3-5
森を抜けた途端、村のあちこちから声が上がった。
「戻ってきたぞ!」
「アッシュだ!」
「アッシュ!」
灯りを手に待っていた村人たちが一斉に駆け寄ってくる。
その中から、ほとんど転びそうな勢いで一人の女性が飛び出してきた。
「アッシュ!」
「……かあちゃん……」
ノエルの腕の中にいる息子の姿を見た瞬間、女性の顔が大きく歪んだ。
「よかった……っ、本当に、よかった……!」
「足を痛めています。たぶん坂で滑ったんだと思いますけど、詳しくは暖かいところで診た方がいいです」
「はい……はい……!」
何度も頷きながら、女性はアッシュの顔や身体を確かめるように手を伸ばし、それからノエルへ向き直ると、涙を流したまま深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
「あ、いえ。まだ冷えてますから、先に中へ――」
「ノエル君」
オリバーが呼ぶ。
すぐ近くの家へ運ぶよう、村人たちへ指示を出していたらしい。
「ひとまず、あそこへ連れていこう。足も見んとな」
「はい」
ノエルが頷いたところで、集まっていた村人の一人が森の方を見た。
「そういや、もう一人の若い兄ちゃんは?」
「え?」
「ほら、三人で森に入ったじゃねぇか」
「ああ、それなら――」
「ここにいる」
すぐ後ろから声がした。
「うわっ!?」
村人たちが一斉に振り返る。
つい先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、ユーリスが何事もなかったかのように立っていた。何人かは目を丸くしたままユーリスと森の方角を見比べ、別の者は、さっきまでそこにはいなかったよな、とでも言いたげに周囲を見回している。
驚かなかったのは、ノエルだけだった。
「ユーリス」
声を聞くなり、ノエルはアッシュを母親へ任せ、すぐにユーリスのもとへ歩み寄った。
「怪我は?」
「ない」
短い返事を聞きながら、ノエルはユーリスの顔から肩、腕、足元までざっと確認する。衣服が多少雪で濡れてはいるものの、血の跡もなければ目立った傷もない。
「……よかった」
「お前も怪我はないな?」
「うん。僕は村まで走っただけだから」
「そうか」
それだけで、二人の確認は終わった。
そんな二人を、まだ状況を飲み込めていない村人たちが不思議そうに眺めている。
「……ところで、この兄ちゃんは誰なんだ?」
「ノエルちゃんの知り合いかい?」
「あ、はい。職場の同期で……友人です」
「そうかぁ。いつ王都から来たんだ? こんな男前が村に来りゃ騒ぎにでもなりそうなもんだが、まったく気づかなかったよ」
「まあ……」
説明すると長くなりそうだな、とノエルが思った、その時だった。
「アッシュ!!」
怒鳴り声が夜の村に響いた。
その場にいた全員が振り返る。
人垣を掻き分けるようにして現れた男が、母親のそばにいるアッシュを見つけ、険しい顔で近づいてきた。
「父ちゃん……」
「お前、何考えてるんだ!」
アッシュの小さな肩が跳ねる。
「あれほど一人で森に入るなと言っただろう!」
「…………」
「何度言った!? 森は遊び場じゃない、昼間だって一人で入るなって、何度も言ったよな!?」
アッシュは何も答えず、俯いた。
男は森で木を切る仕事をしている。だからこそ森がどれほど危険な場所なのかを知っており、アッシュにも日頃から、決して森を侮るなと言い聞かせていた。
「まあまあ、落ち着け。アッシュも無事だったんだから」
「無事だったからいいって話じゃねぇ!」
「そりゃそうだが、今は足も痛めてるんだ。説教は中に入ってからでも――」
「白星草なんかのために、なんで言いつけを破った!」
「…………」
アッシュは答えない。
「そんなに白星草が欲しかったのか?」
別の村人が尋ねても、アッシュは唇を結んだままだった。
「アッシュ!」
「あなた、もう……!」
母親が夫の腕を掴む。
「無事だったんだから、今はそれで……」
「だからって――」
「本当に、すみません……」
母親は今度は周囲へ向かって頭を下げ始めた。
「皆さんにこんな時間まで探していただいて……オリバーさんも、ノエルさんも……ノエルさんのお友達も、本当に……」
「頭なんぞ下げんでええ。今は――」
「おにいちゃんに、みせたかったんだよ」
小さな声がした。
少し離れたところで、数日前アッシュと一緒に白星草の話をしていた女の子が、母親の脚にぴったりとくっついて立っていた。
「おにいちゃんに、みせるって……アッシュ、言ってた」
何のことかわからず、大人たちが顔を見合わせる中、女の子は母親の脚にくっついたまま、ちらりとノエルを見る。
目が合った。
「……もしかして」
ノエルはアッシュを見る。
「アッシュ君」
「…………」
「僕に?」
小さな肩が、ぴくりと動いた。
しばらく黙っていたアッシュが、ようやく口を開く。
「……だって」
声は小さかった。
「おれ、せんせいだから」
「先生?」
「ノエルにいちゃん、白星草、知らなかったから……」
ぽつり、ぽつりと、それまで押し黙っていた言葉が少しずつ零れ始める。
「おれが、教えるって言ったから……」
ノエルの脳裏に、数日前の光景が蘇った。
『本当? お願いします、先生』
『白くて、星みたいな花で……』
得意そうに話し始めたのに、途中で説明できなくなり、他の子供たちに続きを取られていた少年。
そして最後に交わした約束。
『じゃあ先生たち。続きはまた今度教えてね』
『ぜったいだからな!』
『約束するよ』
「……そっか」
ノエルにも、ようやくわかった。
「僕に、見せようとしてくれたんだね」
「…………」
アッシュが小さく頷く。
「ほんもの見たら……ノエルにいちゃん、わかるから」
「うん」
「おれ、ちゃんと教えられるし……」
「うん」
「ノエルにいちゃん、よろこぶと思った」
最後の方は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。
ノエルはしばらくアッシュを見つめ、それから柔らかく笑った。
「ありがとう。僕に見せようとしてくれたんだね。嬉しいよ」
「……ほんと?」
「うん。本当」
アッシュの表情が、ほんの少しだけ明るくなる。
「でもね、アッシュ君。僕、一緒に見に行きたかったな」
「……いっしょに?」
「うん。アッシュ君に、これが白星草だよって教えてもらいながら見たかった」
「…………」
「一人で探しに行って、アッシュ君が怪我をしたり、帰ってこなくなったりしたら喜べないからね」
アッシュが再び俯く。
「今日だって、お父さんも、お母さんも、村のみんなもすごく心配したんだよ。僕も、オリバーさんも、僕の友達も、みんなアッシュ君を探してた」
「……うん……」
「見せようとしてくれたことは、本当に嬉しいよ。でも、お父さんとの約束を破って一人で森へ入ったのは良くなかったね」
「…………うん」
「今度からは?」
「……ひとりで、いかない」
「うん」
ノエルが頷く。
「今度は、みんなで見に行こうか」
「……いいの?」
「もちろん。昼間に、大人と一緒にね」
「……うん」
アッシュが、ようやくほんの少し笑った。
その笑顔を見届けてから、ノエルは立ち上がった。
「……とうちゃん」
小さな声に、父親がアッシュを見る。
「ごめんなさい……」
「…………」
「かあちゃんも……ごめ、ん……なさ……」
途中で声が震え、アッシュの顔がくしゃりと歪んだ。
「もう……ひっ、ひとり、で……っ、森、いがな……っ」
唇を震わせ、必死に続きを言おうとしているのに、息を吸うたび喉が引きつって、嗚咽に邪魔される。
「ごめ……っ、ごめんなざ……っ」
「……馬鹿野郎」
父親が低く言った。
先ほどまでの怒鳴り声とは、まるで違う声だった。
「本当に……馬鹿野郎が……」
父親が膝をつき、アッシュを強く抱きしめる。
その瞬間。
「ぅ、あ……っ、う゛ぁ」
張り詰めていたものが、とうとう切れた。
「こわ、っ……こわかっ、たぁ……! ひっ、うぁ……っ、とうちゃ、とうちゃぁ……!」
「ああ」
「くらくて……っ、あし、いたくて……っ ごめ、ごめんなざいぃ……!」
「ああ、もう二度とするなよ……頼むから」
父親の服を小さな手で掴み、顔を押しつけたまま、アッシュは声を上げて泣いた。父親の声もわずかに震えている。
暗い森の中、雪に降られながら痛む足を抱え、いつ現れるかもわからない魔獣に怯えて、たった一人で助けを待っていたのだ。助け出されてからもずっと堪えていたものが、父親の腕の中でようやく溢れ出した。
母親も泣きながら膝をつき、夫と一緒に息子の小さな身体を抱きしめる。その腕の中で、アッシュはもう何を言っているのかもわからないほど声を上げ、しゃくり上げながら泣き続けた。
もう叱る者はいなかった。
村人たちはその姿にようやく胸を撫で下ろし、一人、また一人と、焚いた火の始末や使った道具の片づけへ向かっていく。
ノエルも少しの間だけ親子を見守り、それから邪魔をしないよう静かにその場を離れた。
その傍らで、ユーリスは何も言わずに親子を見つめていた。
『僕、一緒に見に行きたかったな』
先ほどのノエルの言葉が、ふと頭に残る。
アッシュはノエルが喜ぶと思って一人で森へ入ったが、実際にノエルが望んでいたことは違った。
「…………」
三日前から消えずにいた違和感に、何かが重なる。
主人に毒を盛り、自ら罪を認めた侍女。それなのに、使われた毒は致死量には届いていなかった。
なぜ、殺そうとしたのに――。
「ユーリス?」
ノエルに呼ばれ、思考が途切れる。
「どうしたの?」
「……いや。少し考え事をしていた」
「そっか」
ノエルはそれ以上聞かなかった。
ユーリスも、まだ言葉にするほど考えがまとまってはいなかった。
◇ ◇ ◇
親子を残し、ノエルたちも支部へ向かう。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、夜の村には少しずつ静けさが戻り始めていた。
「すまんかったのう。急に手伝わせた挙句、ヴァレンベルクの子息をえらいことに巻き込んでしもうたわい」
「かまわない。先触れもなく勝手に訪ねていたのだから、無作法はこちらの方だ」
「あそこはもう、半分ノエル君の家じゃ。友人を招くことくらいあるじゃろ」
オリバーはそう言ってから、隣を歩くユーリスを改めて眺めた。
「しかし……なるほどのぉ。ヴァレンベルク家の若き天才魔術師の話は噂で耳にしたことはあったが、天は二物を与えるとはこのことじゃな」
「…………」
幼い頃から似たようなことを言われ続けてきたユーリスは、否定も肯定もせず、そのまま聞き流す。
「森に入る前に名前を聞いた時は、それどころではなかったからのぉ。落ち着いて見れば、なるほど噂になるのもわかるわい」
「オリバーさん」
「なんじゃ?」
「あんまりじろじろ見るのも失礼ですよ」
「ほっほ。すまんすまん」
言いながらも、あまり悪びれた様子はない。
やがて支部の前まで戻ったところで、オリバーは足を止めた。
「わしは念のため村の入り口を見回ってくる。先に入っていなさい」
「僕も行きましょうか?」
「いや、お前さんは休め。子ども一人抱えて雪道を走ってきたんじゃぞ」
「それはそうですけど、オリバーさんだって……」
「わしは生粋のザーレン育ちじゃぞ。雪道を走るくらいわけないわい。それに、ノエル君には面倒をかけたお客人もおることだ」
「……わかりました」
「うむ」
素直に頷いたノエルに満足そうに笑い、オリバーは今度はユーリスへ向き直った。
「ヴァレンベルク殿、今日は本当に助かった。ありがとう」
「いえ」
「魔獣の方は、もう大丈夫そうかの?」
「森の奥へ戻しはしました。少なくとも、すぐに追ってくる様子はありませんでしたが……しばらくは気が立っているかもしれません」
「そうか。なら、そちらは明るくなってからわしも様子を見ておこう。ヌシがあれだけ興奮しとったとなると、他の獣達にも影響が出る。しばらく森の入り方も考えんとな」
「その方がいいでしょう」
「うむ。では二人とも、今日はもう休めよ」
「はい。おやすみなさい、オリバーさん」
「ああ」
オリバーを見送り、ノエルとユーリスは支部の中へ入った。
◇ ◇ ◇
扉を閉めると、急に外の音が遠くなった。
ノエルは冷えた指先に息を吹きかけながら暖炉へ向かい、出かける前の火が僅かに残っているのを確認して薪を足す。
「お茶、飲む?」
「ああ」
それだけ言葉を交わし、ノエルは湯を沸かした。
少し前まで夜の森を走り、巨大な魔獣と向かい合っていたとは思えないほど、支部の中にはいつもの静かな時間が戻ってきている。
やがて湯気の立つカップを二つ持って戻ると、一つをユーリスの前へ置き、ノエルも向かいの椅子へ腰を下ろした。
「どうぞ」
「ありがとう」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
暖炉で薪の爆ぜる音だけが響いている。
ノエルは茶を一口飲み、ようやく身体の芯まで温かさが戻ってくるのを感じながら、小さく息を吐いた。
「……アッシュ君、無事でよかったね」
「ああ」
「足も、酷くないといいけど」
「見たところ骨が折れている様子はなかった。しばらく安静にしていれば問題ないだろう」
「うん」
それなら大丈夫だろうと、ノエルはそれ以上口にしなかった。
また少し、静かな時間が流れる。
「……ユーリス」
「なんだ?」
「今日はごめんね。色々考えたかった時に巻き込んじゃって」
「謝られるようなことは何も起きてない」
ユーリスはただ頷き、ノエルもそれ以上何も言わずにカップへ口をつけた。
しばらくして、ノエルがふと思い出したように顔を上げる。
「さっき、アッシュ君と話してる時、何か考えてたでしょ」
「ああ」
「事件のこと?」
「……そうだな」
ユーリスは手元のカップへ視線を落とし、少しの間だけ黙っていた。
「明日、もう一度調べようと思う」
「そっか」
ノエルはそれだけ言って、茶を一口飲んだ。
「納得できるといいね」
「ああ」
何を調べるのかも、何かに気づいたのかも聞かなかった。
ユーリスも、それ以上説明しなかった。
暖炉の火が小さく爆ぜる。
それからしばらく、二人は静かに茶を飲んだ。
やがてカップが空になる頃、ユーリスが席を立つ。
「そろそろ戻る」
「うん。お互い、ゆっくり休まないとね」
「ああ」
「あんなに走ったのは久しぶりだから、明日になったら身体痛くなってそう」
「身体をほぐしておけ。気休めにはなる」
「気休めかぁ」
ノエルも立ち上がり、ユーリスが空間魔術の術式を組み始めるのを眺める。
そうして見慣れた空間の揺れが出現したのを確認してから、ユーリスに向けて手を緩く持ち上げ、ひらりと振った。
「じゃあ、おやすみ。今日は本当にありがとう」
「ああ。おやすみ、ノエル」
そう言って、ユーリスの姿は消えた。
静かになった室内で、ノエルは一度だけ息を吐く。
アッシュは無事に帰ってきた。
ユーリスも怪我なく戻った。
それなら今日は、それでいい。
そう思いながらも、まだ少しだけ落ち着かない心を鎮めるように、ノエルはゆらめく暖炉の火をぼんやり眺める。
あと、もう少しだけ。
そんな夜だった。




