5-1 王宮術式異常事件編
オリバーがロゼへ移る予定の日まで、あと数日。
ザーレン支部では、いつもと変わらない朝が始まっていた。
ノエルは窓際の机で前日の巡回記録をまとめ、向かいではオリバーが古い書類の束を一つずつ確認している。
長年この支部を預かってきただけあって、引き継ぎのために整理しなければならないものは思いのほか多い。本人は「大した量ではない」と言っていたが、棚から出てくる書類は一向に減る気配がなかった。
「これは十年前の巡回記録じゃな。もういらんかの」
オリバーが一枚の紙を持ち上げる。
ノエルは記録を書いていた手を止め、日付を確認した。
「いえ、残しておきましょう。十年前ならまだ比較資料として使えます」
「ではこっちは?」
「……二十七年前ですか」
「若かったのう」
紙に記された文字を眺めながら、オリバーがしみじみと呟く。
完全に仕事とは違う方向へ意識が向いている。
「オリバーさん、思い出の振り返りはまた今度にしましょう。今は記録として必要かどうかです」
「固いことを言うでない」
口ではそう言いながらも、オリバーは二十七年前の記録を捨てる側ではなく、当然のように残す方へ置いた。
ノエルがそれを見て苦笑した、ちょうどその時だった。
部屋の隅に置かれた《対話水晶》が、淡い光を帯びる。
「おや。朝から珍しいの」
オリバーが顔を上げた。
「王宮からでしょうか」
ノエルも椅子を引いて立ち上がり、水晶へ近づく。
魔力を流して起動すると、表面を覆っていた淡い光が一度大きく揺れた。
『ノエル?』
聞こえてきた声に、ノエルは少し目を丸くした。
「え? お祖父様?」
背後で、ガタッ、と大きな音がした。
振り返らなくても、オリバーが勢いよく椅子から立ち上がったことだけはわかる。
ひとまず気にしないことにして、ノエルは水晶から聞こえてくる声へ意識を戻した。
『ああ、繋がったな。随分遠くまで行っていると聞いたが、元気そうで何よりだ』
「元気ですけど……どうしたんですか。お祖父様が直接連絡してくるなんて珍しいですね」
『用がなければ孫へ連絡してはいけないのか?』
「そういうことではありませんけど」
『まあ、今日は用があるのだが』
相変わらずだ。
ノエルが苦笑していると、水晶の向こうで紙をめくるような音がした。
『二日後、王宮で夜会が開かれる』
「夜会?」
『ああ。ミリザリア殿下が一時帰国なさることになった』
その一言で、単なる社交の集まりではないことがわかった。
他国へ嫁いだ王女の帰国となれば、王家にとっても外交上の大きな行事になる。まして王家主催の夜会なら、招待される家の範囲も普段とは違う。
「それで、うちにも招待が?」
『招待というより、出席して当然という類のものだな』
「ですよね……」
思わず声が小さくなる。
『アルヴェイン家にも昨日正式な通知が届いた。もちろん、お前の名も入っている』
「僕の名前まで?」
『当然だ。宮廷魔法局所属で、現在も王宮に籍があるのだろう。地方へ出ているからといって免除される理由にはならん』
「それはそうですけど……」
ノエルは振り返った。
当然、オリバーにも話は聞こえている。
あと数日でオリバーはザーレンを離れる。その前にできるだけ引き継ぎを進めておきたいと思っていたところだった。
『何か都合が悪いのか?』
「いえ。今、ザーレン支部の引き継ぎを手伝っていて」
『ああ、セント君か。引退と聞いたが、彼ならまだやれるんじゃないか?』
ガタガタッ、と再び背後から音がした。
さすがに気になって視線だけを向ける。
そこには、なぜか椅子ごとひっくり返り、床に転がりながらこちらを見上げているオリバーがいた。
その目は、妙にきらきらしている。
わし、認知されとる!?
口には出していない。
だが、そう叫び出しそうになるのを必死に堪えていることだけは、これ以上ないほど伝わってきた。
ノエルは一瞬だけ目を逸らした。
早めに話を切り上げた方が、オリバーの心臓には良さそうだ。
「まあ……ひとまず支部長のことは置いておくとして、さすがに欠席は難しそうですね」
『二日程度で戻れるなら、そちらにも大きな支障はあるまい。王家の催しを欠席する方が後々面倒だぞ』
「それは、よくわかります」
『なら決まりだ。先日、ザーレン支部にも移動扉が設置されたと聞いたから、王都まではそれで帰って来れるだろう』
「耳が早いですね。でも、申請に少し時間がかかると思いますよ」
『王家主催の夜会だぞ? 申請理由にそれだけ書いておけばすぐ通る。万が一、今日中に申請がおりないようなことがあれば連絡しなさい。こちらから王宮に連絡する』
それはそれで、なんとも肩身が狭いのでやめてほしい。
通常の手続きに祖父が横から口を出したとなれば、管理担当者もさぞ困るだろう。
そう思いはしたものの、ひとまず今回の参加は免れないらしい。
ノエルは小さく息を吐き、覚悟を決めた。
『衣装は用意させておくから、王宮に戻ったら家に帰りなさい』
「わかりました」
返事をすると、水晶の向こうで満足そうな声がした。
『ではな。体調だけは崩すなよ』
「お祖父様も」
そこで通信が切れ、《対話水晶》から光が消えた。
急に静かになった室内で、ノエルはゆっくりとオリバーへ視線を向ける。
そこには、いつの間にか起き上がり、恍惚とした表情で天井を仰いでいる男がいた。
「……ということらしいです」
「ああ、聞いとったよ。すべて、一言も聞き漏らしとらん」
オリバーはしばらくそのまま放心していた。
かと思えば、次の瞬間にはすくっと背筋を伸ばし、先ほどまでとは別人のような勢いで書類の束を机へ置く。
「いやいや! オズワルド先輩に言われてはな! わしもまだまだ引退はできんかもなぁ!! そもそも、まだこうしてピンピンしとるわけじゃし?」
「オリバーさん、昨日腰が痛いって言ってましたよね」
「そうか? そうでもないじゃろ。むふふふふ」
どう見ても機嫌がいい。
異様なほど元気になった様子を眺めながら、ノエルは改めて、本当に祖父へ憧れていたのだなとしみじみ感じた。
「まあ、しかし真面目な話……王女殿下のご帰国か。そりゃあ、戻らんわけにはいかんじゃろ」
ひとしきり浮かれたあとで、オリバーもようやく普段の調子を取り戻す。
「でも、オリバーさんがロゼへ行く直前なのに、二日も空けることになってしまって。すみません」
「何を謝っとるんじゃ」
オリバーは呆れたように片手を振った。
「王家の催しなんぞ、急に話が来ることくらい珍しくもない。わしみたいな田舎魔術師ならともかく、宮廷魔法局に籍を置いとるアルヴェイン家の子息が欠席というわけにもいかんじゃろ」
「田舎魔術師って、自分で言うものですか?」
「ここを田舎と呼ばずどこを田舎と呼ぶ。一言一句事実じゃ」
まったく気にした様子もない。
「二日くらいなら、わし一人でもどうとでもなる。それに、もう引き継ぎもほとんど済んどるじゃろ」
「ほとんど……そう、ですかね?」
ノエルが机の横に積まれた書類を見る。
オリバーも同じ方向を見た。
二人して、しばらく黙る。
「……まあ、帰ってきてから続きをやればよい」
「そうしましょうか」
少し気になりはするものの、王家主催の夜会となれば断る選択肢はほとんどない。
問題があるとすれば、もう一つだった。
「あとは、移動扉ですね」
「申請がいるんじゃろ?」
「はい。本来なら三日前までに出さないといけないんですけど」
ノエルは壁際に置かれている小さな箱へ目を向けた。
移動扉の設置と同時に王宮から送られてきた、使用申請専用の箱である。
見た目は木製の簡素な箱だが、側面にはいくつもの術式が刻まれている。
ノエルは棚から申請書を一枚取り出し、必要事項を埋めていった。
使用者、出発地点と移動先、使用予定日時、目的、滞在予定期間、帰還予定。
最後まで書き終えたところで一度確認し、箱の蓋を開く。
「これに入れるんじゃったな」
「はい。記入漏れがなければ、王宮側の管理部署で内容を確認してくれます」
申請書を中へ入れて蓋を閉じると、すぐに箱の側面に刻まれた術式が淡く光った。
紙そのものが王宮へ送られるわけではない。
この箱と王宮側の管理設備が連動しており、申請内容だけが向こうへ送られる仕組みになっている。
通常であれば、ここから承認までは三日ほどかかる。
王宮側で利用理由や接続先、他の使用予定との重複などを確認し、問題がなければ申請書へ魔術印が押される。その印が現れるまでは、たとえ移動扉そのものが問題なく動く状態でも、勝手に使用することは認められていない。
「さて」
ノエルは箱の前で腕を組んだ。
「王家主催とはいえ、どれくらい早く――」
言い終える前だった。
箱が、もう一度淡く光った。
「……早いの」
「早いですね」
二人で顔を見合わせる。
ノエルが蓋を開けると、中に入れた申請書の下部へ、先ほどまではなかった魔術印が浮かび上がっていた。
王宮管理部門の承認印。
その横には、小さく特例処理を示す印まで付いている。
「もう通りました」
「一分も経っとらんぞ」
「王家主催の力は絶大だということですね」
通常三日かかる確認が、ほとんど即決だった。
王女帰国に伴う催しについては、各部署にも事前に通達が出ているのだろう。関係者の移動申請が増えることまで見越して、優先処理の対象になっているらしい。
ノエルは承認済みの申請書を取り出した。
「明日の午後に王宮へ戻って、夜会の翌日にこっちへ帰ります」
「二日じゃな」
「はい。それまでに、今日できることは進めておきましょう」
「そうじゃな。ではまず」
オリバーは何事もなかったかのように、再び机の上の書類へ手を伸ばす。
「この二十七年前の記録をどうするか決めようではないか」
「まだそこに戻るんですか」
「大事な問題じゃろ」
「比較資料として残します。それで終わりです」
「冷たいのう〜」
笑いながらまた書類をめくり始めるオリバーを見て、ノエルも少し笑い、自分の席へ戻った。
二日だけとはいえ、約一か月半ぶりに王宮へ戻ることになる。
第三室の面々はもちろん、それ以外でも関わりがあった王宮の人々は相変わらずだろうか。
そんなことを考えながら、ノエルは途中になっていた巡回記録へ再び視線を落とした。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
ノエルは必要な荷物をまとめ、オリバーとともに移動扉の前へ立っていた。
昨日提出した申請書には、王宮側の承認を示す魔術印がきちんと残っている。使用予定日時にも問題はなく、帰還予定は夜会の翌日。
確認すべき箇所を一通り見終えてから、ノエルは荷物を持ち直した。
「それじゃあ、行ってきます」
「うむ。王宮の連中にもよろしく言っといてくれ」
「ふふ、お祖父様にも言っておきますね」
その一言で、オリバーの顔がぱっと明るくなる。
「最優先で頼む!」
「覚えてたら」
「そこは必ず覚えといてくれ!」
必死な声に、ノエルは思わず笑った。
それから改めて移動扉へ向き直る。
「もし何かあったら《対話水晶》で連絡してください。夜会中は難しいと思いますけど、それ以外の時間帯なら――」
「気にするでない。こっちは四十年以上、一人でこの支部を回しとるんじゃぞ」
「それはそうなんですけど」
「わしの心配より、お前さんの方が夜会で失敗せんよう気をつけた方がええんじゃないか?」
からかうような笑みを向けられ、ノエルは少しだけ肩をすくめた。
「それは……否定できませんね」
王家主催の夜会自体が初めてというわけではない。
アルヴェイン家の人間として幼い頃から社交の場には何度も出てきたし、宮廷魔法局へ入ってからも王宮で開かれる催しには参加している。
それでも、好きかと聞かれれば答えには困る。
大勢の人間が集まり、誰と誰が親しく、どの家が何を考え、たった一言がどこまで広がるかわからない場所だ。
人と話すこと自体は苦にならないノエルでも、何気ない会話の一つ一つに家名までついて回るとなれば、多少気を遣う。
「では、本当に行ってきます」
「ああ。楽しんでこいとは言わんが、仲間の顔を見て、うまいもんくらいは食うて来い」
「努力します」
ノエルは笑いながら取っ手へ魔力を流した。
淡い光が扉の縁を走り、ゆっくりと開いていく。
揺らめく空間の向こうへ現れたのは、既に何度か見た王宮側の部屋だった。
馬車を乗り継ぎ、三日以上をかけて移動していた距離が、今は扉一枚で繋がっている。
仕組みを知っていても、実際に自分が使うとなると不思議な気分になる。
「じゃあ、また明後日に」
「うむ」
オリバーへ軽く手を振り、ノエルは扉の向こうへ一歩踏み出した。
◇ ◇ ◇
足の裏へ伝わる床の感触が変わった。
ほんの一歩。
それだけで、目の前の景色がザーレン支部から王宮へ入れ替わっている。
「……本当に一瞬なんだなあ」
思わず感想が口から漏れた。
振り返れば、開いたままの扉の向こうにはまだザーレン支部が見えており、オリバーがこちらへ手を上げている。
ノエルももう一度手を振り返してから扉を閉じると、淡い光が消え、空間の接続も静かに切れた。
まずは使用記録へ時刻を書き込み、扉の状態に異常がないことを確認する。
リディアから教えられた手順を一通り終えたところで、ようやくノエルは部屋を出た。
王宮へ戻るのは、およそ一か月半ぶりになる。
毎日のように歩いていた廊下なのに、少し離れていただけで妙に懐かしく感じられた。
今日はこのまま実家へ戻る予定だが、その前に第三室へ顔くらいは出しておきたい。
荷物を抱え直し、ノエルは宮廷魔法局本部へ向かった。
第三室の扉を開けた瞬間、聞こえてきたのは深々とした溜息だった。
「……行きたくねえなぁ」
あまりにも率直で、子どものような言葉だった。
ノエルは扉を開けた姿勢のまま、一瞬動きを止める。
机の向こうでは、ラザが椅子へ深く沈み込んでいた。片手には書類、もう片方には火のついていない煙草を持ち、顔には隠す気もないほどの面倒くささが浮かんでいる。
「ただいま戻りました」
ノエルが声をかけると、室内にいた四人がそれぞれこちらを見た。
「おー、ノエル。生きてたか」
「元気ですよ」
ラザは一度ノエルを上から下まで眺め、特に問題がなさそうだと判断したらしい。
「そうか。ところで暇か? ちょっくら遠出しようぜ」
「あいにく夜会で呼び出された身なので。サボりのお手伝いはちょっと」
「はぁ……星が見たい」
途端に興味を失ったように背もたれへ沈み直し、ラザはやや死んだ目をしながら再び手元の書類へ視線を落とした。
一か月半ぶりの再会にしては随分と軽い。
しかし、この程度の方が第三室らしい気もする。
「ノエル君。戻ったなら、まず扉を閉めたまえよ」
レオニスが書類から顔を上げ、眼鏡の奥から廊下へ一度視線を向ける。
「所長の情けない愚痴が外まで聞こえては、第三室の恥だ」
「すみません」
ノエルは慌てて背後の扉を閉じた。
「というか、所長はさっきからずっとあんな感じなんですか?」
「夜会の話が出てからずっとだな」
近くに座るユーリスが淡々と答える。
いつもの席で資料を読んでいる姿は、ノエルがザーレンへ出発する前とほとんど変わらない。
銀の髪もきちんとまとめられ、明日に王家主催の夜会を控えているからといって、特別気負っている様子もなかった。
「夜会へ行くだけだろうに」
「その『だけ』が面倒なんだよ」
ユーリスの不思議そうな問いに、ラザは即座に返した。
「挨拶して、話したくもねえ奴と話して、酒飲んで、また挨拶して。研究の話ができるならまだしも、どうせ半分は天気と家族と最近どうですかの繰り返しだぞ。新手の拷問かよ」
相変わらずだな、とノエルが苦笑すると、レオニスが手元の書類を机へ置いた。
「まったく、いい加減に所長としての自覚を持っていただきたいものだね」
声はいつも通りだったが、今日のレオニスは明らかにラザとは正反対だった。
机の上には夜会に関する案内状や当日の進行表、出席予定者をまとめた資料まで綺麗に並べられている。普段から身なりの整った男だが、今日はいつにも増して背筋まで伸びて見えた。
「レオニス先輩、随分気合いが入ってますね」
「当然だろう」
質問するまでもない、と言わんばかりの返事だった。
「他国へ嫁がれたミリザリア殿下の一時帰国だ。国内の主要な貴族だけでなく、外交関係者も多数出席する。王家主催というだけでも気を抜けないというのに、今回は通常の夜会とは意味合いが違う」
「まあ、そうですよね」
「君もアルヴェイン家の人間として出席するのだろう? 他人事のような顔をしている場合ではないよ」
「わかってます。多少気は重いですけど、出席するならしっかりしないとですね」
ノエルが苦笑まじりに答えると、レオニスはようやく満足したように小さく頷いた。
「わかっているならよろしい」
その向こうでは、リディアが机へ向かったまま何かを書き込んでいる。
先ほどからほとんど会話へ入ってこない。
「リディアさんも出席するんだよね?」
声をかけると、リディアの手が止まった。
「はい。エルンスト家にも招待が届きましたので、父とともに出席します」
返事はいつも通り丁寧だが、僅かに声が硬い。
「もしかして、緊張してる?」
「……はい」
少し迷った末、リディアは素直に認めてペンを置いた。
「通常の夜会には何度か出席したことがありますが、それも随分前です。その上、王家主催のような大規模なものは初めてです。礼式については確認していますが、何か見落としていないか……」
「人が多い分、一人一人はあまり注目されないから、そこまで心配しなくても大丈夫だと思うよ」
「そうだといいのですが」
「エルンスト」
ユーリスが資料から視線を上げた。
「普通にしていれば問題ない」
リディアは少し考え、それから困ったように眉を寄せた。
「……ヴァレンベルク先輩の『普通』は参考にならないと思います」
一瞬、室内に間が空いた。
ユーリスが僅かに眉を寄せる。
「なぜだ」
その顔が本当にわかっていないようだったので、ノエルは笑いそうになるのを堪えた。
ユーリスはどこへ出ても必要な礼儀を自然にこなすし、本人にとってはそれが特別なことですらない。緊張する側からすれば、確かに参考にするのは難しいだろう。
「リディア君は、今夜にでも当日の流れをもう一度確認しておけばいい」
レオニスが助け舟を出すように口を挟んだ。
「王家主催とはいえ、招かれた側が過度に構える必要はない。礼を失することなく、求められた時に然るべき受け答えができれば十分だよ。それから、相手の爵位と家名だけは最低限頭へ入れておきたまえ。今回の規模だと、普段顔を合わせない家も多い」
「はい。一覧をいただければ、本日中に確認します」
「後で渡そう」
レオニスは当然のように答え、そのままノエルへ視線を移した。
「君も必要かね?」
「いえ、その辺りはある程度覚えているので。新興の家々と来賓者だけ、後で確認しておきます」
「うむ。必要なことがあれば聞きたまえ」
「はい」
やはり、かなり気合いが入っている。
この分だと、レオニスは出席者の名前や家柄だけでなく、趣味嗜好まで頭へ叩き込んでいそうだ。
それと対照的に、誰の顔も覚える気がなさそうなラザが、机へ頬杖をついたままぼやいた。
「お前、よくそんなにやる気出るな」
レオニスのこめかみが、僅かに引き攣る。
「貴方がなさすぎるのだ。そもそも、魔術師の名家たるエルヴェスター家の者がこの体たらくとはどういう了見だ。許されるのか? いや、許されない」
「王様に会って、王太子殿下に挨拶して、帰ってきた王女殿下におめでとうございますって言って終わりでいいだろ」
「それで済む立場なら、ぜひ私もそうしたいものだがね」
「済むだろ?」
「済むわけあるか!」
いつもの大きな声が飛んだ。
ラザは心底嫌そうな顔をしたあと、諦めたように背もたれへ沈む。
「ノエル〜、俺の代わりに出てくれよ」
「またそんなこと言って」
「お前だって行きたくないだろ、夜会なんて。昔はよく一緒にサボったなぁ」
「はいはい」
ノエルは適当に流しかけて、ふと思いついたように口元を緩めた。
「ところで所長。実は僕、ザーレンに行ってから星の観察日記をつけてるんです」
その瞬間だった。
椅子へ沈んでいたラザの体が、勢いよく起き上がる。
先ほどまで死にかけていた目に一気に光が戻り、その表情だけ見れば、そこらの令嬢ならうっかり見惚れてしまいそうなほどだった。
「やっぱり夜会なんて出てる場合じゃねえ。ノエル、詳しく話してみろ。いや、もうこのままザーレンに戻るぞ。どうせ日記はそっちだろ?」
「いえ、それは遠慮します」
ノエルは即座に断る。
「後でちゃんとまとめて見せますから、今回はそれでやる気出せませんか?」
「……」
ラザはものすごく複雑そうな顔で黙り込んだ。
しばらく唸るように考えたあと、不意にすっと真顔になる。
「髭剃ってくる」
それだけ言い残し、立ち上がった。
そのまま第三室を出ていく。
閉じた扉を、残された四人が揃って見送った。
「……あれはつまり、夜会に参加するということでしょうか?」
最初に口を開いたのはリディアだった。
レオニスは深々と息を吐き、眼鏡の位置を直す。
「まあ、そういうことだろうね。最初からそうしてほしいものだが……ノエル君、手間をかけさせたね」
「いえ。元々、天体観測の日記は所長に渡すつもりでしたから。一緒にお願いしたいこともありますし」
「律儀なものだ」
レオニスは感心半分、呆れ半分といった様子でノエルを見る。
「ひとまず、君は家に戻るのだろう? なら今のうちに出た方がいい。戻ってきたらまた絡まれる」
「そうします」
ノエルも苦笑して荷物を持ち直した。
「では、また明日」
そう言って、ノエルはラザが戻ってくる前に第三室を出ていった。
◇ ◇ ◇
扉が閉じたあと、第三室には束の間の静けさが戻った。
リディアはしばらくその扉を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「所長とノエル先輩は、なんというか……思っていたより近しいのですね」
ユーリスが読んでいた資料から視線を上げる。
「エルヴェスター家とアルヴェイン家は、どちらも古くから続く魔術師の名家だ。昔から家同士の交流もあったと聞く」
「言われてみれば、確かに交流がない方が不自然ですね」
リディアは小さく頷いた。
先ほどのノエルとラザのやり取りを思い返す。
普段のノエルは、ラザに対しても他の上司と同じように接している。親しげではあっても、職場では所長と部下という線を越えることはほとんどない。
「私はてっきり、ノエル先輩は所長に対しては少し一線を引いているのかと思っていました」
「ふむ。なぜだね?」
レオニスが聞き返す。
「ノエル先輩は、所長のことだけはずっと家名で呼びますよね。些細なことですが、それで少し距離を置いているのかと」
「それは二人とも魔術師家系だからだ」
ユーリスが横から言葉を挟んだ。
リディアが不思議そうにそちらを見る。
「俺も詳しくはないが、以前ノエルから聞いた。古い魔術師家系同士の場合、公の場では相手を家名で呼ぶのが礼儀として暗黙の了解になっているらしい」
「でしたら、所長はなぜノエル先輩を名前で?」
「礼儀知らず……というより」
ユーリスは一瞬だけ考えた。
「礼儀は知っているが、くだらないから無視している、が正しいのだろうな」
「所長なら、そうだろうね」
レオニスが疲れたように同意する。
その言葉に、リディアも妙に納得してしまったらしい。
「ノエル本人も、所長は昔からああだから別に気にしていないと言っていた。そういう距離感なのだろう」
ユーリスがそう締めると、レオニスは机の上へ置いていた出席者一覧へ視線を戻した。
ノエル・アルヴェイン。
今では、彼が第三室にいることを疑問に思うこともない。
人の話を聞き、場の空気を読み、必要なら自分から間へ入る。
魔術師として突出しているわけではない。けれど、第三室の中に彼がいることで物事が円滑に進んだ場面を、レオニスはもう何度も見てきた。
だが。
初めてその名を採用候補として聞かされた時、自分はそんな評価をしていなかった。
むしろ、逆だった。
ノエル・アルヴェインを第三室へ採用する。
そうラザから告げられた時、レオニスは強く反対したのだ。
今から数年前。
まだノエルが、宮廷魔法局へやってくる前のことである。




