4-8
最後の術式が扉の枠へ定着した頃には、窓から差し込む陽もだいぶ傾き始めていた。
リディアはしゃがんだまま、木枠の下部へ指を添える。
淡い魔力の光がゆっくりと一周し、それまで複雑に重なっていた術式の線が、吸い込まれるように木の中へ消えていった。
しばらくそのまま、魔力の流れを確かめる。
術式の途切れもない。座標固定にも異常は見当たらない。
「……よし」
小さく息を吐き、リディアはようやく扉から手を離した。
設置作業を始めてから、それなりの時間が経っている。
最初の工程までは興味深そうに見学していたオリバーとノエルだが、細かな術式の調整を何時間も眺めていたところで、二人にできることはない。なにより、支部の仕事もあるため区切りのいいところで各々の業務に戻っていた。
リディアは床に広げていた術式図と器具を手早く片づけると、最後にもう一度扉全体を確認する。
「問題なさそうですね」
そう呟いてから、二人へ報告するために部屋を出た。
執務室では、ノエルとオリバーが机を挟んで書類を整理していた。
「こっちの申請書は確認しました。あとはオリバーさんの署名だけです」
「おお、助かるわい。そっちの修繕記録は?」
「今まとめてます。春になったら確認する場所も一緒に――」
そこで、戸口に立ったリディアへノエルが気づいた。
「あ、リディアさん」
二人の視線がこちらへ向く。
「設置作業が完了しました」
「おお」
オリバーが手にしていた書類を机へ置いた。
「終わったか」
「はい。現時点では異常ありません。接続試験も可能です」
「おつかれさま」
ノエルが言う。
「ありがとうございます。でも、業務ですから当然です」
そう答えながらも、リディアの表情は作業を始める前よりわずかに柔らかかった。
初めて一人で担当した設置作業が、ひとまず予定通り終わったことには安心しているのだろう。
「じゃあ、見に行ってもいい?」
「はい。そのためにご報告に来ました」
「わしも行こうかの」
オリバーも椅子から立ち上がる。
三人で廊下の突き当たりへ向かうと、そこには数時間前と変わらない、ごく普通の木製扉があった。
「もう見た目は普通の扉じゃな」
オリバーが扉を眺めながら言う。
「はい。術式は内部に定着していますので、通常時は外から見てもほとんどわかりません」
リディアは扉の前に立つ。
ノエルも横から眺めてみるが、先ほどまで光の術式が幾重にも重なっていたとは、とても思えなかった。
「魔力はどこに流すの?」
「通常は扉の取っ手に触れて流します」
そう言いながら、リディアは取っ手を握った。
指先から少量の魔力を流すと、それに反応して扉の縁に淡い光が走る。
そのまま扉を開いた。
向こう側の空間が、薄く透明な膜をかけたようにわずかに揺らいでいる。
そして、その先に広がっていたのは、先ほどまでの物置ではなかった。
ノエルとリディアには見慣れた宮廷魔法局の一室が、扉一枚を隔てた向こう側にある。
「おお……」
オリバーが思わず身を乗り出した。
「話には聞いていたが、やはり実際に目にすると不思議なものじゃな」
扉の向こうをしげしげと眺めたあと、今度はリディアを見る。
「一回の使用に、魔力はどの程度必要なんじゃ?」
「起動だけですので、ごく少量で問題ありません」
リディアはそう答えると、いったん扉を閉め、取っ手から手を離した。
術式の光が消える。
今度は魔力を流さずに扉を開けば、その先にあるのは、先ほどまでと同じ物置だ。
「ほほう」
オリバーはますます感心したようだった。
「ちゃんと普通の扉にも戻っておる」
「はい。設置と接続はこれで完了です。あとは数日の間、定期的に魔力の流れや座標の固定状態を確認します。問題がなければ、正式に試験運用へ移せます」
「それは楽しみじゃの」
移動扉の使用に恐怖心を感じる声がある一方で、こうして前向きな声もある。そのことに安堵しながら、リディアはユーリスへの報告内容としてオリバーの反応もあとでまとめておこうと思った。
「さて……」
オリバーが窓の外を見る。
まだ日が暮れるには少し早い。
「ひとまず今やれることは終わったようじゃな。少し早いが、今日はゆっくりしたらどうじゃ?」
「いえ。まだ勤務時間内です」
リディアは即答した。
「このあとは、ザーレン支部の業務をお手伝いします」
「真面目じゃのぉ……」
オリバーは感心したような、呆れたような声を出す。
それから少し考えると、ノエルへ視線を向けた。
「そういえばノエル君、夕方の見回りがあったじゃろ」
「はい」
「なら、気分転換も兼ねてエルンスト嬢も連れていってやったらどうかの?」
「見回り、ですか?」
リディアが首を傾げる。
王都で見回りといえば、まず騎士団の仕事を思い浮かべる。支部の仕事と聞いても、記録整理や各種申請への対応などを想像していたため、すぐには結びつかなかったらしい。
「せっかくザーレンまで来たんじゃ。支部の中に籠りきりもつまらんじゃろう。それに、ここの仕事を知るなら村を歩くのが一番早い」
「なるほど」
説明されれば、リディアはすぐに納得した。
「現地支部の業務を知る機会としては有意義だと思います」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
オリバーがうんうんと頷く。
そこで一度言葉を切ると、妙に楽しそうに付け加えた。
「若い者二人で、ゆーっくり見て回るとええ」
妙に伸ばされた言葉に、ノエルはオリバーを見る。
にこにことした顔。
おそらく、単に支部の仕事を見せたいだけではないのだろう。
けれど隣のリディアは、そんなことにはまるで気づかず、真面目な顔で予定を考えている。
なら、わざわざ言うことでもない。
「じゃあ、少し早いけど村の案内がてら一緒に行こうか」
「はい。お願いします」
リディアが頷く。
オリバーはますます満足そうだった。
◇ ◇ ◇
支部を出た頃には、陽も少しずつ傾き始めていた。
空には薄い雲が広がり、昼間にいくらか緩んだ雪も、日陰ではまだ白く固まっている。道の端には除雪された雪が小さな山を作っていた。
リディアはノエルの少し後ろを歩きながら、手元の簡単な地図へ目を落とした。
「今日はどこまで回るんですか?」
「北側の結界を確認して、そのあと何軒か寄る予定かな。昨日相談されたこともあるから」
「個人宅にも?」
「うん。小さい支部だから、そういう相談も直接来るんだよ」
ノエルは歩きながら、道の先に見える低い柵を指した。
「この辺りの結界は雪の影響を受けやすいから、積もった後はなるべく確認するようにしてる。術式そのものに問題がなくても、支柱が傾いたり、倒木が近くにあったりすると危ないからね」
「本部では、そのあたりは専門の部署が担当しますね」
「そうだね。ここだと、できる人がやる感じかな」
さらりと言われ、リディアは少し考える。
王宮ならば担当部署へ連絡し、必要なら専門の魔術師や職員が動く。それが当然だった。
けれど、ザーレンでは支部の人間が自分で村を歩き、結界を見て、住民の相談を聞き、簡単な修繕まで行う。
「随分、仕事の範囲が広いんですね」
「僕も最初は驚いたよ」
ノエルが笑う。
「オリバーさんがずっと一人でやってたって聞いて、もっと驚いたけど」
「……四十年以上でしたか」
「うん」
リディアは少し遠くに見える支部の屋根を振り返った。
王宮の仕事と、どちらが難しいという話ではないのだろう。
必要とされるものが違う。
そんなことを考えているうちに、道の向こうから声が飛んできた。
「ノエルちゃーん」
年配の女性が家の前から手を振っている。
「こんにちは」
ノエルはすぐに足を止めた。
「この前の裏の水路なんだけどねぇ。今朝も少し凍ってたよ」
「やっぱりですか。春になったら、一度掘り返して見た方がよさそうですね。オリバーさんにも記録を残してあります」
「そうかいそうかい。悪いねぇ」
女性が申し訳なさそうにすると、ノエルは軽く首を横に振った。
「いえ。また凍り方が酷くなったら教えてください」
女性は安心したように笑い、家の中へ戻っていった。
少し進むと、今度は店先から声がかかる。
「ノエル君、北の結界は今日見るのかい?」
「これから行きます」
「昨日の夜、少し光った気がしてね。この間の魔獣のこともあるし、心配なんだ」
「わかりました。そこも見ておきますね」
さらに先では、荷車を押していた老人が立ち止まり、道具の調子について相談を始めた。
ノエルはそのたびに足を止める。
すぐに答えられることには答え、わからないことは確認すると伝え、必要なら手元の紙へ簡単に書き留める。
誰も遠慮している様子はない。
そしてノエルも、それを面倒そうにはしなかった。
リディアは少し後ろから、そのやり取りを眺めていた。
第三室でも、ノエルは同じだった。
誰かが困っていれば話を聞くし、自分にできないことなら、できる人へ繋ぐ。派手な術式を使うわけでも、大きな成果を声高に主張するわけでもないけれど、気がつけば誰かの仕事を少し楽にしている。
それを、この村の人たちも知っているらしい。
「ノエルさん、この前ありがとね。いつも助かるよ」
「いえいえ。こちらこそ」
また一人、笑いながら通り過ぎていく。
リディアは何となく、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
――すごいでしょう?
誰に言うでもなく、そんな言葉が浮かぶ。
別に自分が褒められているわけではない。
それでも後輩として、ノエルが村の人々に頼られ、きちんと認められていることが少し誇らしい。
うちの先輩は、ちゃんと頼りになるのだ。
「リディアさん?」
不意に呼ばれ、リディアは顔を上げた。
「はい」
「どうしたの? なんだか嬉しそう」
指摘されて、リディアは少しだけ目を瞬く。
「いえ……いい場所だな、と」
「そうだね。みんな親切だよ」
ノエルはそれ以上追及することなく、また歩き出した。
そのまま二人で道を進んでいると、今度は家の前で雪を払っていた老婆がこちらに気づいた。
「あら、ノエルちゃん」
「こんにちは」
ノエルがいつもの調子で挨拶する。
老婆の視線が、そのまま隣のリディアへ向いた。
「まあまあ。今日は可愛いお嬢さんを連れとるねぇ」
「王都から仕事で来てくれた――」
ノエルが紹介するより先に、老婆がにこにこと笑う。
「ノエルちゃんのお嫁さんかい?」
「いえ」
反射的に答えてから、リディアは止まった。
――違う。
いや、答えそのものは間違っていない。
けれど、これではいつもと同じだ。
言葉が足りないのだと、ノエルにも言われたばかりだった。
「……えと」
リディアは改めて老婆を見る。
「違います……が、ノエル先輩とは親しくしています」
「まあ」
「職場では先輩と後輩で、現在は移動扉の設置業務のためこちらに来ています」
そこまで言って、リディアは一度止まった。
何か違う。
これでは仕事の説明になっている。
「……つまり、その」
老婆は相変わらずにこにこしている。
隣のノエルは何も言わず、こちらを待っていた。
「ノエル先輩のことは、とても信頼しています」
「あらあら」
「それに、人間的にも好ましく思っています」
口に出した瞬間、また少し違う気がした。
「……いえ、『好ましい』という言い方は少し硬いでしょうか。好感を……いつも、優しく……?」
何を言っているのだろう。
リディアは自分でもわからなくなってきた。
「つまり……尊敬していますし、普段から助けていただいています。ただし、先ほどのご質問への回答としては、恋人ではありません」
ようやく話が戻った。
けれど、話の着地まで長すぎた気がする。
「ですので――」
「まあまあ」
老婆が楽しそうに笑った。
「照れ屋さんなのねぇ」
「……違います」
そこだけは、今度も迷わず答えた。
横で、小さく息を漏らすような音がした。
リディアが振り向く。
ノエルが視線を逸らしながら、口元を手で隠している。
「……ノエル先輩」
「ごめん」
少し笑っている。
「笑っていますね」
「少しだけ」
否定すらしない。
リディアがじっと見ていると、ノエルはまだ笑いを残したまま老婆へ向き直った。
「すみません。真面目な人なので、ちゃんと説明しようとしてくれたんです」
「そうなのねぇ」
老婆は楽しそうに頷く。
ノエルも笑って続けた。
「恋人ではないですけど、信頼する後輩ですよ」
「そうかいそうかい」
老婆は特に残念がるでもなく、また楽しそうに笑った。
「仲良くねぇ」
「はい」
ノエルが答える横で、リディアも頭を下げた。
「ありがとうございます」
老婆は満足した様子で家へ戻っていった。
しばらく、その背中を見送る。
「……また失敗しました」
リディアが呟く。
「ちょっと長くなっちゃったね」
「はい」
否定できない。
「途中から、自分でも何を説明しているのかわからなくなりました」
「うん」
「……そこは否定してくださらないんですね」
「実際、ちょっとそうなってたから」
ノエルは笑っている。
けれど、からかわれている感じはしなかった。
「でも、さっきよりはよかったと思うよ」
「本当ですか?」
「うん。少なくとも、相手は困ってなかった」
リディアは老婆が入っていった家を見る。
確かに、最後まで笑っていた。
先ほどの子どものように、悲しそうな顔もしていない。
「……言葉を足せばいい、というものでもないんですね」
「多分ね」
ノエルは少し考える。
「何を知りたいのかを考えた方がいいのかも」
「何を知りたいのか」
「さっきのお婆さんなら、僕たちの関係を正確に知りたかったっていうより、ちょっと話しかけたかっただけだと思うし」
「なるほど……」
「だから、『恋人じゃないけど仲のいい後輩です』くらいでよかったんじゃないかな」
リディアは真剣に考え込んだ。
「……加減が難しいですね」
しばらく歩いてから、ふと顔を上げる。
「ノエル先輩は、昔からそういうことが得意だったんですか?」
「そういうこと?」
「相手が何を言いたいのか察したり、言葉を選んだりすることです」
ノエルは少し意外そうに瞬きをした。
「うーん……得意っていう意識はないかな」
「そうなんですか?」
「うん。でも、人の顔とか声の調子とかは、昔から結構見る方だったかも」
少し考えてから、ノエルは続けた。
「子どもの頃から、知らない人に見られたり、何か言われたりすることは多かったからね。そのうちに、何となく相手が言いたそうなことに気づくのは早くなったのかも」
そうだろうな、とリディアは思う。
アルヴェイン家に限らず、相応の家柄に生まれた人間はそれだけで人の目を引く。
何をしているのか。何を言うのか。家名に相応しい人間なのか。
本人が望んでいなくとも、周囲から見られる機会は多い。
「……ローゼンフェルト補佐がおっしゃった通り、私はもっと他人の表情や反応を意識して見るべきなのでしょうね」
「意識するくらいなら、いいと思うよ」
ノエルは頷いたあと、少しだけ考える。
「でも、気にしすぎるのもよくないんじゃないかな」
「よくない?」
「うん。相手が何を考えてるかなんて、本当のところは本人にしかわからないし。全部拾おうとすると、疲れちゃうと思う」
リディアは黙って聞いていた。
「だから、その辺も加減かな」
「……加減」
また、その言葉だ。
リディアの眉間に、ほんの少し皺が寄る。
「いっそ、どこまで気にするべきか基準が明確ならわかりやすいのですが」
「基準?」
「はい。例えば、表情、声色、言葉遣いのうち二項目以上に変化があった場合は考慮する、とか」
「……なるほど?」
ノエルが少し首を傾げる。
「あるいは、気にする範囲を段階別に数値化して決めておくとか」
「難解なことになりそうだなあ」
「そうでしょうか。明確だと思うのですが」
リディアは至って真面目だった。
その横顔を見ながら、ノエルは少し考える。
「こういう曖昧さって、料理の『少々』とか『適量』みたいな表現に近いのかも」
リディアは一瞬黙った。
「……あれは、非常に困ります」
「そんなに?」
「少々が何グラムなのか書いていただきたいです」
思った以上に真剣で、なんだか可愛らしい主張に、ノエルはとうとう声を立てて笑った。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いたところで、前方から聞き慣れた声が飛んできた。
「ノエル兄ちゃん!」
道の向こうから、アッシュたちが駆けてくる。
「お仕事終わった? 今日あそべる?」
「今日はちょっと難しいかな。まだ見回りも残ってるから」
「えー」
子どもたちが揃って残念そうな顔をする。
すると、アッシュが何かを思いついたように顔を上げた。
「じゃあ明日!」
「明日?」
「約束してたやつ、見に行きたい! 前に言ってたやつ!」
「ああ、白星草」
「そう!」
アッシュは嬉しそうに大きく頷いた。
「みんなで見に行くって約束したからね」
「うん!」
そのまま、ふとアッシュが隣にいるリディアを見る。
「おねえちゃんも来る?」
「私も、ですか?」
「うん!」
突然誘われ、リディアは少しだけ目を瞬いた。
「仕事に支障がなければ」
「じゃあ行こ!」
「まだ正確な予定は……」
「でも、来れるかもしれないんでしょ?」
「……はい」
アッシュはそれで十分だったらしく、満足そうに笑った。
「じゃあ明日な!」
「うん。オリバーさんにも確認しておくよ」
「絶対だぞ!」
「約束ね」
ノエルが笑うと、子どもたちはそれだけで満足したらしい。
また賑やかに話しながら、村の方へ駆けていく。
リディアはその後ろ姿を見送った。
「白星草というのは、野草の一種でしょうか」
「うん。この辺りに咲く花なんだ。僕もまだちゃんとは見れてないけど、白くてかわいい感じの花だったよ」
「この時期に咲くのですか?」
「そうだね。元は雪原で自生する植物みたい」
リディアは少し興味を引かれたように、子どもたちが去っていった方を見る。
「それは、少し見てみたいですね」
「じゃあ、明日は一緒に行けるといいね」
「はい」
リディアが頷く。
薄雲の向こうでは、傾き始めた陽が雪の上を淡く照らしていた。
見回りは、まだ半分ほど残っている。
ノエルは地図を開き直し、次に向かう場所を確かめた。
「じゃあ、次は北側の結界を見に行こうか」
「はい」
二人は再び、雪の残る道を歩き始めた。




