6-4
「……そういえば、ノエル君」
「はい?」
夕食の席で、オリバーがふと思い出したように声をかけてきた。
「わしは明後日、予定通り出発するからの」
「あ、そうでしたね」
ノエルは手にしていた食器を置き、頷いた。
以前から予定していた、ザーレン支部の後任を探すための旅。
幸い、支部の仕事については今日の引き継ぎである程度目処がついた。あとは細かな調整と、オリバー自身の旅支度が必要なくらいだろう。
「なんだかんだであっという間でしたね……あ、所長もその日に帰られるんですよね?」
「おう。三日間の休暇だからな」
ラザが食事を口へ運びながら答えた。
「そうなると、お二人とも一気にいなくなるんですね……なんだか急に寂しくなりそうです」
ノエルがそう言うと、オリバーは愉快そうに笑った。
「寂しさを感じる暇があればいいがのぉ」
「うーん、確かに」
はじめて支部を一人で任されるとなれば、のんびり感傷に浸っている余裕はないかもしれない。
普段はオリバーが対応してくれている細かな用事も、すべて自分で引き受けることになるのだ。
「まあ、頑張りすぎんようにな。急ぎでない仕事は後回しでよい。なにか分からないことがあれば、対話水晶で連絡も取れる」
「はい。ありがとうございます」
「支部業務で暇がねぇのもそうだが、そもそもそんな一人にならねぇだろ?」
「え? 村の方が訪ねてくることはありますけど……そんなに頻繁ってほどでもないような?」
「村の連中だけじゃなく、ユーリスも定期的に来てんだろ?」
何でもないことのように言われた言葉に、ノエルの脳裏には少し心配性な友人の顔が浮かんだ。
「あ、はい。そうですね」
「水晶で話もしてるみたいだし、それなら誰とも話さない日が長く続くってわけでもない。むしろ賑やかなもんじゃねえか」
「……ふふ、そうかもしれません」
少し考えて、ノエルは頷いた。
ユーリスには、王都とザーレンの距離がほとんど障害にならない。
実際、これまでも何度か顔を出してくれている。通話も定期的にしている。村の人達も顔を出してくれるし、見回りで会話もするだろう。
そう考えると、確かにそれほど寂しくはないのかもしれない。
「ま、お前が寂しいって言えば、あいつは文字通り飛んでくるだろうしな」
「そんなにユーリスも暇じゃないですよ」
「暇じゃなくても来るのがあいつだ」
「そうかなぁ……無理はしてほしくないですけど」
ノエルが少し考えながら答えると、ラザは妙に面白そうな顔をした。
その様子を見ていたオリバーが、首を傾げる。
「……仲が良いのう、で済ませてええもんか?」
「ま、本人達の中では純度百パーセントの友情だからな。いいんだろ」
「ふむ……」
オリバーは腕を組み、何やら考え込んだ。
「わしにはよくわからんが……今どきの若い者は、殴り合って顔を痣だらけにしながら友情を深めたりはせんのだなぁ」
「いや、それもそこそこ特殊寄りだろ」
ラザが即座に突っ込んだ。
「そうかの?」
「そうだろ。どんな青春送ってきたんだよ」
「ほっほ、なに昔の話じゃよ」
オリバーは楽しそうに笑うばかりで、それ以上は教えてくれなかった。
ノエルは二人のやり取りを聞きながら、少し想像する。
ユーリスと自分が拳を交え、お互い顔にアザをつくりながら肩を組んで笑う。それはとてつもなく非現実的なことのように思えた。
「うん、殴れる気がしませんね」
「あっちも無理だろ。いいんだよ、お前らはお前らのやり方で平和に仲良くしとけ」
ラザからすれば、ユーリスがノエルに手をあげることの方が想像の範囲を超えていた。
ノエルが笑って頷くと、オリバーへ視線を戻す。
「オリバーさん、移動扉はありますが長旅です。道中お気をつけてくださいね」
「うむ。ノエル君も留守を頼むぞ」
「頑張ります」
ノエルが頷くと、オリバーは満足そうに笑った。
「後任が早く見つかって長旅にならんのが一番いいんじゃが、そう簡単にはいかんだろう」
「難しいですよね」
「こんな田舎まで来たがる者は、そう多くないからの」
「俺は来たけどな」
ラザが横から口を挟む。
「所長殿は休暇じゃろう」
「まあな」
「働くとなれば、また話は別じゃよ」
「そうかねえ。俺は別に嫌じゃねえけど」
「……ふむ、では所長殿が後任になってくださるかの?」
「お、それも面白そうだな」
「所長、それはレオニス先輩が絶対許してくれないと思いますよ」
ノエルが口を挟むと、ラザは声を上げて笑った。
「ははっ、そりゃあダメだな。それこそ殴られそうだわ」
「……やはり、王都の魔法局というのは不思議なところじゃな」
オリバーがしみじみと呟く。
ノエルは、何も言わずに微笑んだ。
否定できる材料が、あまり思いつかなかった。
◇ ◇ ◇
夕食を終え、簡単な片づけを済ませた頃には、すっかり夜になっていた。
ノエルは自室に戻り、机の上に置かれた書類を確認していた。
昼間に見た村の結界について、王都へ提出する申請書の内容をまとめておこうと思ったのだ。
緊急性はないものの、早めに手続きを始めておけば、その分だけ対応も早くなる。
ラザの見立てでは、今年いっぱいは問題なく稼働するということだった。
それなら、春頃の改修を目指して準備を進めるのがよいだろう。
「……よし、こんなところかな」
書きかけの書類を確認し、ノエルが筆記具を置いた時だった。
こんこん、と扉が叩かれた。
「ノエル、いるか?」
「あ、はい。どうぞ」
扉が開き、ラザが顔を覗かせた。
「おう。外、晴れてるぞ」
「そうなんですか?」
「おう。星もよく見える」
「よかったですね」
「んじゃ、行くか」
「……え?」
「日記。持ってこいよ」
「ああ、はい。そうでしたね」
ノエルは笑って立ち上がった。
「どこで読むんですか?」
「外」
「外ですか?」
「星見ながらの方がいいだろ」
「それはそうですけど……寒いですよ?」
「何とかするから気にするな」
ラザは軽く手を振った。
そう言うのであれば、恐らく寒さは本当に気にしなくていいのだろう。
「わかりました。ちょっと待っててくださいね」
ノエルは棚から一冊の日記を取り出した。
ザーレンへ赴任してから書き続けている、天体観測の記録だ。
日付と時間、その日の天候、観測できた星々。
気づいたことがあれば、その都度書き加えている。
もともとは自分のために始めたものだったが、ラザが興味を示してくれたのは、少し嬉しかった。
「これですね」
「お、それか」
「はい。まだそんなに立派なものではないですけど」
「いいからいいから。見せろって」
「ふふ。外で、ですよね?」
「おう」
ノエルは日記を鞄に入れ、一応外套を羽織ってラザの後を追って部屋を出た。
廊下には、夕食の時よりも冷えた空気が漂っている。
外はもっと寒いだろう。
そんなことを考えていると、ラザがふと振り返った。
「ちょっと止まれ」
「はい?」
言われるまま足を止めると、ラザの指がサラサラと空中で動き、指先が少しきらめいた。その瞬間、今まで感じていたひんやりした空気が無くなった。
「…あ」
「どうだ?」
「寒くなくなりました。どういう仕組みなんですか? 風魔術で空気を対流させるやり方とは少し違うような……」
「空間魔術の亜種。周りの空間だけ時間軸を進めて春にしてる感じだな」
「ああ、言われてみれば、春の暖かくて穏やかな空気みたいです」
きっと、理論としてはすごく複雑なのだろう。なにせ一部空間とはいえ時間に干渉しているのだから。
本当にあっさりなんとかしてしまう。その無茶苦茶っぷりが面白くて、ノエルは小さく笑いながら、ラザと並んで外へ向かった。
◇ ◇ ◇
「……わあ」
支部の裏手へ回ったところで、ノエルは思わず声を漏らした。
昼間は空を覆っていた薄い雲が、すっかり晴れている。
頭上には、無数の星が広がっていた。
白く積もった雪が淡い光を受け、夜の村をぼんやりと照らしている。
風はきっと冷たいのだろう。
寒さは分からない。けれど、寒さで空気が澄んでいるせいか、星の一つ一つがはっきりと見えた。
「いやー、やっぱいいなあ」
ラザが満足そうに空を仰いだ。
「空気が綺麗だと、見え方が全然違う」
「そうですね。僕も、ここに来て最初に驚きました」
「王都じゃこうはいかねえからな。あっちじゃ肉眼で追えない星まで見えてる」
ラザはしばらく星空を眺めていた。
それから、支部の裏にある低い石垣へ腰を下ろす。
「ほら、ノエル。こっち」
「はい」
ノエルも隣へ腰掛ける。
本来なら石は冷え切っているはずだったが、やはり冷たさを感じなかった。
「さて……」
ラザは両手を膝について、改めて空を見上げた。
「あれ、見えるか?」
「どれですか?」
「あの、少し青白く見えるやつ」
「ああ、はい。あれですね」
「そうそう。今の時期はよく見えるんだよ」
ラザは楽しそうに説明を始めた。
星の位置。
季節によって変わる見え方。
隣り合う星との関係。
同じような明るさに見えても、実際には性質が違うこと。
ノエルも天体観測を続けているので、ある程度は知識がある。
それでも、ラザの話には初めて聞くことがいくつもあった。
「へえ……そうなんですね」
「おう。あっちの方は、もう少し季節が進むと見えにくくなるな」
「そういえば、最近は前より低い位置にありますね」
「だろ? ちゃんと見てんな」
ラザは嬉しそうに笑った。
「……あ、そういえば、所長」
「ん?」
ノエルが口を開きかけたところで、ラザが片手を上げた。
「ちょっと待った」
「……はい?」
「俺、今休暇中なわけ」
「はあ。そうですね?」
「つまり、プライベートな」
「はい」
「なら所長はおかしいだろ?」
ノエルは瞬きをした。
それから、少し考える。
「……所長、たまに妙なこだわりありますよね」
「魔術師なんて、こだわり持ってなんぼだろ」
ラザは当然のように答えた。
「そもそも、お前に所長って呼ばれんの、いまだに慣れねえんだよな」
「あはは……そう言われても」
ノエルは少し困ったように笑った。
「流石に職場では分けないといけませんし。それに、エルヴェスター様もおっしゃってましたよ。公の場では、きちんと家名で呼ぶべきだって」
「あれなぁ」
ラザは、何とも言えない顔をした。
「意味わかんねえだろ。兄貴だって、昔から知ってるお前にエルヴェスター様って呼ばれんの、ちょっと寂しそうだぞ」
「えっ?」
ノエルは驚いてラザを見た。
「そんなふうには全然……」
「まあ、今のはちょっと盛った」
「……ええ?」
「あいつは気にしねえかもな」
ラザはあっさり言い直した。
「むしろ『ノエル君はマナーがしっかりしていて偉い』とか思ってそう」
「それはそれで……」
ノエルは困ったように笑った。
「そこを褒められるのは、いまだに小さい子供だと思われてませんか?」
「まあな」
ラザはあっさり頷いた。
「兄貴も俺も、お前のことはずっと十くらいのガキだと思ってるとこあるからな」
「……十歳ですか」
「おう。兄貴なんか、お前は昔好きだった菓子を渡せば今も喜ぶと思ってるぞ、多分」
「お菓子は嬉しいですけど……せめて成人させてほしいですねえ」
「ははっ! 四十過ぎるとそんなもんだ」
ラザは楽しそうに笑った。
ノエルは、少しだけ昔を思い出した。
ラザとラシルの二人には、幼い頃から何かと世話になっている。
それこそ、まだ自分が魔法局へ入るなど考えてもいなかった頃からだ。
ノエルにとっても、二人は仕事上の立場だけで語れる相手ではなかった。
「……まあ、確かに今はお休みですもんね」
「おう」
「じゃあ、ラザさん」
「それでいいんだよ」
ラザは満足そうに頷いた。
「お休みが終わったら戻しますからね?」
「なんでだよ」
「だって、公的な場で間違って呼んだら困ります」
「そもそも間違いってのが違うだろって話なんだがな。俺の名前だぞ? むしろ所長よか正解だろ」
「ふふ。公私の区別は大事ですから」
「レオニスみてえなこと言いやがって」
ラザは呆れたように言った。
もっとも、表情は楽しそうなままだった。
「ところで、ラザさん」
「おう」
「そろそろ日記、見ますか?」
「待ってました!」
ラザが勢いよく身を乗り出す。
ノエルは笑いながら、鞄から日記を取り出した。
◇ ◇ ◇
「……ほう」
最初のページを開いたラザは、しばらく無言で文字を追っていた。
ノエルはその隣で空を眺める。
最初の頃は、何を書いておけばよいのかよくわからなかった。
そのため、日付と時間、天候、見えた星の位置などを、思いつくまま記していた。
慣れてくるにつれて、前日との違いや、気づいたことも少しずつ書き足すようになった。
「……お前、結構ちゃんと書いてんな」
「そうですか?」
「おう。日付も時間も揃ってるし、観測条件も残してある」
ラザはページをめくりながら頷いた。
「なかなかよく書けてるじゃねえか」
「ありがとうございます」
この日記が学術的に優れているとか、専門性が高いとか、そういうことはない。ただの日記だ。
それでも、星に対して並々ならぬ情熱を注いでいる相手から、よく書けていると褒められるのは、やはり嬉しかった。
「ただ、ここの記録はもう少し詳しく欲しいな」
「あ、どこですか?」
「この日。雲が薄くかかってたって書いてるだろ」
「はい」
「空全体か? それとも一部だけ?」
「ええと……確か、西の方だけだったと思います」
「なるほど。で、観測始めたのはこの時間で間違いねえな?」
「はい。その頃には雲が流れて、星が見えるようになったので」
「ふうん……」
ラザは少し考え込み、それからもう一度ページを見た。
「じゃあ、この時見えたっていう星は、あっちの方か」
空の一角を指さす。
ノエルも同じ方向を見た。
「あ、そうです。あの辺りです」
「なるほどな」
ラザは頷き、次のページへ進んだ。
……かと思えば、すぐに止まる。
「これ、明るさが変わったって書いてるけど、どのくらい?」
「ええと……前の日より、少し明るく見えた気がしたんです」
「周りの星と比べてか?」
「はい。あそこの星よりは暗かったですけど、最初に見た時よりははっきりしていたと思います」
「ほうほう」
ラザは楽しそうに頷く。
そして、ノエルの説明を聞き終えると、また別の質問を始めた。
気温はどのくらいだったのか。
風は吹いていたか。
観測を始める前に、空はどのくらい明るかったか。
記録に残していなかった細かなことまで、次々に尋ねられる。
ノエルは記憶をたどりながら答えた。
曖昧なところは曖昧だと伝え、覚えていることだけを説明する。
ラザはそれで不満そうな顔をすることもなく、むしろ興味深そうに聞いていた。
「いやー、いいな。こういうの」
「そうですか?」
「おう。実際に見てた奴から話聞けんのは助かる」
ラザは笑った。
「記録だけだと、どうしてもわかんねえ部分があるからな」
「なるほど……」
「それに、観測した時に何を気にしてたかってのも大事だし」
そう言って、ラザはまた日記へ目を落とした。
ページが進むたびに、何かしら質問が飛んでくる。
ノエルも、答えているうちに当時のことをいろいろと思い出した。
初めて見つけた星。
毎晩同じ位置に見えると思っていたのに、少しずつ動いていた星。
雲が晴れるのを待っていたら、思いがけず綺麗な星空が広がった夜。
そんな出来事を説明すると、ラザも自分の知識を交えながら話してくれる。
時には話が逸れて、日記とは直接関係のない星の話になることもあった。
「そういや、あっちの星なんだけどな」
「あ、はい」
「昔は別の名前で呼ばれてたこともあるんだよ」
「へえ、そうなんですか?」
「おう。地方によって呼び方が違ったりもするしな」
ラザは空を指さしながら、星にまつわる話を始めた。
ノエルは楽しそうに耳を傾ける。
……そういえば、日記を読むんじゃなかったっけ。
ふとそんなことも思ったが、今さら急ぐ必要もない。
ラザは三日間の休暇で来ているのだし、ノエル自身もこの時間を楽しんでいた。
日記のページは、なかなか進まなかった。
◇ ◇ ◇
「……ん?」
しばらくして、ラザが手を止めた。
「どうしました?」
「いや、これ」
ラザが指さしたのは、ある日の観測記録だった。
日付の下に、見慣れた自分の文字が並んでいる。
ノエルは覗き込み、少し考えた。
「ああ……その日ですか」
「これ、どういう意味だ?」
ラザが指でなぞったのは、星の見え方について書いた一文だった。
『以前よりも、大きく見えた気がする』
「この星、何日か前から少し大きくなっているように見えていたんです」
「大きく?」
「はい。最初は気のせいかと思ったんですけど……」
ノエルはページをめくった。
次の日にも、似たような記述がある。
そのまた次の日にも。
「何度か見ているうちに、やっぱり変わっている気がして。それで、気になって記録するようになったんです」
「……ふうん」
ラザの声が、少し変わった。
先ほどまでと同じように興味深そうではある。
ただ、日記を眺める目が、どこか真剣になったように見えた。
「どの星だ?」
「ええと……」
ノエルは空を見上げた。
その星は、確かに何度も観測している。
ほかの星と比べて、少しずつ大きくなっているように見えた、不思議な星だった。
位置も覚えている。
だから、すぐに見つけられるはずだった。
「……あれ?」
ノエルは首を傾げた。
いつも見ていた辺りに、目当ての星がない。
周囲の星々は、いつも通りに輝いている。
けれど、その中にあるはずの星だけが、見当たらなかった。
「……どうした?」
ラザが尋ねる。
「いえ……おかしいな」
ノエルはもう一度、空を見渡した。
場所を勘違いしたのだろうか。
そう思って周囲を探すが、やはり見つからない。
見えにくいほど暗くなったのかもしれない。
しかし、今夜の空はよく晴れている。
ほかの星は、これまでと変わらず見えていた。
「……確か、あの辺りだったと思うんですけど」
ノエルは空の一角を指さした。
「ほら、あの明るい星の少し下です。そこに、もう一つ……」
「……あそこか?」
「はい」
ラザも空を見上げた。
しばらく、二人とも黙って星を探した。
けれど、そこには何もなかった。
「……見つからねえな」
「そうなんです」
ノエルは困ったように眉を寄せた。
「何日も見ていたはずなんですけど……」
「位置は間違いねえのか?」
「……多分。少なくとも、いつもあの辺りを見ていました」
「ふうん……」
ラザは日記へ視線を戻した。
最初にその星について書かれた日。
その翌日。
さらに数日後。
同じ星を観測したと思われる記録が、何度も残っている。
ラザは一つずつ確認しながら、何かを考えているようだった。
「……これ、お前が見間違えたってわけでもなさそうだな」
「そうでしょうか?」
「おう。何日も記録してるしな」
ラザは頷いた。
「ただ……」
そこで、少し言葉を切る。
「少なくとも三十年、星ばっか見てきてるが……俺も知らねえんだよな」
「……え?」
ノエルは思わずラザを見た。
「ラザさんが、知らない?」
「おう」
ラザはあっさり答えた。
そして、もう一度空を見上げる。
「少なくとも、あの辺りにそんな星が見えるって話は知らねえ」
「……そうなんですね」
ノエルは少し驚いた。
ラザが知らない星。
それは、ノエルにとって意外なことだった。
もちろん、ラザがすべての星を知っているわけではないだろう。
けれど、あれほど星に詳しい人が、見当もつかないというのは珍しい気がした。
「……面白えな」
ぽつりと、ラザが呟いた。
その声に、ノエルは顔を向ける。
ラザは日記を開いたまま、口元に笑みを浮かべていた。
「随分と面白えもん見つけたじゃねえか、ノエル」
「……そうなんでしょうか?」
「おう」
ラザは楽しそうに頷いた。
「もうちょい詳しく聞かせろよ。この星、最初に見つけたのはいつだ?」
ノエルは日記を覗き込んだ。
「ええと……確か、この日ですね」
「なるほど。で、この時はどのくらいの大きさに見えた?」
「最初は、本当に小さかったんです。周りの星とあまり変わらないくらいで……」
「ふうん」
ラザは頷きながら、再び日記へ目を落とした。
さっきまでなかなか進まなかったページが、今度は何度も前後にめくられる。
同じ記述を読み返したかと思えば、別の日の記録と見比べる。
その合間にも、質問は続いた。
ノエルは覚えている限りのことを答えながら、何度か空を見上げた。
けれど、やはりあの星は見当たらなかった。
……本当に、どこへ行ったんだろう。
少し不思議に思いながら、ノエルは隣のラザを見る。
ラザは、すっかり日記に夢中になっているらしい。
時折、何かを思いついたように顔を上げ、またすぐに記録へ戻る。
その様子は、昼間に村の結界を見ていた時とも少し違っていた。
「……ラザさん?」
「ん?」
「そんなに気になりますか?」
「そりゃ気になるだろ」
ラザは顔を上げた。
そして、実に楽しそうに笑った。
「自分が知らねえ星が急に見つかって、しかもそいつはでかくなったと思ったら、今は見えねえんだぞ?」
「……確かに、そう言われると不思議ですね」
「だろ?」
ラザはもう一度、空を見上げた。
満天の星が、静かに輝いている。
その中に、ノエルが見ていたはずの星はない。
けれど、日記には確かに記録が残っていた。
ラザはしばらく考え込んでいたが、やがて小さく笑った。
「……いやあ、来てよかったわ」
その言葉に、ノエルも思わず笑った。
「まだ何かわかったわけじゃないですよ?」
「わかんねえから面白いんだろ」
ラザは、当然のことのように答えた。
それから、再び日記を開く。
「よし。ノエル、ここからもう一回説明してくれ」
「はい。ええと……」
ノエルはラザの隣で、記録を指さした。
冬の夜空には、相変わらず無数の星が輝いている。
その下で、二人は日記を挟み、何度も同じページを読み返した。
いつの間にか、夜は静かに更けていった。




