1-1 はじまり
エルディア王国。
大陸北西部に位置するこの国は、三つの力によって支えられている。
国政を担い、領地と民を治める貴族。
魔術を研究し、その発展によって国を支える魔術師。
そして剣を取り、国土と王家を守る騎士。
その三者を束ねるのが、建国以来千年にわたって王国を治めてきたエルディア王家だった。
大陸の中でも寒冷な地域に位置するエルディア王国は、季節による気候差が激しく、魔獣の出没も少なくない。
お世辞にも、肥沃で恵まれた土地とは言い難かった。
しかし、だからこそ。
エルディア王家を筆頭に、歴代の貴族、魔術師、騎士たちは、長い歴史の中で国を守るため、それぞれに研鑽を重ねてきた。
そうしていつしか、他国には容易に真似のできない魔術技術と安定した統治、そして侵略を退ける強大な武力を確立したエルディア王国は、周辺諸国から《要塞国家》と呼ばれるようになった。
今では近隣諸国のみならず、遠く南方の国々からも一目置かれる大国のひとつである。
そんなエルディア王国には、千年の歴史に相応しい数多くの伝承が残されている。
なかでも最も有名なのが、『星の聖女』の御伽話だった。
――百年に一度、夜空に凶星が現れる。
――凶星は国に災いをもたらし、それを打ち払うため、星の彼方より一人の乙女が降り立つ。
子どもでも知っている、昔話の一節だ。
歌うように、あるいは子守歌のように語り継がれてきたその伝承は、いつしか国を救う『星の聖女』への信仰へと姿を変え、今では国中で広く親しまれている。
そして今年は、その百年目にあたる。
三か月後には、王都を挙げて聖女の訪れを願う《星降祭》が催される予定だった。
祭りを控えた王都では、すでに街路の至るところに飾りが増え始めている。
商人たちは百年に一度の商機を逃すまいと声を張り、人々もまた、まだ見ぬ祭りの日を心待ちにしていた。
そんな王都の中心。
白亜の王宮、その一角に、国を支える魔術師たちが集う宮廷魔法局は置かれている。
さらにその奥。
宮廷魔法局本部第三室。
術式開発、魔道具研究、魔術犯罪の鑑識、そして王宮内で発生した魔術案件の調査を主な職務とする部署である。
国でも指折りの魔術師たちが集められたその部屋で、片隅に置かれた机の上へ、一枚の紙が差し出された。
「ノエル」
呼ばれて、男は顔を上げた。
丸みを帯びた眼鏡の奥から、机の向こうに立つ青年を見る。
そこにいたのは、さらりと流れる印象的な銀髪を後ろで束ねた、隙のない美貌の男だった。
噂では、その姿をひと目見ただけで倒れてしまう貴族の子女までいるのだとか。
さすがに大袈裟だろう、と笑い飛ばせない程度には、目の前の青年は浮世離れした容姿をしていた。
そんな彼こそが、同期にして自分より遥か上の実績を持つ宮廷魔術師――ユーリス・ヴァレンベルクだった。
「これを」
「ん?」
ノエルは差し出された紙を受け取った。
辞令。
そう書かれている。
嫌な予感がする、というほどでもない。
ただ、突然辞令を渡されて喜ぶ人間も、そう多くはないだろう。
紙面に視線を落とす。
そこには、簡潔な文面が並んでいた。
――ノエル・アルヴェイン。
――宮廷魔法局北部ザーレン支部への異動を命ず。
「……ザーレン?」
「明日からだ」
「明日?」
「ああ」
ノエルはもう一度、辞令を見た。
それから、ユーリスを見る。
「急だねぇ」
「ああ」
「遠いよね?」
「遠い」
「どれくらい?」
「馬車なら三日ほどかかると聞く」
「さすが最北の地。結構かかるね」
それだけ言って、ノエルは困ったように笑った。
室内にいた魔術師たちの視線が、一瞬だけ静かに彼へ集まり、すぐに逸らされる。
悲しいかな、そこに同情の色はない。
名門アルヴェイン家の子息。
偉大な魔術師を祖父に持ちながら、宮廷魔法局本部第三室では、これといった実績を残せなかった男。
そして、王宮から遠く離れた北部への異動。
事情を知らない者がこの光景を見れば、こう思ったかもしれない。
――とうとう、落ちこぼれが王宮から追い出されたのだ、と。
だが。
「ザーレンかあ」
ノエルは辞令を眺めながら、のんびりと呟いた。
「星が綺麗なところだっけ」
部屋の奥で、煙草を咥えていた男がぴくりと反応した。
「……いいな」
「所長?」
「俺も行きたぁい」
「エルヴェスター所長、予算会まであと十二分です」
書類の束から顔も上げずに告げたのは、黒髪を短く整えた小柄な女性だった。
宮廷魔法局本部第三室所属、リディア・エルンスト。
若いながらも優秀な魔術師であり、第三室の中でもとりわけ几帳面な人間である。
「世迷言を言っている暇があるなら、手と頭を動かしたまえよ。そもそも魔術転送回路修復予算案の目通しは終わったのかね? 本議ではこれが一番の山場だ。瑣末なことに構っている暇はないのだよ」
今度は別の席から、金髪の男が額を押さえながら口を挟んだ。
所長補佐、レオニス・ローゼンフェルト。
顎先で切りそろえられた髪から靴先、果ては眼鏡に至るまで一分の乱れもなく、一見すれば神経質そうな貴族然とした男である。
もっとも、今はその端正な顔に、隠しようのない疲労と苛立ちが浮かんでいた。
次々と飛んでくる声を聞いているのかいないのか。
煙草の煙を細く吐きながら、無精髭を蓄えた男――第三室所長、ラザ・エルヴェスターは、現実逃避でもするように遠い目をした。
「なぁノエル、お前、所長やらね?」
「やりませんよ」
「んで俺がザーレン行く。いや、名案だな。ユーリス、その辞令やっぱなし」
「無理だ」
「即答かよ」
「僕に所長は務まりませんし」
ここ数日の忙しさで、相当疲労が溜まっているのだろう。
そんな上司の世迷言を聞き流しながら、ノエルは辞令の所定欄へさらさらと署名した。
「ザーレンの支部長が引退するって話、本当だったんだね」
「本来は別の支部から人を回す手筈だったが、話がまとまらなかったらしい」
「そう」
話がまとまらなかった。
というより、誰も行きたがらなかったのだろう。
ザーレンは、エルディア王国が治める領地の中で、最も北に位置する小さな土地だ。
寒さは厳しく、辺境らしく獣害も珍しくない。
しかし国境にも近いため、魔術師を置かずに放置するわけにもいかない。
とはいえ、本来なら王宮勤務の魔術師をわざわざ回すような場所でもなかった。
王宮に勤める魔術師は、国家の研究と治安を担う精鋭だ。
高度な術式を研究し、新たな魔道具を生み出し、王宮内外で起きる魔術事件に対処する。
そんな人材を、地方支部の御用聞きに一人割く。
普通なら、あまりに損失が大きい。
普通なら、の話だが。
「じゃあ、明日から行ってきます。引き継ぎは……」
「お前の管轄は問題ない」
「うん、そこは心配してないよ。騎士団の方にだけ声をかけておく」
「必要か?」
嫌味でも、責めるでもなく、ただ当たり前のように必要性を問うユーリスの目は、言外に「なぜ?」と告げていた。
それを見ると、やはり騎士団への引き継ぎはしておいた方が良さそうだとノエルは思う。
もっとも、今ここでその必要性を説明している時間もない。
「多分ね。あとは……ああ、薬草茶の補充だけしておこうか」
「よせよせ。お前以外が淹れたら、苦い草のお湯にしかならねぇんだから、結局飲まねぇよ。それよりノエル、ザーレンの飯はなかなか美味いらしくてな。酒も――」
「エルヴェスター所長、あと八分です」
「えぇい! 無駄話は後だ! リディア君、資料の用意はいいね! ユーリス君、術式展開図のサンプルは……ああ、これか。失敬。所長はいい加減、資料の読み込みを済ませていただきたいのだが……」
「終わってる終わってる」
「チッ、これだから天才というヤツは腹立たしい。まあ、それなら問題なかろう……あとは……ノエル君」
「はい」
「君は会議に出てもあまり意味がないから、部屋の片付けと必要な範囲の引き継ぎに尽力してくれたまえ。あと、戻ったら薬草茶を」
「疲れている日は、ローシュ草とモルの根が良さそうですね」
「ああ、素晴らしい。濃いめで頼むよ。私のカップは十四番でね。よし、では準備はいいな? 所長、髭はこの際目を瞑りますが、服くらいはまともに着ていただきたい」
そう言いながらレオニスは立ち上がり、それに続いてリディアと所長も会議へ向かう。
「いってらっしゃい」
「ああ」
最後に部屋を出るユーリスと視線が合った。
ノエルがひらりと手を上げると、ユーリスはそのまま部屋を出ていく。
「さて」
急に静かになった室内を見渡して、ノエルは小さく呟いた。
「まずは掃除から始めようかな」




