4-5
ロゼを出た馬車は、昼を過ぎた頃には街道沿いの建物もほとんど見えない場所まで来ていた。
窓の外に広がるのは、薄く雪を被った針葉樹の森と、ところどころ白く凍った草原ばかりだった。王都周辺より道幅は狭く、路面も綺麗とは言い難い。積もった雪は定期的に除けられているものの、日陰には凍った箇所も残っていて、車輪がそこを踏むたびに馬車が小さく揺れた。
リディアは座席に身体を預けながら、窓の外を眺めていた。
北部の景色には慣れている。幼い頃から見てきたものと、それほど大きく違うわけではない。
ただ、ロゼを離れてさらに北へ進むにつれて、木々に積もる雪が少しずつ厚くなっているのはわかった。
「おっと」
不意に御者の声が聞こえ、馬車がゆっくりと速度を落とした。
何事かと窓の外へ目を向けると、少し先の街道に数頭の獣がいる。
灰褐色の毛並みをした鹿に似た獣で、大きな角を持つ一頭を先頭に、のんびりと道を横切ろうとしているらしい。
御者は慌てることもなく馬を止め、手綱を緩めた。
「しばらく待ちますよ。下手に驚かせると面倒なんで」
乗客の一人が窓から顔を覗かせる。
「魔獣じゃないのか?」
「ただの獣ですよ。この辺じゃ珍しくもありません」
御者が軽く笑うと、それを聞いた乗客たちも特に騒ぐことなく座り直した。
リディアも無意識に杖へ伸ばしかけていた手を膝へ戻す。
北部では、人の生活圏の近くまで獣が出てくること自体は珍しくない。魔力によって異常な性質を得た魔獣なら話は別だが、ただの獣であれば、不用意に刺激せず通り過ぎるのを待った方が早く済むことも多い。
やがて最後の一頭が街道の向こうへ消える。
「よし。それじゃ、行きますよ」
御者が声をかけると、馬車は再びゆっくりと動き始めた。
少し遅れはしたものの、どうやら行程に大きく影響するほどではないらしい。
リディアは窓から離れて座席へ座り直すと、隣に置いていた小さな紙包みへ目を向けた。
ロゼで買った、自分用の焼き菓子だった。
朝から移動扉の確認をして、その後はずっと馬車に揺られている。そろそろ小腹も空いてきたところだった。
紙包みを開くと、砕いた木の実をたっぷり練り込んだ丸い焼き菓子が現れる。
一口かじれば、香ばしい木の実と小麦の素朴な味に、アマレッダの蜜の甘さが重なった。
「……懐かしい」
昔とまったく同じ味なのかまではわからない。
けれど、口にした瞬間、ふいに昔の光景が蘇った。
◇ ◇ ◇
『あ、最後の一個』
まだ幼かった頃。
ロゼから家へ戻る馬車の中で、姉が紙袋を覗き込んでいた。
その隣では、兄が何食わぬ顔で窓の外を見ている。
『お兄様、最後の一個です』
『んー、俺はもう十分食べたからいいよ。お前らにやる』
『? 食べた数は同じですよ』
『いいんだって』
不自然なほどこちらを見ようとしない兄を、当時のリディアは不思議に思ったものだ。
今思えば、妹たちに譲りたい気持ちと、見れば食べたくなる子どもらしい欲との間で、必死に視線を逸らしていたのだろう。
『ふふ、格好つけちゃって。……じゃあ、最後の一個はリディとはんぶんこね』
『お姉様が買ったのに』
『いいの。ほら』
『自分で食べられます』
『知ってるわよ』
そう言いながら姉は焼き菓子を割り、少し大きい方の一欠片をリディアの口元へ差し出した。
『はい、あーん』
『……』
『ほら』
仕方なく口を開くと、姉はそこへ菓子を入れ、満足そうに笑った。
『おいしい?』
『……おいしいです』
『でしょう?』
なぜ食べた自分より姉の方が嬉しそうなのか、リディアにはよくわからなかった。
◇ ◇ ◇
馬車の中、最後の一口を食べながら、リディアは小さく息を吐いた。
そういえば、今でも家族は自分をリディと呼ぶ。
兄も姉もそうだし、両親まで時々つられて同じ呼び方をする。
もう二十一歳なのに。
王都で一人暮らしをして、宮廷魔法局で働いているのだから、いつまでも子どもではない。
それでも帰省すれば、兄は当然のように荷物を持とうとするし、姉は髪や服を勝手に整えたがる。昔と何も変わっていないようで、少しだけ気恥ずかしい。
嫌なわけではない。
ただ「リディ」と呼ばれるたび、自分がどれだけ大人になっても、家族にとってはいつまでも末の妹なのだと思わされる。
アカデミーでは、そんな砕けた呼び方をされることはほとんどなかった。
普段は「エルンストさん」で、本当に仲の良かった数人だけが「リディア」と呼んでいた。それで特に不満もなかったし、むしろ学生同士ならそのくらいが自然だと思っていた。
第三室へ入ってからは、また少し違う。
『リディア、その書類あとで俺んとこ回しといてくれ』
ラザはいつも、気負いなく名前だけを呼ぶ。誰に対してもそうなのかと思えば、第三室の面々以外にはそうでもないらしい。
『リディア君。そこの記述は確認したのかね』
レオニスは歳下に対して、必ずと言っていいほど「君」をつける。ただ、状況に応じて呼び方を適切に変えることも上手い人だった。
『エルンスト。これ、確認してくれ』
ユーリスは苗字だけ。こちらはラザやレオニスと違って、敬称や役職名がつく程度で基本はほとんど一貫していた。
以前、ノエルだけ名前で呼ぶのは何故なのかと誰かに聞かれていたのを見たことがある。
その時は「同期だから」と答えていたが、そういうものなのだろうか。リディアには同期がいないのでわからなかった。
『リディアさん、これお願いしてもいい?』
そしてノエルは、最初からずっと柔らかく「さん」をつけて呼んでいる。相手によって呼び方を変えることが多い人だけれど、どれも不思議と違和感がない。
同じ場所で働いているのに、こうして思い返してみると、それぞれ随分違うものだ。
一方、自分が誰かを呼ぶ時は、それほど複雑ではない。
基本的には、苗字に役職か敬称をつける。
エルヴェスター所長。
ローゼンフェルト補佐。
ヴァレンベルク先輩。
その方がわかりやすいし、リディア自身も落ち着く。
――ノエル先輩。
ただ一人、その規則性から外れた呼び方をしているノエルについても、最初からそうだったわけではない。
入局したばかりの頃は、他と差異なく「アルヴェイン先輩」と呼んでいた。
◇ ◇ ◇
「アルヴェイン先輩、この書類なんですが」
入局して、それほど経っていない頃だった。
王宮の廊下でノエルを見つけたリディアは、手にしていた書類を抱えたまま声をかけた。
ノエルが振り返る。
「うん。どうしたの?」
「この部分の処理について確認したいことがあって――」
そこまで言ったところで、近くを歩いていた二人の魔術師がこちらを振り返った。
「あれがアルヴェインの?」
「らしい」
「へぇ、随分と……」
声は小さかった。
それでも、聞こえないほどではない。
リディアは一瞬、何を言われているのかわからず、その場で固まった。
アルヴェイン。
確かにノエルのことだ。
けれど、なぜそんな声音で彼の名を口にするのか、その意味がすぐには結びつかなかった。
二人はもうこちらを見ていなかったが、口元にはどこか人を値踏みするような薄い笑みが残っている。
そこでようやく、好意的な話をしているわけではないのだと気づいた。
胸の奥へ、遅れて嫌な感覚が広がっていく。
アカデミーにも、陰口を言う人間はいた。
誰かの失敗を面白がったり、成績や家柄を比べて笑ったりする者も確かにいたし、人が集まる以上、そういうことがまったくないとは思っていなかった。
けれど、ここは宮廷魔法局だ。
魔術師の中でも選ばれた者が集まる場所で、入局したばかりのリディアにとっては、どこか別格の場所でもあった。そんなところでも、アカデミーの一角で耳にしたような幼稚な陰口を口にする者がいることが、少し意外だった。
それに、相手はノエルだ。
新人の自分にも穏やかに接し、質問をすれば手を止めて話を聞いてくれる。誰かに威圧的な態度を取るところも、他人を見下すような言葉を吐くところも見たことがない。
そんな先輩を、どうしてあんなふうに見る人がいるのだろう。
リディアには理解できなかった。
ノエルが魔術を得意としていないことは知っている。
単純に扱える術式の種類や精度だけを比べれば、自分の方が上回っているものも少なくない。
けれど、それが何だというのか。
自分にできてノエルにできないことがあるように、ノエルにできて自分にできないこともある。
それで十分ではないのか。
そう思った頃には、最初の困惑はすっかり腹立たしさへ変わっていた。
「……リディアさん?」
ノエルに呼ばれ、リディアは我に返る。
「どうかした?」
「いえ」
視線を戻すと、先ほどの二人はもう廊下の向こうへ歩いていくところだった。
ノエルもそちらをちらりと見て、少しだけ困ったように笑う。
「ごめんね」
「どうして先輩が謝るんですか」
「いや。僕の苗字、王宮だとちょっと目立つから」
気にした様子もなく、ノエルは言った。
「いつものことといえば、いつものことなんだけど。それでリディアさんまで嫌な気持ちになるのもなぁって」
「私は別に――」
言いかけて、止まる。
別に、ではなかった。
自分が言われたわけではないのに、確かに腹が立っている。
ノエルはそんなリディアを見て少し考え、それから口を開いた。
「よかったら、名前で呼んでくれていいよ」
「名前で、ですか?」
「うん。その方が、さっきみたいに変に目立たないかもしれないし」
名前。
リディアは一瞬だけ戸惑った。
家族以外の男性を、名前で呼ぶことはほとんどなかった。
「もちろん、今のままでも構わないよ。外で呼ぶ時だけ変えてもいいかもね」
「……そう、ですね」
リディアは少しだけ姿勢を正した。
「では……これからはノエル先輩と、呼ばせていただきます」
「うん、わかった」
それだけだった。
何かが大きく変わったわけでもないのに、しばらくは自分が妙に馴れ馴れしい呼び方をしているような気がして、落ち着かなかった。
とはいえ、よく考えてみれば第三室では誰もノエルを苗字で呼ばない。そんな環境もあって、一か月もすれば「ノエル先輩」の方がすっかり馴染んでいた。
◇ ◇ ◇
馬車が大きく揺れ、リディアは現在へ引き戻された。
窓の外を見ると、森の向こうには低い山並みが続き、その上を覆う空は薄い灰色だった。雪が降り出すほど厚い雲ではないらしく、ところどころから淡い陽射しが落ちている。
あれから一年。
今では「アルヴェイン先輩」と呼ぶ方が、むしろ違和感がある。
「ノエル先輩……」
小さく口にしてみる。
やはり、こちらの方が自然だった。
馬車はその後も何度か速度を落としながら、北へ進んでいった。道の脇に獣の群れが見えれば通り過ぎるまで待ち、路面が凍っている場所では御者が慎重に馬を進ませる。
予定よりは少し遅れているらしいが、御者に焦った様子はなかった。
「このくらいなら、今日の宿には暗くなる前に着きますよ」
そう言われ、乗客たちも特に気にしていない。
北部を走る馬車にとっては、この程度の遅れなど珍しいことでもないのだろう。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めた頃、馬車は街道沿いの小さな村へ入った。
ロゼとザーレンを結ぶ道の途中にある村で、行商人や旅人が夜を越すための休憩地として使われているらしく、通りには宿や厩舎がいくつか並んでいる。
馬も一日中走り続けられるわけではないし、これから先はさらに雪も深くなるため、今日はここで泊まり、翌朝に出発する予定だった。
宿はそれほど大きくなかったが、食堂には暖炉の火が赤々と燃え、煮込み料理と焼いたパンの匂いが漂っていた。長時間馬車に揺られていた身体には、その暖かさがありがたい。
夕食と湯浴みを済ませたあと、リディアは二階の部屋へ上がった。
荷物を置き、窓辺へ寄る。
夜の村は静かで、ぽつぽつと家々の灯りが見える向こうには、黒い森が広がっていた。空には薄い雲がかかっているものの、雪が降りそうな気配はない。
ここからザーレンまでは、あと四時間ほど。
今日の遅れを考えても、明日の昼頃には着くだろう。
「昼頃……」
ノエルにも、そのくらいの時間になると伝わっているはずだ。
リディアは旅行鞄を開き、ロゼで買った焼き菓子の箱を確認する。馬車で随分揺られたが、箱は潰れずに残っていた。
「よかった」
それを確かめてから鞄を閉じる。
今日は朝から移動し、長い時間馬車に揺られていたせいか、さすがに身体が重かった。ベッドへ横になると眠気はすぐにやってくる。
明日の昼には、ザーレン。
そう思いながら目を閉じると、今度は昨夜のように考え込む間もなく眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
ザーレン支部の二階では、ノエルが窓辺の机に向かっていた。
目の前には、一冊の天体日誌が開かれている。
窓の外には雲の切れ間から冬の星空が広がり、黒い森の上に細かな光がいくつも瞬いていた。
「今日は結構見えるなぁ」
窓を少し開けると、冷たい空気が一気に室内へ入り込み、ノエルは思わず肩をすくめる。それでも窓を閉めることはせず、そのまま空を見上げた。
雲はあるものの厚くはなく、風もそれほど強くない。
明日も、このまま大きく天気が崩れることはなさそうだった。
「よかった」
リディアは今日ロゼを出て、途中の村で一泊する予定だ。
大きな遅れがなければ、明日の昼頃にはザーレンへ到着するだろう。雪が強くなれば馬車が遅れることもあるだけに、天気が荒れなさそうなのは何よりだった。
ノエルは日誌へ視線を戻し、時刻と天候を書き込んでいく。
それから、少し前から気になっている星を探した。
「……やっぱり、明るいな」
北東の空。
他の星より、ほんの少しだけ強く輝いて見える星がある。
初めて気づいた時は、冬の空気が澄んでいるせいかと思ったが、その後も何度か同じように見えている。
今夜も、やはり少し明るい。
ノエルは日誌へ短く記録を残した。
『北東。一星、前回と同様に光度強く見える。天候晴れ、薄雲あり』
日時も書き加え、もう一度だけ空を見上げる。
気のせいかもしれない。
それでも、最初に見つけた時より少しだけ気になる。
ノエルはしばらくその星を眺めてから、日誌を閉じた。
「明日はリディアさんも来るし、早めに寝ようかな」
窓を閉めると、部屋には入り込んだ冷たい空気がまだ少し残っていた。
ノエルは灯りを落とし、そのままベッドへ向かう。
窓の外では、ひときわ明るい星が、静かに冬の空で輝いていた。




