5-12
ローゼンフェルト家の屋敷へ戻った頃には、夜も随分と更けていた。
馬車を降りると、待っていた使用人が恭しく頭を下げる。
「お帰りなさいませ、レオニス様」
「ああ。ただいま」
「お夜食はいかがなさいますか?」
「いや、結構だ。もう休むから、君たちも下がってくれたまえ」
「かしこまりました」
使用人へ礼を告げ、レオニスは自室へ向かった。
普段なら、この時間に帰宅することは滅多にない。
仕事が長引くことはあっても、翌朝に差し支えるほど遅くなる前には切り上げるようにしている。自分の体調を管理することも、仕事のうちだからだ。
だが、今日は違った。
夜会そのものが長かったこともある。
その後で第三室へ戻り、報告書に手をつけたのも自分の判断だ。
そして結局、報告書は完成しないまま、所長命令で帰宅することになった。
「……はぁ」
自室の扉を閉め、レオニスは小さく息を吐いた。
礼装を脱ぎ、丁寧に衣装掛けへ収める。
襟元を緩め、眼鏡を外し、ようやく一息ついた。
普段であれば、ここでその日の仕事を頭から切り離す。
必要なことは記録してある。明日になれば、また続きから取りかかればいい。
そう考えて休むのが、いつもの習慣だった。
しかし今夜は、どうにもそうはいかなかった。
『才能って、何だ?』
ラザの声が、頭の中に蘇る。
『その才能ってのは、そんなに大事なもんなのか?』
「……重要に決まっているでしょう」
先ほどと同じ答えを、もう一度口にした。
魔術師にとって、才能は重要だ。
魔力量、適性、理解力、術式を構築する発想力。
持って生まれたものによって、扱える魔術も、到達できる水準も変わる。
これは感情の問題ではない。
事実だ。
レオニスは寝台の端へ腰を下ろした。
努力すれば、ある程度の差は埋められる。
不得意な分野でも、知識と経験によって補えることは多い。
だが、どれほど努力しても届かない領域があるのも確かだった。
ラザのような人間が、まさにそうだ。
あの男は、他の魔術師が何年もかけて辿り着くような結論へ、平然と手を伸ばす。
今日だってそうだった。
自分が原因を特定できずにいた問題を、僅かな時間で見抜いてしまった。
その差が才能でなくて、何だというのか。
あの回路を思い出す。
魔力の干渉がどこで起きているかを見抜き、その影響を逃がすための経路を組み上げる。
構造を理解することはできる。
資料があれば、術式の働きを順に追うこともできるだろう。
だが、それは既に答えが示されているからだ。
何もないところから、あの短時間で同じものを作り上げることとは、まったく違う。
ラザの仕事を見ていると、時折、自分が長い年月をかけて積み上げてきた知識が、ひどく脆いものに思えてしまう。
自分の技術が、並の魔術師に劣るものではないことくらいは理解している。
それでも、あの男を前にすると。
「……」
レオニスは眉を寄せた。
考えれば考えるほど、また腹が立ってくる。
こちらがどれほど努力しているかなど、あの男には関係のないことなのだろう。
自分にとっては切実な問題も、天才を冠するラザにしてみれば、少し視点を変えれば済む程度の話なのかもしれない。
今日の対応だってそうだ。
自分が何を見落としたのか、何が足りなかったのか。
そうした問題を一つずつ検討しようとしていたところへ、ラザは気まぐれに現れて、良かったところも見ろと言った。
成功した部分を評価することが重要なのも、反省が失敗の列挙だけで終わってはならないことも、わかっている。
だからこそ、改善点を洗い出していたのだ。
自分にできることを増やすために。
それなのに、あの男は。
「……神聖視、とはね」
吐き捨てるように呟いた。
才能を重視して、何が悪い。
できないことをできるようになりたいと思うのは、当然のことだろう。
足りなければ努力する。
理解できなければ学ぶ。
失敗すれば原因を探し、次に同じことを繰り返さないようにする。
今までずっと、そうしてきた。
それのどこに問題があるというのか。
レオニスは膝の上で手を握り込んだ。
自分がやってきたことを否定されたような気がして、また胸の奥がじりじりと熱くなる。
しかし。
『何言っても、全部「貴方には才能があるからわからない」で終わりそうだしな』
不意に、別の言葉が蘇った。
レオニスは動きを止めた。
……ああ。
確かに、そう言った。
いや、一度ではない。
何度も、似たようなことを口にした気がする。
所長にはわからない。
貴方のような才能を持つ方には。
生まれつき、あれほどの才能をお持ちなのだから。
「…………」
レオニスはゆっくりと顔を覆った。
待て。
そもそも、ラザは何と言っていた?
今日の対応について、良かったところも見ろと言った。
自分が取った判断を挙げ、その判断がなぜ適切だったかを説明した。
ノエルやリディア、ユーリスがそれぞれの役割を果たしたことも。
そして、レオニス自身が照明を修正したことも。
そのうえで、才能を神聖視しすぎだと言ったのだ。
思い返せば、ラザは一度も、努力に意味がないなどとは言っていない。
才能の差が存在しないとも言っていない。
それなのに自分は、まるで努力そのものを否定されたかのように反発した。
あまつさえ、相手が才能に恵まれていることを理由に、こちらの気持ちなど理解できるはずがないと決めつけた。
「……何を、やっているんだ……」
声が漏れた。
今になって、急速に頭が冷えていく。
そして、頭が冷えるほどに、先ほどの自分の言動が鮮明になっていった。
所長に対して、何ということを。
仕事上の判断について話していたはずなのに、いつの間にか自分の劣等感をぶつけるようなことを口走っていた。
冷静さを欠いていた。
それも、ひどく。
「……ああ、もう……」
レオニスは両手で顔を覆ったまま、深々と息を吐いた。
思い出したくない。
できることなら、今日の夜会が終わった時点からやり直したい。
いや、それでは術式異常の対応までやり直すことになる。
せめて、第三室へ戻ったところから。
……違う。
そもそも、今夜は素直に帰宅すればよかったのだ。
報告書は明日でいいと、ラザは最初から言っていた。
それを聞き入れず、無理に仕事を続けようとして、挙げ句の果てには所長へ子どものように身勝手な不満をぶつけた。
我ながら、実に見苦しい。
「……しかも、命令までさせてしまうとは」
レオニスは顔を覆ったまま呟いた。
帰れと言われた時点で、素直に従えばよかった。
それを、報告書が終わっていないだの何だのと食い下がった結果、あの男に明確な命令を口にさせてしまった。
ラザが部下へ、あのようにはっきり命令することは滅多にない。
普段は適当なことばかり言っているが、仕事の進め方については、それぞれの判断を尊重する人物だ。
必要ならば助言もするし、間違いがあれば指摘する。
しかし、本人に任せて問題ないと判断したことには、基本的に口を出さない。
それが今日は、帰れと命じられた。
つまり、あの時点で自分は、まともな判断ができないほど感情的になっていたということだろう。
しかも、ラザにはそれがわかっていた。
当の本人だけが、なかなか認められなかった。
「……最悪だ」
小さな声が、指の隙間から漏れた。
普段から、ラザの言動に腹を立てることはある。
仕事を押しつけられたり、会議から逃げられたり、必要な書類をいつまでも提出しなかったり。
注意すれば、あの男は大抵、適当な返事をする。
こちらが声を荒らげることも、一度や二度ではない。
だが、それと今回の件は違う。
仕事に対する意見の衝突でも、所長の怠慢を咎めたわけでもない。
ただ、自分の感情をぶつけただけだった。
しかも、相手がラザだからこそ、口にしてしまった言葉でもある。
あの男なら多少のことは受け流すだろう。
何を言っても、簡単には怒らないだろう。
そんな甘えが、まったくなかったと言い切れるだろうか。
「……いや」
レオニスは首を振った。
少なくとも、先ほどの自分は相手への礼節を欠いていた。
ラザが怒らなかったからといって、それで済ませていい話ではない。
何より。
『お前が今までやってきたこと、俺は別に無駄だったなんて思ってねえぞ』
最後にかけられた言葉が、どうにも頭から離れなかった。
「……存じています、などと……」
レオニスは自分の返事を思い出し、ますます居たたまれなくなった。
知っている。
そんなことは、わかっている。
ラザが自分の努力を軽んじていないことも、能力を評価してくれていることも。
所長補佐として任されている仕事の数々が、何よりの証拠だ。
第三室がまだ二人きりだった頃から、ラザはレオニスへ多くの仕事を任せてきた。
研究の補助だけではない。
局内の調整、関係部署との折衝、予算や人員に関する管理業務。
必要な記録の整理から、時にはラザ本人が避けて通ろうとする面倒な仕事まで。
……後半については、もう少し本人が責任を持つべきだとは思うが。
それでも、レオニスに仕事を任せるのは、それができると認めているからだ。
ラザが、自分の不得意なことを他人へ頼るのを恥じたところなど、一度も見たことがない。
その代わり、自分にしかできない仕事があれば、当然のように引き受ける。
あの男にとっては、それが自然なことなのだろう。
少なくともラザは、自分の能力を認めている。
自分もまた、ラザの能力を認めている。
それで何の問題があるのか。
普段なら、そう答えたはずだ。
「……明日、謝罪しなければ」
レオニスは小さく呟いた。
相手が気にしているかどうかは関係ない。
自分が不適切な態度を取った以上、きちんと謝るべきだろう。
そう決めたところで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
もっとも、明日ラザがどんな顔をするかを想像すると、また別の意味で気が重くなる。
何事もなかったような顔をするか、散々からかってくるか。
どちらにしても、あまり想像したくなかった。
レオニスは寝台から立ち上がり、窓際の椅子へ移った。
そのまま休もうとも思ったが、どうせ今すぐ眠れる気はしない。
机の上に置かれた水差しから杯へ水を注ぎ、一口飲む。
窓の外には、静まり返った庭園が広がっていた。
王宮の華やかな夜会が、随分と昔のことのように感じられる。
さて。
謝罪については、明日きちんと伝えればいい。
今ここで、どれほど後悔しても、先ほどの発言がなかったことになるわけではない。
ならば、考えるべきはもう一つの方だろう。
ラザが残した、あの問いについて。
◇ ◇ ◇
才能とは何か。
改めて考えてみれば、随分と漠然とした言葉だった。
レオニスにとって、それは長い間、他人が持っていて自分には足りないものを指していた。
長兄のキースが、苦もなく人々の心を掴むこと。
次兄のジュリアンが、誰よりも早く商売の機会を見抜くこと。
そしてラザが、他の魔術師には思いつきもしない術式を組み上げること。
自分が努力して身につけなければならないものを、彼らは初めから持っているように見えた。
羨ましかった。
同時に、悔しかった。
自分にも、何か一つでいい。
誰にも負けないものが欲しかった。
だから、努力した。
少なくとも魔術に関しては、並の魔術師には負けないだけの知識と技術を身につけた。
それは確かな成果だ。
だが、どれほど努力を積み重ねても、また新たに、自分より優れた人間が現れる。
そういう人間を見るたびに、自分の足りないところが目についた。
もっとできるはずだ。
もっと努力しなければ。
そう考えてきた。
その考え方が間違っていたとは、今でも思わない。
努力する理由としては、十分だった。
だが。
「……そもそも、何に追いつこうとしていたのだろうね」
レオニスは小さく呟いた。
ラザの魔術的な能力が優れていることは事実だ。
それなら、その才能が重要であることも間違いない。
では、キースの社交の才はどうだろう。
ジュリアンの商才は。
どちらも、魔術とは関係のない能力だ。
だが、だからといって価値が低いわけではない。
むしろ、ローゼンフェルト家という貴族家の運営においては、二人の能力が大きな意味を持っている。
分野が違うのだ。
必要とされる能力も、評価される場所も違う。
そんなことは、子供でもわかる。
長兄ほど社交が得意でなくても、次兄ほど商売に明るくなくても、自分には自分の道がある。
そう考えたからこそ、魔術を選んだのだ。
そして、積み上げてきた知識と技術によって、今の地位にいる。
それなのに。
ラザを前にすると、いつの間にか、自分が何一つ持っていないような気分になってしまう。
「……随分と後ろ向きな話だ」
自嘲するように笑った。
あの男と同じことができなければ、自分の努力には価値がない。
そんなことはないと、頭ではわかっている。
わかっているのに、今日もまた同じことを考えていた。
所長補佐としての仕事を果たしたことも、照明の異常を修正したことも。
すべてを忘れたわけではない。
ただ、ラザが中枢を直したという事実と比べた途端、すべて取るに足らないことのように感じてしまった。
それは、本当に正しい評価なのだろうか。
レオニスは、しばらく考え込んだ。
自分の判断を正当に評価することと、不足を認めて努力すること。
その二つは、本来なら矛盾しない。
だが、今夜の自分はどうだったか。
照明の修正を終えたことよりも、中枢を修正できなかったことを気にしていた。
必要な人員を配置できたことよりも、自分が現場へ直接向かわなかったことを悔やんでいた。
自分にできたことを、自分で取るに足らないものとして扱っていたのだ。
では、何ができれば納得できたのだろう。
あの中枢の異常を、ラザより先に見抜けたら?
新しい回路を、あの場で自分が組み上げていたら?
そうすれば、今日の仕事を胸を張って終えられただろうか。
おそらく、そうだろう。
少なくとも、あの瞬間の自分は満足したはずだ。
だが。
ラザが次に、もっと複雑な術式を作り上げたら?
その時はまた、自分ができなかったことを数え始めるのだろうか。
「際限がないな」
レオニスは思わず苦笑した。
そんなことを繰り返していては、いつまで経っても満足などできない。
もちろん、現状に満足して努力をやめたいわけではない。
これからも学び続けたい。
だが、学ぶことと、今の自分を認めないことは別の話ではないか。
そう考えると、先ほどのラザの言葉が、また違う意味を持ち始めた。
『お前は才能とやらを神聖視しすぎだ』
自分は才能を、何か特別なものとして扱っていたのだろうか。
確かに、ラザのような才能を持つ人間は特別だ。
しかし、その才能があるからといって、ラザが行うすべての仕事が、自分の仕事より優れているわけではない。
それくらいは、わかっている。
あの男の書類仕事など、正直なところ褒められたものではない。
期日を守らず、必要な手続きを後回しにし、こちらが催促してようやく取りかかることも珍しくない。
だからといって、ラザが無能だなどとは思わない。
得意なことと不得意なことがある。
ただ、それだけだ。
ならば、自分にも同じことが言えるのではないか。
レオニスは窓の外へ目を向けた。
ラザに比べれば、自分には及ばないところがある。
しかし、その逆もある。
そして、そんな違いは第三室の者たちにも存在している。
今日、第三室の者たちは、それぞれ異なる仕事をした。
リディアは解析を行い、ユーリスは室温管理を安定させた。
ノエルは管理室の状況を整理し、必要な人員を集めた。
自分は照明の回路を修正した。
そして、ラザが中枢の問題を解決した。
誰か一人でも欠けていれば、同じ結果になったとは限らない。
レオニスは、ふと考えた。
もし、今日の管理室へ向かったのがノエルではなく、ユーリスだったとしたら。
ユーリスなら、術式の異常にはもっと早く気づいたかもしれない。
構造を読み解く力も、修正する技術も、ノエルより遥かに優れている。
しかし、管理室の職員たちの対立を収めることまで、同じようにできただろうか。
できなかったと断言するつもりはない。
だが、少なくとも、ノエルがあの場で果たした役割を軽く見る理由にはならない。
そもそも、ユーリスが魔術に長けていることと、ノエルが現場の調整に長けていることは、両立する話なのだ。
片方の能力が優れているからといって、もう片方の能力が無意味になるわけではない。
それなら、今回のことも同じではないか。
ラザが中枢を修正したからといって、自分が照明を修正したことの価値が失われるわけではない。
当然の話だ。
だが、先ほどの自分は、その当たり前を見失っていた。
「……」
レオニスは、小さく息を吐いた。
何とも情けない。
いや。
また、そうやって自分を貶めるのも違うのだろう。
レオニスは苦笑した。
長年の癖というものは、そう簡単には抜けないらしい。
ただ、考える方向は見えてきた気がする。
それでも、まだ少し引っかかるものがあった。
才能の違いを認めること。
それぞれの能力を正しく評価すること。
そんなことは、レオニスも昔から知っていた。
仕事では、普段からそうしている。
それなのに、どうして自分のことになると、途端にできなくなるのだろう。
もっと優れたものを。
もっと目立つ成果を。
そう考えてしまうのは、何故なのか。
レオニスは、しばらく答えを探した。
キースやジュリアンに対して抱いていた感情を思い返しても、ラザとの出会いを振り返っても、結局は同じところへ戻ってきてしまう。
自分には足りない。
だから、努力しなければ。
何度繰り返してきたかわからない、昔からの考え方だった。
だが。
本当に、それだけだっただろうか。
レオニスは、今日の第三室での出来事をもう一度思い返した。
ユーリスの的確な判断。
リディアの慎重な解析。
そして、ノエルの柔軟な調整。
彼らの能力を評価する時、自分はそこまで難しく考えたことなどない。
ただ、その人間が得意なことを見て、適切な仕事を任せているだけだ。
特に。
「……ノエル君、か」
レオニスは杯を置いた。
近頃、第三室へ配属されたばかりの頃の彼を、よく思い出している気がする。
術式の理解に時間がかかり、何度も質問に来ては、申し訳なさそうに頭を下げていた青年。
あの頃の自分は、彼が第三室で長くやっていけるとは思っていなかった。
魔術的な才能に恵まれていない人間が、周囲の優秀さを目の当たりにし続ければ、いずれ苦しくなる。それを知っていたからだ。
だからこそ、厳しく指導した。
必要な知識と技術を身につけさせるために。
失敗を重ね、いつか自信を失ってしまわないように。
だが、ノエルはレオニスが考えていたようにはならなかった。
できないことを苦にすることはあっても、それを理由に自分を卑下するようなことはなかった。
足りないものがあれば学び、わからないことがあれば質問する。
ユーリスの才能には素直に感心し、自分にできる仕事があれば喜んで引き受ける。
あまりにも自然で、初めの頃は理解し難いほどだった。
そして。
レオニスは、ふと思い出した。
あの青年を見て、決定的に自分とは随分違う人間なのだと感じた出来事があった。
騎士団との訓練区画を巡る一件から、少し経った頃のことだ。
あの頃、自分はまだ、彼について何もわかっていなかったのかもしれない。
そう思いながら、レオニスは静かに目を閉じた。




