5-4
翌日。
王宮へ続く道には、華やかな馬車が列をなしていた。普段であれば静かな王宮の正門も、次々と到着する招待客で賑わっている。
「盛大ねえ」
馬車の窓から外を眺めていた母が、楽しそうに言った。
「様々な意味はあれど、それを差し引いても、ご結婚以来初めての正式なご帰国だ。王宮側も相当力を入れているのだろう」
父はそう答えると、手元の招待状へ目を落とした。
昨夜も遅くまで仕事をしていたはずだが、今朝は何事もなかったように支度を整えていた。父もこういう場には慣れているので、表情から疲れを読み取るのは難しい。
「父上、昨夜はちゃんと休めましたか?」
「もちろんだとも」
「本当ですか?」
「……多少、確認しておくべき書類はあった。しかし、普段より早かったよ」
「あら、あなたったら」
母がくすくすと笑う。
「その代わり、早く起きていらしたでしょう?」
父が口を閉じた。
どうやら母には何もかもお見通しらしい。
ノエルは思わず笑ってしまった。
「今夜は母上も、微力ながら僕もいます。お祖父様も後ほどいらっしゃるというお話でした。父上の肩の力が少しでも抜けるよう、頑張りますね」
「まあまあ、聞きまして? 私たちの可愛いノエルが、こんな頼もしいことを」
「……あの、昨夜も少し思いましたが……僕も成人を迎えてかなり経つわけですので。そろそろ『可愛い』はちょっと」
「? ノエルはいくつになっても私たちの子よ。十年後も、三十年後も、ずっと可愛いに決まってるじゃない」
「そうだな。お前は生まれた時からずっと可愛い子だ」
当たり前のように親バカな両親に、ノエルは苦笑する。
そんな両親の態度は、幼い頃から変わらない。アルヴェイン家と母の生家であるグレンハイム家が、ノエルの誕生をどれほど喜んだかという話は、いまだに当時を知る親戚や知人から持ち出されるほどだ。
父母や親族から大事にされているとは常に感じている。それは間違いなく幸福なことだが、一人の成人男性として、たまに気恥ずかしくなるのを許してほしいとノエルは思った。
ちょうどその頃、馬車がゆっくりと速度を落とした。
王宮へ到着したらしい。
扉が開かれ、父が先に降りる。続いて母が差し出された手を取り、ノエルも馬車を降りた。
目の前に広がる王宮は、いつもとはまるで違う姿をしていた。
正面の階段には華やかな装飾が施され、柱の間には柔らかな光を放つ魔術の灯りが浮かんでいる。庭園にも無数の光が散りばめられ、夕闇の中で花々を淡く照らしていた。
見慣れた建物のはずなのに、やはり印象が変わるものだ。
「ノエル、どうかしたのか?」
「ああ、いえ。王宮での夜会は久しぶりだったので。普段とは随分雰囲気が違うなと思っていました」
「そうだろうな。宮廷魔法局の職員として見る王宮と、招待客として訪れる王宮では、見えるものも違うだろう」
父の言葉に頷き、ノエルは改めて周囲へ目を向けた。
魔術師の家に受け継がれる伝統的な礼装もあれば、貴族家系の華やかな衣装や、騎士の家にふさわしい端正な装いも見える。
今夜は、それぞれの家が大切にしてきた伝統までが、一堂に集まっているようだった。
「さあ、行こうか」
父に促され、ノエルも両親とともに王宮の中へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
夜会の始まりを待つ広間は、既に多くの招待客で賑わっていた。
高い天井から吊るされた灯りが会場を明るく照らし、楽団の奏でる穏やかな音楽が、人々の話し声の間を流れていく。
ノエルは両親とともに、まず日頃から親交のある家々へ挨拶に回った。
「まあ、アルヴェイン様。夫人とご子息様もお揃いで、久しぶりねえ」
「ご無沙汰しております」
「ご子息様は成人の儀以来かしら。すっかりご立派になられて。今は宮廷魔法局に勤めているんでしたね?」
「はい。今は地方支部へ出向しておりますが」
「あら、そうなの? 王都にはいつ戻るのかしら」
「まだ決まっていないんです。今はザーレンでの仕事もありますので」
そんな会話を何度か繰り返す。
父の知人は魔術師、貴族、騎士と幅広く、宮廷で要職に就く人物も多い。また、母の方も親しく声をかけてくる相手が少なくなかった。
ノエルも幼い頃からこうした場には参加してきたので、挨拶そのものは苦にならなかった。
ただ、久しぶりに会う人々へ近況を説明し、相手の話に耳を傾けているうちに、思っていたよりも時間が過ぎていた。
「ノエル」
ひと区切りついたところで、父が声をかけてきた。
「陛下がお出ましになるまでは、まだ少し時間がある。しばらく自由にしていて構わないよ」
「よろしいのですか?」
「ああ。こちらの挨拶は概ね済んだからね。あとは私たちで十分だ」
「ノエルもお友達がいらしているんでしょう?」
母が微笑む。
「せっかくだもの。行ってらっしゃいな」
「ありがとうございます。では、少しだけ」
「開始前には戻っておいで」
「はい、父上」
二人に一礼し、ノエルは人々の間を抜けて歩き出した。
第三室の面々も、既に到着しているはずだ。
ラザは今頃、誰かに捕まって不機嫌そうにしているかもしれない。レオニスなら、どんな相手に囲まれていても卒なく対応しているだろう。
ユーリスについては、あまり心配していなかった。あの友人は社交の場に慣れているし、本人がその気になれば会話を切り上げるのも上手い。
リディアはどうだろうか。初めての大きな夜会で緊張していた姿を思うと、楽しむ余裕はまだないかもしれない。
そんなことを考えながら広間を見渡していると、次々と行き交う人の多さに、少しばかり疲れを覚えた。
ザーレンで過ごすようになってから、こうした賑やかな場に身を置く機会は減っている。挨拶の途中で何度も呼び止められたせいもあるだろう。
ノエルは一度広間を離れ、廊下へ出ることにした。
扉を抜けると、途端に周囲が静かになった。
もちろん、王宮の廊下にも人はいる。だが、広間に比べればずっと少なく、少し離れただけで音楽や話し声も遠く感じられた。
ノエルはほっと息をつく。
このまま少し歩いてから戻ろうか。
そう考えた時、廊下の先に一人の令嬢が立っていることに気がついた。
華やかな夜会にふさわしい装いをした、まだ若い娘だった。付き添いの姿が見当たらないことに引っ掛かりを覚え、それとなく視線を向けると、顔色があまりよくない。
落ち着かない様子で辺りを見回し、数歩進んでは立ち止まっている。時折、何かを確かめるように片方の手首へ触れていた。
彼女は確か――。
記憶の中で家名と人物が一致する。
様子は気になったものの、若い令嬢が一人でいるところへ、こちらから不用意に声をかけるのは控えた方がいいだろう。
しかし、あの顔色の悪さは気になる。どうしたものかと考えていると、令嬢がふと顔を上げ、視線が合った。
ノエルが反射的に軽く会釈すると、令嬢が恐る恐るといった様子で近づいてきた。
「あの……」
ためらいがちな声だった。
彼女自身、夜会の場で親交の深いわけでもない異性相手に、気軽に話しかけるものではないと理解しているのだろう。
それでも、言葉を続けた。
「突然失礼いたします。少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ええ。私でお役に立てることでしたら」
「この近くにある控え室へは、どう行けばよろしいのでしょうか」
「控え室ですか? それでしたら、この廊下をまっすぐ進んで、二つ目の角を右に曲がったところですよ」
「ありがとうございます……」
令嬢は礼をしたものの、その場を動こうとはしなかった。
近くで見ると、やはり顔色が悪い。何か迷っているようにも見えた。
「……差し出がましいようですが、お加減はいかがですか? もしご気分が優れないようでしたら、係の方をお呼びしますが」
「あ、いえ。体調が悪いわけではないのです」
令嬢は慌てて首を振った。
「ただ、その……大切なものを無くしてしまって。それで、少し落ち着かなくて」
「それはご心配ですね」
「付き添いの侍女が探しに行ってくれているのですが……控え室にも立ち寄りましたので、そちらにあるかもしれないと思って」
そう言って、彼女は廊下の先へ目を向けた。
侍女に任せて待っているべきか、自分も探しに行くべきか。迷っているのだろう。
「そうでしたか。でしたら、もう少し待ってみてもよいかもしれませんね。行き違いになってしまっては、侍女の方も心配なさるでしょうから」
「……そう、ですよね」
令嬢は小さく頷いた。
その表情には、まだ不安が残っている。
ノエルもそれ以上は勧めず、少しだけ話題を変えることにした。
「ご挨拶が遅れました。アルヴェイン家の、ノエル・アルヴェインと申します」
丁寧に礼をすると、令嬢がはっとしたように顔を上げた。
「申し訳ございません。不躾にお声がけしてしまいました上に、ご挨拶も……。わたくしは――」
令嬢が慣れた所作でドレスの裾を軽く摘み、礼をしかけた。
その時だった。
「お嬢様!」
廊下の向こうから声が聞こえた。
振り返ると、侍女らしき女性が足早にこちらへ向かってくる。
「マーサ!」
「ありましたよ、お嬢様!」
侍女は令嬢の前まで来ると、ほっとした様子で手の中のものを差し出した。
それは薄桃色のリボンだった。
「先ほどの控え室にございました。椅子の脇に落ちていたようです」
「ああ……よかった……!」
令嬢は両手でそっとリボンを受け取った。
髪を結ぶこともできそうな長さのリボンが手のひらに収まると、先ほどまで強張っていた表情が、目に見えて和らいでいく。
「もう、お嬢様。休憩室でお待ちくださいと申し上げましたのに」
「ごめんなさい。でも、どうしてもじっとしていられなくて……これがないと、まだ……」
「……まだ体調も万全というわけではないのですから、旦那様や奥様にご心配をかけてはいけませんよ」
侍女は小さく息をついたものの、それ以上は何も言わなかった。
そして、そこで初めてノエルの存在に気づいたらしい。
「まあ……! 大変失礼いたしました」
慌てて姿勢を正し、深く頭を下げる。
その所作は洗練されていた。おそらく令嬢の家で長く侍女として仕事をしているのだろう。
そんな彼女がノエルの存在に気づかなかったのだから、先ほどまでは令嬢だけでなく、侍女も随分と慌てていたのだと思われた。
「いえ。無事に見つかったようで何よりです」
ノエルは穏やかに答えた。
令嬢の手元にあるリボンは、美しいものではあるが、彼女の年頃や今夜の装いに合わせるには、やや趣が違う。
もっとも、そんなことは本人や身支度を整える侍女の方がよくわかっているはずだ。
それでも大切に持ってきているのなら、きっと理由があるのだろう。
「大切なものなのですね」
そう言うと、令嬢はリボンへ目を落とした。
それから、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……はい。とても」
「では、なおさら。無事に見つかって、本当によかったです」
「はい。ありがとうございます」
そう言うと、令嬢は先ほどより血の気が戻った顔をノエルに向け、丁寧に礼をした。
「申し遅れました。わたくし、ハルデン家のセレスティアと申します。この度は、お騒がせしてしまい申し訳ございません」
侍女はその礼を邪魔しない程度に後ろへ下がり、綺麗な姿勢で頭を下げる。
「お気になさらないでください。もしまだ気分が落ち着かないようでしたら、向こうの休憩所には宮廷魔法局の医療担当者が常駐しておりますので、そちらへご相談ください」
「ご親切にありがとうございます、アルヴェイン様」
ノエルも軽く一礼し、二人と別れた。
セレスティアと侍女は並んで廊下の向こうへ歩いていく。
ノエルはその背中をしばらく見送ってから、広間の方へ向き直った。
「ノエル」
不意に名前を呼ばれた。
聞き慣れた声だったので、驚くこともなく振り返る。
「ユーリス」
そこには、礼装に身を包んだ銀髪の青年が立っていた。
いつもと変わらない落ち着いた表情で近づいてくるが、やはり礼装姿は華やかで、思わず目を引かれる。
「こんなところにいたのか」
「うん。ちょっと人が多くて、休憩してたんだ」
「そうか」
ユーリスはそう答えると、ノエルの向こうへ視線を向けた。
ちょうど曲がり角へ差しかかっていたセレスティアと侍女の後ろ姿を、しばらく眺める。
それから、何事もなかったようにノエルへ目を戻した。
「何かあったか?」
「無くし物をして困っていたみたい。でも、見つかったよ」
「そうか」
ユーリスは短く答えた。
その声音からは、特に何も読み取れない。
ノエルもそれ以上は説明せず、代わりに友人の装いへ目を向けた。
「それにしても、ユーリスはこういう格好も似合うね」
宮廷魔法局の制服はローブに近い形をしているため、どちらかといえばゆったりしたシルエットになる。
一方、貴族家系に伝わる礼服は、古くに異国から伝わったとされる燕尾服という服装を基本とした、身体に沿うすっきりした仕立てだ。
ユーリスは今日、前髪をすべて後ろへ流し、長い銀髪もきっちりとまとめている。そのおかげで、元々端正な顔立ちが一層際立っていた。
うん。見れば見るほど光っている気がする。
これはご令嬢方が放っておかないだろう。
そう思いながら感想をそのまま口にすると、ユーリスは少し考えるように視線を外し、それからノエルへ戻した。
「お前も似合っている」
「ふふ、ありがとう。でも、やっぱり王宮にいると仕事着の方が落ち着くかな」
「それは同感だ」
顔を見合わせ、二人で少し笑う。
普段の第三室とはまるで違う場所なのに、ユーリスと話していると不思議と肩の力が抜ける。
職場の同期で、友人。この夜会の場で、ただそれだけの関係として接することができる相手がいるのが嬉しかった。
しかし、ノエルはふと疑問に思った。
「ところで、ユーリスはどうしてここにいるの?」
貴族家系のユーリスにとって、こうした夜会は単なる親睦の場ではない。ヴァレンベルク家として顔を繋いでおくべき相手も、それなりにいるはずだった。
「忙しいでしょう」
「あらかた挨拶は済ませた」
「でも、ユーリスと話したい人って、まだまだいると思うよ?」
それこそ、付き合いのある家々だけではない。これを機にと考える家や、個人的に親しくなりたいと思う人もいるだろう。
もちろん、その全員と縁を繋ぐ必要はない。とはいえ、中にはヴァレンベルク家として目を向けるべき相手もいるだろう。そうしたことはノエルが言わずともユーリスにはわかっているはずだ。
だからこそ、なぜこんな人気の少ない廊下へ来たのかと不思議に思ったのだが、ユーリスは少しだけ眉を上げた。
「そうかもしれないな」
「なら、早く会場に戻らないと。話したい人と話せなくなるよ?」
「何を言っている」
ユーリスは至極真面目な顔で答えた。
「だからここに来たんだろう」
一瞬、ノエルはきょとんとした。
そんなノエルの顔を見ながら、ユーリスは珍しく口角をはっきりと上げた。
「アルヴェイン殿、ぜひお話しする時間をいただきたい」
それを聞いて、ノエルは堪えきれずに笑ってしまった。
「ははっ、そうかあ……ふふ、うん。そうだね……いや、大変光栄ですよ、ヴァレンベルク様。僕も直接お話しできればと思っていましたから」
「そうですか」
なんとも白々しく、そしてくすぐったいやり取りだった。
遠くからは、相変わらず楽団の音楽と招待客たちの声が聞こえていた。
国王の挨拶までは、まだ少し時間がある。
ノエルはもうしばらく、この気安い友人と話していることにした。




