5-11
夜会が終わる頃には、日付が変わっていた。
王宮の広間を満たしていた音楽も、招待客たちの華やかな話し声も、今はもう聞こえない。
宮廷魔法局第三室。
夜更けの執務室には、紙をめくる音と、ペン先が走る音だけが響いている。
レオニスは、自分の机に向かっていた。
机の上には、今日の術式異常に関する記録が広げられている。
照明と室温管理に発生した不規則な魔力の変動。その発覚から復旧までの経緯と、各担当者が取った対応。
それらを整理し、報告書にまとめているところだった。
本来なら、明日で構わない仕事だ。
管理室では既に詳細な記録が残されている。急いで報告書を完成させなければならない理由はないし、今夜のうちに提出を求められているわけでもない。
それでも、どうにもそのまま帰宅する気になれなかった。
結局、夜会が終わると自宅には戻らず、第三室へ直行した。
さすがに礼装のまま机に向かうのは堅苦しいので、上着だけは脱ぎ、皺がつかないよう丁寧に衣装掛けへ掛けてある。
襟元を少し緩めたシャツ姿で、レオニスは記録を読み返した。
「……ここは、もう少し早く気づくべきだったか」
小さく呟き、報告書の一箇所に印をつける。
最初に照明の魔力の乱れを感じた時。
少なくともあの段階で、事態をもう少し重く見積もるべきだった。なにせ、王家主催の夜会なのだ。普段以上に危険には敏感になる必要があった。
そもそも、前日に管理体制や設備の状態を確認しておくべきだったかもしれない。
管理室へノエルを向かわせ、追加の人員としてリディアに声をかけたことは間違っていなかった。しかし、他にも手を打てたのではないか。
もちろん、異常の範囲がわからない段階で適切な対応を判断するのは難しい。
それは理解している。
理解していても、考えてしまうのだ。
「はぁ……」
レオニスはペンを置いた。
椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げる。
今日の対応は、決して悪くなかった。
設備はすべて正常に戻り、夜会の進行に支障も出なかった。
招待客の誰も、あの騒動に気づかなかっただろう。
本来なら、それで十分なはずだ。
だが、どうにも今日は気分が晴れなかった。
理由は、わかっている。
あの術式だ。
ラザが、たった数分で組み上げた新しい回路。
レオニスは、机の端に置いてあった解析記録へ目を向けた。
後で確認できるよう、ラザが修正した回路の構造も写し取ってある。
それを見れば、何が行われたのかは理解できる。
魔力の流れを逃がし、干渉が起きる前に別の経路へ迂回させる。
既存の術式に手を加えることなく、全体の負荷だけを調整した。
理屈は明快だ。
だが、あの場で自分に同じことができたかと問われれば、答えは何度考えても否だった。
そもそも、原因がわからない状況から、あの解決策へ辿り着くことすら難しい。
ラザが管理室へ到着した時、レオニス自身は照明の回路を安定させたばかりだった。
あの複雑な術式を限られた時間で修正できたことについては、相応の自負がある。
自分の判断が遅かったとも、対応が不適切だったとも思っていない。
それでも。
ラザが中枢の術式に目を通し、迷いなく新たな回路を組み上げていく姿を見た途端、そんなことは頭の隅へ追いやられてしまった。
自分には、あれができない。
その事実だけが、やけに鮮明に残っている。
レオニスは眼鏡を外し、指先で眉間を押さえた。
「……まったく」
また、こういうことを考えている。
自分でも呆れるほど、昔から変わらない。
◇ ◇ ◇
ローゼンフェルト家の三男として生まれたレオニスには、二人の兄がいた。
長兄のキースは、幼い頃から何をさせても器用だった。
人の名前と顔を覚えるのが早く、相手の機嫌や場の空気を読むことにも長けていた。
親戚の集まりでも、父に連れられた社交の場でも、キースはいつも自然に人の輪の中心にいた。
本人は大して苦労しているように見えない。
誰かと話しているうちに、いつの間にか相手の信頼を得ている。
それが、レオニスには不思議でならなかった。
次兄のジュリアンもまた、優秀だった。
彼はキースほど何でも器用にこなす人ではなかったが、とにかく勘が良かった。
特に商いに関する才覚があり、幼い頃から数字や品物の価値を見抜くことに長けていた。
家の取引に関する話を聞けば、すぐにその利点と問題点を理解する。
大人たちが感心している横で、本人は何でもないことのように笑っている。
二人とも、レオニスに意地悪をしたわけではない。
むしろ、兄弟仲は悪くなかった。
だが、それとこれとは別の話だった。
『キース様は、本当に将来が楽しみですな』
『ジュリアン様も、なかなかのものですよ。あの若さで商売のことがわかるとは』
親戚たちが兄を褒める声を、何度聞いただろう。
そして、その後で自分へ向けられる言葉は、決まっていた。
『レオニス様も、きっと立派になられますよ』
悪意のない言葉だった。
誰も、レオニスを貶めようとしていたわけではない。
それでも、子供だった彼には、その違いがはっきりとわかった。
兄たちには、既に優れたところがある。
自分には、まだ何もない。
もちろん、何の能力もなかったわけではない。
学問も、社交も、政治も、商売も。あらゆる分野で一流の教育を受けていたのだから、同年代と比べれば成績も悪くなかった。
しかし、突出したものはなかった。
学んだことを理解するには時間がかかる。
何かを習得するにも、何度も練習が必要だった。
一度見ただけで仕組みを把握するような真似はできない。
兄たちのように、努力しているところを見せずとも周囲を驚かせる才能は、自分にはなかった。
だから、努力した。
誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで机に向かった。
一度で理解できなければ、十度読み返す。
十度で足りなければ、百でも構わなかった。
魔術の適性がそれなりに高いとわかれば、魔術の理論書を読み、術式を分解し、何度も構築し直した。
失敗すれば原因を探し、同じ失敗を繰り返さないよう記録する。
身体が疲れていても、眠くても、手を止めたくなかった。
努力しなければ、追いつけない。
それなら、努力するしかない。
単純な話だ。
そして、レオニスはその姿を誰にも見せなかった。
家族にも、友人にも、教師にも。
自分がどれほど時間をかけ、どれほど必死に学んでいるのか。
知られたくなかった。
努力していることが恥ずかしいわけではない。
だが、自分がそこまでしなければ届かない場所へ、誰かが軽々と辿り着く。
その事実を、他人に見せつける気にはなれなかった。
ましてや。
必死に努力する自分を誰かに見てもらい、苦労を理解してもらい、慰めてほしいなどとは、微塵も思わなかった。
冗談ではない。
そんなものを拠り所にするくらいなら、誰にも理解されない方が遥かにましだ。
欲しいのは同情ではない。
成果だった。
積み上げた知識と技術が、誰の目にも明らかな実績になること。
そのために、努力してきたのだ。
やがてレオニスは、宮廷魔法局へ入った。
第三室で経験を積み、今では所長補佐として室を支える立場にある。
与えられた仕事を正確にこなし、難しい術式にも対応できるようになった。
それは、自分が積み上げてきたものの結果だ。そのことに誇りを持っている。
努力の仕方が間違っていたなどとは、今でも思わない。
ただ。
どれほど積み上げても、埋まらない差がある。
それもまた、レオニスは知っていた。
ラザ・エルヴェスター。
あの男と初めて仕事をした時、その差を痛感した。
長い時間をかけて調べ、幾通りもの可能性を検討し、ようやく辿り着いた結論を、ラザは資料をひと目見ただけで指摘する。
理解できなかった理論を尋ねれば、平然と説明してくれる。
だが、その説明を聞いて理解できることと、同じ発想が自分の中から生まれることは、まるで違った。
もちろん、ラザを尊敬している。
その能力が第三室に必要であることも、誰より理解しているつもりだ。
そうでなければ、あの男の補佐など務まるはずもない。
ただ、尊敬と羨望は別のものだった。
そして、羨望と劣等感は、どうにも切り離し難いものらしい。
◇ ◇ ◇
「……さて」
レオニスは眼鏡を掛け直した。
過去を振り返っていても、仕事は終わらない。
今日の反省は必要だが、感傷に浸るためにここへ来たわけではないのだ。
報告書へ手を伸ばす。
まずは照明の異常。
次に室温管理。
それから、全体の分配回路に発生した干渉について。
時系列に沿って整理していけば、それほど複雑な内容ではない。
ただ、ペンを動かしながら、どうしても考えてしまう。
自分は、もう少し上手くできたはずだ。
もっと早く。
もっと正確に。
もっと適切な判断を。
その時、思考を遮るように扉の開く音がした。
「やっぱりやってんな」
聞き馴染みのある声に、レオニスは手を止めて顔を上げる。
執務室の入口には、ラザが立っていた。
夜会で着ていた礼装の上着は既に脱いでいる。いつものように気怠そうな顔で、こちらを見ていた。
「所長」
「お前さあ」
ラザは呆れたように息を吐いた。
「今日くらい、さっさと帰れよ」
「それは所長にも申し上げたいところですが」
「俺はちょっと寄っただけ」
「こんな時間に、ですか?」
「根暗発動してる奴が、めそめそしてる気がしてなぁ」
レオニスは眉を寄せた。
「……何の話ですか」
「別に」
ラザは適当に返しながら、近くの椅子を引いた。
勝手に腰を下ろし、机の上へ視線を向ける。
「報告書なんざ明日でいいだろ」
「早めに整理しておくに越したことはありません」
「そうだな。じゃあ早く帰れ」
「もう少しで一区切りつきます。ここまで来たら、片づけてしまった方がよいでしょう」
「……ったく」
ラザは呆れた顔をした。
だが、それ以上帰宅を促すことはなかった。
「で、どうだった?」
「何がです?」
「今日の対応だよ」
レオニスは少し考えた。
「……改善すべき点は多かったと思います」
「例えば?」
「最初の異常を確認した時点で、管理室へ直接連絡を入れるべきだったでしょう。ノエル君に確認を任せたことは間違っていないと思いますが、それはそれとして、私も別途動くべきでした」
「ふんふん」
「それから、事前確認が足りませんでした。異常事態は常に起こり得る。夜会の前日にでも、管理室と緊急時の取り決めや連絡手段の協議をしておくべきだったかと」
「なるほど」
「照明についても、あの程度の変動なら、もっと早く修正できたはずです。分配回路の異常だと気づくまでに、余計な時間を費やしました」
「ほう」
「そして、中枢の異常です」
レオニスは机の上の記録を見た。
「原因を特定しきれなかった。ノエル君から報告を受けてから、あれだけの時間をかけて、結局、自分では解決策に辿り着けませんでした」
「……」
「所長が到着するまで、有効な対処を見いだせなかったのは事実です。所長補佐として、少々情けない話ですが」
そこまで言って、レオニスは息を吐いた。
口に出してみれば、反省点はいくらでも挙げられる。
事態を収束させるために必要なことはした。
そのはずなのに、どうしても足りなかった部分ばかりが目につく。
だが、ラザは特に叱責することもなければ、いつものように適当に笑うこともなかった。
「で?」
「……で、とは?」
「お前が挙げたの、全部改善点だろ」
「当然です。次に同じことが起きた時のために、検討しておく必要があります」
「そりゃそうだな」
ラザはあっさり頷いた。
「じゃ、良かったところは?」
「……はい?」
「今日の対応。良かったところ」
レオニスは一瞬、返事に詰まった。
「……少なくとも、設備の停止を防ぐことはできましたが」
「それは結果だろ。判断の話をしてんだよ」
「判断、ですか」
「ああ」
ラザが机の上の記録を指した。
「お前、普段はしつけぇくらい一つずつ検証するくせに、何で自分のことになると急に雑になんだよ」
「……雑、ですか」
「そう。結果だけ見て、あれができなかった、これが足りなかったって。反省するのは勝手だが、ちゃんと全部見ろ」
レオニスは僅かに眉を寄せた。
すべてを見ているつもりだった。
問題が起きた原因も、対応の遅れも、改善できる部分も。
少なくとも、見落とさないようにしていたはずだ。
「まず、最初に魔力の乱れに気づいたのはお前だろ」
「ええ」
「俺もあの場にいたが、気にしてなかった。ほかにも腕の立つ魔術師はいたが、少なくともその場で大騒ぎにはなってねえ。お前はあの僅かな異常を見逃さず、確認が必要だと判断した」
「ですが、管理室へ向かったのはノエル君です」
「だから?」
「私自身は確認していません」
「その場を離れられなかったんだろ?」
「……それは、そうですが」
「じゃあ、他の奴に頼むのは普通だろ」
「しかし、重要な催しの最中です。優先順位を考えるなら、私が直接向かった方が――」
「何でもかんでも自分でやりゃいいってもんじゃねえだろ」
ラザはあっさり言った。
「最初はただの魔力のブレだったんだ。実際に問題があるかどうかもわかってなかった。そんな段階で、面子に命かけてるお貴族様が、挨拶放り出してまで駆けつけんのが必ずしも正しいとは限らねえよ」
「……」
「だからノエルに確認させた。結果、異常が見つかった。そこから人を増やして対応した。何かおかしいか?」
「いえ……」
「だろ?」
ラザは椅子の背もたれに身体を預けた。
「それに、最初にノエルを向かわせたのも悪くねえ判断だったと思うぞ」
レオニスが顔を上げると、ラザは口元を緩める。
「あいつは、ああいう場を整理するのが得意だ。実際、管理室の連中もあいつに礼を言ってただろ」
「……ええ」
「お前が最初から乗り込んでりゃ、術式の確認は早かったかもしれねえ。でも、揉めてる連中を上手く落ち着かせられたかどうかは、また別の話だ」
レオニスは思わず黙った。
できなかった、とは思わない。
自分にも交渉や調整の心得はある。
ただ、ノエルと同じようにできたかと問われれば、それはわからなかった。
数年前の、あの騎士団との訓練区画を巡る問題をまた思い出す。
あの時のような失態を繰り返す気は無いが、それでも自分よりもノエルが適任であることは、この数年で実感として理解している。
「……確かに、彼がああした状況に強いのは今さら否定しません」
「だから任せたんだろ」
「そうですね」
レオニスは静かに頷いた。
そうだ、ノエルに頼んだのは単に都合のよいところへ現れたからだけではない。
彼なら必要な情報を持ち帰れると判断したからだ。
そして、それは正しかった。
「リディアを管理室に向かわせたのもお前だろ」
「はい」
「あいつは解析に向いてる。記録をきちんと取るし、対応にムラがないから精度も信頼できる。良かれと思って勝手に余計な真似もしない」
「ええ。彼女の慎重さは、今回のような状況では大きな長所ですね」
「ユーリスもよかったな。あの歳で落ち着きすぎだろとは思うが」
ラザは少し笑う。
「原因がわからねえうちに、無理に全部直そうとしなかった。とりあえず室温管理だけ安定させて、あとのことは様子を見る。あいつならやろうと思えば、もっと色々できたはずだが……あの辺りの勘の良さは流石だな」
「……そうですね」
レオニスも、あの時のユーリスを思い出した。
優れた魔術師ほど、自分の能力でどこまでできるかを試したくなるものだ。
だが、ユーリスはそうしなかった。
自分にできることと、今すべきことを分けて考えていた。
それもまた、判断の一つだろう。
そして、あの場面でその判断を選べることを、ラザは勘の良さと言い、レオニスは才能と呼ぶ。
「で、お前も照明を直した」
「それは、当然の仕事です」
「当然の仕事をちゃんとやるのが大事なんだよ」
ラザは面倒くさそうに言った。
「そもそも、今夜一番まずかったのは、照明が落ちることだろ。王家主催の夜会で、他国の連中までいるんだ。会場が真っ暗になりゃ、それだけで大騒ぎになる」
「……所長がそうした政治的な事情まで把握していらっしゃるのなら、普段からもう少し社交にもご協力いただきたいものですが」
「おい、今その話してねえだろ」
「できるのに、なさらないところが一番苛つ、いえ、困るのです」
「苛つくって言おうとしたな?」
ラザが呆れたように肩をすくめた。
レオニスも、ほんの僅かに口元を緩める。
相変わらず、どこまで考えているのかわからない人だ。
いや。
考えていないように見せるのが上手い、というべきか。
「ともかく、お前は照明を直した。ユーリスは室温管理を安定させた。リディアは異常を解析して、ノエルは必要な人間を集めた」
ラザは指を折りながら数えていく。
「で、最後に俺が中枢を直した。これで全部だ」
「……」
「それぞれやることやって、無事に終わった。十分だろ」
レオニスは返事をしなかった。
理屈はわかる。
それぞれが専門分野を活かし、役割を果たした。
組織として考えれば、理想的な対応だったと言ってもいい。
だが、その最後の一つだけが、どうしても引っかかる。
ラザがいなければ、中枢の問題は解決しなかった。
そして自分は、ラザが来るまでに、そこへ辿り着けなかった。
「なるほど、不満ありそうだな」
ラザにそう尋ねられ、レオニスは顔を上げた。
「不満……別に、不満はありません。ただ、個々の能力に依存しているようだと思っただけです」
「何が悪い?」
レオニスは黙った。
何が。
才能ある人間に頼らなければいけないことが、情けない。
そうハッキリ言わなければいけないのか。
思わず顔をしかめると、ラザは椅子の背もたれに身体を預けた。
「お前は才能とやらを神聖視しすぎだ」
その言葉に、レオニスは思わず顔を上げた。
「……神聖視、ですか」
「ああ」
「私は、才能の重要性を正当に評価しているだけです」
「へえ」
「魔術師にとって、才能は決して軽視できるものではありません。生まれ持った適性や魔力量、術式への理解力。どれも、本人の努力だけでは埋めきれない差になり得ます」
「そうだな」
あっさりと肯定される。
レオニスは少しだけ眉を寄せた。
「でしたら――」
「それが何で、お前が情けねえって話になるんだ?」
言葉が止まった。
「……何のことでしょう」
「お前がさっきから気にしてんの、それだろ」
「私は、所長補佐としての責任について話しています」
「へえ。じゃあ、俺が来るまで問題が片づかなかったのが、そんなに嫌だったわけ?」
「嫌だなどとは申し上げていません」
「じゃあ何だよ」
レオニスは言葉を探した。
嫌だったわけではない。
問題が解決して安心したのは事実だ。
ラザの判断が正しかったことも、技術が素晴らしかったことも、疑う余地はない。
それなのに、胸の奥には拭いきれないものが残っている。
「……せめて、原因の特定くらいはできるべきだったと思います」
「何で?」
「それが私の仕事だからです」
「お前の仕事は、今日起きた異常を全部一人で解決することだったのか?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、何でだよ」
問い返されるたびに、答えが曖昧になっていく。
レオニスは無意識に、机の上の報告書へ視線を落とした。
自分が何を言おうとしているのか、わからなくなってきた。
いや。
本当は、わかっているのだろう。
ただ、それを口にしたくないだけだ。
「……所長には、わからないかもしれませんね」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
ラザが眉を上げる。
「あ?」
「貴方のような才能を持つ方には、努力しても届かない人間の気持ちなど、理解し難いのでしょう」
口にした瞬間、僅かに胸がざわついた。
だが、もう遅かった。
ラザは何も言わず、こちらを見ている。
その沈黙が、かえってレオニスの神経を逆撫でした。
「いえ、失礼。別に、努力が無意味だと言いたいわけではありません。ただ、同じだけの時間をかけても、辿り着ける場所が違う。それは事実でしょう」
「……ああ」
「私も、所長と同じことができるようになりたいとは思っています。だから学び、努力してきたのです。ですが、どれほど積み上げても、貴方はその先にいる」
レオニスは指先を握り込んだ。
「それを目の当たりにして、何も感じるなとおっしゃるのですか」
「そんなこと言ってねえだろ」
「では、何故、才能を神聖視しているなどとおっしゃるのです」
思っていた以上に強い声が出た。
普段なら、この時点で言葉を止めただろう。
しかし、今夜は止まらなかった。
「私は、才能のある人間を羨むことが間違いだとは思いません。能力の差がある以上、それを埋めようと努力することも当然でしょう」
「……」
「所長には簡単なことかもしれませんが、こちらはそうではありません。今回の回路にしても、貴方はほんの数分で組み上げた。私は、それ以前に原因すら見抜けなかったのです」
言いながら、胸の内に溜まっていたものが次々と浮かんでくる。
あれほど時間をかけて勉強した理論。
何度も繰り返した術式の構築。
誰にも知られず、ただひたすらに積み上げてきた日々。
それでも、この男には指先すら届かない。
「……貴方は、そういう差を当然のこととして受け入れられるのでしょうね」
レオニスは小さく息を吐いた。
「生まれつき、あれほどの才能をお持ちなのですから」
言い終えて、ようやく顔を上げた。
ラザは、静かにこちらを見ていた。
いつものような軽薄な笑みはない。
怒っている様子もなかった。
ただ、少し考えるようにレオニスを眺めている。
「……言いたいことは、それで終わりか?」
落ち着いた声だった。
その声音に、レオニスは僅かに眉を動かした。
「……何です?」
「まだあんなら聞いとくけど」
「いえ。別に、それ以上は」
「そうか」
ラザは頷いた。
それから、立ち上がる。
「じゃあ、今日はもう帰れ」
「……は?」
「帰れって言ってんの」
レオニスは思わず立ち上がりかけた。
「まだ報告書が終わっていません」
「明日でいい」
「ですが――」
「命令。今日は帰って寝ろ」
ラザはあっさりと言い切った。
レオニスは言葉を失う。
命令、とまで言われてしまえば、所長補佐として従わないわけにはいかない。
だが、今の話の流れで突然帰宅を命じられることには、どうにも納得がいかなかった。
「……私が感情的になったことを、問題視していらっしゃるのですか」
「問題っつうか、今のお前と話しても仕方ねえだろ」
「……」
「何言っても、全部『貴方には才能があるからわからない』で終わりそうだしな」
レオニスは反論しようとして、言葉を飲み込んだ。
それは、今まさに自分が口にした言葉だったからだ。
ラザは机の上の報告書を指した。
「明日、改めて見りゃいい。今日の対応も、俺の回路も、全部」
「……承知しました」
「ただ」
ラザはそこで一度言葉を切った。
「帰ったら、ちょっと考えろ」
「……何をです?」
「才能って、何だ?」
レオニスは眉を寄せた。
「……何を今さら」
「いいから。お前の言う才能ってのは、具体的に何なんだよ」
「魔術の適性や能力、理解力など――」
「そういう説明じゃねぇんだけどな」
ラザは面倒そうに頭を掻いた。
「お前がそこまで欲しがってるもんが、何なのかって話」
「……」
「その上で、だ」
ラザはレオニスを見た。
「その才能ってのは、そんなに大事なもんなのか?」
レオニスは、思わず目を細めた。
「……重要に決まっているでしょう」
「そうか?」
「当然です。先ほどから申し上げている通り、才能の差は――」
「うん。だから、それがどれだけ大事なのか考えろっつってんの」
ラザはあっさり遮った。
「お前が今夜やってるのは、反省じゃねえ。昔の自分引っ張り出して、勝手に落ち込んでるだけだ」
「……っ」
「その状態で考えたって、どうせろくな答え出ねえよ」
レオニスの頬が僅かに強張った。
図星だった。
そう認めることが、今はどうにも腹立たしい。
「……随分と簡単におっしゃいますね」
「ああ。簡単な話だからな」
「所長にとっては、でしょう」
また、同じ言葉が口をついた。
ラザは一瞬だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……ほらな」
その声には、怒りも呆れも、ほとんど含まれていなかった。
「今日はもう駄目だ。さっさと帰れ」
「……承知しました」
レオニスは短く答えた。
それ以上、何を言っても同じことの繰り返しになるだろう。
そう理解する程度の冷静さは、まだ残っていた。
机の上の書類を揃え、未完成の報告書をまとめる。
ペンを元の位置へ戻し、外していた礼装の上着を衣装掛けから取った。
ラザはそれを黙って見ている。
この男にしては、珍しいことだった。
普段なら、何か一つくらい余計なことを言うはずなのに。
その沈黙が、また少し腹立たしかった。
「……それでは、失礼いたします」
「ああ。気ぃつけて帰れよ」
まるで何事もなかったような返事だった。
レオニスは小さく頭を下げ、扉へ向かう。
廊下へ出る直前、背後から声がした。
「レオニス」
足を止める。
「……何でしょう」
「お前が今までやってきたこと、俺は別に無駄だったなんて思ってねえぞ」
レオニスは振り返らなかった。
「……存じています」
「そうか。ならいい」
それだけだった。
レオニスは一度だけ会釈し、静かに扉を閉めた。
夜更けの王宮は、驚くほど静かだった。
昼間なら忙しなく行き交う職員の姿も、今はほとんどない。
磨き上げられた床に、自分の靴音だけが響いている。
レオニスは歩きながら、先ほどの会話を思い返していた。
才能とは何か。
才能は、それほど重要なのか。
何を今さら。
そんなことは、考えるまでもない。
重要に決まっている。
持って生まれた能力によって、できることとできないことが変わる。
努力しても埋まらない差がある。
それを誰よりも理解しているつもりだ。
少なくとも、あの男よりは。
「……まったく」
小さく呟いた。
結局、才能に恵まれた人間にはわからないのだろう。
努力して、追いついて、それでも届かない。
そんな経験を、あの男がどれほどしてきたというのか。
レオニスは足を速めた。
考えれば考えるほど、苛立ちが募る。
しかし、その苛立ちの奥で、何か別の感情が僅かに顔を覗かせていた。
普段なら、こんな言い方はしない。
それくらいは、自分でもわかっている。
所長が自分の努力を軽んじたわけではないことも。
ただ、今はまだ、それを落ち着いて考える気にはなれなかった。
王宮の玄関を抜けると、冷たい夜気が頬に触れた。
迎えの馬車は、まだ待機しているはずだ。
レオニスは外套の襟元を整え、足を進める。
頭の中には、あの二つの問いが残っていた。
才能とは何か。
そして、それは本当に、そこまで重要なものなのか。
「……重要に、決まっている」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
だが、言い切ったはずの答えは、どうにもすっきりしなかった。
レオニスは眉を寄せたまま、夜更けの馬車へ乗り込んだ。




