4-11
リディアは静かに紙を受け取った。
まず、上から下まで一度目を通す。
禁書の題名、貸出日時、返却予定日、利用者名。そして、一番下に記された署名。
ひとつずつ確かめるように視線を滑らせ、しばらく何も言わずに眺めたあと、リディアは紙を机の上へ置いた。
「これは、私が書いたものではありません」
迷いのない返答だった。
「やはりそうか」
ユーリスも特に驚いた様子はなく頷く。
「筆跡も違うと見ていた」
「はい。似せようとはしているようですが、いくつか違います」
リディアは署名部分を指先で示した。
「特に名字の最後です。私はここを一筆でつなげますが、これは一度筆が離れています。それから、この文字も少し形が違います」
ノエルも身を寄せ、示された箇所を覗き込む。
「ぱっと見ただけなら結構似てるけど……うん、確かにちょっと違う気がする」
「とはいえ、これは普段の私の字を知っている方なら多少違和感を抱く、という程度の差かと思います。本来ならそれだけでは私が書いたものではないという裏付けにはなりません」
「そう考えると、王宮を離れてる間のことで運が良かったのかもね」
申請書に記された時刻には、リディアが王宮にいなかったという動かしようのない記録がある。その事実がなければ、筆跡だけを理由に偽造だと断定するのは難しかっただろう。
リディアは小さく頷き、もう一度紙面へ視線を落とした。
今度は署名ではなく、禁書の題名を見ている。
「……それから、この本ですが」
「何かあるか?」
「今回初めて所在不明になったわけではない可能性があります」
ノエルがわずかに首を傾げる。
「どういうこと?」
「少なくとも、私が昨年の冬に第三書庫の棚卸しを手伝った時点では、この本は所定の位置にありませんでした」
ユーリスはその言葉を受け、机の上に重ねていた別の資料へ手を伸ばした。
「詳しく覚えているか」
「はい、ある程度は」
リディアは当然のように答える。
「先輩方もご存知の通り、入局してから書庫での貸出や整理は業務の一環として何度か手伝っています。この本が収められている区画も、棚卸しの際に確認しています」
「その時はどう思った?」
「貸出中だと思いました。未返却の管理については正規の管理者が担当していますし、棚にない本は該当の禁書に限らず数冊ありましたので」
当時のリディアにとっては、それ以上気に留める理由がなかったのだろう。
ユーリスはレオニスから預かってきた資料の束から、一枚を抜き出した。
「これが直近五年分の貸出履歴だ」
そう言って、リディアの前へ置く。
年ごとに利用者名、貸出日、返却日がまとめられている。リディアはそれを受け取り、数名の名前が並んだ記録を上から順に見ていった。
一年前、二年前、三年前。
やがて指先が、ある一行で止まった。
「最後に正常な返却記録があるのは、二年前ですね」
「ああ」
「それ以降、今回の私名義の記録まで貸出履歴がありません」
「記録上では、一度棚へ戻って、そのまま二年間保管されていたことになるね」
ノエルが言うと、リディアは短く頷き、手元の二枚の書類を見比べた。
「ですが、私は約一年前に該当する棚を確認しています。その時点では、この本はありませんでした」
そこで一度言葉を切り、頭の中で順序を整えるように視線を下げる。
「考えられるのは、大きく二つです」
ユーリスが続きを促すように目を向けた。
「一つは、二年前の返却記録そのものに誤りがあり、実際には返却されていなかった可能性」
「もう一つは?」
「二年前には正常に返却されていたものの、その後、私が棚を確認するまでの間に所在不明になった可能性です」
ユーリスが資料へ目を落とす。
「紛失か、盗難か」
「はい。ただし、現時点でそこまでは区別できません」
リディアの口調は変わらない。
確かなことだけを、確かな範囲で並べていく。
「少なくとも、今回の私名義の申請書によって初めて本がなくなった、ということはありません」
「そうだな。今朝の時点では、エルンストが借りたまま返していないという扱いだった」
「それは成立しません」
リディアはきっぱりと言った。
「私が申請書を書いていないことを除いても、時系列が合いません」
ノエルも資料へ目を落とす。
「本がなくなった時期を、新しい貸出記録で上書きしようとしたようにも見えるね」
「可能性はあると思います」
「ということは、これを書いた人は、前から本がないことを知ってたのかな」
「その可能性もあります」
リディアはそこで少し間を置き、言葉を慎重に選んだ。
「ただし、この申請書だけでは断定できません。書庫内の貸出履歴を確認できる人物であれば、過去の記録を見て後から作成することも可能です」
その言葉に、ユーリスが机上の紙を一枚抜き出した。
「これは二年前、最後に借りた人物の申請書だ」
リディアが受け取る。
今回のものより少し古い紙に、利用目的と日付、署名が記されていた。
「こちらは正規のものとして保管されていた」
「……そうですか」
リディアは二枚を机の上へ並べる。
二年前の申請書と、今回作られた自分名義の申請書。
しばらく黙って見比べていたが、やがて今回の申請書の日付欄で目を止めた。
「……もう一点、気になることがあります」
「なんだ」
「この日付の数字です」
ユーリスとノエルの視線が、示された箇所へ集まる。
「書き方に、見覚えがあります」
「誰のものだ?」
問われても、リディアはすぐには名前を出さなかった。
数字を一つずつ改めて確認し、それから口を開く。
「第三書庫のフェルナーさんです。若い書庫管理の方です」
「フェルナーか」
ユーリスが短く返す。
ノエルも名前を頭の中で探すように少し考えてから尋ねた。
「以前から知ってる人?」
「はい。第三書庫の整理や棚卸しを手伝った際、何度か一緒に仕事をしています」
リディアは数字の一つを指した。
「この数字を書く時、最後を少し内側へ払う癖があります。それから、こちらは横線が短いです」
ユーリスが紙を手元へ引き寄せ、示された箇所を確かめる。その間にも、リディアはあくまで慎重な調子を崩さなかった。
「もちろん、同じ癖を持つ方が他にいる可能性もあります。あくまで私の記憶の中で覚えのある癖、という程度の話としていただければと思います」
「そうだな」
ユーリスは紙から目を離さずに答える。
「だが、確認する価値はある」
「そうですね。あとは、二年前の返却については、実際に本が戻っていたかを確認した方がいいと思います」
「ああ」
「当時の受付記録や担当者の証言が残っていれば、それも。返却後に棚の整理や保管場所の変更があったかどうかも確認できれば、紛失の可能性を絞れます」
ユーリスが頷くのを確認し、リディアはさらに続ける。
「書庫内での修繕記録もあれば確認してください。本そのものが傷んで別の場所へ移された可能性も、完全には除外できません」
「わかった」
ユーリスは必要な確認事項を一つずつ頭の中へ留めていく。
ノエルも特に口を挟まず、二人のやり取りを聞いていた。ここまで来れば、朝の時点では見えていなかった調査の道筋が、かなり明確になっている。
しばらくして、向かいに座っていたオリバーが感心したように髭を撫でた。
「……エルンスト嬢」
「はい?」
「一年も前に見た棚のことやら、他人の数字の書き方やら、よう覚えとるの」
リディアが少しだけ首を傾げる。
「一度、仕事で確認したことですから」
「……そうか」
「はい」
特に誇る様子もなく、本当にそれだけのことだという顔で答える。
オリバーは何とも言えない表情でノエルを見る。
その視線の意味を察したのか、ノエルは少しだけ笑った。
「リディアさん、こういうことが昔から得意みたいですよ」
「得意というほどではありません」
「得意なことというのは、本人にとっては当たり前にできるもんでな。案外、自分では気づかないものじゃよ」
「確かに、そういうものとは耳にしますが……」
リディアはそう答えながらも、いまひとつ納得していない顔をしている。
ユーリスはそこには触れず、受け取った資料の端を揃えた。
「整理すると、こうだな」
その一言で、全員の視線がユーリスへ向く。
「今回の申請書は、時系列と筆跡から偽造と判断して間違いない。エルンストが禁書を借りた事実はなく、少なくとも約一年前には既に所定の棚からなくなっていた」
「はい」
「最後の正常な貸出記録は二年前。それが本当に返却されていたかどうかを確認する必要がある」
「そうです」
「フェルナーの筆跡には今回の申請書と似た特徴がある。ただし、現時点では候補に留める」
リディアはそのまとめに異論がないことを示すように頷いた。
「その形で報告をお願いします」
「ああ。王宮へ戻ったら、ローゼンフェルト補佐に伝える」
朝の時点では、ただ一冊の禁書が返却されていないという話だった。
それが今では、少なくとも一年以上前まで遡る問題へと変わっている。
まだ答えは出ていない。
だが、調べるべき場所は見えてきた。
◇ ◇ ◇
「さて」
ひと通り話がまとまったところで、ユーリスが椅子から立ち上がった。
「帰る前に移動扉を見ておく」
「よろしいでしょうか」
リディアもすぐに立ち上がる。
せっかくならとノエルとオリバーも同行し、四人で移動扉の設置された部屋へ向かった。
扉の前へ着くと、リディアが取っ手に手をかけ、少量の魔力を流す。
扉の縁を淡い光が走り、そのままゆっくりと開けば、透明な膜のように揺らぐ空間の向こうへ王宮側の部屋が現れた。
ユーリスは扉の前へ立ち、術式へ意識を向ける。
しばらく無言で魔力の流れを追ったあと、扉の縁、取っ手、床へ刻まれた補助術式を順に確認していく。
普段より少し緊張した面持ちで、その様子を見守っていたリディアが尋ねた。
「どうでしょうか?」
「問題ない」
ユーリスは扉の向こうを見たまま答えた。
「座標のずれもない。魔力流も安定している」
その返答を聞き、リディアの表情がわずかに緩む。
「今朝の数値からも大きな変化はありませんでした」
「ああ。この状態なら、明日一日同じ確認を続ければいい」
ユーリスは最後にもう一度術式を確かめてから、扉を閉じた。
「明日も異常がなければ、その翌日から試験使用へ移って問題ない」
「本当?」
思わずノエルの声が少し明るくなる。
「ああ」
「よかった」
ここ数日、リディアが時間をかけて調整していたものが、ようやく実際の運用へ近づいたことになる。
「ただし、使用記録は必ず残せ。最初のうちは一回ごとに接続前後の状態も確認した方がいい」
「はい」
リディアがすぐに頷き、頭の中で必要な項目を確認するように続けた。
「利用者、目的、接続時刻、接続時間、前後の魔力状態まで記録します」
「それでいい」
ユーリスは満足したように短く頷いた。
後ろから様子を見守っていたオリバーも、嬉しそうに髭を揺らす。
「ようやく本格的に使えるようになるんじゃな」
「まだ試験運用ですけどね」
「十分十分。ロゼまで何時間も馬車に揺られとったことを思えば、大違いじゃ」
「そうですね」
ノエルも笑った。
最北の村が長年抱えていた他の街や王都との距離。それがたった一枚の扉を挟んですぐそこまで縮まろうとしている。
移動扉の確認を終える頃には、外はもうかなり暗くなっていた。
◇ ◇ ◇
「それじゃあ、今日はこれで戻る」
支部の入口で、ユーリスが外套を整える。
「気をつけてね」
「俺が?」
「一応」
ノエルが笑う。
「まだ調査で忙しいと思うけど、落ち着いたらまた話そう」
「ああ」
ユーリスが軽く頷く。
そのまま帰るのかと思ったところで、ふと視線が下へ落ちた。
ノエルの左手。
そこに嵌まっている指輪で止まる。
「……森に行ったのか?」
「うん?」
ノエルもつられて自分の手を見る。
「ああ、これ?」
「嵌めているということは、今日必要だったんだろう」
「うん。アッシュ君たちと白星草を見に行く約束してたから」
ノエルは何でもないことのように答え、そのまま隣に立つリディアへ目を向けた。
「お昼をかけてリディアさんと一緒に行ってきたよ。前の時はアッシュ君を探してたから、ちゃんと見てる暇がなかったけど、今日はしっかり見られたし、綺麗だったよね」
「はい。名の通り、白い星のような花でした」
リディアも頷く。
「あとは、祭壇も興味深かったです」
「そうそう」
思い出したようにノエルが続ける。
「白星草がたくさん咲いてる場所の近くに、石造りの祭壇みたいな場所があってね。古い術式の痕が残ってたから、昔の祭事とかで使ってたんじゃないかなって――」
「……そうか」
途中で返ってきた声に、ノエルが口を止めた。
ユーリスはそれきり、少し黙っている。
ほんのわずかな間で、表情自体はいつもとほとんど変わらない。
けれど、なぜだろう。
いつもの静かな顔が、ほんの少しだけ不満そうに見えた。
リディアも何かを感じ取ったのか、ユーリスの顔を見ている。その隣では、オリバーまで不思議そうに目を瞬かせていた。
「……?」
二人が揃って首を傾げる中、ノエルは何となく察して小さく笑った。
「今度はユーリスも一緒に行こうね」
「……」
ユーリスの視線が、指輪からノエルへ戻る。
「そういうつもりではないが……」
「じゃあ、僕が見てほしいだけ」
ノエルは柔らかく笑う。
「ユーリスにも見せたいし」
そう言われると、ユーリスは返す言葉を探すように一度黙った。
やがてわずかに視線を逸らし、普段より少しだけ歯切れの悪い調子で答える。
「……まあ、そうだな」
「うん」
ノエルは満足そうに頷いた。
先ほどまでどこか不満そうだった空気も、もうほとんど残っていない。
リディアはまだ少し不思議そうな顔をしていたが、オリバーは何かを察したのか、今度は楽しそうに髭を撫で始めている。
「じゃあ、またね」
「ああ」
ユーリスは短く答えると、どことなく居心地が悪そうに外套の襟を直した。
次の瞬間、その姿が淡い光とともに揺らぎ、空間へ溶けるように消えていく。
あとには、きらきらとした魔力の残滓だけがわずかに漂った。
それも完全に消えるまで見送ったところで、玄関先に少しだけ沈黙が落ちる。
「……ヴァレンベルク先輩、何か気にされていましたか?」
リディアが首を傾げた。
「そうかもね」
ノエルは曖昧に笑うだけで、それ以上説明する様子はない。
その横で、オリバーだけが何とも言えない顔で二人を見比べていた。




