4-14
フェルナーへの聴取が行われた翌朝。
ザーレン支部では、移動扉の最終確認が行われていた。
リディアは扉の前に立ち、手元の記録用紙へ最後の数値を書き込んでいく。設置から数日、朝夕に確認してきた魔力の流れに大きな乱れはなく、王宮側との座標にもずれは見られない。
取っ手へ手をかけ、少量の魔力を流す。
淡い光が扉の縁を走り、そのままゆっくりと開けば、揺らめく空間の向こうには見慣れた王宮側の部屋が現れた。
リディアはしばらく接続状態を確認し、魔力の流れにも異常がないことを確かめてから、静かに扉を閉じる。
「問題ありません。これで、設置後の安定確認は完了です。本日から試験使用へ移行できます」
記録用紙へ最後の印をつけながら告げると、少し離れたところで見守っていたオリバーが嬉しそうに手を打った。
「おお。ようやく完成というわけじゃな」
「正確には、通常運用の前段階です」
「そこは譲らんのじゃな」
「はい」
真面目な顔で答えるリディアに、隣のノエルが小さく笑った。
「でも、実際に人が使えるところまでは来たんだよね」
「そうですね。試験期間中に問題がなければ、そのまま通常運用へ移行できます」
そう答えてから、リディアは記録用紙を閉じ、今度はオリバーへ向き直る。
「念のため、もう一度使用方法を確認しておきます」
「昨日も聞いたぞ?」
「はい。ですが、今後はオリバーさんが管理することになりますので、最後にもう一度確認しておいた方がいいと思います」
「ははは。わかったわかった。頼むよ」
オリバーが素直に扉の前へ立つと、リディアはまず取っ手を示した。
「通常の扉として使う場合は、そのまま開けて構いません。移動扉として使用する場合のみ、先に少量の魔力を流してください」
「このくらいじゃったな」
「はい。それ以上は必要ありません。無理に多く流しても移動距離が伸びるわけではありませんし、術式へ余計な負荷がかかります」
「力いっぱい入れれば遠くまで飛べる、なんてことにはならんのじゃな」
「なりません」
「冗談じゃよ」
オリバーが楽しそうに笑う。
リディアは一瞬だけ言葉に詰まったものの、そのまま説明を続けた。
「接続後は、向こう側の状態を確認してから通ってください。扉を閉じれば接続は解除されます。それから、使用には事前申請が必要です」
「その紙じゃな」
机に置かれた申請書をオリバーが指す。
「はい。原則として、申請書は使用を開始する側の拠点で管理します。今回、オリバーさんがザーレンからロゼへ移動する場合は、ザーレン支部へ提出したものとして、こちらで保管してください」
「今回は?」
「まだ運用開始前ですので、最初の一枚については私が王宮へ持ち帰り、試験使用開始の記録と一緒に提出します。次回以降、ザーレンから使用する場合はこちらで管理をお願いします」
「なるほどの」
「反対に、ロゼからザーレンへ移動する場合は、ロゼ側で申請書を管理します」
オリバーは頷きながら、既に記入を終えた申請書へ視線を落とした。そこには二週間後の日付が記されている。
長く勤めたザーレン支部を離れ、ロゼへ向かう予定日だ。
「二週間かぁ」
ノエルが横から紙を覗き込む。
「思ったよりすぐですね」
「長引かせても仕方ないからの。それまでに、片付けられるもんは片付けとかんとな」
「僕も手伝いますよ。引き継ぎで必要なことがあれば言ってください」
「頼りにしとるよ」
オリバーはそう言って笑ってから、ふとリディアへ視線を向けた。
「しかし、エルンスト嬢は今日帰ってしまうんじゃろ?」
「はい。このあと王宮へ戻る予定です」
「寂しくなるのう。いっそ、二人ともこのままザーレン支部を担当してくれてもええんじゃがな」
「いえ」
反射的に返事が出た。
あまりにも即答だったせいか、オリバーが声を上げて笑う。
「即答じゃな」
「あ……」
リディアはそこで一度口を閉じた。
以前なら、そのまま「所属が違いますので」「第三室の業務があります」と続けていたかもしれない。
だが、ほんの少しだけ考える。
「……第三室で、やることがあります」
「うむ」
「ですが、ザーレン支部での業務も、大変勉強になりました」
改めてそう続けると、オリバーは目を細め、先ほどまで惜しむようだった顔を素直な笑みに変えた。
「そうかそうか。なら、来てもらった甲斐があったの」
「はい」
その返事をしたあと、リディアは無意識に隣へ視線を向ける。
ノエルと目が合った。
彼は何も言わなかったが、いつもの柔らかな笑みを浮かべ、小さく頷いてくれた。
それだけで、今の返し方は間違っていなかったような気がした。
リディアも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「さて」
オリバーが手を叩く。
「帰る前に、村を一回りしてきたらどうじゃ? 見回りも兼ねて、せっかく顔を覚えてもらったんじゃから挨拶くらいしてきた方がええじゃろ」
リディアが答えるより先に、ノエルが頷いた。
「そうしようか。昨日回れなかったところもありますし」
「……はい」
今度は、迷わず頷けた。
◇ ◇ ◇
数日前まで、リディアにとってザーレンの村は知らない場所だった。
道の形も、家の位置も、そこで暮らす人々の顔も知らず、ただ仕事のために訪れた土地でしかなかった。
それが今では、ノエルと並んで歩いているだけで何人もの村人から声をかけられる。
「あら、リディアちゃん。今日帰るんだって?」
「はい。午後には王宮へ戻ります」
「そう。寂しくなるねえ。またおいで」
「ありがとうございます」
別の家の前では、薪を運んでいた男が手を上げた。
「お、王都のお嬢さん。扉、完成したらしいな」
「はい。試験使用へ移れる状態になりました」
「そりゃあいい。あんたもご苦労さん」
「ありがとうございます」
少し先では、子どもたちが駆け寄ってくる。
「リディア姉ちゃん、帰っちゃうの?」
「はい」
「また来る?」
以前なら、予定の決まっていないことへ即答するのをためらったかもしれない。
だが今は、少しだけ考えてから答える。
「機会があれば、ぜひ」
「ぜったいだよ!」
「……善処します」
「そこは『ぜったい』って言うところじゃない?」
ノエルが隣で笑う。
「確約できないことを約束するのは……」
「うん。それもリディアさんらしいね」
からかわれているのか褒められているのかわからず、リディアは少しだけ眉を寄せる。
それでも、以前のように困ることはなかった。
村を歩けば歩くほど、あちこちから声が飛んでくる。
短い滞在だったにもかかわらず、思っていた以上に多くの人が自分の顔を覚えている。
そして何より意外だったのは、そのほとんどが別れを惜しんでくれることだった。
自分はそれほど愛想のいい人間ではない。
気の利いた話ができるわけでもないし、人付き合いが上手いと思ったこともない。
それでも、数日間一緒に仕事をし、話し、村を歩いた。
それだけで、少なくともここでは「知らない王都の魔術師」ではなくなっていたらしい。
「……不思議ですね」
思わず漏らすと、ノエルがこちらを見る。
「何が?」
「たった数日しかいなかったのに、こんなに声をかけていただけるとは思っていませんでした」
少し迷ったものの、そのまま口にすると、ノエルは特に意外そうな顔もせず微笑んだ。
「みんな、リディアさんのこと好きになったんじゃない?」
「……そうでしょうか」
「そうだと思うよ。最初はちょっと緊張してた人もいたけどね」
「それは……わかります」
思い当たることが多すぎる。
ノエルが小さく笑った。
「でも、ちゃんと話してみたら違った。それだけじゃないかな」
リディアは返事の代わりに、前を向いた。
通りの先から、小さな女の子がこちらへ歩いてくる。
初日に出会った子だった。
リディアが少し強い言い方をしてしまい、悲しませてしまった少女。その後は少しずつ話すようになり、昨日森へ行った時にはすぐ近くに座っていた。
名前は、確か……。
「リリーナさん、こんにちは」
リディアが声をかけると、幼い少女リリーナはその場で立ち止まった。
「こんにちは」
大きな目でリディアを見つめ、はにかむように笑いながら挨拶を返す。そんな少女に、リディアは言葉を続けた。
「私、今日王宮へ戻ることになりました。短い間でしたが、ありがとうございました」
そう告げると、少女は一瞬固まる。まるで雷が背後に落ちたかのように、衝撃を受けたことを全身でありありと伝えると、瞬く間に表情が曇った。
目元に涙が溜まっていく姿に、リディアも固まる。
「……あ」
どうすればいい。
初日に泣かせた時とも違う。
今回は怒っているわけではないし、怖がらせたわけでもない。けれど、だからこそ何を言えばいいのかわからなかった。
「ええと……」
言葉を探しているうちに、隣からノエルが一歩前へ出た。
悲しみに暮れる幼き少女の前へ跪き、目線を合わせる。
「リリーナちゃん、ちょっといい?」
小さな手をそっと取り、耳元へ顔を寄せると、何かを短く囁いた。
少女が泣きそうな瞳のままノエルをジッと見る。
ノエルは笑って、もう一度何かを伝える。
すると少女は少し迷うように視線を彷徨わせたが、最終的には小さく頷いた。
その一連の仕草を、リディアは傍目から黙って見ていた。
ノエル先輩は、他人との距離感に余計な含みを持たせない人だ。だから、こういうことをあまりにも自然にする。
相手が誰でも目線を合わせ、悲しんでいれば優しく手を取り、穏やかに言葉をかける。
本人にはまったく他意はないのだろうが、これは少々、とくに女性にとっては他意がないからこそ厄介なのではないだろうか。
尊敬している先輩の、今まで気づかなかった一面を見つけたような気がして、なんとも言えない気分になる。
そんなことを考えている間に、少女がこちらへ歩いてきた。
とことこと小さな足で近づいてきて、そのままリディアの脚へぎゅっと抱きつく。
「……!」
思わず体が固まる。
少女はそのまま顔を上げた。目にはまだ少しだけ涙が残っている。
「またきてね」
胸の奥が、きゅっと縮まった。
痛いわけではない。
けれど、少し苦しくなるような、これまであまり知らなかった感覚だった。
リディアはゆっくり手を伸ばし、小さな頭へ触れる。
髪をそっと撫でながら、自然と柔らかな声が出た。
「はい。必ず」
今度は、迷わなかった。
少女の顔がぱっと明るくなる。
少し離れたところで、ノエルが嬉しそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
村を一回りして支部へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
荷物は既にまとめてある。
リディアが王宮へ戻るために使うのは、完成したばかりの移動扉だった。
試験使用の第一号として、その結果も王宮側へ報告する予定になっている。
「忘れ物はない?」
「確認しました」
「申請書も?」
「こちらにあります」
「さすが」
ノエルが笑う。
オリバーも一緒に扉の前まで来ていた。
「短い間じゃったが、世話になったの」
「こちらこそ、お世話になりました」
リディアは丁寧に頭を下げる。
「二週間後の移動までは、毎日の確認だけ忘れないでください。何か異常があった場合は使用せず、対話水晶で王宮へ連絡をお願いします」
「わかっとるよ」
「それから――」
「エルンスト嬢」
「はい」
オリバーが笑う。
「大丈夫じゃ」
念を押すような穏やかな声に、リディアは一度口を閉じた。
「……そうですか」
「うむ」
少しだけ迷ってから、素直に頷く。
「では、お願いします」
「任された」
オリバーは満足そうに胸を張り、そのまま少し離れたところへ下がった。
最後に残ったのは、ノエルだった。
「ノエル先輩」
「うん?」
リディアは少し考えた。
ここへ来る前なら、必要な報告だけをして終わっていたかもしれない。
けれど今は、伝えておきたいことがある。
「短い間でしたが、楽しかったです。支部での業務も、村の方々と接することも、とても勉強になりました」
ノエルは何も挟まず、静かに続きを待っている。
「それから……ノエル先輩と色々お話しできたことも、とても参考になりました。ありがとうございました」
一度言葉にしてしまえば、思っていたより自然に最後まで言えた。
ノエルは一瞬だけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「僕はそんなに大したことしてないよ」
「ですが――」
「本当に。リディアさんが悩んでたことも、別に悪いところじゃないと思う」
穏やかに遮られ、リディアがノエルを見る。
「正しいことを大事にするのも、細かいところまで気づけるのも、リディアさんのいいところだから。ただ、伝え方ひとつで受け取られ方が変わることはある。レオニス先輩が言いたいことも、それだけなんじゃないかな」
ノエルはそこで少しだけ首を傾げた。
「だから、無理に別の人みたいにならなくてもいいと思うよ」
リディアはすぐには答えなかった。
数日前、自分は正しい判断をしたはずなのに、なぜ問題になったのかわからなかった。
今も、すべて理解できたとは思わない。きっとまた、同じように迷うこともある。
それでも、以前よりは少しだけ考えられることが増えた気がする。
「……はい。覚えておきます」
「うん」
ノエルも笑う。
「僕もリディアさんと話せて楽しかったよ。また来てね」
「本当ですか?」
「本当だよ」
即答だった。
先ほどの少女の顔が浮かぶ。
リディアは少しだけ笑った。
「はい」
今度は、それ以上何も付け加えなかった。
移動扉の前へ立ち、取っ手へ魔力を流す。
淡い光が扉の縁を走り、扉を開けば、揺らめく空間の向こうには王宮側の部屋がある。
ほんの数歩先。
数日前には馬車を乗り継いでやってきた距離が、今は一枚の扉の向こうにある。
「では、戻ります」
「気をつけて」
「またの」
リディアは二人へ頭を下げ、そのまま一歩、扉の向こうへ踏み出した。
空間を抜ける感覚は一瞬だった。
次に足をついた時には、王宮の床がそこにある。
振り返ると、扉の向こうでノエルとオリバーがこちらを見ていた。
リディアは最後にもう一度頭を下げ、ゆっくりと扉を閉じる。
淡い光が消え、王宮側の部屋に静けさが戻った。
「……問題なし」
小さく呟き、持っていた記録用紙へ時刻を書き込む。
◇ ◇ ◇
第三室の扉を開ける。
「戻りました」
室内の空気は、驚くほどいつも通りだった。
ラザは机の上へ積まれた書類を前に煙草を指で弄び、レオニスは別の机で何かの報告書を確認している。ユーリスは窓際の席で資料を読んでいた。
リディアが声をかけると、三人がそれぞれこちらを見る。
ザーレンに行く前の塞ぎ込んだ気分だったら、その視線の意味を悪い方へ考えていたかもしれない。
また何か失敗しただろうか。
迷惑をかけただろうか。
評価を下げただろうか。
けれど今は、不思議とそうは思わなかった。
リディアはいつも通り姿勢を正す。
「ザーレン支部への移動扉設置、および初期安定確認を完了しました。本日の試験使用も問題ありません。以後、試験運用へ移行可能です」
「おー、お疲れ」
ラザが片手を上げる。
「ご苦労だったね、リディア君」
レオニスも報告書から顔を上げる。
「問題はなかったか」
ユーリスが尋ねる。
「はい。魔力流、座標固定ともに異常ありませんでした。試験使用後の数値も許容範囲内です」
「なら問題ない」
それだけ確認すると、ユーリスは小さく頷いた。
いつも通りのやり取りだった。
けれど、その「いつも通り」が以前より少しだけ違って感じられる。
「そういえば」
ラザが椅子を軋ませながら口を開いた。
「お前がいない間に、書庫の件も一応片付いたぞ」
リディアの表情が引き締まる。
「禁書の件ですか?」
「ああ」
今度はレオニスが答えた。
「ルーカス・フェルナーが貸出申請書の偽造を認めた。君の名前を使った理由も含めてね」
そこで一度言葉を切る。
「処分については正式な手続きが進められた。彼は宮廷魔法局を去ることになる」
「……そうですか」
リディアは少しだけ目を伏せた。
当然と言えば当然なのだろう。
他人の名を使って禁書の貸出記録を偽造した。その結果だけを見れば、軽い処分で済む話ではない。
「禁書の所在は?」
「そっちはまだだ」
ラザが答える。
「二年前にはちゃんと返却されてた。それからお前が一年前に棚を見るまでのどこかで消えたらしい」
「紛失でしょうか」
「可能性はある」
ユーリスが口を挟む。
「ただ、整理中に誤って廃棄された可能性は低い。盗難も含めて調べている」
「盗難……」
リディアが小さく繰り返す。
「だが、一年以上経っている」
レオニスが眼鏡を押し上げた。
「当時の記録や証言を追うにも限界がある。今のところ、行方はわかっていない。見つかるかどうかは……難しいと言わざるをえない」
「そうですか」
「まあ、そっちはこっちの仕事だ」
ラザが軽く手を振る。
「お前はまず、ザーレンの報告まとめとけ」
「はい」
リディアは頷く。
そこでレオニスが、思い出したように声をかけた。
「それから、第三書庫の管理者から君へ話があるそうだ」
「私に?」
「ああ」
何の話かは、聞かなくてもだいたい想像がついた。
◇ ◇ ◇
午後。
リディアは第三書庫を訪れていた。
少し前なら、ここへ来るだけで気持ちが重くなっていたかもしれないが、今日はそれほどでもない。
受付を通り、奥の事務室へ向かう。
そこにはエドガー・ハイルマンが待っていた。
「エルンスト君」
「お時間をいただきありがとうございます」
「いや。こちらから呼んだんだ」
ハイルマンは以前より少し疲れて見えた。
丸眼鏡の位置を直し、しばらく何か言いづらそうにしていたが、やがて椅子から立ち上がる。
「今回の一件について、正式に謝罪したい」
リディアは黙って話を聞いた。
「第三書庫の管理不備によって君に不当な疑いをかけることになった。加えて、事実確認が十分でない段階で、第三室へ君の指導についてまで言及した」
ハイルマンはそこで深く頭を下げる。
「申し訳なかった」
リディアはすぐには答えなかった。
謝罪を受けること自体は難しくない。
実際、自分はしていないことで疑われたし、腹立たしくなかったと言えば嘘になる。
だが、それだけで終わらせるのも、今は少し違う気がした。
「謝罪をお受けします」
まず、そう答えた。
ハイルマンがゆっくり顔を上げる。
「それから、私からも一つよろしいでしょうか」
「……何だろう」
「以前、閲覧制限について問題になった時のことです」
ハイルマンの表情が僅かに硬くなる。
「私は、規則上正しい対応をしていることだけで十分だと考えていました。ですが、相手に理解していただけるよう説明することも、業務の一部だったと思います」
以前の自分なら、こんな言い方はしなかった。
規則違反は相手だ。
自分の判断は正しい。
それなら謝る理由はない。
そう考えていた。
「判断そのものを間違っていたとは思っていません」
そこは、曲げなかった。
「ですが、伝え方については改善すべき点がありました。あの時は、書庫の皆様にもご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした」
リディアはそう言って頭を下げた。
ハイルマンが目を瞬く。
しばらく何も言わなかったが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか。いや、あの場は本来なら私がすぐに間へ入るべきだった。君に対応を任せきりにし、いくら君の上司とはいえ、書庫管理に関係のないローゼンフェルト補佐に事態の収拾まで任せるなど……あの場の責任者として、あってはならなかった」
少しばかり苦い顔になる。
「互いに、改めるべきところがあったということにしてもらえるだろうか」
「はい」
リディアはその言葉を受け、素直に頷いた。
以前なら、どちらがより正しいのかを考えたかもしれない。
どちらに非があるのか。
どちらが謝るべきなのか。
けれど今は、それを決める必要はないように思えた。
「今後も書庫業務の補助をお願いすることはあると思う」
ハイルマンが少し気まずそうに続ける。
「もちろん、今回の件があるからというわけではなく……以前から君は作業が正確だったので」
「はい」
「……嫌でなければ、だが」
その付け足しに、リディアは少しだけ目を丸くした。
以前のハイルマンなら、あまり言わなかっただろう言葉だった。
「問題ありません。必要であれば、お声がけください」
「……助かる」
ハイルマンの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「では、失礼します」
「ああ。エルンスト君」
「はい?」
「改めて……ありがとう」
今度は、リディアも少しだけ笑った。
「こちらこそ」
一礼し、第三書庫を出る。
廊下には、午後の光が差し込んでいた。
ザーレンへ向かう前と、王宮の景色が変わったわけではない。
第三室も、第三書庫も、きっと明日からまたいつもの仕事が続いていく。
リディアは第三室へ戻るため、廊下を歩き出した。
その足取りは、ザーレンへ向かった時よりずっと軽かった。




