4-7
湯気の立つ茶が三人分、卓上へ並ぶ。
オリバーは先ほどリディアから受け取った箱を開け、中から焼き菓子を一つ取り出した。
「ほう。どれもうまそうじゃな」
「ロゼでは昔からある店です。日持ちもするので、移動中でも問題ないかと」
「そうかそうか。わしもロゼに行ったら寄ってみるかの」
そう言って一口かじり、満足そうに頷く。
「うむ。甘すぎんのがええ」
「よかったです」
リディアもようやく少し肩の力を抜いたようだった。
ノエルは自分の茶へ口をつける。
外は冷えていたが、こうして暖かな室内へ戻ってくると、身体の奥からゆっくり解けていくような感覚がある。
「そういえば」
オリバーが菓子をもう一つ手に取りながら、ふと思い出したように言った。
「前に来とったヴァレンベルク殿も、お前さんらと同じ第三室じゃったな。全員、ほとんど同い年くらいか?」
「僕とユーリスが同年で、リディアさんが四年後輩ですね」
「ほほう」
オリバーが頷く横で、リディアがわずかに顔を上げた。
「そういえば……ノエル先輩が着任された日にも、ヴァレンベルク先輩がこちらへ来たと伺いました。その時にオリバー支部長ともお会いしたのですか?」
「ん? いや、わしが初めて会ったのは、アッシュを探しに森へ入った時じゃから……ノエル君が来て二週間くらい経った頃かの」
「そうでしたね」
そんなこともあったな、とノエルは微笑む。
その横で、リディアは少し考えるように目を伏せた。
「その時も、ヴァレンベルク先輩はこちらまで?」
「うむ。夜にノエル君の部屋を訪ねたらおったな」
「……夜に?」
わずかに間を置いて聞き返したリディアに、オリバーは何でもないことのように頷く。
「なんでも、ノエル君の持っとった指輪を目印にして移動してきたらしいが」
リディアの視線が、ゆっくりとノエルへ向く。
「……ヴァレンベルク先輩、こちらには結構いらっしゃるんですか?」
「うん?」
ノエルは少し首を傾げた。
「ユーリスも忙しいから、そんなに頻繁ってわけじゃないよ。その時は、ちょうど話したいこともあったみたいだから」
「話したいこと、ですか」
「仕事のこととか、いろいろ。ユーリス、結構心配性だし、もともと深く考えるタイプみたいだから、直接誰かに話した方が落ち着くこともあるんじゃないかな」
「なるほど……」
リディアはそう答えたものの、少しだけ意外そうだった。
貴族令嬢として彼女が知るユーリス・ヴァレンベルクは、礼節も品位も知性も、すべてにおいてヴァレンベルク家の名に相応しい人物だ。
もちろん、第三室所属の後輩という視点で見た時は、また少し違った見方もある。
ただ、どちらにしても夜中に友人のもとへ突然現れ、話を聞いてもらうような姿は、普段のユーリスからはなかなか想像できない。
リディアはしばらく考えてから、ふと何かを思い出したように目を細めた。
まだ今ほど落ち着いていなかった頃の兄が、夜中にこっそり家を抜け出し、友人たちと街へ遊びに行って叱られていたことがあった。
地方貴族であるエルンスト家と、王家にも縁深いヴァレンベルク家を同じように語るのは少し違う気もする。それでも、普段ならしないような少し「行儀の悪い」ことを、本人もわかっていながら友人と楽しんでいるという点では、どこか似ているのかもしれない。
「先輩方は、アカデミー時代から仲がよろしかったんでしょうか」
同期だという話は聞いていたものの、リディアが入局した頃には、二人は既に今と変わらない距離で接していた。改めてその始まりを尋ねたことは、これまでなかった。
「ううん。アカデミーの頃は、一回話したことがあるくらいだよ。ユーリスは当時から優秀で目立ってたけど、交友関係は僕と被らなかったし」
「では、入局されてから?」
「うん。初日に話しかけてみたら、名前で呼んでいいって言ってくれたんだ。それからもよく話しかけてくれて……多分、浮いてた僕を気遣ってくれたんじゃないかな」
優しいよね、とノエルは穏やかに笑った。
リディアはその横顔を見ながら、少しだけ納得したように頷く。
ノエルにとっては、それが最初からのユーリスなのだろう。
社交の場や王宮の廊下で見かける、隙のないヴァレンベルク家の子息でもなければ、魔術理論の天才として周囲が一目置く魔術師でもない。
口数は少ないけれど優しく、少し心配性で、遠い土地までわざわざ会いに来る友人。
少なくともノエルは、ずっとそういう相手として接してきたらしい。
「ずいぶん仲がええんじゃな」
オリバーが素直に感心したように言った。
「そうですか?」
「そうじゃろう。わしの時代は、そもそも家系の異なる者同士では、交友関係すら築きにくかったくらいじゃ」
「ああ……お爺様も言ってました。昔は、そういう暗黙の了解があったとか」
「暗黙の了解、というと?」
リディアが問い返すと、オリバーは懐かしそうに椅子へ背を預けた。
「うむ。貴族は貴族同士、魔術師の家は魔術師同士、といった具合に、自分と似た家系の者と付き合うのが普通じゃったんじゃ。育ちの根っこが違いすぎて、違う家系の者とは何かと衝突も多かったからの」
「それは……交友の幅が極端に狭まるのでは」
リディアが率直に言う。
今では、貴族も魔術師も騎士の家の者も、出自にかかわらずアカデミーで同じように学び、誰と付き合うかも基本的には本人次第だ。つい最近までそこに在籍していたリディアには、家系だけでそこまで大きな溝ができるという感覚自体、いまひとつ実感しづらいらしい。
「まあ、時代じゃよ。とはいえ、今でも多少の隔たりは残っとるじゃろうがな」
オリバーはそう言って茶を一口飲み、今度はノエルへ目を向けた。
「実際、夜中にあんな魔術を使って会いに来る別家系の友人なんぞ、そう何人もおらんと思うがの」
「うーん……」
ノエルは少し考え、手にしていたカップを卓上へ戻した。
「そう言われると、僕は……いえ、多分僕たちは、お互いの家の事情についてあまり踏み込まないのかもしれません」
ノエルにとって、ユーリスがヴァレンベルク家の人間であることは、昔からさほど重要ではなかった。
思い返してみても、ユーリスが自分をアルヴェイン家の人間だからという理由で扱った記憶もほとんどない。
「でも、それも結局、あまり関係ないんだと思います」
「ほう」
オリバーが続きを促すように眉を上げる。
ノエルは少し笑った。
「ユーリスは大事な友人ですから。何かあれば、僕も夜中だって駆けつけますよ。瞬間移動はできなくてもね」
特別なことを言ったつもりはないらしく、そのまま再び茶へ手を伸ばす。
リディアは一度だけ瞬きをした。
「……なるほど」
「ん?」
「いえ。仲がよろしいのだなと、改めて思っただけです」
「ははっ。しみじみ言われると、なんだか照れるね」
ノエルは困ったように笑ってから、少し考える。
「でも……うん。仲はいいと思うよ」
今度は素直に頷いた。
オリバーはそんなノエルを見て、楽しそうに目を細める。
「ええ友人がおるのは、幸福なことじゃ」
「そうですね」
ノエルも笑って答えた。
それ以上、その話が続くことはなかった。
ただリディアの中では、これまで知っていたユーリス・ヴァレンベルクの像に、ほんの少しだけ新しい一面が加わったようだった。
◇ ◇ ◇
一息ついたあと、三人は支部の奥へ移動した。
移動扉として使用する予定の扉は、一階の廊下の突き当たりにある。
もともとは物置として使われていた小部屋へ続く、ごく普通の木製扉だった。
「これですか」
リディアが扉の前へ立つ。
「はい。ユーリスから、ここが一番いいだろうって」
「周囲の壁も厚いですね。扉の枠も歪んでいませんし、確かに条件は悪くなさそうです」
手袋を外し、扉の縁へ指を触れる。
木枠を上から下まで確かめるように撫で、続いて壁や床へ視線を走らせると、リディアは一歩下がって全体を見渡した。
「設置には問題ないと思います」
「この扉そのものを変えるわけではないんじゃな?」
オリバーが尋ねる。
「はい。扉自体はそのまま使います」
リディアは仕事用の鞄を開き、中から数枚の紙と小さな器具を取り出した。
床へ広げられた紙には、細かな線が幾重にも重なった複雑な術式が描かれている。
「移動扉は、扉そのものに転移能力を持たせる魔道具ではありません。この枠を基準点として固定し、接続先の術式と座標を同期させます」
「ふむ」
オリバーは紙と扉を交互に見た。
リディアは扉の取っ手へ軽く触れる。
「扉を開く動作を起点にして、その瞬間だけ二つの場所を繋ぐ、という方が近いです」
ノエルも扉を見る。
「じゃあ、開いたら王宮の扉につながる?」
「大まかにはそれで合っています」
リディアが頷くと、今度はオリバーが木製の扉を軽く叩いた。
「普通の扉としても使えるものかの?」
「接続には魔力を使用しますので、魔力を流さなければ通常通りの扉として機能します」
「ほほう。便利なもんじゃ」
感心したように頷き、オリバーは改めて術式の紙を覗き込む。
その横で、ノエルも同じものを眺めてからリディアへ視線を向けた。
「ということは、やっぱり魔術師以外には稼働させないことにしたんだね」
「はい。ヴァレンベルク先輩によれば、誰でも使用可能にすること自体は不可能ではないそうですが、現段階では現実的ではないとのことでした」
「そうだね……すごく便利な魔道具だとは思うけど、魔術師以外の人まで使えるようにすると、どうしても安全面の心配は残るから」
ユーリスが移動扉を手掛け始めた頃から、その話は何度か聞いていた。
特に安全性については、考えられる可能性を一つずつ潰しているらしいことを、以前からユーリス自身の口から聞いている。最近は開発の細かな進捗まで尋ねることも減っていたが、その部分は今も変わっていないらしい。
リディアが床へもう一枚の紙を広げた。
そこには、以前ノエルが見たものよりさらに細かな術式が幾重にも書き込まれている。
ノエルには、一つ一つが何を意味しているのかまではわからない。
ただ、以前ユーリスの研究室で見たものと同じ系統の術式だということだけはわかった。
「ずいぶん細かいのぉ」
オリバーが腰を屈め、覗き込む。
「これは全部、ヴァレンベルク殿が?」
「はい。基本設計はすべてヴァレンベルク先輩です」
リディアは迷いなく答えた。
そのまま術式の一部を指でなぞる。
「私は設置と調整を担当します」
「見ればわかるもんなのか?」
「一つ一つなら」
問いかけられたリディアは、紙の中央付近を指した。
「ここが座標固定。こちらが接続先との魔力差を調整する部分です。この辺りは、接続が不安定だった場合に強制的に術式を停止させるための安全機構ですね」
「ほう」
説明を聞いても、オリバーには完全には理解できないらしい。それでも興味深そうに何度も頷いている。
ノエルも術式を眺めてから、感心して口を開いた。
「全部わかるんだ。こういうの、リディアさんも作れそう?」
リディアはすぐに首を横へ振った。
「読むことと、作ることは別です」
「別?」
「はい。この構成なら、何をしているかは理解できます。でも、何もない状態からこれを組み上げろと言われたら、私には難しいです」
そう言って、リディアは紙の端に近い細かな術式へ視線を落とした。
「特に、この部分の接続処理は……普通なら、こういう発想にはならないと思います。ローゼンフェルト補佐が『完璧で美しい術式だ』とお褒めになるのもわかります」
「ああ……」
ノエルもすぐに思い当たったらしい。
「初めて術式案を見た時のレオニス先輩、しばらく術式を見つめて、うっとりしながらため息ついてたからなぁ……」
「今も時々なさっています」
リディアが淡々と答える。
呆れているというより、それも仕方がないと受け入れているような声音だった。
「そんなにか」
オリバーが術式を見直す。
「はい」
リディアは今度は迷いなく頷いた。
「私には作れませんが、優れた術式であることはわかります」
ノエルも改めて紙へ目を落とした。
自分にはやはり、何がどう凄いのかまではわからない。
けれど、リディアだけでなくレオニスまでそこまで評価しているのなら、相当に高度で、考え抜かれたものなのだろう。
「では、始めます」
リディアは扉の前へ膝をついた。
小さな器具を床へ置き、術式の一部を扉の枠へ重ねるように配置していく。
オリバーとノエルも邪魔にならないよう少し距離を取った。
やがて、リディアの指先から淡い魔力が流れ始める。
細い光が線となり、木枠へ走った。
「おお」
オリバーが思わず声を漏らす。
刻まれているわけでもないのに、光の線が扉の縁へ沿って複雑な模様を描いていく。
リディアは時折手元の紙へ視線を落としながら、一つずつ確かめるように魔力を流していた。
決して速い作業ではない。
それでも、指先に迷いはなかった。
「ここで一度、固定します」
小さく呟き、手を止める。
流れていた光が一瞬だけ強まり、そのまま扉の枠へ留まった。
リディアはしばらく状態を確認してから、ようやく手を離す。
「これで一段階目です」
「たしか、三段階あるんだよね」
「はい。設置そのものは今日中に終わると思います」
リディアは立ち上がらず、そのまま術式の一部へ目を凝らした。
「ただし、接続後は魔力の流れが安定しているか確認する必要があります。設置直後に問題がなくても、時間経過で偏りが出る可能性もあるので」
「どのくらい見るんじゃ?」
オリバーが尋ねる。
リディアは少し計算するように間を置いた。
「最低でも三日ほどは」
「三日か」
オリバーが腕を組んで考える。
それから、何やら楽しそうにリディアへ目を向けた。
「なら、その間はここにおるんじゃな」
「はい。その予定です」
「そうかそうか」
また、さっきと同じような笑い方をしている。
リディアが不思議そうに首を傾げる中、オリバーは続けた。
「では、その間はうちの仕事も少し手伝ってもらおうかの」
「支部の仕事ですか?」
今度はリディアが少し意外そうに聞き返した。
「うむ。人手はいくらあっても困らんからの」
リディアは一瞬だけ目を瞬いた。
それからすぐに背筋を伸ばす。
「必要であれば、お手伝いします」
「助かるわい」
オリバーが満足そうに頷く。
その返事を聞くと、リディアは再び扉へ向き直った。
「では、次の工程へ進みます」
再び指先に淡い光が灯る。
ノエルとオリバーは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
何の変哲もない木製の扉。その縁へ、細かな術式が少しずつ重なっていく。
ザーレンから何日も馬車を使わなければ辿り着かない場所にも、やがてこの一枚の扉を開くだけで行き来できるようになる。
そう考えると、目の前で進んでいる作業が少し不思議に見えた。
リディアは集中したまま、また一つ術式を固定する。
「……よし」
小さく息を吐いた。
「ここまでは問題ありません」
ひとまず作業の手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
扉にはまだ、見た目に大きな変化はない。
けれど、よく見れば枠の周囲には、淡い魔力の残光が細く残っていた。
設置作業はまだ始まったばかりで、ノエルにもオリバーにも、目の前で行われている処理のすべてを理解することはできない。
それでも、もう一度術式を確認したリディアの表情に迷いがないことだけは、二人にもわかった。




