3-9
翌朝。
エマ・ハーシェルの刑は、予定通り執行された。
王宮の一角にある刑務区画から、鐘の音が一度だけ響いた。それ以上、宮廷魔法局へ何かが伝えられることもない。
判決は執行され、事件は終わった。
少なくとも、記録の上では。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎた頃。
王宮の裏手にある管理棟へ向かったユーリスは、廊下の先に見覚えのある姿を見つけた。
黒い服を着たマーサが、係官と向かい合っている。
その腕には、小さな箱が抱えられていた。
「では、こちらへ署名を」
「はい」
マーサは差し出された書類へ目を通し、迷うことなく名前を書いた。
身寄りのない死刑囚の遺骨は、引き取り手がなければ王都外縁の共同墓地へ葬られる。エマには家族もなく、本来ならそのまま共同墓地へ送られる予定だった。
だが、今朝になってハルデン家の使用人から引き取りの申し出があったらしい。
係官が書類を受け取り、簡単に確認する。
「以上です。後の埋葬について、王宮側から指定はありません」
「承知しました」
マーサが一礼する。
振り返ったところで、ユーリスに気づいた。
「……ヴァレンベルク様」
「ああ」
ユーリスはマーサが抱えている箱へ一度目を向け、それから彼女を見る。
「引き取りに来たのか」
「はい」
マーサはそれ以上説明しなかった。
ユーリスも尋ねなかった。
しばらく互いに黙ったあと、マーサが箱を抱え直す。
「先日は、ありがとうございました」
そう言って、深く頭を下げた。
ユーリスは僅かに目を細める。
「俺は、報告をしただけだ」
「ええ」
マーサは顔を上げた。
何かを続けるのかと思ったが、その口からそれ以上の言葉は出なかった。
「では、失礼いたします」
「ああ」
ユーリスも短く返す。
マーサはもう一度だけ一礼すると、エマの遺骨を抱いたまま廊下の向こうへ歩いていった。
ユーリスはその背中を見送った。
なぜ礼を言われたのか、正確なところまではわからない。
ただ、昨夜マーサがエマと面会したことだけは、記録を確認すればわかる。
ユーリスは少しだけその場に立ち止まったあと、何も聞かずに踵を返した。
◇ ◇ ◇
宮廷魔法局本部第三室へ戻ると、いつもの光景が広がっていた。
机には書類が積まれ、術式の検証をするための魔道具が並び、部屋の隅では小型の魔石測定器が一定の間隔で音を鳴らしている。
ラザは自分の席で何かの論文を読み、レオニスは届いた報告書を確認し、リディアは資料棚の前で書類を整理していた。
事件が終わったからといって、第三室の仕事が止まるわけではない。
ユーリスも自分の席へ戻り、机の上に置かれていた書類を手に取った。
一枚目に目を通す。
二枚目を捲る。
そこで手が止まった。
しばらくしてから、もう一度一枚目へ戻る。
向かい側の机で書類を読んでいたレオニスが、眼鏡越しにその様子を見た。
「…………」
何も言わず、視線を戻す。
少しして、ユーリスはペンを置き、机の引き出しを開けた。
中に収められた水晶へ、一瞬だけ視線が向く。
だが、すぐに必要な書類を取り出して引き出しを閉め、何事もなかったように仕事へ戻った。
今度は、ラザが論文の端からちらりと顔を上げる。
「…………」
そして、何事もなかったように頁を捲った。
◇ ◇ ◇
「え……ヴァレンベルク先輩、落ち込んでいるんですか?」
少し離れた資料棚の陰で、リディアが小声で尋ねた。
レオニスは呆れたように眉を上げる。
「気付いていなかったのかね?」
「普段とそれほど変わらないように見えますが」
「だから君は人の機微というものを――」
そこまで言ってから、レオニスは一度ユーリスの方を見る。
「……まあ、ユーリス君が多少わかりにくいというのは確かだが」
リディアもつられるように視線を向けた。
ユーリスはいつも通りの無表情で書類を読んでいる。
「特に落ち込んでいるようには見えません」
「彼の場合、表情よりも行動に出る。見たまえ。さっきから同じ書類を何度も読んだかと思えば、意味もなく引き出しを開けて……普段ならありえないのだよ」
レオニスが小さく息を吐いた。
「まったく。だから言ったのだ」
「何をです?」
「なんでも真実を知ったところで、気分のいい答えが出るとは限らないということだよ」
リディアは少し考える。
「……事件のことですか」
「他に何があるのかね」
レオニスは腕を組んだ。
詳しい事情までは聞いていない。
ただ、ユーリスが数日かけて調べていたことと、昨日最終聴取へ立ち会ったことは知っている。それで今日この様子なら、少なくとも愉快な真相ではなかったのだろう。
「だからといって、調べなければよかったとは本人も思っていないだろうがね」
「そうでしょうね」
リディアはあっさり頷いた。
レオニスが少しだけ意外そうな顔をする。
「そこはわかるのかね」
「ヴァレンベルク先輩の気分はわかりかねますが、性格であれば多少は」
「なるほど」
妙に納得できる返答だった。
その横から煙草の匂いが近づいてくる。
「何こそこそやってんだ、お前ら。サボりか?」
いつの間にかラザが立っていた。
「所長」
リディアが少しだけ場所を空ける。
ラザは二人の間からユーリスを覗き見る。
「なんだ、ユーリスの話か」
「所長も気づいていたのですか?」
リディアに聞かれ、ラザは煙草を咥えたまま肩を竦めた。
「まあ、わかりやすいからな」
「わかりやすいでしょうか?」
「わかりやすいは、さすがに過大表現だろう」
ヴァレンベルク家が、常に冷静で合理的な判断を美徳とする家柄だということは、貴族の間ではよく知られている。
そんな家の生まれであるユーリスを「わかりやすい」と評するのはさすがに無理があるだろう、と二人分の視線を向けられても、ラザは気にした様子もなかった。むしろ少し呆れたような顔をする。
「おいおい、魔術師の基本は観察だぞ。他人の変化くらい見抜けないでどうすんだ。そもそも気分が揺らいでりゃ、本人の魔力だって微妙にブレる。顔見なくてもわかるだろ」
そのうえ直近の出来事を思い返せば、何があって今どういう状態なのかも大体想像がつく。
そんなことを当然のように言うラザに、レオニスはひどく不服そうな、それでいて僅かに悔しそうな顔をした。
「……自分の基準を他者に当てはめるなと何度言えばわかる。あと、そこまでわかっているなら、もう少し部下を気遣いたまえよ」
「気遣ってんだろ」
ラザは当然のように答えた。
「ほっといてる」
「それをっ! ……気遣いとは言わんだろう」
声が大きくなりかけ、レオニスが慌てて声量を抑える。
三人揃ってユーリスを見るが、本人は顔を上げない。聞こえていないらしい。
ラザは煙草を指で挟み、もう一度ユーリスを眺めた。
「別に、今すぐどうこうするほどじゃねぇだろ」
「それはそうかもしれんが」
レオニスはまだ多少納得していないらしい。
「放っておいて悪化したらどうするつもりかね」
「ユーリスが?」
ラザが眉を上げる。
「そんなタマに見えるか?」
「…………」
レオニスが黙った。
リディアも、改めてユーリスを見る。
確かに、仕事が手につかないほど塞ぎ込んでいるわけではない。普段より僅かに集中を欠いているだけで、提出期限のある仕事はすべて処理しているし、周囲に迷惑をかけてもいない。
「二、三日もすりゃ、勝手に自分の中で整理するだろ」
ラザはそう言って煙草を咥え直した。
「最初からそういう奴だ」
「……まあ、そうだろうね」
入局してきたばかりの頃のユーリスを思い出しながら、レオニスも渋々といった様子で頷く。
「自分のことについて他人へ判断を委ねるような性格ではないし、今の状態で無理に聞き出す方が余計なお世話か」
「そう、ですね」
リディアも小さく頷いた。
「本当に必要なら、ヴァレンベルク先輩から何かおっしゃるでしょうし」
「そういうこと」
ラザは満足そうに言った。
三人はもう一度、少し離れた席にいるユーリスを見る。
相変わらず表情は変わらない。
ただ、先ほどよりは書類を捲る手がいつもの速さに戻っていた。
「じゃ、とっとと解散」
ラザがさっさと自分の席へ戻ろうとする。
「待ちたまえ。そもそも貴方が割り込んで話を長引かせたのだろう」
「仕事中に固まってヒソヒソやってる方が悪いだろ。仕事しろ仕事を〜」
「貴方にだけは言われたくない!」
再び声が大きくなりかけ、レオニスは途中で口を噤んだ。
ユーリスがようやく顔を上げる。
「何かありましたか?」
「何もないとも」
レオニスは即座に答えた。
「そうですか」
ユーリスは特に気にすることもなく、また書類へ視線を戻した。
ラザが笑いを堪えるように口元を歪める。
リディアも何も言わず、自分の仕事へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
その日の仕事も、結局いつもと変わらない時間に終わった。
残っていた書類を片付け、明日必要になる資料を揃え、ユーリスは宮廷魔法局を後にする。
ヴァレンベルク家の屋敷へ戻り、夕食と入浴を済ませて自室へ入った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
上着を脱いで椅子の背へ掛け、窓際のソファへ腰を下ろす。
王宮では絶えず人の声や魔道具の作動音が聞こえていたせいか、静まり返った部屋がいつもより広く感じられた。
ユーリスは背もたれへ身体を預け、しばらく何をするでもなく窓の外を眺めていた。
エマ・ハーシェルは死んだ。
調べる前から決まっていた結末であり、実際、何も変わらなかった。
そもそも、自分が調べれば判決を覆せると思っていたわけでもない。
犯人は最初から明らかだった。
毒を入れたのもエマであり、本人もそれを認めていた。
ただ、わからなかった。
なぜ殺すには足りない量の毒を使ったのか。
なぜ九年間仕えてきた主人へ、人目の多い茶会で毒を盛ったのか。
それが気になった。
だから調べた。
そして、知った。
知ったところで、結末は変わらなかった。
「…………」
以前レオニスに言われた言葉が、不意に浮かんだ。
本人が下ろした幕を、外から勝手に上げて裏側を覗く権利などない。
それでも、自分は知りたかった。
自分が納得するために。
ならば、これはやはり必要のない好奇心だったのだろうか。
答えは出なかった。
別に後悔しているわけではない。
もう一度同じ状況になれば、おそらくまた調べるだろうとも思う。
ただ、知ったところでどうにもならないことがあるのだと、以前より少し具体的にわかっただけだった。
ユーリスは僅かに目を伏せる。
その時、ふと昼間の光景が浮かんだ。
黒い服を着たマーサが、小さな箱を両腕で抱えていた。
『先日は、ありがとうございました』
深く頭を下げた姿。
何に対する礼だったのかは、最後まで聞かなかった。
昨夜、マーサがエマと面会したことは知っている。
自分が渡した資料を読んだ、そのあとで。
だが、その二つがどこまで関係しているのかはわからない。
マーサが何を考えて面会へ行き、エマと何を話したのかも知らない。
自分の功績だと思う理由はなかった。
それでも。
胸元へ引き寄せるように、大切そうに抱えられていた小さな箱が、妙に頭に残っていた。
「…………」
別の光景が重なる。
雪の降るザーレンで、泣きじゃくっていた少年。
その小さな身体を抱きしめていた父親と母親の、子どもを慈しみ、守る温かな腕。
『ごめんなさい』
泣きながら謝っていたアッシュの声。
そこで、ユーリスはふと瞬いた。
「……そういえば」
あの足は、もう大丈夫なのだろうか。
傷そのものは深くなかったが、しばらく走るなとオリバーに言われていたはずだ。
確認を、してもいいかもしれない。
そう考えて、ユーリスはソファから立ち上がった。
机へ向かい、引き出しを開ける。
昼間、一度だけ目に入った水晶がそこにあった。
手に取り、魔力を流す。
淡い光が水晶の内部へ広がっていった。
間もなく、向こう側から反応が返る。
『ユーリス?』
聞き慣れた声だった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に残っていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
「ああ」
『こんばんは』
ノエルの声が柔らかく返ってくる。
ユーリスは、すぐにはアッシュのことを聞かなかった。
『今日はどうだった?』
少し考えてから答える。
「いつも通りだ」
『そっか』
向こうで小さく笑う気配がした。
『こっちはね、今日から雪が積もり始めたよ』
「そうか」
『うん。朝起きたら屋根が真っ白でさ。オリバーさんは、ようやくザーレンらしくなってきたって笑ってた』
なんでもない話だった。
今日の天気と、雪のこと。
遠く離れた土地で起きた、小さな出来事。
アッシュの足を確認するために連絡したはずだったが、まだ聞いていない。
それでも、ユーリスは急がなかった。
水晶を手にしたまま、ノエルの声を聞いていた。




