1-3
「休みでもいいから、戻ったら飲みに行くぞ」
そう念を押すガレスに礼を言い、必要な引き継ぎを済ませた頃には、随分と時間が経っていた。
そろそろ会議も終わる頃だろう。
ノエルは来た道を引き返し、宮廷魔法局へ戻った。
第三室には、まだ誰も帰ってきていない。
室内の棚からいくつか薬草を取り出し、魔術で湯を沸かす。その間に、手早く薬草の下処理を進めていく。
数ある魔術の中で、ノエルが唯一得意と言っていいのが、この草――正確には、自然魔術に分類される植物系統の魔術だった。
植物そのものを劇的に成長させたり、巨大な蔓を自在に操ったりできるわけではない。
ただ、植物に宿る微細な魔力を読み取ることには、人より少し長けている。
そのため薬草の選定や鑑別、保存、調合といった分野についてはそれなりに詳しく、ノエルの淹れる薬草茶は実家でも職場でも評判がよかった。
『将来はお茶屋さんもいいわねぇ』
とは、母セシリアの言葉である。
当時は笑って聞き流したものだが、こうして人に求められ、喜んでもらえる特技であることを考えれば、存外悪くない選択かもしれない。
そんなことを考えていると、部屋の扉が開いた。
「戻りました」
最初に入ってきたのはリディアだった。
「おかえりなさい」
ノエルが振り返る。
リディアはノエルがお茶の準備をしていることに気づくと、抱えていた書類を自分の机へ置き、棚から人数分のカップを取り出し始めた。
「座っていていいよ。疲れたんじゃない?」
「いえ。私はさほど」
「ふふ、頼もしいね。それじゃあカップだけ並べてもらおうかな。あ、レオニス先輩の分はコレクションの14番をお願い」
ノエルが笑うと、リディアもほんの少しだけ表情を緩めた。
普段は気を張っているためか強張りがちな肩も、今は少しだけ力が抜けているように見える。
リディアから受け取ったカップへ順番に薬草茶を注いでいく。
そのうちの一つを手に取ると、ノエルはリディアの机まで運んだ。
「はい、リディアさんの分」
「ありがとうございます」
「今日は少し疲れてそうだったから、香りが落ち着くものを入れておいたよ」
リディアはカップから立ち昇る湯気に目を向け、小さく息を吸った。
「……いい香りです」
「よかった」
ほどなくして、残りの面々も部屋へ戻ってきた。
「はーい、戻りましたよっと。あー、怠かったわぁ」
気の抜けた声とともに、ラザが入ってくる。
その後ろからは、
「空間魔術の術式利用について具体的に説明しろと言うが、そもそも魔術の基礎すら理解していない連中に具体的な説明をしたところで意味がわかると思っているのか? 予算配分にしてもそうだ。国防のためと言うのなら、まず資金を投じるべきは技術だろう。それを軽視して安易な人員増強など、嘆かわしいにも程がある。そもそも――」
何やらぶつぶつと呟き続けるレオニス。
目が据わっている。
飄々とした様子で自分の席へ向かう所長とは対照的に、こちらはよほど会議で鬱憤が溜まったらしい。
そして最後に、
「戻った」
ユーリスが部屋へ入り、静かに扉を閉めた。
その視線がノエルへ向く。
「うん、お疲れさま。予算会はどうだった?」
「概ね問題ない。ただ、空間魔術の術式利用については一部から懸念が上がった」
「空間魔術の術式利用っていうと、ユーリスが作った移動扉のこと?」
「ああ」
「ふざけているのだよ!」
突然、レオニスの声が響いた。
「あれほど画期的で、あらゆる点において利用価値が高く、何より美しい術式で構築された魔道具の実用を見送るなどと……!」
「まあ、しゃあねぇわな」
椅子に深く腰掛けたラザが、面倒そうに口を挟む。
「扉をくぐるだけで遠く離れた目的地に着きます、なんて、並の魔術師ですら意味わからん話だろ」
「その意味のわからないことを実現させた画期的な術式だと言っているんだ! この私が、口を挟む余地もないほどに! 完璧な術式なのだよ! それをあのド素人共が――」
「はいはい。レオニス先輩、お茶どうぞ」
今にも予算会へ戻ってもう一戦始めそうなレオニスを宥めながら、ノエルは彼の愛用するティーカップを机へ置いた。
十四番。
白磁に小さな花々が描かれた、美しいカップだ。
「……う、ぐぐ」
レオニスはまだ不満そうだったが、薬草茶の香りに気づくと大人しくカップを手に取った。
所長の分はリディアが運んでくれたらしい。
それを確認してから、ノエルはユーリスの机にもカップを置く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
自分の分も用意してから、ノエルは話を戻した。
「それじゃあ、移動扉の使用制限はまだしばらく続くんだ」
「だろうな」
「使ったことがないと、やっぱりちょっと怖いもんね」
「怖い?」
ユーリスが聞き返した。
少し離れたところでカップに口をつけようとしていたリディアも、その言葉に動きを止める。
「……何が怖いんですか?」
「ん?」
「移動扉です。安全性については、すでに十分な検証が行われていますよね?」
「うん」
「では、何を恐れる必要が?」
純粋に疑問なのだろう。
リディアの表情は真剣で、隣を見ればユーリスも同じような顔をしている。
「そうだなぁ」
ノエルはカップを持ったまま、少し考えた。
「所長も言ったけど、並の魔術師ですら理解できない術式でしょう?」
「ああ」
「はい」
「だったら、魔術師じゃない人からすれば奇跡みたいなものだから。理論としては『扉をくぐるだけ』なんだけど……やっぱり、怖いと思うよ」
ユーリスはわずかに眉を寄せた。
リディアも腑に落ちないらしく、考え込むようにカップへ視線を落としている。
「たとえばさ。絶対に安全だからって言われて、底の見えない真っ暗な穴に飛び込めって言われたら、二人はどうする?」
「安全なのか?」
「安全だよ」
「なら飛び込む」
ユーリスは即答した。
ノエルはリディアを見る。
「私も、安全性が保証されているのであれば問題ないかと」
「うん。二人はそうだよね」
「?」
「……?」
二人揃って、わからないという顔をする。
すると、横からラザが口を挟んだ。
「ノエル、お前その例えじゃ、こいつらには一生伝わらねぇぞ」
「そうですかね」
「安全だって理解してんのに怖がる理由が、そもそもわかってねぇんだから」
「安全と理解しているのに、怖い?」
案の定、ユーリスが聞き返す。
「ほらな」
ラザは薬草茶を一口啜った。
「魔術師じゃねぇ奴にしてみりゃ、移動扉なんざ『入ったら何が起きるかわからん箱』と大差ねぇよ。術式を見せられたって読めねぇ。安全性を説明されても、自分じゃ確かめようがねぇ。怖がって当然だろ」
「ですが、安全性は実証されています」
リディアが言う。
「使用者が原理を理解していなくとも、結果は変わらないのでは?」
「うん。結果は変わらないよ」
「では……」
「でも、リディアさん。安全であることと、安心できることは別なんだよ」
「……別?」
「別だねぇ」
ノエルが答えると、ラザも同意するように頷いた。
リディアはしばらく黙り込み、考える。
「つまり……安全性そのものを疑っているわけではなく、安全であると自分で判断できないことに恐怖を覚える、ということですか?」
「そうそう。そんな感じ」
「しかし、専門家による検証結果があるのなら、それを判断材料にすればよいのでは?」
「もちろん、それで安心できる人もいるよ。でも、全員がそうじゃないからね」
「……難しいですね」
リディアは真剣な顔で呟いた。
どうやら、まだ感覚として納得できたわけではないらしい。
それでも理解しようとはしている。
そんなリディアを見ながら、ノエルは薬草茶を一口飲んだ。
そのあたりは、魔術師の家に生まれれば幼い頃から教えられることだった。
魔術師に見えているものが、他の人間にも見えているとは限らない。
魔術師にとっての常識が、世間の常識だと思ってはいけない。
魔術を生業として生きていく以上、覚えておかなければならないことのひとつである。
だから、代々魔術師を輩出してきた家の生まれであるラザも知っている。
一方で、ユーリスやリディア、レオニスは貴族家の出身だ。
彼らが幼い頃から身につけてきたのは、貴族として必要な礼法や歴史、社交、領地や家に関わる知識が中心である。
もちろん魔術を学び始めてから必要な知識は身につけているだろうが、幼い頃から当然のものとして叩き込まれてきた人間とは、どうしても認識の前提に少し違いが出る。
もっとも、知識として知っているラザにしても、おそらく移動扉そのものを恐ろしいと思うことはないだろう。
その点、ノエルは少し違った。
ユーリスの作った術式など、見せてもらっても半分どころか三割理解できればいい方だ。
周囲が当然のように理解しているものを、自分だけ理解できない。
安全だと説明されても、なぜ安全なのかまではわからない。
そんな経験なら、宮廷魔法局に入ってから嫌というほどしてきた。
だからノエルには、知識としてだけではなく、感覚としても少しわかる。
わからないものに自分の身体を預けるというのは、案外怖いものなのだ。
「では」
不意にリディアが口を開いた。
「移動扉を普及させるには、安全性の検証だけでは不十分ということですか?」
「そうだね。使う人が安心できるようにする必要はあると思う」
「具体的には?」
「うーん……」
ノエルは少し考える。
「まずは、何が起きるのかわかるように説明することかな。難しい術式の話じゃなくて、もっと簡単に。それと、最初は魔術師が一緒に使ってみせるとか。実際に使った人の話を聞けるようにするとか」
「なるほど」
リディアは頷くと、何やら考え込んだ。
「それならば、実証試験の手順を変更すれば――」
「待ちたまえ」
それまで黙っていたレオニスが顔を上げた。
「つまり何かね。術式そのものにも、安全性にも問題はなく、実用化に際して不足しているのは使用者側への心理的配慮であると?」
「まあ、簡単に言えば」
「…………」
レオニスはしばらく黙った。
そして、十四番のカップを静かに机へ置く。
「ならば最初からそう言いたまえよ、あの無能共は……!」
「レオニス先輩、落ち着いて」
「『よくわからないから怖い』で済む話を、なぜ延々と安全性の再検証などという話にするのだ! 論点が違うではないか!」
「まあ、会議ってそういうもんじゃねぇの」
ラザが気怠そうに言う。
「そういうもので済ませるな! いや、そもそも所長はそこまで理解しているなら、何故あの場でもっと積極的に発言しないのだね!」
「どのみち今回の会議じゃ却下される風向きだったからなぁ。時短だよ、時短」
再び始まったレオニスの憤慨を聞きながら、ノエルは自分のカップへ口をつけた。
どうやら今日の薬草茶は、少し濃いめに淹れて正解だったらしい。




