4-2
数日前。
宮廷魔法局の書庫は、普段なら静かな場所だった。
研究資料や過去の術式記録、魔道具の設計書など、局内で扱われる文書の多くがここに保管されている。
その中でも、閲覧や持ち出しに特別な許可を必要とするものは、一般の書架とは区切られた奥の保管区画に収められていた。
「お待ちください」
リディアの声に、書庫の出口へ向かっていた男が足を止める。
年の頃は三十前後。
仕立てのいい外套と、胸元に下がった家紋入りの飾りから、貴族であることは一目でわかった。
その手には、一冊の厚い本が抱えられている。
「何だ」
「そちらは禁書指定を受けている資料です。持ち出しには許可証が必要です」
男は僅かに眉を寄せた。
「許可なら受けている」
「確認できていません」
「後で通す」
「先に申請してください」
リディアは淡々と答えた。
「禁書指定資料の持ち出しは、許可の確認後でなければ認められていません」
男の顔から、目に見えて機嫌が消えていく。
「急ぎで必要なのだ」
「でしたら、なおさら先に手続きをお願いします」
「私はアルディン家の者だぞ」
「存じています」
王家の遠縁にあたる家系ではあるが、王都で特別大きな権勢を持つ家というわけではない。
少なくとも、宮廷魔法局の規則を無視できる立場ではなかった。
「ならば話は早い。返却は明日する」
「できません」
リディアは即答した。
男の眉が跳ね上がる。
「……何?」
「規則違反です」
「貴様、誰に向かって口を利いている」
「どなたであっても、規則は同じです」
男の顔が赤くなる。
「この程度の資料一冊で、私を犯罪者のように扱うつもりか!」
「そのようなことは申し上げていません。ただ、無許可で禁書を持ち出すことは――」
「同じだろう!」
声が書庫へ響く。
周囲で作業していた職員たちが、ちらちらとこちらを窺い始める。
それでもリディアは下がらなかった。
「では、資料をお戻しください。必要であれば、すぐに申請書をご用意します」
「だから、急いでいると言っている!」
「手続きを省略する理由にはなりません」
「融通の利かん女だな!」
「規則に融通を利かせる必要はありません」
また一つ、男の顔が険しくなった。
リディアには、その理由がよくわからなかった。
自分はただ、規則を説明しているだけだ。
申請をすれば済む話なのだから、ここで言い争う必要などない。
「その資料を、今すぐ返せと言っているのか?」
「はい」
「私に命令するのか」
「書庫管理を担当する者として、必要な対応をしています」
「貴様――」
「これはこれは」
横から、よく通る声が割り込んだ。
リディアが振り向く。
「所長補佐」
レオニスが書庫の入口に立っていた。
いつものように整った身なりで、片手には数枚の書類を持っている。
「随分と賑やかだね。書庫は静かに利用する場所だと記憶していたのだが」
「ローゼンフェルト殿」
男の表情が僅かに変わる。
レオニスはにこやかに微笑んだ。
「お久しぶりです。アルディン卿」
「……ああ」
「何かお困りですか?」
「いや、少しこの女と話が噛み合わなくてな」
「なるほど」
レオニスはリディアを見る。
「リディア君」
「はい」
「状況を簡潔に」
「禁書指定資料を、許可証の確認前に持ち出そうとされましたので、返却をお願いしています」
「そうか」
それだけ聞くと、レオニスは男へ視線を戻した。
「アルディン卿。こちらの資料は、お急ぎで必要なのですね?」
「ああ。今夜中に確認したい」
「それはお困りでしょう」
レオニスは穏やかに頷いた。
「でしたら、こちらで至急申請を通しましょう。通常より早く確認できるよう、私から担当へ話を通します」
「……しかし」
「何も明日までお待ちいただく必要はありません。正式な手続きさえ済めば、今夜中にはお持ちいただけます」
男の表情が僅かに緩む。
「そうか」
「ええ。アルディン家ともあろうお家が、宮廷魔法局の規則をご存じないまま禁書を持ち出したなどと、妙な誤解を受けては困りますからね」
笑顔のまま、レオニスは続けた。
「まして王家にも連なるお家です。つまらぬことで、その名に傷がつくようなことは避けた方がよろしいでしょう」
「…………」
男の口元が僅かに引きつる。
「もちろん、単なる手続き上の行き違いでしょうが」
「あ、ああ。無論だ」
「それはよかった」
レオニスは満足そうに頷いた。
「では資料は一旦こちらへ。申請はこちらで急がせます」
「……わかった」
男は手にしていた本をリディアへ差し出した。
リディアが受け取る。
「失礼する」
「ええ。後ほど担当からご連絡いたします」
レオニスは丁寧に一礼した。
男が書庫から出ていく。
完全に姿が見えなくなるまで待ってから、レオニスはゆっくりと息を吐いた。
「……リディア君」
「はい」
「少し来たまえ」
声は穏やかだった。
それがかえって、リディアには嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇
場所を変えた小会議室で、リディアはレオニスの前に立っていた。
「まず確認する」
レオニスは椅子へ腰掛けたまま、眼鏡を押し上げる。
「君の判断は正しかった」
「……はい」
「禁書を無許可で持ち出そうとする者を止める。それ自体には何の問題もない」
「はい」
「では、何が問題だったと思う?」
リディアは少し考えた。
「……相手が貴族だったこと、でしょうか」
「違う」
即答だった。
「相手が平民であっても同じだ」
レオニスは指を組む。
「君は、正しいことを言えば、それで正しく伝わると思っている節がある」
リディアは黙る。
「規則を守れ。それは正しい。申請をしろ。それも正しい。だが君は、相手がどの時点で引き返せなくなっているのかを見ていなかった」
「……引き返せなくなっている?」
「面子だよ」
レオニスは淡々と言う。
「人前で、自分より若い職員に何度も規則違反だと言われる。そこで素直に『そうですか』と引ける人間ばかりではない」
「ですが、それは相手の――」
言いかけて、リディアは口を閉じた。
レオニスはその反応を見て、僅かに眉を上げる。
「続けたまえ」
「……相手の事情です」
「そうとも」
否定しなかった。
「だが、君は職務として人を動かさなければならない」
静かな声だった。
「正しさを示すことが目的ではない。資料を返却させ、規則を守らせることが目的だ」
「…………」
「ならば、そのために最も適した言葉を選ぶべきだ」
リディアは視線を落とした。
「以前にも言ったはずだ。相手の受け取り方を少し考えたまえ、と」
「……はい」
「今日の君は、それができていなかった」
「はい」
「もし私が来なければ、どうするつもりだった?」
「……返却いただけるまで、説明を続けるつもりでした」
「だろうね」
レオニスが深く息を吐いた。
「それでは、最終的に衛兵を呼ぶところまで行っていた可能性もある」
リディアは何も言えなかった。
「それでも君は、規則の上では正しいだろう」
少し間を置く。
「だが、正しいことだけをしていれば、仕事がうまくいくわけではない」
「……はい」
「君は優秀だ。だからこそ、そこを覚えたまえ」
慰めるような声音ではなかった。
「自分の正しさだけを基準に相手を見るな。人には立場も感情もある。それを理解しろとは言わない。少なくとも、存在することくらいは考慮したまえ」
「……申し訳ありませんでした」
リディアは深く頭を下げた。
「私の対応不足で、所長補佐にもお手間を取らせました」
「私の手間などはどうでもいい」
レオニスは少し眉を寄せる。
「問題は、次に同じことをしないことだ」
「はい」
「戻っていい」
「失礼いたします」
リディアはもう一度頭を下げ、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
その日から、リディアは少し静かになった。
と言っても、仕事に支障が出るほどではない。
頼まれたことはいつも通り正確にこなし、書類の不備もなく、時間にも遅れない。
ただ、休憩中に口数が減り、以前なら疑問に思ったことをすぐに尋ねていたところで、少し考え込むことが増えた。
間違ったことをしたとは思っていない。
禁書の持ち出しを止めたことも、規則を説明したことも、必要な対応だった。
それでも、場を拗らせた。
所長補佐に対応を任せることになった。
そして何より、以前から注意されていたことを、また直せなかった。
「…………」
リディアは机の上の書類へ目を落とした。
正しいだけでは足りない。
そう言われたことが、思った以上に引っかかっていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
「所長、所長補佐。少しいいですか」
ユーリスに声をかけられ、ラザが読んでいた資料から顔を上げた。
「ん?」
向かいでは、レオニスも書類から視線を外す。
「何かね」
「ザーレンから、移動扉の試験使用について打診がありました」
「ザーレン?」
「ノエルからです」
ユーリスは簡潔に事情を説明した。
支部長のオリバーが近いうちに後任探しの旅へ出ること。その長距離移動の負担を減らすため、移動扉を試験的に利用できないかという相談を受けたこと。
「使用者としても条件は悪くありません。高齢者の長距離移動に対する負担軽減を確認できる上、本人も魔術師なので、転移前後の魔力や体調についてある程度詳しい報告が取れます」
「いいんじゃねぇの?」
ラザはあっさり言った。
「実地試験の数は多い方がいいだろ」
「私も異論はないよ」
レオニスも頷く。
「問題は設置か?」
「はい」
ユーリスは続けた。
「俺がザーレンへ行けば、その日のうちに術式の付与と試運転まで終わります」
「なら行ってくればいいじゃねぇか」
「それでも構いません」
ユーリスは一度言葉を切る。
「ただ、実用化を考えるなら、製作者以外の魔術師でも設置と調整ができることを確認しておいた方がいいと思います」
「なるほど」
レオニスが眼鏡を押し上げた。
「君しか扱えないのであれば、結局各地へ設置するたびに君自身が赴くことになるからね」
「そうです」
「で?」
ラザが先を促す。
「誰か候補がいるのか。いなくて困ってるって話なら俺が行ってもいい」
「いいわけないだろう。この書類の束が見えていないのかね?」
「エルンストが適していると思います」
ユーリスの言葉に、二人の視線が少し離れた席へ向いた。
リディアは自分の机で黙々と書類を確認している。
仕事ぶり自体は普段と変わらない。
ただ、ここ数日は休憩時間になっても席を離れることが少なく、誰かと話すことも減っていた。
「移動扉の試運転には何度か参加しています。術式の構造も理解していますし、設置手順も一通り把握している。俺以外が対応する試験としては適任です」
「なるほどな。じゃ、それで」
ラザはリディアを一瞥し、これまたあっさり頷いた。
「何日か王宮から離れりゃ、気分転換にもなるだろうしな」
「…………」
レオニスは返事をしなかった。
ラザが横を見る。
「どうした」
「いや」
「気になるならそう言えよ」
「別に気にしてなどいない」
「嘘つけ」
「何が嘘なのだ!」
声が大きくなりかけ、レオニスはすぐに抑えた。
リディアは顔を上げない。
それを確認してから、ラザが小さく笑う。
「まだ落ち込んでるもんなぁ」
「……私は必要なことを言っただけだ」
「そうだろうよ」
「彼女の判断自体は正しかった。だが、あのままでは今後も同じような問題が起こる。指摘する必要はあった」
「だからわかってるって」
「ならば、その顔をやめたまえ」
「どんな顔だよ」
ラザは面白そうに口元を歪めている。
レオニスは不愉快そうに眉を寄せ、そして頭を押さえた。
「……とはいえ、それとこれとは別なのだよ。九つも年下の女性を数日も沈ませていれば、多少は気にもなるだろう」
「出たよ」
ラザが鼻で笑った。
「なんだね」
「お前のその、女は蝶か花みてぇに扱わなきゃならんってやつ」
「女性とは本来、美しく、丁重に扱われるべき存在だろう」
「んなわけあるか。女なんざ男よりよっぽど強かで図太い生き物だっての」
「何を馬鹿なことを。貴方は女性に対する敬意というものが足りていない」
「敬意と現実は別だろ」
そこでラザは再びリディアを見る。
「まあ、あいつはまだ若いし、真面目すぎるところはあるけどな」
「だからこそ気にしているのだよ」
「ならザーレンでちょうどいいだろ。仕事もある。王宮から離れられる。ついでにノエルもいる。お前の言うところの、他人の機微とやらについては、あいつを見習うのが早い」
レオニスは少し考えた。
「……そうだね」
自分の言ったことを撤回するつもりはない。
だからといって、今のリディアをそのまま放っておきたいわけでもなかった。
「異論はない。リディア君に任せよう」
「わかりました」
ユーリスが頷く。
そこでラザが、ふと思いついたようにユーリスを見る。
「そういや、お前はどうなんだ?」
「何がですか」
「女について」
「…………」
ユーリスは少し考えた。
「大抵の女性は、こちらから見ると判断基準が見えにくくて……何を考えているのかわかりません」
「お前基準だと女に限った話でもないだろ」
「そうかもしれません」
ラザが吹き出し、レオニスは呆れたように額へ手を当てた。
「では、リディア君は?」
「比較的接しやすいです」
「ほう?」
「言っていることと考えていることが、大きく違わないので」
ラザが一瞬黙り、それから再び肩を揺らした。
「お前らしい基準だな」
「そうですか」
「まあいい。本人に話してこい」
「わかりました」
ユーリスはそう答えると、リディアの席へ向かった。
◇ ◇ ◇
「エルンスト」
名前を呼ばれ、リディアは顔を上げた。
ユーリスが机の脇に立っている。
「はい」
「少しいいか」
「大丈夫です」
ユーリスは手にしていた書類を差し出した。
「ザーレンへ行ってもらいたい」
「……ザーレンですか?」
「ああ」
リディアは少し目を瞬く。
ザーレン。
すぐに浮かんだのは、そこで勤務している一人の先輩の顔だった。
「移動扉の試験運用だ」
ユーリスは続ける。
「ザーレン支部に術式を付与し、試運転を行う。お前は何度か試験に立ち会っているし、手順も把握している」
「はい」
「製作者以外でも扱えることを確認したい。所長と所長補佐にも了承を取っている」
「わかりました」
リディアは書類を受け取った。
数日間の出張。
業務としての理由は明確だった。
自分が任されるのも、不自然ではない。
それでも、胸の奥に僅かな引っかかりが残った。
今回の件もあって、しばらく王宮から離した方がいいと思われたのではないか。
扱いづらいと思われたのではないか。
そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。
「何か問題があるか」
「いえ」
リディアは首を振った。
「ありません」
それから、手元の書類へもう一度目を落とす。
最北部ザーレン。
「……ノエル先輩にも、この件は?」
「昨日伝えた」
「そうですか」
思っていたより、少しだけ声が軽くなった。
ユーリスは特に気にした様子もない。
「ロゼまでは移動扉を使う。向こうの術式を確認してから、馬車でザーレンへ向かえ」
「はい」
「帰りはザーレンから王宮へ接続する予定だ」
「承知しました」
リディアは書類を閉じた。
ノエル先輩なら。
ふと、そんなことを考える。
あの人なら、先日のような場面でどう話しただろう。
おそらく自分とは違う。
もっと柔らかく、それでも必要なことはきちんと伝えるのだろう。
せっかく会えるのなら、少し聞いてみてもいいかもしれない。
「エルンスト?」
「いえ」
リディアは小さく首を振った。
「準備を進めます」
「ああ」
席を立つ。
少なくとも先ほどまでよりは、足取りが少しだけ軽かった。




