4-9
見回りを終えて支部へ戻った頃には、外はすっかり薄暗くなっていた。
「おかえり。どうじゃった?」
執務室へ入るなり、オリバーが机から顔を上げる。
「特に大きな問題はありませんでした。北側の結界も見てきましたけど、術式そのものは安定してます。昨日光ったって話があったところも、一応確認しておきました」
「そうかそうか」
オリバーは満足そうに頷いた。
ノエルは外套を脱いで椅子の背にかけると、見回りの途中で書き留めた紙を机の上へ置いた。
「それと、明日のことなんですけど」
「ん?」
「アッシュ君たちと、白星草を見に行く約束をしてまして」
「ほう」
オリバーの目が少し楽しそうに細くなる。
「そういえば、前にそんな話をしとったの」
「はい。リディアさんも、仕事に支障がなければ一緒に行くことになってます」
名前を出され、隣で荷物を整えていたリディアも頷いた。
「この時期に植物がどのような状態で自生しているのか、私も少し興味があります」
「それなら、行ってくるとええ」
オリバーはあっさり言った。
「……よろしいのでしょうか。興味があるのは事実ですが、勤務時間中に私用で離れるというのは――」
「堅いのぉ」
リディアが言い切るより先に、オリバーが笑った。
「村人との信頼関係も大事な業務じゃて。とはいえ、気になるなら午前は支部内の仕事を片付けるとしよう。エルンスト嬢も、移動扉の様子は見ておきたいじゃろ?」
「はい。明朝にもう一度、魔力の流れと座標固定を確認する予定です」
「なら、それを済ませてからじゃな」
オリバーは机の上の予定表を引き寄せ、指先で明日の欄をなぞった。
「急ぎで処理せにゃならん書類はそう多くない。ノエル君は午前のうちに届いとる相談の返事をまとめて、わしが残りを見る。エルンスト嬢は移動扉の確認が終われば、昼前には出られるじゃろ」
リディアは少し考えてから、やがて頷く。
「……では、午前中の業務に支障が出ないよう進めます」
「そうしなさい」
「僕もできるだけ早めに片づけますね」
「頼んだぞ」
明日の予定が決まる。
そのあとは見回りの記録を簡単に整理し、夕食を済ませたところで、その日は早めに休むことになった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
支部の一日は、いつも通り早く始まった。
リディアは朝食を終えるとすぐ、昨日術式を定着させた移動扉の前へ向かった。
取っ手に触れ、ごく少量の魔力を流す。
扉の縁を淡い光が走り、内部に刻まれた術式へ吸い込まれていく。
しばらく目を閉じて魔力の流れを確認したあと、リディアは扉を開いた。
薄く透明な膜のように空間が揺らぎ、その向こうに宮廷魔法局の一室が見える。
「問題ありません」
傍らで記録用紙を持っていたノエルが、その言葉を書き留めた。
「昨日から変化なし?」
「はい。魔力流、座標固定、接続時の揺らぎ、いずれも許容範囲内です」
「よかった」
「ただし、まだ二日目ですから。今後も継続して確認する必要があります」
「そこは大事だね。じゃあ、あっちで書類を片付けてるから、また手伝いが必要になったら呼んで」
「はい、ありがとうございます」
記録用紙を受け取り、ノエルがその場を離れていくのを見届けてから扉を閉じる。魔力を切ってもう一度開けば、向こう側はまた普通の物置へ戻る。
リディアは続けて数度起動を繰り返し、細かな数値を確認してからようやく記録をまとめた。
その間、ノエルとオリバーは通常の支部業務を進めていた。
前日に持ち帰った住民からの相談を書類へ起こし、春以降に修繕が必要な場所を記録へ追記する。
昨夜確認した北側の結界についても簡単な点検報告を作成した。
「ノエル君、こっちの返答はもうできとるか?」
「はい。あとはオリバーさんに確認してもらえれば」
「どれどれ」
机を挟んで書類を渡す。
その横では、移動扉の確認を終えたリディアが別の書類を整理していた。
三人で手を動かしているうちに、朝から積まれていた紙は少しずつ減っていく。
ひと通り片づいた頃には、窓から差す光もだいぶ高くなっていた。
「よし」
オリバーが最後の一枚へ署名し、ペンを置く。
「こんなもんじゃろ」
ノエルも時計へ目を向けた。
「そろそろ行っても大丈夫そうですね」
「そうじゃな。今日は晴れてるようじゃが、冬場の天気は変わりやすい。暗くなる前には戻ってくるようにの」
「もちろんです」
「あとは、森の奥へ入りすぎんようにな」
その言葉に、ノエルは少しだけ表情を改めた。
「はい」
前に森へ入った時のことを思えば、その注意は軽く聞き流せるものではない。
今日は子どもたちも一緒だ。
念を入れるに越したことはなかった。
昼食用に用意したパンと燻製肉、それから果物を包み、温かい茶を水筒へ入れる。
準備を整えて外へ出ると、支部の前ではすでにアッシュたちが待っていた。
「あ! ノエル兄ちゃんきた!」
「ごめんね、待たせちゃった」
「ちゃんと仕事終わった?」
「ふふ、終わったよ」
ノエルが答えると、子どもたちが一斉に顔を輝かせた。
「じゃあ行こう!」
「その前に」
駆け出しかけたアッシュを、ノエルが呼び止める。
「森に入る前に、ちょっとだけ約束」
「えー」
「大事なことだから」
ノエルは子どもたちを見回した。
「今日はみんな一緒に歩くこと。勝手に先へ行かないこと。それから、大きな魔獣を見つけても絶対に近づかない」
「ん」
アッシュが神妙な面持ちになる。実際に危険を目の当たりにした経験があるからこそ、それがいかに大事なことか分かっていた。
「アッシュ君、みんなのお手本になれる?」
「わかってる。森はだいじな場所だけど、あぶないときもあるから……お前ら、かってに走りまわったらぜってーダメだからな!」
アッシュが自分より年下の子どもたちに言い聞かせると、皆一様に頷いてみせた。
「頼もしいね。今日は人数も多いから、もう一個だけ皆で約束をしようか」
ノエルは森へ続く道を指した。
「何かあったら、まず来た道を戻る。僕かリディアさんが『走って』って言ったら、振り返らないで村まで戻ること」
「……ノエル兄ちゃんたちは?」
「僕たちは後から行くよ」
アッシュが少しだけ眉を寄せたところで、リディアが口を開いた。
「森の中では声が届かなくなるほど離れないでください。一人でも姿が見えなくなった場合、その場で全員止まります」
子どもたちの視線が集まる。
「何か見つけても、勝手に別の方向へ行かないこと。いいですね?」
「はーい」
今度は素直な返事が返ってきた。
ノエルは一人ずつ顔を見てから頷いた。
「よし、じゃあ行こうか」
「おー!」
今度こそ、子どもたちは元気よく歩き出した。
◇ ◇ ◇
森へ入る。
前に足を踏み入れた時とは違い、今日は空がよく晴れていた。
高い枝の隙間から柔らかな陽が差し込み、雪の上に細かな光の模様を作っている。
時折、枝から落ちた雪がさらさらと音を立てる以外は、静かなものだった。
「こっちだよ!」
アッシュがノエルの少し前を歩きながら振り返る。
「ほら、前見ないと転んじゃうよ」
「ころばない! 雪なんて慣れっこだし!」
「確かに足取りが軽いなあ……あれ、リディアさんもなんだか歩き慣れてる?」
「北方育ちですから」
「なら、この中だと僕が一番転びそうかも」
わずかに得意げな表情をしたリディアに、ノエルは笑いながら慎重に歩みを進める。
左手には、ユーリスから渡された指輪が嵌まっていた。
前に森へ入った時、この指輪に込められた魔力を嫌って、周囲の魔獣はほとんど近づいてこなかった。
もっとも、その結果として森の奥にいた主と相対することになったのだから、これがあるから絶対に安全だとは思えない。
ノエルは時折周囲へ視線を配った。
リディアも同じらしく、子どもたちと話しながらも、森の奥へ注意を向けている。
幸い、今日は何の気配もなかった。
小さな獣の足跡が雪の上に残っている程度で、魔獣らしいものは見当たらない。
「あとちょっと!」
先頭の子が声を上げる。
しばらく木々の間を歩いていくと、やがて少し開けた場所へ出た。
「着いた!」
子どもたちが一斉に駆けていく。
その先を見て、ノエルも足を止めた。
「へえ……」
雪の間から、小さな白い花がいくつも顔を出している。
細い茎の先に、星のような形をした白い花弁。
雪とほとんど同じ色なのに、陽を受けると輪郭だけが淡く浮かび上がって見えた。
「これが白星草か」
「そう!」
アッシュが得意げに胸を張る。
「ここが一番いっぱい咲いてるんだ」
「確かに、前に見た時よりずっと多いね」
ノエルは花を踏まないように気をつけながら近づいた。
リディアもその隣でしゃがみ込む。
「冬に咲く花はいくつかありますが、この種類は初めて見ました」
「リディアさんの地元には、冬に育つ別の植物があった?」
「花ではありませんが、ムーラン草という薬草は自生していました」
「ああ、神経痛に効くやつ」
リディアは小さく頷きつつ、花そのものには触れず、茎や葉の状態を観察している。
「雪の下でも葉が傷んでいませんね。寒さにはかなり強いようです」
「こんなに小さいのにね」
「小さいことと弱いことは別ですから」
真面目な返答に、ノエルは少し笑った。
「それもそうだ」
「これ、持って帰れるよ!」
近くにいた子どもが言う。
「でもいっぱい取っちゃだめなんだぞ」
別の子がすぐに注意する。
「来年なくなるって父ちゃんが言ってた」
「それは大事だね」
ノエルも頷いた。
「今日は見るだけにしようか」
「はーい」
子どもたちは花の間を歩き回りながら、どこに一番大きなものが咲いているだとか、去年はもっと向こうにもあっただとか、思い思いに話している。
しばらく観察したあと、少し離れた倒木のそばで昼食を取ることにした。
雪を払い、簡単に座る場所を作る。
「お腹すいた!」
「まだ昼前じゃない?」
「歩いたから!」
「それなら仕方ないね」
包みを開けば、子どもたちは待ってましたとばかりにパンへ手を伸ばした。
温かい茶を回しながら、みんなで白星草の咲く場所を眺める。
「この花、星みたいだから白星草なの?」
誰かが尋ねた。
「多分そうじゃないかな」
ノエルが花を見る。
「本当に星みたいな形してるもんね」
「星っていえばさ」
アッシュがパンをかじりながら顔を上げた。
「もうすぐ星降祭なんだろ?」
「そうだね」
「王都でやるやつ?」
「うん。大きなお祭りだよ」
「聖女さまが来るんだよな!」
別の子が身を乗り出す。
「昔のお話ではね」
ノエルは少し考えながら答えた。
「百年に一度、空に災いの星が現れる頃、星の向こうから聖女がやってくるって言われてるんだ」
「どうやって来るの?」
「うーん、どうだと思う?」
ノエルが逆に質問すると、子どもたちは口々に声を上げる。
「えっとー、お空を飛んでくる!」
「えー? 聖女さまって羽根あんの?」
「わかんない」
「羽根がはえてるのは天使さまだよー。聖女さまは、星から馬車にのってやってくるって絵本にかいてたよ」
「うっそだー」
次々に飛び交う声をノエルは微笑ましそうに眺め、不意に隣で静かにお茶を飲んでいるリディアへ視線を向けた。
「リディアさんは知ってる?」
話を振ると、リディアは少し考えた。
「聖女がどのように現れるかについては、伝承によって表現が異なります。少なくとも、翼があるという話は私は知りません」
「ほら」
「じゃあ、おねえちゃんみたいな、まじゅ、ちし?」
初日にリディアと話をした小さな女の子が、舌ったらずになりながら首を傾げる。
ちょこんとリディアの隣に座っている姿を見る限り、意外と懐いているらしい。
「確かに、実は魔術師なんじゃないかって説もあるよね……でも、どうなんだろう」
ノエルは少し考える仕草をする。
「昔から色んな人が調べてるけど、聖女が起こしたっていう奇跡を、普通の魔術として説明するのは難しいみたい」
「じゃあ、まじゅつじゃないの?」
「そこも、まだよくわかってないんだよね」
魔術師の中には、今も星の聖女について研究している者がいる。
けれど、何百年も語り継がれてきた話だけに、本当のところはわからないことの方が多かった。
「今年も来る?」
「そう願って、王都でも星降祭をするんだよ」
ノエルが言うと、子どもたちは「見たいなあ」「王都行きたい」と口々に話し始めた。
リディアはそんな様子を見ながら、白星草の方へ視線を向ける。
「古い伝承ですから、各地で少しずつ内容が違うのでしょうね」
「そうだろうね。もしかしたらザーレンだけの話とかあるのかも」
「じいちゃんに聞いたら知ってるかも!」
アッシュが言う。
「じゃあ今度聞いてみようか」
「うん!」
話はそこで、いつの間にか村の昔話や森の噂へと移っていった。
昼食を終え、そろそろ戻ろうかという頃だった。
「あ、そうだ」
一人の子どもが急に立ち上がる。
「秘密の場所も見せる?」
「え」
アッシュが目を丸くする。
「あそこ?」
「うん。近いじゃん」
「でも秘密だぞ」
「ノエル兄ちゃんたちならいいだろ」
子どもたちの間で小さな相談が始まる。
ノエルは何のことかわからず、リディアと顔を見合わせた。
「秘密の場所?」
「すぐそこにあるんだ。特別な!」
アッシュが少し誇らしげに言う。
「昔からある石のところ」
「石?」
「でっかいやつ。丸くなってる」
説明を聞いても、いまひとつ想像できない。
「遠くない?」
「全然!」
「帰り道から外れすぎないなら、少しだけ見てみようか」
ノエルが言うと、子どもたちは嬉しそうに立ち上がった。
「こっち!」
白星草の群生地から少し森の奥へ入る。
道らしい道はなかったが、子どもたちは慣れた様子で木々の間を進んでいく。
ほんの数分歩くと、地面が少し高くなった。
「ここ!」
木々の間を抜けた先に、小さく開けた場所があった。
雪の下から、いくつもの石が覗いている。
円を描くように並んだ低い石。
その中央には、腰ほどの高さもない大きな石台が置かれていた。
表面は長い年月で削られ、角も丸くなっている。石の隙間には薄く雪が入り込み、ところどころには苔の跡も残っていた。
ノエルは少し近づいてみる。
「これは……」
ただ自然に転がっている石ではない。
明らかに人の手で並べられたものだった。
「昔からあるの?」
「うん」
アッシュが頷く。
「じいちゃんも子どもの頃からあったって」
「何に使う場所なの?」
「わかんない」
「秘密基地!」
別の子が元気よく答える。
「それは今の使い方だね」
ノエルは笑った。
隣では、リディアが石台のそばへしゃがみ込んでいた。
「リディアさん?」
「少し待ってください」
石には触れず、表面をじっと観察している。
ノエルも横から覗き込むと、風化した石の一部に、ごく薄く線のようなものが残っていた。
「何か書いてある?」
「文字……というより、術式の一部に見えます」
「魔術の?」
「おそらくは」
リディアは石の周囲へ視線を巡らせる。
「ただ、かなり古い形式ですね。今一般的に使われている術式とは構造が違います」
「じゃあ、昔の魔術師が作ったのかな」
「可能性はあります。ただ、これだけでは用途まではわかりません」
リディアらしく、断定はしない。
円形に並んだ石と、中央の石台。
何かの儀式に使われた場所なのかもしれないし、まったく別の用途があったのかもしれない。
「オリバーさん、知ってるかな」
「戻ったら聞いてみましょう」
「そうだね」
ノエルはもう一度、古い石台を眺めた。
子どもたちにとっては昔からそこにある遊び場。
けれど、誰がいつ作ったものなのかは、もう誰も知らないらしい。
「見せてくれてありがとう。でも、そろそろ戻ろっか」
「えー、もう?」
「暗くなる前に帰るって約束だからね」
「また来ればいいじゃん」
アッシュが他の子どもたちへ言う。
「そうだね。また来よう」
ノエルが答えると、子どもたちは渋々ながらも帰る準備を始めた。
◇ ◇ ◇
帰り道も、森は穏やかだった。
結局、魔獣らしいものに出会うことは一度もなかった。
途中で何度か足を止めながらも、子どもたちは元気に村まで歩ききった。
「じゃあまたな、ノエル兄ちゃん!」
「うん。今日はありがとう」
「リディア姉ちゃんも!」
「はい。案内してくださって、ありがとうございました」
「また行こう!」
「仕事の予定が合えば」
「絶対な!」
リディアが何か言い足す前に、子どもたちは元気よく駆けていった。
その後ろ姿を見送り、ノエルは少し笑う。
「今日一日で、すっかり馴染んだね」
「……そうでしょうか」
「うん」
リディアは少しだけ考えたあと、否定はしなかった。
二人で支部へ向かう。
森を出た頃にはまだ明るかった空も、今は西の方からゆっくり色を変え始めている。
「白星草、見られてよかった?」
「はい。冬の植物自体、目にすることは珍しいですし……こうして実際に自生しているところを見る機会はなかなかありませんから」
「最後に見せてもらった石のところも、ちょっと気になるね」
「はい。かなり古いもののようでした」
「オリバーさんへのお土産話がたくさんできたなあ」
「そうですね」
そんな話をしながら、支部の前へ着く。
「ただいま戻りました」
ノエルが扉を開けた。
中へ一歩入ったところで、足が止まる。
「……あれ?」
居間のテーブルに、見慣れた銀髪の男が座っていた。オリバーと向かい合い、何事もなかったように茶を飲んでいる。
聞き慣れた声がする。
「戻ったか」
「ユーリス?」
「ヴァレンベルク先輩?」
二人のきょとんとした顔を見て、ユーリスは小さく頷いた。
「なにかあった?」
ユーリスなら、ここまで来ること自体は難しくない。
けれど、まだ勤務時間中にわざわざザーレンまで来たとなれば、ただ顔を見に来たわけではないだろう。
ノエルが少し心配そうに尋ねると、ユーリスはそれを制するように軽く手を上げ、それからリディアを見た。
「エルンスト、少し確認したいことができた」
ユーリスは短く伝えて手元の茶を置く。
その隣には、一枚の紙があった。




