4-4
翌朝。
王宮内の一室に設置された移動扉の前で、リディアは最後の確認をしていた。
足元には数日分の荷物を詰めた旅行鞄が一つ。手には、今回の試験運用に関する書類や、ロゼ支部で確認する項目をまとめた記録用紙が収められた仕事鞄を持っている。
目の前にあるのは、見た目だけなら王宮のどこにでもありそうな木製の扉だった。
けれど、その向こう側にあるのは隣室でも廊下でもない。
王都から遠く離れた、北部ロゼの宮廷魔法局支部だ。
「接続先、ロゼ支部。座標固定、問題なし」
扉の横に立っていたユーリスが、展開された術式へ目を向けながら告げる。
「向こう側も、事前確認では異常の報告はなかった」
「わかりました」
リディアは頷き、改めて扉を見た。
移動扉そのものを使うのは初めてではない。
これまでにも試験には何度か立ち会っており、実際に自分で通ったこともある。ただ、今回のように王都からロゼまで、一気に長距離を移動するために使うのは初めてだった。
馬車なら二日はかかる距離を、ほんの数歩で越えてしまう。
仕組みを理解していても、その事実にはまだどこか現実味がない。
「ヴァレンベルク先輩」
「なんだ」
「最終確認を。到着後は、まずロゼ側の扉の術式確認。その後、使用記録と申請記録を照合する、で合っていますか」
「ああ。大きな異常がなければ、それでロゼ側の確認は終わりだ」
「その後は予定通り、ザーレンへ向かいます」
「ザーレン側の扉にはまだ術式が入っていない。設置と調整は任せる」
「はい」
必要なことを確認し終え、リディアは旅行鞄を持ち直した。
「では、行ってきます」
「ああ。気をつけろ」
ユーリスが扉の取っ手へ手をかける。
ゆっくりと開いた扉の向こうには、王宮とはまるで違う部屋が広がっていた。
灰色がかった石造りの壁に、使い込まれた木製の棚。壁際の机には書類や器具が整然と並び、そのさらに奥にある窓からは、王都よりも白く淡い冬の光が差し込んでいる。
リディアは一瞬だけその光景を見つめ、それから扉を跨いだ。
境目を越えた瞬間、身体の表面を薄い膜が撫でていくような感覚が走る。
痛みはない。
ほんの一瞬だけ、足元と自分の身体の位置がずれたような奇妙な浮遊感があり、次の瞬間には何事もなかったように消えていた。
振り返れば、今通ってきた扉が静かに閉じていく。
その向こうにあったはずの王宮は、もう見えない。
「……何度使っても、不思議ですね」
「わかります。仕組みを知っていても、慣れませんよね」
思わず零れた言葉に、部屋の奥から声が返った。
顔を上げると、白衣を着た男性支部員がこちらへ歩いてくるところだった。
「エルンストさんですね。本日は遠いところ――と言っても、今回は扉一枚ですが。お疲れさまです」
「はい。宮廷魔法局本部第三室のリディア・エルンストです。本日は移動扉の稼働状況と、使用記録の確認をさせていただきます」
「伺っています。こちらでも記録はまとめてありますので、どうぞ」
「ありがとうございます」
軽く挨拶を交わし、リディアは仕事鞄を机の上へ置いた。
到着したばかりではあるが、まずは仕事だ。
ロゼの街を見るのは、その後でもできる。
◇ ◇ ◇
「最近の使用回数は?」
「この一か月で六回です。すべて試験運用として、事前に正式な申請があったものだけですね」
支部員が机の上に置かれた記録簿を開き、該当する頁をリディアへ向ける。
移動扉は、まだ誰もが自由に利用できる設備ではない。
使用する場合には、目的、利用者、移動先、予定時刻などを記載した申請を事前に提出し、試験運用の一環として許可を受ける必要がある。申請から許可が下りるまでには、早くても三日ほどかかるため、思い立ったその日に利用できるようなものでもなかった。
今はまだ、利便性よりも安全性と再現性を確かめる段階だ。
「六回分、すべて申請記録と照合してもいいですか?」
「もちろんです。こちらが申請書の控えになります」
差し出された書類を受け取り、リディアは一件ずつ確認していく。
申請者。
利用者。
目的。
使用日時。
実際の使用記録にも目を通し、申請された内容と食い違いがないことを確かめる。
申請そのものに不備はない。
ただ、試験運用の記録として見れば、いくつか気になるところはあった。
「この資材搬送ですが、運んだものの量は残っていますか?」
「量、ですか?」
「はい。品目は記載されていますが、箱数やおおよその重量がありません。移動そのものに問題はなかったとしても、今後どの程度の荷物まで安定して通せるのか検証する時に、記録があった方が比較しやすいと思います」
「ああ……言われてみれば、そうですね」
「正確な重量まで測る必要はないと思います。箱数か、おおよその重量だけでも十分です」
「わかりました。次から記録するようにします」
「お願いします」
リディアは頷き、次の申請書へ目を移した。
しばらく確認していると、今度は別の欄で指が止まる。
「……こちらの使用目的は、《魔術関連調査》ですか」
「はい。何か問題が?」
「いえ、申請自体にはありません。ただ、これも後から見返すことを考えると、少し曖昧ですね」
同じ利用者による申請が、この一か月で二件ある。
どちらも正式に許可が下りており、使用日時や移動先にも不自然な点はない。ただ、目的欄に書かれているのは、二件とも同じ《魔術関連調査》という文言だけだった。
「せめて調査対象か、調査地域くらいまでは記載してもらった方がいいと思います。これだけだと、後から何のために利用したのか確認する必要が出た時に、申請書だけでは追えませんから」
「なるほど。確かにそうですね」
「今回分については許可も下りていますし、問題ありません。今後の申請からで大丈夫です」
「わかりました。こちらでも確認するようにします」
「お願いします」
リディアはそのまま次の書類を手に取った。
他の記録についても細かな確認を続けたが、大きな不備は見つからなかった。
「使用者から、転移直後の体調不良や違和感について報告はありましたか?」
「大きなものはありません。一件だけ、移動直後に少し身体が浮くような感じがしたという報告がありましたが、数秒で収まっています」
「私も先ほど似た感覚がありました。現時点では、想定の範囲内だと思います」
「こちらでも継続して記録しておきます」
「お願いします。術式の再調整は?」
「設置直後に一度だけです。それ以降は触っていません」
「わかりました。では、術式を確認します」
記録用紙を置いたリディアは、移動扉の前へ移動してしゃがみ込んだ。
扉枠へそっと指を添え、そこに流れている魔力を読む。
接続座標を固定する術式。
起動時に必要な魔力を供給する術式。
人や荷物が境界を通過する際、その負荷を抑えるための緩衝術式。
それだけではない。
一つの術式に異常が生じた際、他の部分へ影響が広がらないよう流れを切り分ける仕組みや、接続が不安定になった場合には扉そのものを開かなくする安全機構も組み込まれている。
複雑ではある。
けれど、乱雑ではなかった。
むしろ驚くほど整理されている。
リディアは一つずつ魔力の流れを追っていった。
どの術式が、何のために存在するのか。
なぜこの位置に置かれ、どこへ繋がっているのか。
時間をかければ、読むことはできる。
理屈も理解できる。
けれど、これを何もないところから考え出せと言われたら。
リディアは扉枠を見上げた。
「……やっぱり、すごいですね」
「術式がですか?」
近くで作業を見ていた支部員が尋ねる。
「はい。あとは、この術式を考えた人も」
「ああ、ヴァレンベルク様ですか」
「はい」
ユーリス本人は、この移動扉について大げさに語ることがない。
必要だから考えた。
作れるから作った。
本人に聞けば、おそらくそのくらいのことしか言わないだろう。
天才と呼ばれる類の人物には、自分の理論を語りたくて仕方がない者と、逆に必要最低限しか話そうとしない者がいる。
リディアの知る限り、ユーリスは明らかに後者だった。
聞かなければ説明しない。
聞いたとしても、相手がどこまで理解できるかを考えるより先に、必要な答えだけを簡潔に返してくる。
けれど、口数が少ないからといって、中身まで単純なわけではない。
こうして実際に術式を追えば、それが簡単なものではないことくらいリディアにもわかる。
空間そのものを接続する術式を、人間が日常的に使用できる形へ落とし込み、専門家ではない魔術師でも維持や調整ができるよう構造を整理している。そのうえ、万一の事故を防ぐための仕組みまで、何重にも組み込まれていた。
発想や理論だけでは足りず、実際に誰かが使うところまで考えなければ、こんな形にはならない。
「……ここですね」
わずかな違和感を見つけ、リディアは視線を止めた。
扉枠の右上。
補助術式の一部だけ、他と比べて魔力の流れがわずかに強くなっている。
「何か問題が?」
「大きなものではありません。この部分だけ少し流量が偏っています。今の段階で影響はありませんが、整えておいた方がいいと思います」
「そうでしたか、ぜひお願いします」
リディアは杖を取り出す。
元の術式を書き換える必要はない。
既に組まれている流れを壊さないよう、少しずつ魔力を通して偏りを均していく。
こういう細かな調整は、リディアの性に合っていた。乱れている場所を見つけ、一つずつ整えていく作業は、どこか散らばっていた知識を整理していく感覚にも似ている。
数分ほどかけて調整を終えると、リディアは一度手を離し、改めて全体へ魔力を巡らせた。
「……大丈夫です。これで問題ないと思います」
「ありがとうございます。助かりました」
「元の術式がしっかりしているので、調整自体は難しくありません」
「それでも、私ならどこがずれているか探すだけでも時間がかかりますよ」
支部員が苦笑する。
リディアはどう答えるべきか少し迷い、結局、小さく頭を下げるだけにした。
その後も記録と術式を一通り確認し、今回見つかった軽微な偏りについても記録用紙へ追記する。
現時点で大きな異常はなし。
利用者から重い体調不良の報告もなし。
継続使用による術式の著しい劣化も見られない。
ロゼ側の確認としては、十分だった。
「これでこちらの確認は終わりです」
「お疲れさまでした」
「ご協力ありがとうございました」
「いえいえ。ザーレンへは、この後すぐですか?」
「まだ少し時間はありますが、乗り場まで歩いて行くつもりなので、そろそろ出ます」
「そうでしたか。本日はご対応ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
リディアは用紙を仕事鞄へ戻し、旅行鞄を持ち上げた。
支部の建物を出ると、北部らしい冷たい空気が頬に触れた。
◇ ◇ ◇
ロゼの街を歩くのは久しぶりだった。
生まれ育った土地そのものではないが、それでも幼い頃はよく家族と一緒に訪れた街だ。
王都ほど大きな建物は多くなく、街路も少し狭い。石造りの家々の屋根には白い雪が薄く残り、軒先には厚手の外套や毛織物、冬用の靴などが並んでいる。
行き交う人々も、王都より一段厚い服装をしていた。
空気は冷たい。
けれど嫌ではない。
鼻から息を吸い込むと、冷気が胸の奥まで入ってくるようで、どこか懐かしい。
リディアは旅行鞄を手に、見覚えのある通りを歩いていった。
わざわざ遠回りをして街を見物するつもりはない。
ただ、馬車の時間にはまだ少し余裕があり、乗り場までの道を急ぐ理由もなかった。
昔より新しい店が増えている。
見覚えのあった建物が別の店に変わっている場所もある。
それでも道そのものは大きく変わっていないらしく、考えなくても自然と足が進んだ。
幼い頃は、兄や姉の後ろを歩いていた道だ。
兄が気になる店を見つけて勝手に脇道へ逸れ、母に呼び戻される。
姉は姉で、新しい服や菓子を見つけるたびに足を止める。
そんな二人に挟まれて歩いていた自分は、たぶん今よりずっと小さかった。
通りの角を曲がったところで、ふと甘い香りが風に混じった。
リディアは足を止める。
小さな焼き菓子屋だった。
「……なつかしい」
店構えは記憶より古びていた。
木の看板は少し色褪せ、窓枠にも長い年月を感じる。それでも、店先に描かれた木の実の意匠には見覚えがあった。
子どもの頃、ロゼへ来るたびに姉が寄りたがった店だ。
『リディ、ここの木の実のお菓子、おいしいのよ』
『お姉様、さっきも何か食べていませんでしたか』
『それとこれとは別なの』
『別なんですか?』
『別よ』
なぜ別なのかは、結局よくわからなかった。
兄はその横で「俺はいらない」と言っていたくせに、母が買った菓子を帰りの馬車で当然のように食べていた。
思い出すと、少しだけ口元が緩んだ。
時計を見る。
まだ時間はある。
リディアは一度だけ店を見上げ、それから扉を開けた。
小さな鐘が鳴る。
店内へ入った瞬間、温かな空気と一緒に甘い香りが広がった。
焼いた小麦と木の実。
甘いアマレッダの蜜。
それに、わずかな香辛料の香り。
昔とまったく同じかどうかまでは覚えていない。
それでも、妙に懐かしく感じた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、年配の女性が顔を出した。
「何かお探しですか?」
「少し手土産を探しています。明日まで馬車で移動するので、日持ちするものがいいのですが」
「それなら焼き菓子がいいですね。贈り物でしたら、こちらの詰め合わせなんかどうでしょう」
示された箱には、数種類の焼き菓子が少しずつ入っている。
木の実入り。
香辛料を使ったもの。
アマレッダの蜜を練り込んだもの。
大きすぎず、小さすぎない。
リディアは少し考えた。
ザーレン支部へ行く以上、支部長への挨拶くらいは必要だろう。
それに、ノエルにも何か持っていこうとは思っていた。
彼が甘いものを特別好むかどうかはわからないが、第三室にいた時は薬草茶と一緒にお菓子が添えられていたこともあったから、嫌いということもないだろう。
「では、それを一箱お願いします」
「はい。包みますね」
女性が箱を奥へ持っていく。
待っている間、リディアは店内に並べられた菓子をなんとなく眺めた。
その中に、見覚えのあるものがあった。
小さく丸めた生地に砕いた木の実をたっぷり混ぜ込み、表面を香ばしく焼いた菓子。
姉が好きだったものだ。
昔はロゼへ来るたびに必ず買っていた。
「……」
少し迷ってから、リディアは店員へ声をかけた。
「すみません。これも一ついただけますか」
「あら、こちらも? 道中で召し上がります?」
「はい。たぶん」
「でしたら別に包んでおきますね」
「お願いします」
手土産とは別に、小さな紙包みが一つ増えた。
店を出ると、また冷たい風が頬を撫でる。
けれど手にした袋からは、まだほんのりと焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
リディアはそのまま馬車乗り場へ向かう。
途中、昔からある噴水広場を横切った。
冬の間は水を止められているため、中央の噴水は白く薄い雪を被っている。その周りを厚着した子どもたちが走り回り、少し離れた場所では買い物帰りらしい女性たちが立ち話をしていた。
幼い頃、自分もあの辺りを歩いたことがある。
ただし、走り回っていたのは主に兄で、自分は母の横を歩いていた気もする。
そう思うと、少しおかしい。
宮廷魔法局へ入ってから一年。アカデミーに通っていた時期まで含めれば、こうしてロゼの街をゆっくり歩くのは随分久しぶりだった。
それでも、知っている景色は思っていたより簡単に昔の記憶を引っ張り出してくるらしい。
昨日まで、昔のことなどほとんど思い返さなかったというのに。
リディアは手にした旅行鞄を持ち直した。
今日は帰省ではない。
ロゼも目的地ではない。
これからさらに北へ向かう途中だ。
◇ ◇ ◇
馬車乗り場へ着いた頃には、出発までまだ少し時間が残っていた。
屋根付きの待合所には何人か先客がおり、大きな荷物を抱えた商人らしい男や、厚手の外套に身を包んだ老夫婦が長椅子へ腰掛けている。
リディアも空いている端の席へ座った。
足元には旅行鞄。
膝の上には仕事鞄。
その横には、先ほど買った焼き菓子の箱と、小さな紙包み。
何とはなしに荷物へ目を向ける。
仕事用の書類は入っている。
ザーレン側の設置に必要な道具もある。
着替えも問題ない。
許可証も――。
そこまで考えて、リディアは止まった。
「……」
前日、ラザに言われたことを思い出す。
『適度に力抜くことも覚えとかねぇと、抱えすぎて潰れるぞ』
さすがに忘れ物の確認くらいはしてもいいと思う。けれど、出発前に何度確認したかまでは数えないことにした。
リディアは荷物から目を離し、待合所の向こうへ広がるロゼの街を見る。
今日の仕事は、ここまでは順調だった。
王都からの移動にも問題はなく、ロゼ側の移動扉にも大きな異常はなかった。
次は、ザーレン側への設置と試運転。
そこまで考えると、自然と一人の顔が浮かぶ。
ノエルは今頃、何をしているのだろう。
昨日までなら、その先に自分の失敗まで一緒に思い出していただろう。
けれど今は、不思議とそこまで気持ちが沈まなかった。
会ったら、聞いてみればいい。
そう決めたからかもしれない。
それに。
リディアは隣に置いた焼き菓子の箱を見る。
ザーレンへ着いたら、まずはこれを渡そう。
しばらくして、雪の残る通りの向こうから、ゆっくりと車輪の音が近づいてきた。
何頭かの馬に引かれた乗合馬車が、白い息を吐きながら停車場へ入ってくる。
ザーレン行きだった。
係員が行き先を告げる声に合わせ、待っていた人々が立ち上がる。
リディアも荷物を持ち、列へ加わった。
王都からロゼまでは、扉一枚。
けれど、ここから先は馬車で一日かかる。
舗装された街路を抜け、さらに北へ。
雪の深い土地へ向かう。
リディアは焼き菓子の箱が潰れないよう荷物を抱え直すと、ザーレン行きの馬車へ乗り込んだ。




