4-3
翌朝。
リディアは、いつもより少し早く第三室へ来ていた。
明後日には王宮を発ち、ロゼへ向かう。その翌日には馬車でザーレンへ入り、数日間は向こうで移動扉の設置と試運転にあたる予定になっている。
急な出張ではあったが、仕事を残していくつもりはなかった。
机の上には、処理を終えた書類と出発前に確認が必要なものがきっちりと分けられており、必要な引き継ぎもほとんど書き終えていた。
「うおっ……また随分と積み上げてんなぁ。そこまで必要か? 長くても一週間だろ」
横から声をかけられ、リディアは顔を上げた。
ラザが、机の端に置かれた紙の束を見下ろしている。
「ですが、私が不在の間に確認が必要になった場合――」
「お前がいなきゃ、誰も判断できない仕事が存在してる方が問題だろう」
「それは、そうですが」
そもそも、リディアが今担当している仕事のほとんどは、以前にも誰かが受け持っていたものだ。ユーリスやレオニスが担当していたものもあれば、もっと昔にはラザが扱っていたものもあるかもしれない。
新しく始めた仕事にしても、立ち上げの段階で誰かが内容に目を通し、業務の流れは共有されている。だから、ラザの言い分はもっともだった。
「んなもん最低限でいい。出発前に疲れてどうすんだ」
「……はい」
リディアは少し迷ってから、引き継ぎ用に書いていた紙を一枚だけ抜いた。
全部ではない。
一枚だけだった。
ラザが何とも言えない顔をする。
「お前、昔からそうなのか?」
「何がですか」
「きっちりやらなきゃ気が済まないところだよ」
リディアは少し考えた。
「……そうかもしれません」
「なるほどな。まぁ、そういうのが好きなら悪かねぇが……適度に力抜くことも覚えとかねぇと、抱えすぎて潰れるぞ」
そう言いながら確認が必要な書類を引き取ったラザは、自分の席へ戻る途中でそれをぱらぱらとめくり、数枚だけ抜き取ると、残りをそのままレオニスの机に置いていった。
「……」
リディアは見なかったことにして、ラザに言われた言葉についてもう少し考えてみる。
確かに昔からそうだった。
物は決まった場所に置く方が好きだったし、予定が決まっているなら先に確認しておきたかった。
勉強が好きだった理由も、そこにある。
新しいことを覚えるたび、頭の中にあった空白が一つずつ埋まっていくような感覚が心地よかった。わからなかったものに名前がつき、散らばっていた知識同士が繋がっていく。
そういうものが、子供の頃から好きだった。
◇ ◇ ◇
リディアが生まれたエルンスト家は、ロゼ近郊に古くから土地を持つ北部地方貴族家である。
王都の華やかな社交界で名が通るような家柄ではないが、領地経営は代々堅実で、家の歴史もそれなりに長い。
そんなエルンスト家の末娘であるリディアには、少し歳の離れた兄と姉がいた。
二人とも幼い頃から何かと騒がしく、兄は家を抜け出して友人たちと遠乗りへ行っては叱られ、姉は気に入らない礼儀作法の教師と言い争っては母を困らせていた。
今ではどちらも落ち着いて、兄は父の仕事を手伝いながら家督を継ぐ準備をしており、姉も嫁いで子どもがいる。
けれど、リディアの記憶に残る二人は、もう少し自由奔放だった。
「リディを少しは見習いなさい」
母がそう言うたびに、兄は大袈裟に肩を落とした。
「いや、リディを基準にされたら困るって」
「そうよ。リディはちゃんとしすぎなの」
姉まで便乗する。
「私、何かおかしい?」
幼いリディアが尋ねると、兄は笑った。
「おかしくない。むしろ偉い! 偉すぎる!」
「じゃあ、どうして困るの?」
「俺たちが怒られるから」
「それはお兄様たちが悪いのでは?」
「ほら、こういうところだよ」
姉が笑いながら、「生意気」と言ってリディアの頬を優しくつついた。
貴族の家庭では、家族であると同時に、それぞれが家を支える役割を求められることも多い。息子には家督や領地を継ぐ責任があり、娘にも家同士の繋がりを考えた縁談が持ち込まれる。
本人の希望より、家の事情が優先されることも珍しくない。
そんな貴族が珍しくもない中で、エルンスト家はごく普通に家族仲の良い家庭だった。
兄も姉も、歳の離れた妹をよく可愛がったし、父母も兄姉に比べて手のかからないリディアを信頼していた。
父母がリディアに対して心配していたことがあるとすれば、一つだけ。
大勢が参加する社交の場を、あまり得意としていなかったことくらいだった。
「……リディア・エルンストです」
知らない人間が多い場所へ行くと、何を話せばいいのかわからない。必要な挨拶を済ませれば、それで十分な気がしてしまう。
兄も姉も、その逆だった。
人の輪へ入るのが早く、初対面の相手ともすぐに会話が続く。
だから、幼い頃のリディアが自分の名前を言ったあと黙って立っていると、兄が勝手に説明していた。
「可愛いだろ? うちの妹。ちょっと照れ屋なんだけど」
「別に照れてはいません」
「そういうことにしとけって」
兄が少し大袈裟に肩をすくめれば、周囲の誰かが「これは兄よりしっかりした妹だな」などと言って場が和む。
ある時、社交の席から帰った後、リディアがそういう自分を気にしたことがあった。
「私も、お兄様やお姉様みたいに話せた方がいいのかな」
すると姉は、あっさり首を振った。
「別にいいんじゃない?」
「でも」
「リディは勉強も魔術も得意なんだから、それでいいでしょ」
姉はそう言って、それから少し考える。
「全部得意になる必要なんてないのよ。苦手なことは得意な人に助けてもらえばいいし、その代わり、自分が得意なことで助けてあげればいいの」
その言葉を、リディアはずっと覚えていた。
◇ ◇ ◇
出発の前夜。
リディアは王都にある自宅へ戻ると、夕食を簡単に済ませてから旅支度の最終確認を始めた。
一人暮らしの部屋は静かだった。
数日分の衣類、筆記具、仕事用の資料。移動扉の調整に必要な細かな道具も確認し、忘れ物がないよう一つずつ鞄へ詰めていく。
こういう作業は嫌いではない。
必要なものを確認し、順番に片付けていくと気持ちが落ち着く。
ふと、アカデミーにいた頃を思い出す。
あの頃も、一日の終わりにはこうして次の日の授業に備えて準備をしていた。
筆記具を確認し、座学の教科書は揃っているか、実技で使う杖に不具合はないか、一つずつ確かめてからベッドに入る。
だからリディアは在学中、忘れ物や持ち物の不備をしたことがほとんどなかった。
人間関係については、どうだっただろう。
そう考えてみるが、記憶の中では大きく困ることはなかった。
友人は普通にいた。周囲には個性的な人や賑やかな人もいたが、いつも話す友人は、リディアと似たような性格の者が多かった。
授業を真面目に受け、課題を期限までに出し、試験前になれば図書館で勉強する。
そういう者同士で自然と集まっていた。
「エルンストさん、これ提出方法が違うわ」
「本当ですね。ありがとうございます」
「どういたしまして」
気づいたことがあれば指摘し合い、必要なら直す。
疑問があれば調べ、わからなければ聞く。
やるべきことがあるなら先に片付ける。
リディアにとっては、とても付き合いやすい相手ばかりだった。
もちろん、別の集団からは時々言われた。
「エルンストって真面目すぎない?」
「ちょっと堅いよね」
そういう評価があることは知っていた。
けれど、それで困ることも特になかった。
教師からはむしろ信頼されていたし、課題や実技で手を抜かなければ結果もついてきた。
幸運なことに、魔術の才にも恵まれていた。
特に自然魔術全般の適性が高く、理論も実技も好きだった。
姉のように、家のために貴族令嬢として結婚する道もあっただろう。
けれど、せっかく自分が得意なものがあるのなら、それを活かしたいと思った。
勉強と魔術の両方を活かせて、自分の力で働ける場所。そう考えて、魔術師としては最難関と名高い宮廷魔法局を志した。
◇ ◇ ◇
そうして、地道な努力と時の運も重なり、入局したのが一年前だった。
家族も両手を上げて喜んだ。王都で一人暮らしをすることに対してだけは、父と兄が随分心配していたが、アカデミーでも寮生活だったので、リディアに新生活そのものへの不安はあまりなかった。
しかし、働き始めてすぐに気づいたことがあった。
それは、職場では付き合う相手を自分で選べないという、ごく当たり前のこと。
家族でもない。
気の合う友人だけでもない。
仕事では、必要なら相手がどんな人間でも関わらなければならない。
王宮内には当然のように、王族や上流貴族、著名な魔術師、武勇を誇る騎士たちがいる。それだけでなく、従者や使用人、滞在している他国の来賓など、身分も人柄も様々だ。
そして、配属された宮廷魔法局本部第三室も少々――いや、かなり個性的な人間が多かった。
所長は自由すぎるほど自由。
所長補佐は神経質で気難しい。
先輩の一人は、何を考えているのかわからない。
しかも、それぞれが自分よりずっと格上の貴族や、魔術師の名家出身だった。
同期どころか、同性の同僚すらいない。
入局したばかりの頃のリディアは、本当にここでやっていけるのか少し不安だった。
一年経った今なら、それぞれへの印象も違う。
ユーリスは口数こそ多くはないが、話せば必要なことにはきちんと答える。
レオニスは気難しいところもあるが、それ以上に世話焼きで、思っていたよりずっと表情豊かだ。
ラザも奔放ではあるものの、大事な場面では頼りになるし、意外なほど周囲をよく見ている。
けれど、当時のリディアにはそんなことはわからなかった。
そんな中で、一番接しやすかったのがノエルだった。
魔術師の名門アルヴェイン家の人間だということは、名前を聞けばすぐにわかった。それでもノエルは気取ることなく、いつも口調が穏やかで、声をかけても身構えなくていい雰囲気を持っていた。
質問をすれば当然のように手を止め、きちんと身体をこちらへ向けて耳を傾けてくれる。相手が新人だからと妙に上から扱うこともない。
それまで家族以外の男性と深く関わる機会がほとんどなかったリディアにとっても、不思議なほど距離を測らなくていい人だった。
そのうち、第三室の他の面々とも少しずつ話せるようになってはきたが、思えばノエルが間にいると、何となく会話へ入りやすいことが多かった。
当時のリディアにとって、ノエルがいてくれたことは思っていた以上に心強かった。
◇ ◇ ◇
昔を思い出しながら旅支度を終え、灯りを落とした頃には、もうずいぶん遅い時間になっていた。
リディアはベッドに潜り込み、目を閉じる。
明日はいよいよロゼへ向かう。
そこからさらに馬車で一日。ザーレンへ着けば、移動扉の設置と試運転が待っている。
仕事そのものは不安ではなかった。
手順もわかっているし、必要な準備も済ませた。
それでも、目を閉じると先日のことが浮かんでくる。
また同じように、相手の意図を読み違えたら。
正しいことを言っているつもりで、また誰かを怒らせたら。
考え始めると思考が迷路に入り込んだように出口を見失い、なんだか目が冴えてしまう。
そんな時、ふとノエルのことを思い出した。
ザーレンでは雪が積もり始めたらしい。渡したマフラーはちゃんと使っているだろうか。仕事の方は順調なのだろうか。
「……ノエル先輩」
明後日には会える。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
ザーレンに着いたら、向こうでの仕事のことを聞いてみよう。それから、自分が今悩んでいることも。
どうすれば、必要なことを伝えながら相手とぶつからずに済むのか。
そんなこともわからないのかと呆れられるだろうか、と一瞬考えたけれど、どうしてもそんな顔をするノエルは想像できなかった。
なら、聞いてみればいい。
姉も昔、苦手なことは得意な人に助けてもらえばいいと言っていた。
そこまで考えたところで、ようやく少し肩の力が抜けた。
不安から別のことへ意識が移ったのがよかったのか、胸の中に残っていたざわつきも、いつの間にか静かになっている。
その夜、リディアはそのまま眠りに落ちた。




