5-2
数年前。
当時の宮廷魔法局本部第三室は、今よりずっと静かだった。
所属しているのは、所長であるラザ・エルヴェスターと、その補佐を務めるレオニス・ローゼンフェルトの二人だけ。
机の数にも余裕があり、書類を置く場所に困ることもない。少なくとも今のように、誰かが持ち込んだ資料や報告書があちらこちらへ積み上がり、いつの間にか茶葉や菓子まで増えているような部屋ではなかった。
宮廷魔法局本部には、大きく分けて三つの室がある。
第一室は、戦闘を主とする部署だ。
有事には騎士団と連携して戦場へ立ち、魔術による攻撃、防御、制圧、索敵などを担う。所属人数も多く、内部では用途や専門ごとにいくつかの隊へ分けられている。
第二室は医療を担う。
治癒魔術師だけでなく、王宮医師、戦医、薬師、看護師なども所属し、実際の治療にあたる部門と、薬や治療法の開発を行う部門に分かれていた。
そして第三室。
ここだけは、少し性質が違う。
戦闘と医療、それぞれに明確な担当分野を持つ第一室、第二室に対し、第三室が担うのは、分野を問わない新たな魔術や術式の開発だった。
戦場で使える新術式。治療に応用できる補助魔術。遠距離通信や移動、結界、測定、記録。
扱う分野そのものは限定されない。国防、行政、民生を問わず、最終的に国益へ繋がるものであれば、第三室では新たな魔術や術式を開発対象として扱うことができた。
専門魔術の研究を行うことは地方支部でもよくある。しかし、地方支部の本分はそれぞれの地域における魔術関連業務の管理と対応だ。
そのため最優先は魔術事故への対処、地域施設の点検、住民から寄せられる相談、各種申請の処理など、日々の実務を滞りなく回すことになる。
その上で余裕と能力のある魔術師が、自身の専門分野について研究を進め、成果を論文としてまとめることもある。
対して第三室は、新規魔術や術式の開発そのものが本来の業務だった。
既存の技術では対応できない課題を拾い上げ、必要であれば理論から組み直し、実用化できる形まで持っていく。
研究成果を論文として残すことが目的なのではない。
実際に国の役に立つものとして完成させることまでが、第三室の仕事だった。
だからこそ、単に魔術に詳しいだけでは足りない。
新しいものを考え、それを現実に使える形へ落とし込める人材が必要になる。
第三室の人員選定が難しいのは、そのためだった。
その年、第三室には一名の増員が予定されていた。
ユーリス・ヴァレンベルク。
その名前を見た時、レオニスに異論はなかった。
むしろ、第三室へ入れない理由を探す方が難しい。
魔術理論、実技、応用能力。
どれを取っても同世代の中では頭一つどころか二つほど抜けており、とりわけ空間魔術に関しては、既に一部の現役魔術師を凌ぐ評価を得ていた。既存の術式を正確に扱うだけでなく、その構造を理解し、改良する力もある。
新しい魔術を生み出す第三室には、これ以上ないほど向いている。
「ヴァレンベルク君については、異論ありません」
採用資料へ目を通しながらレオニスがそう告げると、向かいの机で煙草を弄んでいたラザが、気のない返事をした。
「だろうな」
「むしろ、よく第一室に取られませんでしたね。ベリル隊なんて真っ先に欲しがりそうなものですが」
「実際欲しがってたぞ。まあ、本人がこっち希望したから流したがな」
レオニスは資料から顔を上げる。
「第三室を?」
「ああ」
「何故?」
「俺んとこが一番好き勝手できそうだから」
「本人がそう言ったのですか?」
「いや。俺の予想」
レオニスは静かに眼鏡を押し上げた。
「所長」
「冗談だって」
「半分くらいでしょう」
「よくわかってきたな」
「嬉しくありません」
ともあれ、これで話は終わるはずだった。
なにせ第三室が一年に新たに採用するのは、多くても一名。適性のある人材が現れなければ、その年の採用自体を見送ることもある。それほど特殊で狭き門だった。
今年はむしろヴァレンベルクという当たりを引けたのだから幸先がいい。
だからこれで終わり。
レオニスはそう考えていた。
数日後、ラザが一枚の紙を机の上へ投げるまでは。
◇ ◇ ◇
「もう一人採るから」
あまりに何でもないことのように言われ、レオニスは書いていた文章の途中でペンを止めた。
「……何を?」
「人」
「それはわかっています」
ゆっくりと顔を上げる。
「今年の第三室の採用枠は、ヴァレンベルク君だったはずですが」
「増やした」
「誰が?」
「俺が」
一拍。
レオニスは無言で、机の上へ置かれた紙を取った。
履歴書と簡単な評価表。
名前は、ノエル・アルヴェイン。
アルヴェイン家の子息で、ユーリス・ヴァレンベルクと同じアカデミー卒。魔術適性は平均、学科成績も悪くはない。一般的な魔術師として見れば、目立ちはしないが粗もない。
だが、そこまでだ。
「……第三室へ?」
「そう」
レオニスはもう一度、紙へ視線を落とした。
珍しい属性があるわけではない。特殊な研究歴も、突出した評価もない。
これが地方支部やアカデミー所属なら、家名の重さはあるだろうが問題なくやっていけるだろう。
だが、第三室は違う。
「理由を聞いても?」
「オズワルドのジジイに頼まれた」
レオニスの手が止まった。
「……は?」
「孫を入れてくれって」
「縁故ではないですか!」
声が、思った以上に大きく響いた。
ラザが僅かに眉を上げる。
レオニス自身、この頃はここまで露骨に声を荒らげることは滅多になかった。
だが、この時ばかりは抑えきれなかった。
「これまで第三室では、実力と適性を見て人員を選んできたはずです。それを、知人に頼まれたから採用する? しかも本来存在しない枠まで増やして?」
「そう言うと聞こえ悪いな」
「どう言えば聞こえが良くなるのです」
レオニスは資料を机へ置いた。
「アルヴェイン君本人を悪く言うつもりはありません。成績が悪いわけでもない。魔術師としても、一定水準には達しています」
「うん」
「ですが、第三室へ置く理由にはならない」
ラザは煙草を指先で転がしながら、黙って聞いている。
その態度が余計に腹立たしい。
「本人のためにもなりません」
「へえ」
「ここで求められる基準は高い。周囲にはヴァレンベルク君のような者もいる。明確に能力差がある環境へ放り込めば、苦しむのは彼でしょう」
レオニスはそこで一度息を整えた。
単に縁故採用が気に入らないわけではない。
もちろん、それも大きい。
努力して、結果を出して、相応の評価を得て進む。
それが当然だと考えている。
家柄や人脈だけで、その順序を飛ばすことが嫌いだった。
だが、それだけでもなかった。
「人には、相応の場所があります」
レオニスは静かに続けた。
「自分の能力を活かせる環境で、正当に評価される方がいい。無理に上の水準へ置かれ、できないことばかり突きつけられるのが本人のためになるとは思えません」
「お前、自分のこと言ってる?」
レオニスの眉が動いた。
「何です?」
「いや」
ラザは少しだけ笑った。
「どうぞ、続けて」
こんな時ばかり的確で冷静なところも、益々腹が立つ。
だが、話を逸らされるつもりはなかった。
「アルヴェイン君が地方支部で力を発揮できるなら、それでいいではありませんか。何故、わざわざ第三室へ?」
「そっちの方が面白そうだから」
「……」
レオニスは数秒黙った。
「今、私はかなり真面目な話をしています」
「俺も真面目だけど」
「どこがです」
ラザはようやく煙草を机へ置いた。
先ほどまでの軽い表情は残っている。
だが、少しだけ目が変わった。
「お前さ。第三室に何が欲しい?」
「何が、とは」
「人材」
ラザは椅子へ背を預ける。
「強い魔術師。頭いい魔術師。珍しい魔術使える奴。そういうのだけ集めたい?」
「必要でしょう」
「必要だよ。だからお前とヴァレンベルクを採った」
「なら――」
「でも、全員そんなんだったらつまんねえだろ」
レオニスは言葉を失った。
「……意味がわかりません」
「同じような奴を集めると、同じような答えしか出なくなる」
ラザは机の上にあるノエルの資料を、指先で軽く叩いた。
「研究でも仕事でも、人間ってのは自分が見える範囲でしか考えねえからな。似た奴ばっか集めると、視野も偏る」
「だからといって、能力基準を下げる理由にはならないでしょう」
「下げてない」
即答だった。
レオニスが眉を寄せる。
「この評価を見て、そう言うのですか?」
「魔術の評価だろ、それ」
「ここは宮廷魔法局です」
「知ってる」
「なら魔術能力を見るのは当然です」
「当然。でも、それだけじゃねえ」
ラザは面倒そうに頭を掻いた。
「ノエルは魔術師としてなら、お前の見立て通りだろうな。地方勤務で困らないくらい、そこそこ評価されて、そこそこ偉くなって終わる」
「なら、なおさら――」
「でも、あいつは人を見るのが上手い」
レオニスが止まる。
「人?」
「話を聞くのも上手い。変に相手を怖がらねえし、偉そうにもならねえ。揉めてる奴の間に入っても、どっちかの味方になって余計こじらせたりしない」
レオニスは黙った。
「あと、妙に図太い」
「採用理由に『図太い』と書くつもりですか?」
「いいな。それ」
「やめてください」
反射的に返すと、ラザが少し笑った。
すぐにまた、話を戻す。
「俺はな、出来のいい魔術師だけ集めた部屋なんか作る気ねえんだよ。それなら、極論だが俺一人で事足りる」
レオニスは何も言わない。その極論が、あながち極論とも言い切れないと分かっているからだ。
「違う奴がいた方が刺激になる。刺激がありゃ、考え方も変わる。何も変わらない場所は、そのうち止まる」
ラザは再び煙草を手に取った。
「停滞って、魔術師にとっちゃ一番つまんねえだろ」
レオニスは反論しようとして、口を閉じた。
そこだけは、否定できなかった。
研究も術式も、既存のものをなぞるだけでは進歩しない。異なる理論、異なる発想、異なる視点がぶつかるからこそ、新しいものが生まれる。
ラザ自身が、それを誰より体現している。
腹が立つほどに。
「……だからといって、縁故採用を正当化できるとは思いませんが」
ようやく絞り出した反論に、ラザはあっさり頷いた。
「それはそう」
「は?」
「オズワルドに頼まれたのは事実。でも、嫌なら断ってた」
レオニスは言葉を失う。
「俺が採っていいと思ったから採る。それだけ」
「でしたら最初からそう言ってください!」
「聞かれなかったし」
「貴方は……!」
喉まで出かかった言葉を、レオニスは辛うじて飲み込んだ。
この男と話していると、本当に寿命が縮む。
「とにかく、私は反対です」
「却下」
「私の意見を聞く意味は!?」
「一応あるよ」
「一応!」
「採用後の面倒、お前が見るし」
レオニスは完全に黙った。
数秒後。
「……今、何と?」
「教育係よろしく」
「所長!」
第三室に、その日一番大きなレオニスの声が響いた。
◇ ◇ ◇
それから数週間後。
ノエル・アルヴェインは、ユーリス・ヴァレンベルクとともに第三室へ配属された。
第一印象は、履歴書から受けたものと大きく変わらなかった。
穏やかな顔立ちに、整った身なり。姿勢も言葉遣いも悪くなく、いかにも丁寧に育てられた名家の子息という印象だった。
そして、魔術師としては平凡。
「ノエル・アルヴェインです。本日よりお世話になります。よろしくお願いいたします」
「ユーリス・ヴァレンベルクです。よろしくお願いします」
二人が並んで頭を下げる。
レオニスが教育をする中で二人に対して感じたことも、おおむね事前評価通りだった。
まずはユーリス。
この男は説明したことをすぐに理解し、一度見せれば再現し、応用を求めれば想定以上のものを平気で返してくる。
天才と呼ばれる人間は、なぜ皆こうも天才たるのだろうか。いっそ呆れるほど優秀だった。
一方、ノエルは違う。
「この術式、今日中に構造を把握したまえ」
レオニスが資料を差し出すと、ノエルは受け取りながら一度目を通した。
「今日中、ですか」
「何か問題が?」
「いえ。やってみます」
翌日。
ノエルは資料を抱えてレオニスの机までやってきた。申し訳なさそうではあるが、誤魔化すつもりはないらしい。
「すみません。完全には理解できませんでした」
レオニスは眉を寄せた。
「なら、理解できるまで調べたまえ。曖昧なまま進めば、後で必ず足を取られる」
「はい」
ノエルは素直に頷いた。
言い訳はしない。
その翌日には、きちんと質問を持ってきた。
「ローゼンフェルト補佐、少しいいですか」
「何だね」
「ここなんですが、前提になっている理論が二つありますよね。片方はわかるんですけど、こちらがどう繋がっているのか、どうしても理解できなくて」
レオニスは資料を受け取り、該当箇所を示しながら説明した。
ノエルは真剣に聞いていたが、途中で眉を寄せると、曖昧に頷いて先へ進もうとはしなかった。
「すみません。今のところ、もう一度お願いできますか」
もう一度説明する。
今度は少し言葉を変え、前提となる部分から順を追って話した。
ノエルは何度か頷き、しばらく考えたあとで「ああ」と小さく声を漏らした。
「わかりました。ありがとうございます」
「理解したなら、今度は自分で説明できるようにしておきたまえ」
「はい」
それでも、翌朝には何事もなかったようにまたやってくる。
「おはようございます、ローゼンフェルト補佐」
「……おはよう」
「昨日教えていただいたところ、帰ってから整理したら理解できました。ありがとうございます」
「そうか」
「あと、もう一つ聞きたいところがあるんですが」
また来た。
レオニスは内心で息を吐いた。
厳しくしているつもりだった。少なくとも、優しい上司には見えないだろう。だが、それはどうでもいい。必要なのは仕事を不足なく教えることだ。
才能に恵まれない人間が、第三室でやっていくにはそれしかないと考えていた。
だから、嫌われようが疎まれようが構わない。必要なことは言う。
できないなら、できるまでやらせる。足りないなら、補えるだけの時間をかけて努力をさせる。
自分がずっとそうしてきたように。
それが教育係としての役目だと思っていた。
ところが、ノエルはレオニスが想像していたような反応をほとんど見せなかった。
◇ ◇ ◇
「ローゼンフェルト補佐、昼食まだですよね?」
「……何故わかる」
ある日の昼過ぎ。
書類を抱えて戻ってきたノエルが、唐突にそんなことを言った。
「朝からずっと同じ書類が机の横に積んであるので」
「それと昼食に何の関係が?」
「いつも食事に行く前に、その束だけ片付けてから立つでしょう?」
レオニスは無言で机の横を見る。
確かに積んである。
「よかったら、ついでに何か持ってきますけど」
「結構だ」
「わかりました。じゃあ、お茶だけ淹れますね」
「何故そうなる」
「朝から一杯も飲んでないので」
ノエルはごく自然な顔でそう言った。
媚びているわけでもなければ、機嫌を取ろうとしている様子もない。ただ見えていたから声をかけ、それならついでに自分がやろうと考えただけらしい。
「……君は、他人のことを随分よく見ているね」
これは半分嫌味だった。しかし、ノエルはわかっているのかいないのか、不思議そうな顔をした。
「そうですか?」
「自覚がないのかね」
「たぶん、普通だと思いますけど」
「そうかね」
レオニスには、とてもそうは思えなかった。
ノエルはそのまま茶を淹れ、特別なことをしたという顔もせず自分の仕事へ戻っていく。
その背中を見送りながら、レオニスは何とも言えない気分になった。
最初は、もっと早く音を上げると思っていた。
能力差に苦しみ、第三室という環境を恨み、自分のことも嫌う。
あるいは、家柄を盾に不満を訴える可能性すら考えていた。
だが、いつまで経ってもそうならない。
段々とレオニスも気付き始めていた。
ノエルは真面目で、素直で、物腰が柔らかい。
高圧的ではなく、それでいて必要以上に自分を卑下することもない。失敗すれば謝り、できないことは認め、わからなければ聞く。
そして翌日には、また普通に仕事へ来る。
厳しく言われたことをいつまでも引きずる様子もなく、妙に人懐こい。
平凡な魔術師。
それ自体は間違っていない。
術式理解も、魔力量も、発想力も、同期には遠く及ばない。ユーリスなら一度で理解することに、ノエルは三度、四度とかかる。
それでも。
「ローゼンフェルト補佐。昨日のところ、もう一度だけ確認してもいいですか」
その日も、ノエルは一冊の資料を抱えてレオニスの机までやってきた。
「……またかね」
「すみません。でも、ここだけどうしても自信がなくて」
申し訳なさそうにはしている。
だが、質問すること自体を躊躇ってはいない。
レオニスは小さく息を吐き、ノエルが差し出した資料へ手を伸ばした。
「貸したまえ」
「ありがとうございます」
ノエルが隣へ寄る。
該当箇所を開き、レオニスは一つずつ説明していく。
本人に合った場所へ身を置くべきだという考えは、今も変わっていない。
地方支部であれば十分に評価されただろう人間が、ここでは基礎的な術式一つ理解するために何日も費やしている。そうした姿を見ていると、やはり自分の判断が間違っていたとは思えなかった。
ただ、少なくとも一つだけ。当初の予想とは違った部分も確かにあった。
ノエル・アルヴェインは、思っていたよりもずっとしぶとかった。
◇ ◇ ◇
「ローゼンフェルト補佐?」
不意に名前を呼ばれ、レオニスは顔を上げた。
目の前には、少し遠慮がちな表情のリディアが立っている。
「どうかしましたか? 何か考えごとをされていたようなので」
「……いや、少し昔のことを思い出していただけだよ」
レオニスは手元の資料へ視線を落とした。
明日の夜会に関する出席者名簿。先ほどまで確認していたはずのものだ。
「それで、何か用かね、リディア君」
「あ、はい。夜会でのご挨拶について、少し伺いたいことがありまして……」
「構わないよ。どこが気になる?」
リディアが資料を開き、確認したい箇所を示す。
レオニスはそれに目を通すと、相手の立場や挨拶の順序について、一つずつ説明を始めた。




