張するための補助式として説明されていたと思うんですけど」
「あー……あれか」
ラザは少し考えてから、納得したように頷いた。
「間違っちゃいねえけどな」
「そうなんですか?」
「おう。レオニスの説明は過程を細かく分けてるんだよ。俺は結果から逆算して組んでるから、見た目がちょっと違うだけ」
「なるほど……」
「つーか、あいつ三行で済むことを本一冊にするからな」
「あはは……」
ノエルは思わず声を漏らした。
確かに、レオニスの書いた本は丁寧だった。
基礎的な概念から順を追って説明されており、関連する理論や例外についても細かく記されている。
読み進めるには相応の時間が必要だったが、理解できた時には、それまで曖昧だった部分がきちんと整理される感覚があった。
「前に本人にもそう言ったんだよ。そしたら、すげえ怒られてな」
「……レオニス先輩がですか?」
「おう。『三行で済むのは結果だろう。その結果に向かう過程を知ることで応用につながるのだ』って」
ラザはわざと背筋を伸ばし、少し堅苦しい口調を作った。
「『これは凡人用なのだから、対象外は黙っていたまえ』だとよ」
「……ふふっ」
「ひでえ言い草だろ?」
「でも、レオニス先輩のおっしゃることもわかります」
「そうか?」
「僕は、その過程を説明していただけると助かりますから」
ノエルがそう答えると、ラザは少しだけ口を尖らせた。
「お前まであいつの味方かよ」
「味方というか……どちらの説明も、わかりやすいですよ」
「ふうん?」
「先輩の本で基礎を学んでいたから、今のラザさんの説明も理解しやすいんだと思います」
ラザは一瞬、考えるような顔をした。
「なるほどな」
それから、ノエルの書いた術式へ視線を戻す。
「んじゃ、その基礎がどんだけ身についてるか、試してみるか」
「はい」
「ここ、なんでこの順番にした?」
「ええと……先に光の性質を固定しないと、闇魔術の方が干渉してしまうと思ったので」
「おう。そこまでは合ってる」
ラザは筆記具を取り、ノエルの書いた線の一部を指した。
「ただ、ここを閉じるのが早い。これだと影の情報を拾う前に、変換式が完結しちまう」
「ああ……そうか」
「こっちを先に通して、それから閉じる。そうすりゃ二つの術式がちゃんと連動する」
ラザが修正した図を見て、ノエルはもう一度自分の式を確認した。
言われてみれば、確かにその通りだった。
複雑な術式ではあるが、ラザは必要な部分を一つずつ切り分けて説明してくれる。どこが間違っていて、なぜその順番でなければならないのかも明確なので、修正するたびに少しずつ理解が深まっていった。
それでも、実際に魔術を付与するとなれば話は別だ。
「……じゃあ、やってみます」
「おう」
ノエルは眼鏡を外し、机の上に置いた。
まずは基礎となる光魔術の術式を組み立て、レンズの表面へ魔力を流す。
淡い光が浮かび、細い線となって広がっていった。
しかし、闇魔術の術式を重ねようとした瞬間、その線が不規則に揺れ始める。
「あっ」
光が消えた。
「……失敗ですね」
「まあ、最初はそんなもんだろ」
ラザが眼鏡を覗き込む。
「光の方は悪くねえよ。闇の術式を重ねる時に、魔力を流しすぎてる」
「流しすぎ、ですか?」
「おう。こっちは強くすりゃいいってもんじゃねえんだよ。感度だけ上げたいんだから、必要なとこに必要な分だけ流せばいい」
「……なるほど」
ノエルは眼鏡を持ち直した。
ラザの指示に従い、今度は魔力の流れを少しずつ調整していく。
二度目は、闇魔術の術式を組み込むところまでは成功した。
しかし、最後の固定がうまくいかず、やはり術式がほどけてしまう。
三度目。
今度は固定まで進んだものの、魔力の流れが片側のレンズに偏ってしまった。
「……うーん」
「惜しいな。今のは結構よかったぞ」
「本当ですか?」
「おう。あとは左右の調整だな」
ラザは二枚のレンズを指さし、魔力の流れを揃えるための補助式を説明した。
ノエルはその内容を紙へ書き留め、もう一度術式を組み直す。
何度か試すうちに、最初は複雑に思えた構造にも、少しずつ見通しが立ってきた。
そして。
「……あ」
眼鏡のレンズに、淡い光が浮かんだ。
細い線が左右へ均等に広がり、やがて表面に溶け込むように消えていく。
先ほどまでとは違い、魔力の流れは安定していた。
「……できました?」
「おう。成功だな」
「わ、本当ですか!」
「ちゃんと固定されてる。とりあえず、かけてみろよ」
「はい」
ノエルは眼鏡を手に取り、そっとかけ直した。
「……あれ?」
「どうだ?」
「……少し、見え方が違う気がします」
室内は明かりがついているため、劇的な変化は感じられない。
それでも、普段より輪郭がはっきりして見えるような、不思議な感覚があった。
「んじゃ、明かり消すぞ」
「あ、はい」
ラザが指先を動かすと、部屋の照明がすっと消えた。
窓の外にも星明かりはなく、室内は一気に暗くなる。
しかし、ノエルには机や椅子の形がわかった。
棚に並んだ本の背表紙も、文字までは読めないものの、それぞれの境目を見分けることができる。
「……わあ」
「どうよ」
「はいっ、ちゃんと見えますよ」
「おう。いい感じじゃねえか」
ラザが照明を戻す。
ノエルは眼鏡を外し、レンズを透かして眺めた。
「すごいですね……複合術式ってこんなふうに付与できるんだ」
「まあ、人体に直接かけた方が精度は上がるけどな。視覚器官そのものを調整できるから」
「そうなんですね」
「お前にかけてるやつも、そっちだろ。今はもう効果が落ち始めてるはずだけど、それでも眼鏡だけの術式よりは細かいとこまで見えると思うぞ」
「確かに、直接かけていただいた魔術の方が、もう少しくっきり見える気がします」
「だろ? ただ、眼鏡なら必要な時だけ使えるし、身体への負担も少ねえ。騎士団向けなら、こっちの方が扱いやすいかもしんねえな」
ノエルは頷いた。
実際に試してみると、人体への付与と眼鏡への付与には、それぞれ利点があることがわかる。
何より、騎士たちが自分で着脱できるというのは大きな利点だろう。
「……あ、ラザさん」
「ん?」
「ちょっと待っててください」
ノエルは棚から眼鏡のケースを取り出した。
中には、予備の眼鏡が入っている。
「こっちにも、付与してみていいですか?」
「おう。やってみろ」
今度は、先ほどよりもずっと手早く術式を組み立てられた。
途中で一度だけ魔力の流れを調整し直したものの、最後まで大きな問題は起こらず、予備の眼鏡にも同じ魔術を付与することができた。
「……できました!」
「おう。ちゃんと覚えたな」
ラザは眼鏡を受け取り、術式の状態を確かめた。
「うん。悪くねえ。まだ改善の余地はあるが、試作品としては十分だろ」
「ありがとうございます」
ノエルは少し考えてから、その眼鏡をラザへ差し出した。
「……あの、ラザさん」
「ん?」
「これ、ガレスさんに渡していただけませんか?」
「ガレス?」
「はい。騎士団のガレス・ブランデルさんです」
「あー……」
ラザは少し考え込んだ。いまいちピンときていないらしい。
「赤毛で背の高い、若い方です。第一騎士団所属で、窓口になってくださっているので、定期的に第三室ともやり取りがありますよ」
「赤毛……ああ、はいはい。あいつな。あの大型犬みたいな奴」
「その覚え方はどうかと思いますけど、多分合ってます」
ラザは眼鏡を受け取り、軽く眺めた。
「で、そいつにこれを?」
「はい。試作品として使っていただいて、実際の任務で役に立ちそうか、感想を聞いていただけたらと思って」
「ふうん」
ラザは眼鏡をケースへ収めながら、ノエルを見た。
「仲いいのか?」
「ガレスさんとですか?」
「おう」
「そうですね。僕が騎士団とのやり取りの窓口になった頃からのお付き合いなので、関わりは長くなってきましたね」
ノエルは、初めてガレスと顔を合わせた時のことを思い出した。
◇ ◇ ◇
あれは、第三室の仕事で騎士団へ書類を届けに行った時だった。
当時、ノエルは騎士団との連絡役を任されるようになったばかりで、まだ顔を知らない騎士も多かった。
受付で用件を伝えると、しばらくして現れたのがガレスだった。
「……魔法局の奴か?」
「はい。第三室のノエル・アルヴェインと申します」
「ああ、聞いてる。書類だろ?」
「はい。こちらをお預かりいただければ」
ガレスは差し出された書類を受け取り、中身を確認した。
言葉遣いが乱暴というほどではない。ただ、どこか身構えているような態度だったのを覚えている。
魔術師というのは、気難しくて何を考えているのかわからない連中だ。
騎士団では、そんな認識を持っている人も少なくない。
ガレスも、最初はそうだったのだろう。
「……あの、何か不備がありましたか?」
「いや。別に」
「そうですか。もし確認事項がありましたら、僕の方へご連絡いただければと思います」
「ああ……」
ガレスは書類から顔を上げ、ノエルを見た。
そして、何かを確かめるように尋ねてきた。
「……お前、魔術師なんだよな?」
「え? はい」
「第三室の?」
「はい。そうですけど……」
「……ふうん」
しばらく妙な間があった。
ノエルが首を傾げると、ガレスは少しだけ表情を緩めた。
「お前……先輩が言ってた通り、普通だな?」
「……ええ?」
ノエルは思わず聞き返した。
「普通、ですか?」
「まあ、普通なんて言ったら失礼なんだろうが……なんつうか、もっと気難しい奴ばっかりなイメージだったからさ」
「……あはは」
どう答えればいいものか少し迷ったが、ノエルはとりあえず苦笑した。
「魔術師にもいろんな人がいますからね」
「そりゃそうか」
ガレスは納得したように頷いた。
それから、先ほどよりもずっと気さくな口調になった。
「悪いな。ちょっと身構えてた」
「いえ。お気になさらず」
「何かあったら連絡するわ。ノエル、だったよな?」
「はい。よろしくお願いします」
「おう、俺はガレス。若手同士よろしくな」
それからだった。
ガレスは仕事で顔を合わせるたびに声をかけてくれるようになった。
最初は書類の受け渡しや連絡事項だけだったが、次第に世間話をすることも増え、騎士団の仕事について教えてもらう機会も多くなった。
いつの間にか、仕事以外の話も気軽にできる相手になっていた。
◇ ◇ ◇
「……まあ、そんな感じです」
「へえ」
ラザは眼鏡のケースを指先で弄びながら、ノエルの話を聞いていた。
「意外と付き合い長いんだな」
「そうですね。最初の頃は少し警戒されていたみたいですけど、今では普通にお話しできますし」
「ふうん」
「面倒見もいいですしね。頼れる兄貴分って感じの方ですよ」
「……兄貴分?」
ラザの手が止まった。
「はい?」
「そいつが?」
「ええ。そうですけど」
「……ふーん」
ラザは何やら微妙な顔をした。
「ガレス・ブランデルねぇ……」
「……?」
ノエルは首を傾げた。
何か気になることでもあったのだろうか。
「何か気になることでもありました?」
「いや、別に」
「そうですか?」
「おう」
ラザは眼鏡のケースを机へ置いた。
「……で、お前にとっても、そいつは頼れる兄貴分ってわけか」
「ええと……そこまで大げさな話ではないですけど」
「へー」
どうにも納得していないらしい。
ノエルは少し考え、ふと気づいた。
「……えーっと」
「ん?」
「ラザさんも、昔からお兄さんみたいな存在ですよ?」
「……お」
ラザが顔を上げた。
途端に、少しだけ機嫌がよくなったように見える。
「だろ?」
「はい。昔からいろいろ教えていただいてますし、面倒も見ていただいてますから」
「そうだろそうだろ」
ずいぶん満足そうな返事だった。
ノエルはそれを聞きながら、少しだけ考える。
確かに、ラザは昔からよく面倒を見てくれた。
困った時には相談に乗ってくれるし、魔術のことも教えてくれる。ノエルにとって、頼りになる存在であることは間違いない。
ただ、その一方で。
興味を持ったものに夢中になると周囲が見えなくなるし、面倒なことは平気で後回しにする。
今夜だって、ようやく約束していた魔術を教えてもらえたところなのだ。
……頼れるお兄さん、かあ。
ノエルは、改めてラザを見る。
本人はすっかり機嫌を直したらしく、眼鏡のケースを眺めながら何やら満足そうにしている。
……まあ、頼れる時は頼れるんですけどねえ。
「……何だよ、その顔」
「いえ。何でもないですよ」
「なんか言いたそうだな」
「ふふ。本当に何でもないです」
ラザは少し疑わしそうにノエルを見たが、それ以上は追及しなかった。
「ま、いいや。この眼鏡は預かっとくぞ」
「はい。お願いします」
「ブランデルに渡して、使い勝手を聞いときゃいいんだな?」
「そうです。できれば、夜間の見回りなどで試していただけると助かります」
「わかった」
ラザがケースを鞄へしまう。
ノエルは改めて、自分の眼鏡へ手を添えた。
最初は難しそうに思えた魔術だったが、実際に術式を組み立ててみると、光魔術と闇魔術の関係についても理解が深まった気がする。
何より、今までラザに施してもらっていた魔術を、自分の手でも再現できたことが嬉しかった。
「ありがとうございました、ラザさん」
「礼を言われるほど何かやった覚えはねぇけどな。そもそもこれは日記の対価みたいなもんだし」
「それでも、僕一人だったら難しかったですから」
「そお? とはいえ、まだ改善できるとこは結構あるからな。次はそこら辺も考えてみろよ」
「はい、やってみます」
ノエルは頷いた。
その時だった。
ふと、机の上へ淡い光が差し込んだ。
「……あれ?」
ノエルは窓へ目を向けた。
先ほどまで厚い雲に覆われていた空に、僅かな切れ間ができている。
そこから月の光が差し込み、室内の床を白く照らしていた。
「あ」
「お?」
「雲、少し晴れてきましたね」
二人で窓の外を見た。
流れていく雲の隙間から、月が顔を覗かせている。
その周囲には、いくつかの星も見え始めていた。
「……おお!」
ラザが勢いよく立ち上がった。
「よし、ノエル! 外出るぞ!」
「……えっ」
「星見えるじゃねえか!」
「いや、でも……」
ノエルは机の上に広げられた術式の紙へ目を向けた。
今夜は魔術を教わる予定だったので、天体観測の日記はまだ棚に置いたままだ。
それに、昨日は夜明けまで星の話に付き合ったばかりである。
「……ラザさん」
「ん?」
「今日は、あんまり遅くならないようにしましょうね?」
「おうおう。わかってるって」
ラザはすでに窓の外へ視線を戻していた。
ノエルは、その返事を聞いて少しだけ迷う。
……昨日も、似たようなことを言っていた気がする。
けれど、空に星が戻ってきたのなら、自分も観測しておきたい。
あの消えてしまった星が、今夜は見えるかもしれないのだから。
「……わかりました。じゃあ、日記を取ってきますね」
「おう!」
ラザは早くも外套を手に取っている。
ノエルは机の上の紙を軽くまとめ、棚から天体観測の日記を取り出した。
窓の向こうでは、厚い雲がゆっくりと流れ、冬の夜空に少しずつ星が戻り始めていた。




