3-8
夜。
エマは一人、勾留室の壁にもたれていた。
明日の朝には、ここを出る。
その先に何があるのかは、考える必要もなかった。
静まり返った室内で目を閉じると、昼間のことが嫌でも浮かんでくる。
『私が言ったからなんでしょう?』
泣きながら自分を見ていたセレスティア。
『私がお茶会に行きたくないって言ったから――』
その言葉を思い出したところで、エマはゆっくりと息を吐いた。
『もう嫌っ!』
あの日。
茶会から帰ったセレスティアは、部屋へ入った途端に泣き出した。
いつもなら、何をされても笑っていた。
今日も楽しかったです。
皆様とお話しできました。
そう言っていた少女が、その日だけは違った。
『もうお茶会なんて行きたくないっ!』
『お嬢様』
『嫌! もう嫌よ!』
そこにいたのは、いつも背筋を伸ばして笑っている貴族令嬢セレスティア・ハルデンではなく、耐えきれずに泣き出した十三歳の、ただの少女だった。
『なんとかしてよ、エマ!』
だから、なんとかしようと思った。
最初に考えたのは、セレスティアを傷つけている令嬢たちだった。
一人いなくなればいいのか。
それとも、何人か。
だが、すぐに駄目だと思った。
彼女たちに何かあれば、セレスティアにも疑いが向くかもしれない。その可能性だけは、徹底的に潰さなければならない。
ならば、セレスティア自身が茶会の途中で倒れればいい。
死なない程度の毒を使う。茶会の席なら、すぐに医師も呼ばれる。
主催者の茶会で招待客が毒に倒れれば、その場は当然中止になる。主催した令嬢の家にも傷がつくだろうし、毒に倒れたばかりのセレスティアへ、しばらく茶会へ出ろと言う者もいない。
そうすれば、全部解決する。
当時の自分には、それがとても良い方法に思えた。
躊躇いはなかった。
エマはゆっくりと目を開けた。
「……馬鹿ね」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
あの時の自分かもしれないし、今になってようやく気づいた自分かもしれない。
その時、静かな廊下の向こうから足音が聞こえた。
夜番の騎士とは違う。
一定の間隔で近づいてきた足音は、しばらくして牢の前で止まった。
「面会だ」
騎士の声がした。
エマは眉を寄せた。
「面会?」
こんな時間に誰が。
訝しみながら顔を上げる。
「…………」
鉄格子の向こうに、一人の女が立っていた。
「……マーサ?」
「随分な顔ですね」
昼間、セレスティアを連れ帰った時と同じ服だった。
「どうして……」
「面会の手続きをしました」
「そうじゃなくて」
「わかっています」
マーサはそう答えると、傍らにいた騎士へ静かに一礼した。
騎士は少し迷った様子を見せたものの、やがて二人の会話が聞こえない程度の場所まで下がっていく。
二人きりになったところで、エマはもう一度口を開いた。
「お嬢様は?」
「お休みになりました」
「……そう」
「泣き疲れて、先ほどようやく」
エマは目を伏せた。
「旦那様と奥様が、あなたをここに?」
「お二人は知りません」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「内緒で来たの?」
「ええ」
「勝手なことしたら怒られるわよ」
「あなたが気にすることではありません」
「…………」
突き放すような言い方は、昔から変わらない。叱る時も、何かを教える時も、マーサはいつもこうだった。
けれど、エマにとって他人のそういう態度は、特別珍しいものではなかった。
物心ついた頃には一人だった。
両親は流行病で死んだと聞いたような気もするが、それが本当だったのか、今となっては確かめる術もない。気づいた時には腹を空かせ、いつの間にか孤児院にいて、周りには大勢の人間がいたはずなのに、ずっと一人だった。
男は嫌いだった。いつも酷いことをするし、ろくなものではないと思っていた。
だからといって、女なら信用できたわけでもない。
エマは院長に媚を売っているから贔屓されているのだと、陰で笑う女たちもいた。そんな声を聞くたび、だったらお前が代わりになればいいと、腹の底で何度毒づいたかわからない。
そんな場所で長く過ごすうちに、人から向けられる好意には必ず理由があるのだと思うようになった。
誰かに優しくされれば、あとで何を要求されるのかと身構えた。何も要求されなければ、それはそれで気味が悪くて、きっと自分がまだ気づいていないだけなのだと思った。
十九で用済みになり、孤児院を追い出されるまで、エマが知っていたのはそういう人間関係ばかりだった。
優しくするのなら、何か理由がある。何かをくれるのなら、何かを返せという意味だ。
他人なんてそんなものだと思っていた。
――自分の黒髪を綺麗だと言って、ただ目を輝かせたあの子に出会うまでは。
「どうして来たの」
マーサはすぐには答えなかった。
何かを確かめるようにエマを見つめてから、静かに口を開く。
「今日、ヴァレンベルク様……あの魔術師の方から、記録を渡されました」
エマの表情が僅かに止まる。
「……余計なことを」
「ええ。本当に」
そう言いながらも、マーサはその場を動かなかった。
「全部読んだの?」
「読みました」
「それで?」
「それで、ここへ来ました」
エマが眉を寄せる。
「何しに?」
マーサは鉄格子越しに彼女を見る。
「十九の頃から、九年間見てきたんです」
「…………」
「ですから、最後にその結果を見に来ました」
「それだけ?」
「それだけです」
もの好きだと思った。あとは、マーサらしくないとも。それでも、最後に見る顔がこの仏頂面なのかと思うと、エマは少し笑えた。
「酷い結果で呆れたんでしょ?」
「ええ。九年、何を学んできたのか」
その言い方が昔とまるで変わらなくて、ほんの少しだけ、懐かしい空気が戻った気がした。
エマはしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「ねえ、マーサ」
「なんです」
「お嬢様のこと、お願いね」
マーサの眉が僅かに動いた。
「……あなたに言われる筋合いはありません」
「そうね」
「あの方にお仕えするのは、私たちの仕事です。あなたに頼まれたからすることではありません」
「うん」
「だからあなたは、自分の心配だけしていなさい」
「明日死ぬのに?」
「だからです」
エマは少し笑った。
「やっぱり、マーサの言うことって私には難しいわ」
「あなたは昔からそればかりですね」
そうだろうか、と一瞬思った。
けれど、振り返ってみれば、確かにそうだったのかもしれない。
マーサが言う「侍女として当たり前のこと」は、エマにとってはどれも繰り返し練習しなければできないことばかりだった。何度も叱られ、何度もやり直して、それでもなかなか身につかないことがいくつもあった。
マーサはしばらく、そんなエマを黙って見ていた。
「……一つだけ」
「なに?」
「今日、お嬢様を突き放したことについてだけは、礼を言います」
エマの笑みが消える。
「…………」
「あの方が、あなたの罪まで自分のものだと思い込まずに済む。情の深い方だから、割り切ることはできないでしょうが、それでも」
マーサはそこで僅かに言葉を切った。
「それだけは、正しいことをしました」
「…………」
正しいことをした。
真正面からそんなことを言われたのは、生まれて初めてかもしれない。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった気がした。
「……まぁ、それ以外は愚かとしか言いようがありませんがね」
「そう、ね」
エマは目を伏せる。
そう、マーサの言う通り。愚かなことをした。あの時セレスティアに涙を流させたことが、それをものがたっていた。
「愚かだと気づかせてくれたのもお嬢様。最後まで、教えられてばかりだったわ」
「…………」
「……結局、あの方だけだった」
「何がです?」
そんなの決まっている。
エマは少し笑った。
「私を愛してくれた人」
一人きりだった世界に現れた、奇跡のような女の子。
ふわふわで、かわいくて、やさしくて、この世の幸福を全部詰め込んだような子だった。
そんな人が、自分を好きだと言ってくれた。
それだけで十分だった。
むしろ、自分には幸福すぎるくらいだった。
そう思って、エマがさらに口角を上げようとした瞬間。
ガシャンッ!!
鉄格子が大きな音を立てた。
反射的にエマの肩が跳ね、目を見開く。
「……え?」
マーサの手が、力いっぱい鉄格子を叩いていた。
見張りの騎士がこちらへ視線を向けたが、マーサはそれすら気に留めないまま、格子の間から腕を伸ばした。
次の瞬間には胸元を掴まれ、そのまま強く引き寄せられる。
「いい加減にしなさい! どうしてわからないの!」
「マーサ……?」
「まともな挨拶一つできない! 髪もろくに結えない! お茶を淹れれば葉を入れすぎる! 何度言っても同じところで間違える!」
「…………」
マーサの指先に、さらに力がこもる。
「立ち方から歩き方まで、私が……私たちがっ、どんな思いで教えたと思っているの!」
エマは何も言えなかった。
どんな思いで。
そんなの、仕事だから。
足を引っ張られたら困るから。
あとは、見苦しいから。
エマの中には、答えがいくつも浮かんだ。どれも昔から、自分がそうだと思ってきた理由だった。
けれど、目の前で表情を歪めているマーサを見ているうちに、その並んだ答えの中へ、小さな違和感が落ちた。
……本当に、それだけ?
ほんの一滴だったはずなのに、そこから広がった波紋が、今まで当然だと思っていたものを少しずつ揺らしていく。
エマはうまく息ができなかった。
「やっと……やっと、一人前になったと思ったら、主人に毒を盛って死刑ですって……?」
マーサの声が震えた。
「なんて馬鹿な子! どうして、そんな考えなしなの! どうして……私は、こんな馬鹿な子に育てた覚えはありません!」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。
育てた。
その一言だけが、頭の中で何度も響く。
そして、気づけば昔の記憶が次々と浮かんできていた。
初めてあの屋敷へ来た日。
『背筋を伸ばしなさい』
今まで出会ったことのないくらい怖い顔をした女に、何度も言われた。
『もう一度』
失敗するたびに、鞭でも打たれているような気分になった。酷い女だ。
『違います。もう一度』
次の日も、その次の日も。
きっと、できの悪い私のことが鬱陶しくて仕方ないのだろう。
『まったく……本当に手のかかる子ですね』
それでも、女は――マーサは、いつもそこにいた。
熱を出して寝込んだ朝には、枕元に薬が置かれていた。
初めて一人で客へ茶を出した日には、
『……まあ、及第点でしょう』
そう言いながら、ほんの少しだけ笑っていた。
それは、セレスティアが与えてくれた優しく温かなものと、一体何が違うのだろう。
思えば、マーサだけではない。
例えば同い年のアンナ。なんのつもりか、昼休みになると彼女はよく話しかけてきた。
『エマ! それでね、リリアナったらそそっかしくて、笑っちゃうよね!』
こちらは大した反応も返さないのに、いつも懲りずに話しかけてくる。昔から女の笑った顔なんて嘘ばかりで嫌いだったけど、アンナの笑い方は嫌ではなかった。
あとは調理場のロックウェル。彼は時々、余ったからと言って菓子を押しつけてきた。
『いいんだよ、作り過ぎただけだから。食わねぇなら捨てていいし……あー、エマ……お前、辞めるなよ。せっかく頑張ってんだから』
男なのに、視線が気持ち悪くない不思議な人だった。
本当は余ったものではないことも知っていた。でも何故、と聞けば何かを要求されるかもしれない。だから気づかないふりをした。
そう、気づかないふりだった。
確かに、エマは育ちが悪い、できが悪いと言われたこともある。
けれど、そのたびに誰もいないところで「気にするな」と小さな声で言ってくれる人がいたし、寒い日には厚い毛布がいつの間にか部屋に置いてあったこともある。
誰がそうしたのかはわからない。
でも、覚えている。
全部、覚えていた。
仕事だから。
余ったから。
ついでだから。
気まぐれだから。
そうやって、一つ一つに名前をつけてきた。
そうしておけば、それ以上考えずに済んだから。
けれど今になって、昔の記憶が一つずつ、違った形を見せ始める。
「…………」
長い沈黙のあと、エマは静かに口を開いた。
「……ごめんなさい」
マーサの手から、僅かに力が抜ける。
「本当に……」
返ってきた声は、怒っている時のものよりずっと弱く、震えていた。
「本当に、遅い子ね」
「うん」
エマは笑った。
笑ったはずなのに、涙が一つ、頬を伝った。
「ねぇ、マーサ」
「なんです」
エマは恐る恐る、自分の服を掴んだままのマーサの手に触れた。
冷たいのか、温かいのかもよくわからない。
ただ、その手が震えている。
自分の手も震えていたから、どちらの震えなのかさえ、もうエマにはわからなかった。
「私、本当に覚えも悪いし、気がつくのも遅いみたい」
「…………っ」
「だって……いまさら、死ぬのが怖いわ」
マーサは歯を食いしばり、何も言わなかった。
「昔は、いつ死んだってよかった。当てつけで死んでやろうかと思ったこともあったのよ」
そんな自分が今は死を怖がっていることが、どこか可笑しくて、エマは僅かに息を漏らした。
「お嬢様に出会ってからは、お嬢様の役に立って死ねるなら、それでいい……ううん、そうしたいって思ってた」
「…………」
エマは落ちた涙を拭おうともせず、鉄格子の向こうにいるマーサを見る。
「それなのに、今……死ぬのが怖い」
もう一つ、また一つ。涙が頬を伝った。
けれど、その表情は先ほどまでとは少し違っていた。
「でも、不思議ね」
エマは自分でも確かめるように、ほんの少しだけ笑った。
「そう思えることが、嬉しいの」
最後の最後に、死ぬのが怖いと思えるほどの未練を知ることができた。そのことに気づけたのが、嬉しかった。
マーサは何も答えない。
エマも、それ以上の言葉は求めなかった。
「ありがとう、マーサ」
少しだけ間を置く。
「ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい」
夜の冷えた勾留室に、幼い子どものような声が静かに響いた。




