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掃除をあらかた終えると、ノエルは部屋を出た。
王宮の長い廊下を端に寄って歩いていると、同じ宮廷魔術師の制服と何度もすれ違う。
誰もノエルに一瞥すらくれない。
いつものことなので、特に気にすることもなく、ノエルはすれ違うたびに軽く会釈をした。
時折、背後から声が聞こえてくることもある。
「あれがアルヴェインの――」
その先は聞かないことにしている。
大抵、あまり品の良い内容ではない。
とはいえ、腹が立つとか、悲しいとか、そういうこともなかった。
言われていることの大半は、事実だからだ。
名門アルヴェイン家の生まれであること。
その血筋に反して、魔術の才能はごく平凡であること。
そして、宮廷魔術師を名乗るには実力不足であること。
血の滲むような努力で今の地位を勝ち取ってきた魔術師たちからすれば、そんな男が同じ宮廷魔術師を名乗っているのだ。反感を持つのも無理はないと、ノエルは理解していた。
そもそもノエルが宮廷魔術師になれたのは、間違いなくアルヴェイン家の名があったからだ。
そうでなければ、地方付きの魔術師か、魔術アカデミーの講師あたりが関の山だっただろう。
誤解があるとすれば、ノエル自身がその家名を積極的に利用したわけではない、ということくらいだ。
アカデミーではごく平凡な成績を収めた。
名前以外で特に目立つこともなかったが、それなりに真面目に勉学に励み、卒業試験も無事に通過した。
さて、卒業したらどうしようか。
そう考えて、いくつか身の丈に合った就職先を選んでいた矢先のことだった。
「ノエル。卒業したら宮廷に行きなさい」
祖父――『アルヴェインの至宝』とまで称される大魔術師、オズワルド・アルヴェインは、久しぶりに顔を合わせるや否や、満面の笑みでそう言った。
どうやら、可愛い孫のために就職先を用意してきたらしい。
ノエルは最初、何かの冗談だろうかと思った。
しかし、すぐに思い直した。
祖父は、誰の目から見てもわかるほどの爺バカなのだ。
普段は父から余計なことをしないようきつく言い含められているのだが、アカデミー卒業という孫の晴れ舞台を前に、とうとう我慢ができなくなったらしい。
当然、父は怒った。
なにせ祖父のこうした「喜ぶに違いない」という少々ずれた好意と思い込みによって、幼少期から苦労してきたのが父自身だからだ。
「私は幸い、魔術の才に恵まれました。父上には感謝もしておりますし、尊敬もしております。あなたが私を息子として誰より愛してくださったことも理解しています」
そこまで言って、父は正座する祖父を真っ直ぐ見据えた。
「ですが、もし私に才がなければ、私はあなたの善意による重圧と周囲の目に耐えきれず、生きていなかったかもしれません。私は息子に、同じ思いをさせるつもりはありません」
王国屈指の大魔術師が実の息子に正座させられ、懇々と説教を受ける。
他人にはとても見せられない光景が、その日のアルヴェイン家では繰り広げられた。
散々叱られた『アルヴェインの至宝』はしょんぼりしたものの、すでに話を通してしまった以上、今さら撤回するのも顔が立たない。
どうしたものかと家族で頭を悩ませた末、
「せっかくだもの。やってみたらいいじゃない」
母エレノアの、おおらかな一言ですべてが決まった。
そうしてノエルは、いわゆるコネで宮廷魔法局へ入った。
そこで誰も知らなかった才能が花開き、一躍若き天才魔術師として名を馳せる――
などということもなく。
ノエルは三年経った今も、変わらず凡庸だった。
頭は悪くない。
魔術もそれなりに使える。
しかし、アカデミーを首席で卒業するような人材が当たり前のように集まる宮廷魔法局では、それだけでは足りない。
落ちこぼれ。
そう評されても、反論できない程度の魔術師だった。
それでもこの三年間、ノエルが大きな問題を起こすことなく宮廷魔法局に居続けられたのは、アルヴェインの家名だけが理由ではない。
当然、ノエルに対して敵意や悪意を持って近づいてくる魔術師も少なくなかった。
ところが、そんな相手に限って、ノエルとしばらく話したあとには、どこかばつが悪そうに立ち去っていく。
理由は単純だった。
ノエルは、魔術師としては珍しいほど素直で、ごく普通の感性を持った男なのだ。
穏やかで、人の話をよく聞く。
自分を大きく見せようともしなければ、他人の功績を妬むこともない。
そして何より、母譲りのおおらかさが性根にある。
気難しく、プライドが高く、常に互いを競争相手として意識する者の多い魔術師という世界にあって、ノエルは異彩と言っていいほど穏やかで、品のいい青年だった。
そんなノエルに嫌味を言ったところで、相手の溜飲が下がるような反応は返ってこない。
怒りもしなければ、悔しがりもしない。
かといって卑屈になるわけでもなく、「そうですねぇ」と困ったように笑うだけだ。
そうして三年も経つ頃には、第三室の面々を除く魔術師たちから、ノエルはすっかり『無害な存在』として認識されるようになっていた。
今では、基本的に空気のような扱いである。
もっとも、ノエルとしてはその方が気楽だった。
ユーリスと一緒に歩いていると、今度はあちらこちらから呼び止められて、なかなか先へ進めない。
優秀すぎるというのも、大変なものだ。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、やがてすれ違う人々の装いが変わり始めた。
魔法局の制服が減り、代わりに王族や貴族付きの侍女、侍従の姿が増えていく。
そこからさらに西へ進めば、騎士団の区画だ。
ちょうどその頃だった。
「ノエル」
聞き馴染みのある声に呼ばれ、ノエルは足を止めた。
声のした方を見る。
そこには、ちょうどこれから会いに行こうと思っていた人物が立っていた。
「ガレスさん。ちょうどよかった。今、騎士団に伺おうと思っていたんです」
「ん? そうか。なら、すれ違いにならなくてよかったわ。俺も来週の王宮警備経路の件、最終確認しておきたくてな」
にっ、と男が明るく笑う。
宮廷騎士の中でも花形とされる第一騎士団の制服に身を包んだ、長身の男。
腰には当然のように剣がある。
名はガレス・ブランデル。
黙って立っていれば、鋭い目つきも相まって荒くれ者じみた圧がある。
だが、一度口を開けば印象は変わる。
気さくで面倒見がよく、困っている者を見れば放っておけない。
兄貴肌という言葉がよく似合う、明るく頼れる男だと、王宮に来て間もない頃から付き合いのあるノエルは知っていた。
「ああ、その件もなんですが」
「ん?」
「実はこのたび、異動になりまして」
ノエルがそう告げると、ガレスは一拍の間も置かず、
「はぁ!?」
と、廊下中に響きそうな声を上げた。
「ですので、今後の業務窓口はユーリス……もしくは、リディアさんになると思います。来週の王宮警備経路については僕の方でもあらかた目を通しておきましたが、当日の状況次第では――」
「待て待て待て。本気で言ってんのか? ノエルが異動? いつからだよ」
「明日ですね」
「明日ぁ!?」
先ほどよりさらに大きな声だった。
近くを歩いていた侍女がびくりと肩を揺らし、何事かとこちらを見る。
ノエルは申し訳なさそうに会釈した。
「おまっ……なんでそんな急なんだよ。嫌がらせか? 魔法局の奴らがなんか言ってきてんのか? つか、異動先どこだよ」
「いえ。ザーレン支部の支部長がもともとご高齢で、引退されることになりまして。正式な後任が決まるまでの繋ぎですね」
「ザーレン……よりによって最北部かよぉ」
大きな身体をがっくりと項垂れさせ、ガレスは頭が痛いとばかりに額を押さえた。
しばらくそうしてから、不意に顔を上げる。
「……いや待て。つーことはお前、支部長になんの?」
それはつまり昇進ということか、とでも思ったのだろう。
複雑そうだったガレスの顔に、一瞬だけ喜色が浮かんだ。
「一応は」
「一応ってなんだよ」
「ザーレン支部、支部長しかいませんから」
「…………」
「僕一人ですね」
「それ支部って言うのか?」
「僕に言われましても」
ガレスは何とも言えない顔をした。
先ほど一瞬浮かんだ喜色が消えている。
――それ、つまり左遷じゃねぇか。
口には出さなかったものの、顔にはそう書いてあった。
もっとも、ザーレンのような小さな土地では、こうした体制も珍しいことではない。
地方支部とは名ばかりで、所属する魔術師が一人だけという土地はいくつか存在する。
その一人が支部長であり、同時に現場担当でもある。
ザーレンも、そのひとつだった。
「まあ、正式な後任が決まるまでですから」
「その正式な後任が決まらねぇから、お前が飛ばされんだろうが」
「うーん。それを言われると何とも言い難いのですが……まあ、それはそれで構わないかな、と」
「お前、そういうとこだぞ……」
「?」
「もういい」
疲れたように手を振ったあと、ガレスは深々と息を吐いた。
「つーか、お前がいなくなったらどうすんだよ。俺、お前以外の魔術師連中と会話になる気がしねぇぞ」
「またそんなこと言って。大丈夫ですよ。全員、僕よりずっと優秀ですから」
「優秀かどうかと、会話が成立するかは別問題だって話だよ。ヴァレンベルクなんて意思疎通できねぇ奴の筆頭だろ」
「ユーリス、そんなに気難しい人だと思われてるんですね」
ノエルには、いまいち実感がない。
確かに一見すると取っ付きにくいかもしれないが、慣れれば機嫌も案外わかりやすい。
それに、優しい人だと思う。
ただ、少し言葉が足りないところは確かにあるかもしれない。
本当にその道の才がある頭のいい人というのは、往々にしてそういうところがある。
ノエルは祖父で学んでいた。
「それなら、相談はリディアさんの方がいいかもしれません」
「エルンスト嬢もなぁ。あの融通の利かなさは交渉向きじゃねぇだろ」
「真面目でいい子ですよ」
「そういう話じゃねぇ」
「しかし、そうなるとレオニス先輩か所長になりますが……」
「やめろやめろ。考えたくねぇ」
ガレスは即座に手を振った。
「あんなん、もはや別の生き物だろ。会話になんねぇよ。話してたら俺は手が出る自信がある」
「失礼ですよ」
「元々、騎士団と魔法局なんてそんなもんだろ。どっちが悪いってことじゃなく、考え方も気質も違いすぎて会話になんねぇ」
騎士としての矜持を魔術師は非合理と切り捨て、魔術師の理想を騎士は寝言と吐き捨てる。
そんな対立を千年も繰り広げ、時に殴り合いながら、それでも共に国を守ってきた。
もはやそういうものだと割り切る方が正しいのかもしれない。
「でも、こうして会話ができることもあるでしょう?」
「そりゃあお前は、怪我人の搬送経路の話してる時に『術式の妨げになるから遠回りさせろ』とか言わねぇからな」
「まあ、それは……」
「他の魔術師で言わなそうな奴いるか? いたらそいつを窓口にしてくれ」
「んー……暫定的には、リディアさんで」
「ほらぁ」
ガレスは深々と息を吐いた。
「あぁー……ノエル、お前早く帰ってこいよぉ」
「そんな大袈裟な。正式な後任が決まるまでですよ」
「だから、その正式な後任が決まらねぇから――」
再び廊下に、ガレスの声が響き渡った。
不謹慎かもしれないが、こうして惜しまれるのも少し嬉しいものだ。
ノエルはわずかに緩んだ口元をそのままに、ガレスの大声に驚いた通りすがりの侍従へ、また申し訳なさそうに会釈をした。




