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1-1話〜1-6話あとがきへ主要登場人物のビジュアル資料追加(2026.9.28)
低い咆哮が、夜の森に響き渡った。
雪を踏み砕きながら一歩、また一歩と近づいてくる魔獣を前に、ユーリスは僅かに目を細めた。
巨体から感じる魔力は、この辺りに生息する魔獣とは明らかに桁が違う。人の背丈を優に超える身体に、それだけの巨体を支える太い四肢。周囲に他の魔獣の気配がほとんどないことを考えても、この森の中で相当上位に位置する個体なのは間違いない。
「……指輪を嫌がってはいるな」
「わかるの?」
「ああ。忌避の魔力には反応している。それでも退かない」
ユーリスが静かに答える横で、オリバーも魔獣の様子を注意深く観察する。
「大きさといい魔力といい……おそらく、こやつがこの森のヌシじゃろうな」
「ヌシ……」
「この辺りで、これより強い個体は考えにくい」
ユーリスも同意するように答えた。
指輪の忌避魔術が効いていないわけではない。むしろ、魔獣は明らかにそれを嫌がっている。
それなのに逃げるどころか、ノエルへ向ける敵意は増すばかりだった。
「……もしかすると、指輪の影響かもしれない」
「指輪の?」
「お前はこれを持ったまま、この二週間何度も森の近くを歩いていただろう」
「うん」
「縄張りを持つ個体なら、そのたびに忌避魔術を感じていた可能性がある。何度も進路を変えさせられて、興奮が忌避を上回っているのかもしれない」
断定はできないが、少なくとも目の前の魔獣が指輪を嫌がりながら、それでもノエルへ強い敵意を向けていることだけは確かだった。
魔獣が再び低く唸り、前脚で雪を掻く。
その瞬間、ユーリスが静かに一歩前へ出ると、ノエルとオリバーを背にする位置まで進み、魔獣との間に立った。
「ノエル、子どもを」
「ユーリス?」
「オリバー殿。村までの最短経路は?」
「ここから南へ突っ切るのが一番早い。少々悪路だがの」
「では、村までの先導を」
ユーリスは魔獣から視線を外さないまま言った。
「その間、これは俺が抑えておく」
ノエルは一瞬だけ黙ったが、止めなかった。
ユーリスが自分より遥かに強い魔術師であることも、こういう場面で自分の力を過信して無謀な判断をする人間ではないことも、ノエルは知っている。そしてユーリスが残ると判断したのなら、それが今この場で取れる最善なのだろう。
「わかった」
だから、その判断を信じる。
ただし。
「無理したら怒るからね」
「ああ」
ユーリスは一度だけノエルへ視線を向けると、そのまま再び魔獣を見据えた。
「指輪はそのまま持っていろ。戻る途中で別の魔獣に囲まれる方が厄介だ」
ノエルは銀の指輪を握りしめ、頷いた。
「急ぐぞ、ノエル君!」
「はい!」
ユーリスとの短いやり取りを終えると、ノエルとオリバーはアッシュのいる坂へ向かった。
「アッシュ君、今行くからね!」
「……うん……」
「こっちじゃ。足元をよく見ろ」
オリバーに教えられた場所から慎重に坂を下り、木の根元でうずくまっているアッシュのもとへ辿り着く。
「ごめんね。ちょっと足を見るよ」
「……いたい……」
「うん。無理に動かさないからね」
腫れ始めてはいるが、少なくとも大量に出血している様子はなく、詳しく診るのは村へ戻ってからでいいだろう。
「抱えるよ」
ノエルがアッシュの身体を持ち上げると、少年は小さく息を呑み、それからノエルの服をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫。帰ろう」
「……うん」
「ノエル君、こっちじゃ!」
「はい!」
オリバーが先に立ち、最短の道を選んで森を進み始める。
ノエルはそのあとを追いかけ――一度だけ振り返った。
暗い森の中、ユーリスが一人で巨大な魔獣と向かい合っている。
心配でないわけがない。
けれど。
「行くぞ、ノエル君!」
「はい!」
ノエルは前を向いた。
信じると決めたのなら、今の自分がするべきことは、アッシュを無事に村まで連れて帰ることだ。
◇ ◇ ◇
二人分の魔力が、少しずつ遠ざかっていく。
姿はすでに木々の向こうへ消えているが、先ほど三人の魔力を空間座標で繋いだ術式はまだ残してあるため、ユーリスにはノエルとオリバーがどの方角にいて、どの程度離れているのかがわかった。
まだ近い。
もう少し時間が必要だ。
「…………」
魔獣が低く唸る。
その視線はユーリスへ向けられているものの、時折、その向こうへ逃げていったノエルを探すように鼻を鳴らしていた。
「こちらだ」
ユーリスが静かに告げる。
意味を理解したはずもない。
だが、その声に反応したかのように魔獣が地面を蹴り、巨体からは想像しにくいほどの速度で、雪を弾き飛ばしながら一直線に迫ってくる。
ユーリスは動かない。
杖を抜くことも、身構えることもなく、ただ右手を僅かに持ち上げると、その指先で小さく術式が瞬いた。
次の瞬間。
真正面からユーリスへ向かっていたはずの魔獣が、不自然なほど鋭く進路を変えた。
否。
魔獣が曲がったのではない。
ユーリスと魔獣の間を繋いでいた空間そのものが、途中で折れ曲がったのだ。
魔獣は一度も方向を変えていない。ただ真っ直ぐ走り続けた結果、本来とは九十度異なる方向へ飛び出し、そのまま太い木の幹へ巨体を叩きつけた。
轟音が響き、木に積もっていた雪が一斉に落ちる。
「…………」
ユーリスはその場から一歩も動いていない。
魔獣が身を起こし、先ほどよりも大きな唸り声を上げる。
「やはり、かなり興奮しているな」
冷静に観察しながら、ユーリスは再び術式を組み上げる。
怒り狂った魔獣がもう一度地面を蹴り、今度は進路を変えることなく、真正面から突っ込んでくる。
十メートル。
八メートル。
六メートル。
そして、それ以上縮まらない。
「――――!」
魔獣が咆哮する。
四肢は確かに雪を蹴り、凄まじい勢いで走り続けている。それなのにユーリスとの距離だけは一定に保たれ、どれだけ前へ進んでも六メートルほどの間隔が埋まらない。
一歩進むたび、その一歩分だけ二者の間へ新たな空間が挟み込まれている。
魔獣には、自分が走っているのに何故獲物へ辿り着けないのか理解できないのだろう。
やがて苛立ったように横へ跳び、ユーリスを迂回しようとする。
「…………」
ユーリスの指が僅かに動き、空間が繋がる。
魔獣が横へ走る。
十数メートル。
さらに十数メートル。
だが。
「――ッ!?」
魔獣が足を止めた時、その巨体は再びユーリスの正面にあった。
走っていた方向を変えたわけではない。魔獣の進んだ先の空間を、元いた場所へ繋いだだけだ。
「縄張りを犯すつもりはない。森の奥へ戻れ」
ユーリスは淡々と言った。
魔獣が吠える。
次の瞬間には巨体が跳び上がり、太い前脚がユーリスへ振り下ろされた。
鋭い爪が迫る。
それでも、ユーリスは避けない。
爪が身体へ届く、その直前。
空間が揺らいだ。
――ドンッ!
数歩離れた雪原が大きく抉られ、ユーリスへ振り下ろされたはずの前脚が、別の場所へ繋がった空間を通って何もない地面を叩く。
「…………」
魔獣が戸惑ったように動きを止める。
ユーリスはその隙にノエルたちの位置を確認した。
まだ森の中だが、かなり離れた。
もう少し。
それまで、ここを通さなければいい。
倒す必要はない。
そもそも、ユーリスの魔術は戦闘に特化しているわけではない。
目の前の個体を倒せるかと問われれば、おそらく倒せる。けれど、本分はあくまで研究であり、その領域では天才と呼ばれるほど優秀な魔術師であったとしても、相手のどこを狙い、どの術式をどの程度叩き込めば最も効率よく絶命させられるのかという判断ならば、騎士や戦闘を専門とする魔術師の方が遥かに優れている。
今わざわざ、自分の不得手な方法を選ぶ理由はなかった。
それに、ここはザーレンの村人たちが利用する森だ。広範囲を吹き飛ばすような魔術を使うわけにも、巨大な魔獣を見知らぬ場所へ無造作に転移させるわけにもいかない。
ならば、ここに留める。
それで十分だった。
「…………」
再び、魔獣が動いた。
今度はユーリスではない。
巨体が方向を変え、ノエルたちが逃げた方角へ駆け出そうとする。
「そちらへ向かうのであれば、少し手荒になるぞ」
魔獣の前方で夜の景色が僅かに歪み、そのまま巨体が飛び込んだ。
次の瞬間。
森の奥へ向かっていたはずの魔獣が、ユーリスの真正面から飛び出した。
「――――!」
魔獣自身も予想していなかったのだろう。
雪の上を滑り、勢いのまま身体を横倒しにするが、すぐに起き上がった。
さすがに、この森のヌシと呼ばれるだけはある。
空間を繋ぎ直すたび、ユーリスは高速で移動する巨大な対象の位置と速度を捉え、その瞬間ごとに座標を再計算しなければならない。移動扉のように固定された二点を繋ぐのとは、わけが違う。
こめかみを、一筋の汗が伝った。
ユーリスはそれを拭うことなく、再び魔獣を見る。
「まだだ」
ノエルたちは、まだ森を抜けていない。
『無理したら怒るからね』
ふと、ノエルの言葉が頭を過ぎった。
普段は穏やかを絵に描いたような友人が、真剣な顔で告げた言葉。
ユーリスは魔獣を見据えたまま、ほんの僅かに目を細める。
その口元に、不意に小さな笑みが浮かんだ。
いつもの無表情からは想像しにくい、どこか挑発的な笑みだった。
「……少し、見てみたい気もするな」
場違いな思考であることは、自分でもわかっている。
それでも、ノエルが本気で怒ったところなど、ユーリスは見たことがなかった。だから、好奇心が疼かないと言えば嘘になる。
もっとも。
だからといって、わざと無茶をするつもりもない。
目の前では、苛立ちを募らせた魔獣が再び牙を剥いている。
ユーリスの口元から笑みが消える。
「来い」
静かな声に応えるように、魔獣が再び地面を蹴った。
◇ ◇ ◇
「ノエル君、もう少しじゃ!」
「はい!」
オリバーの背を追いながら、ノエルはアッシュを抱えて走っていた。
足元は雪に覆われ、木の根も多い。転ばないよう慎重に進まなければならない一方で、少しでも早く村へ戻らなければならない。
「……ノエルにいちゃん……」
「大丈夫だよ」
胸元から聞こえた声に、ノエルは息を切らしながら答える。
「もうすぐ村だからね」
「……うん……」
アッシュがノエルの服を握る。
その身体は冷えきっており、早く暖かい場所へ連れて行かなければならない。
それでも、ノエルの意識の一部は後方へ向いていた。
姿は見えない。
音も、もうほとんど聞こえない。
けれど、ユーリスが繋いだ空間座標を通して、森の奥に彼の魔力があることだけはわかる。
まだ、そこにいる。
自分たちが逃げる時間を稼ぐために。
「……無理したら、本当に怒るからね」
聞こえるはずもない距離で小さく呟き、ノエルは前を向いた。
「見えたぞ!」
オリバーの声に顔を上げると、木々の向こうに村の灯りが見えた。
「ノエル君、そのまま真っ直ぐじゃ!」
「はい!」
森を抜ける。
灯りの下にいた村人たちがこちらへ気づき、すぐに声が上がった。
「戻ってきたぞ!」
「アッシュだ!」
「アッシュ!」
何人もの村人が駆け寄ってくる中、ノエルはようやく足を緩めた。
◇ ◇ ◇
二つの魔力反応が森を抜け、村の中へ入った。
ユーリスには、それがはっきりとわかった。
「…………」
これでいい。
魔獣が吠えた。
何度進もうとしても同じ場所へ戻され、何度攻撃しても届かない状況に、怒りは頂点へ達しているらしく、巨大な身体を低く沈めると四肢に力を込めた。
次が来る。
「もういい」
ユーリスが小さく呟いた。
今までは、ここへ留めておけばよかった。
だが、ノエルたちはもう村へ着いたのだから、これ以上付き合う必要はない。
魔獣が地面を蹴った。
これまでで最も速い突進。
雪が爆ぜ、木々が揺れる。
ユーリスは正面から迫る巨体を見据え、ゆっくりと片手を上げた。
それまでとは比べものにならないほど大きな術式が空中へ広がり、幾重にも重なった線が周囲の空間へ食い込むと、夜の景色そのものが硝子越しに見たように大きく歪んだ。
魔獣が迫る。
十メートル。
五メートル。
そして。
「戻れ」
空間が、軋んだ。
真正面へ突き進んでいたはずの巨体が消える。
次の瞬間、遥か後方――森の奥へ向かって、魔獣が同じ勢いのまま飛び出した。
自ら生み出した突進の力をそのまま返され、巨体が雪を巻き上げながら森の奥へ転がっていく。
太い木が揺れ、枝から雪が落ちた。
「――――ッ!」
遠くから、怒りに満ちた咆哮が響く。
それでも、すぐに戻ってくる気配はない。
ユーリスはしばらくその方向を見ていた。
倒してはいない。
だが、追ってくる様子もない。
目的は果たした。
それで十分だ。
ユーリスは術式を解くと、最後にもう一度だけ森の奥へ視線を向け、それからノエルの側にある指輪に込めた自分の魔力を辿った。
座標は明確だった。
術式を展開すると、ユーリスはわずかな光の粒子を散らして消え、あとには雪の降る静かな夜の森だけが残された。




