2-5
ノエルがザーレンへやって来てから、二週間ほどが過ぎた。
最初の数日はオリバーの後ろをついて歩くだけで精一杯だった村の道も、今ではだいぶ覚えている。
どの家で家畜を飼っているのか。冬になると使えなくなる道はどこか。結界のどの辺りが古く、どこを重点的に見た方がいいのか。近隣の村へ向かう道や、騎士団への連絡方法。
もちろん、まだ知らないことの方が多い。
それでも、村を歩いていて見知った顔とすれ違うことは、ずいぶん増えた。
「おはよう、ノエルちゃん」
「おはようございます」
「今日もオリバーと見回りかい?」
「そうなんです。もう少ししたら、一人でも回れるようにならないと」
「だったら、うちにも寄っとくれよ。この間から台所の魔道具の調子が悪くてねぇ」
「おい待て。そういうもんはまず支部に持ってこんか」
隣を歩いていたオリバーが口を挟むと、女性は露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだい。あんたもいたのかい」
「最初からおったわい!」
「あんたはさっさと見回りの続きでも行ってきな」
「なんでじゃ!」
「そりゃあ、どうせ相談するんなら若くて愛想がいい方がいいに決まってるだろ」
「この婆ども、若い男が来た途端に色気づきおって!」
いつの間にか近所の女性まで加わり、ぎゃあぎゃあと言い合いが始まる。
最初の頃こそどうしたものかと戸惑ったノエルだったが、二週間も見ていれば、これが彼らなりのいつものやり取りなのだということもわかってきた。
「ノエルちゃん、こんな爺さん放っといて、こっちおいで」
「人の後任を勝手に連れていくでない!」
「ふふ。見回りが終わったら伺いますね」
「ほら、聞いたかい。やっぱりノエルちゃんがいいねぇ」
「かーっ! これだから婆どもは!」
ぶつぶつ文句を言うオリバーを促しつつ、会釈をしてからその場を離れる。
そんな二人を、女性たちは楽しそうに笑いながら見送った。
最近は、だいたいいつもこんな調子だった。
特に年配の女性たちは、どういうわけかノエルを随分と気に入ってくれたらしい。
ミラに淹れた薬草茶の話が広まったのも原因の一つだろう。腰が痛い、肩が重い、最近よく眠れない――そうした相談を持ち込まれることも増えた。
会うたびに孫娘や親戚のお嬢さんを紹介したがるのには少しだけ困ったりもしたが、こうして受け入れてくれる気持ちがとても嬉しい。
「ノエルにいちゃん!」
今度は、別の方向から声が飛んできた。
振り返ると、数人の子供たちがこちらへ駆けてくる。
「おはよう。今日はみんな一緒なんだね」
「うん!」
「ノエルにいちゃん、雪いつ降る?」
「雪?」
突然の質問に、ノエルは空を見上げた。
薄い灰色の雲が広がっているものの、今のところ雪らしきものは見えない。
「どうだろう。オリバーさんは、そろそろだって言ってたけど」
「もうすぐじゃよ。今年は少し遅いくらいじゃ」
「ほら!」
なぜか自分の手柄のように、先頭にいた少年が胸を張った。
七つになったばかりだというその子は、この辺りの子供たちの中では少し年長で、いつも真っ先に声を上げる。どうやら自分がみんなを引っ張る立場だと思っているらしく、ノエルに対しても何かとザーレンのことを教えたがった。
「雪が降ったらね、白星草が出るんだぞ!」
「白星草?」
「ノエルにいちゃん、知らないの?」
「うん。初めて聞いたなぁ」
「じゃあ、ぼくが教えてあげる!」
「本当? お願いします、先生」
「うん!」
先生と呼ばれたのが嬉しかったのか、少年はますます得意げに胸を張る。
「白星草っていうのは、白くて、星みたいな花で……」
「うん」
「それで……えっ、とぉ……」
勢いよく始まった説明が、そこで止まった。
ノエルが続きを待っていると、隣にいた女の子が口を開く。
「おねがいがかなうんだよー」
「知ってるもん! 今言おうと思ってた!」
「えー?」
「ほんとだって!」
「じゃあ、なんで止まったの?」
「考えてただけ!」
「知らなかったんじゃない?」
「知ってる!」
あっという間に言い合いが始まった。
別の子まで「ぼくも知ってる!」と参戦し、誰が一番白星草に詳しいのかという話になっている。
「ふふ。先生がいっぱいだなぁ」
「ぼくが先生!」
「わたしも!」
「僕も知ってるよ!」
「じゃあ、みんなに教えてもらおうかな」
「だめ! ぼくが最初!」
「ずるいー!」
「順番にしようか。僕はまだザーレンのことを知らないから、みんなに教えてもらえると助かるよ」
そう言えば、子供たちは途端に張り切った。
あれを知っているか。これは見たことがあるか。
口々に尋ねてくるものの、ノエルが知らないと答えるたびに、なぜか彼らの方が嬉しそうにする。
王都から来た宮廷魔法使いに、自分たちの方が知っていることがある。
それが少し誇らしいらしい。
「ほれほれ。ノエル先生は仕事中じゃぞ」
「ノエルにいちゃんは先生じゃないよ!」
「ぼくが先生!」
「そうじゃったのぉ」
オリバーが笑う。
「じゃあ先生たち。続きはまた今度教えてね」
「うん!」
「ぜったいだからな!」
「約束するよ」
手を振って子供たちと別れる。
二週間前には、遠巻きにこちらを見ていた子もいた。
それを思えば、こうして呼び止められるようになっただけでも、少しはこの村に馴染めてきたということなのだろう。
それが、ノエルには嬉しかった。
◇
その日の見回りでは、村の外周に沿って張られた結界を確認していった。
古い結界だけあって、場所によって状態にはかなり差がある。二週間もオリバーと一緒に見て回っているうちに、ノエルにも少しずつその癖がわかるようになっていた。
「ここ、昨日より魔力の流れが弱くなってませんか?」
「うん?」
オリバーが足を止める。
ノエルは結界の刻まれた石柱の前にしゃがみ込み、しばらくその周囲を観察した。
確かに弱い。
けれど、術式そのものが傷んでいるようには見えなかった。
「……ああ」
「わかったか?」
「多分ですけど」
ノエルは地面へ手を伸ばす。
指先に伝わってくる冷気と、その周囲を流れる微かな魔力を確かめながら、少し考えた。
「気温が下がった影響かもしれません」
「ほう」
「この前読んだ本に、似たような記述があったんです。地表近くを通る魔力は、気温や地中の水分量によって流れ方が変わることがあるって」
正確には、一度読んだだけではよく理解できず、三度ほど同じ箇所を読み直したのだが。
「宮廷から持ってきた本かの?」
「はい。先輩から借りていて、こっちにいる間に読むことになっているんです」
「役に立ったのぉ」
「まだ合ってるかわかりませんけどね」
ノエルは立ち上がり、オリバーを見る。
「少し様子を見てもいいですか? このまま弱くなるなら劣化を疑った方がいいと思いますけど、気温が原因なら、今すぐ術式に手を入れない方がいい気がします」
「うむ。それでよかろう」
あっさりと返ってきた答えに、ノエルは瞬きをした。
「……いいんですか?」
「何がじゃ?」
「いえ、もう少し確認されるかと」
「確認したじゃろ。今」
「そうですけど」
オリバーは少し笑って、それから歩き出した。
「そろそろ、こういう見回りなら一人で任せてもよさそうじゃな」
「本当ですか?」
「道は覚えた。結界の癖も見えてきた。村の連中の顔も、だいぶ覚えたじゃろ」
「はい。まだ全員とはいきませんけど」
「それに、何かあった時に自分一人でどうにかしようとせん」
「最初に何度も言われましたから」
「言われてもやる奴はやるんじゃよ」
「そういうものですか」
「そういうもんじゃ」
何やら実感のこもった言葉だった。
長い魔術師人生の中で、そういう人間を何人も見てきたのかもしれない。
「じゃあ、近いうちに一人で回ってみます」
「うむ。わからんことがあれば戻ってくればいい」
「はい」
できることが、少しずつ増えている。
それが嬉しくて、ノエルは小さく笑った。
その時だった。
「あ」
白いものが、視界の端を横切った。
反射的に顔を上げる。
灰色の空から、白い欠片がひとつ、またひとつと舞い落ちてくる。
「雪……」
そのうちのひとつが、首元のマフラーへ落ちた。
柔らかな布地の上で小さな結晶が形を残し、やがてゆっくりと溶けていく。
「降ったのぉ」
オリバーも空を見上げている。
王都でも雪は降る。
けれど、北の果てで見る最初の雪は、どこか違うものに見えた。
「綺麗ですね」
「今のうちに言っておくといい」
「え?」
「あとひと月もすれば、もう雪はいらんと言っとるじゃろうからな」
ほっほ、とオリバーが笑った。
「ザーレンじゃ、ここからが冬じゃよ」
ノエルはもう一度、空を見上げた。
細かな雪は次第に数を増し、灰色の空から静かに降り続いている。
またひとつ、白い結晶がマフラーの上へ落ちた。
◇
「それ、いいマフラーだねぇ」
見回りから戻る途中、店先で冬支度をしていた女性に声をかけられた。
ノエルは首元へ触れる。
「ありがとうございます」
「似合ってるよ。王都から持ってきたのかい?」
「はい。こちらは寒いからって、職場の後輩がくれたんです」
「あら」
女性の顔に、わかりやすく楽しそうな笑みが浮かんだ。
「いい人からの贈り物かい?」
その言葉が意味するところくらい、ノエルにもわかる。
だから、少しだけ笑って首を振った。
「ふふ。そういうのじゃないですよ」
「あら、違うのかい?」
「ええ。でも、とても素敵な人です」
「女の子?」
「はい」
「あらあら、大事にしないとねぇ」
「もちろんです」
そう答えて、ノエルは首元のマフラーを軽く整えた。
その隣で、オリバーがにやにやと笑っている。
「……なんですか?」
「んふふふふ……で? 本当のところはどうなんじゃ?」
「今お話しした通りですよ」
「あらあら、オリバー。よしなさいよぉ」
そう言いながら、女性の方もまったく止める気がなさそうな顔で笑っている。
そんな二人の視線を受けながら、ノエルは困ったように苦笑した。
◇
夜。
夕食を終えたノエルは、二階の自室で机に向かっていた。窓の外では、昼から降り始めた雪がまだ静かに舞っている。
机の上に広げているのは、レオニスから借りてきた分厚い本だった。
馬車の中で第三章までは読んでいたが、その先はなかなか思うようには進んでいない。
一度読んだだけでは理解できず、前の章へ戻ることも多かった。数頁進んだところで以前の記述が気になって戻り、そこを読み直してから、また続きを読み始める。
今日、結界を見ながら思い出した記述も、最初に読んだ時にはほとんど意味がわからなかったところだ。
「……やっぱり、ここに繋がるのか」
少し前の頁を開き、今日見た結界を思い浮かべながら読み直す。
難しい。
けれど、嫌ではなかった。
宮廷魔法局にいた頃には、書かれている理論を読んでも、具体的にどこで使うのかわからないことが多かった。それが今は、昼間に見たものと結びつくことがある。
そういう瞬間は、少し面白い。
しばらく本を読んでいると、机の端に置いてあった《対話水晶》が淡く光った。
「あ」
手を伸ばし、魔力を流す。
「はい」
『ノエル』
「ユーリス。今日はそっちからなんだね」
『お前が、僕ばかり連絡するのは変だと言ったんだろう』
「君ってすごく律儀だよね」
『そんなことを言うのはお前くらいだ』
的外れなことを言っていると言いたげな声だったが、少なくともノエルの知るユーリスは、こういうところで妙に律儀な男だった。
「あ、そういえば。今日はね、こっちで初めて雪が降ったよ」
『雪……』
「ユーリスが来た日より、ずっと寒くなってる」
『体調は』
「大丈夫。リディアさんにもらったマフラーもあるし」
『そうか』
それから少しだけ、今日のことを話した。
一人で見回りを任せてもらえそうなこと。
村の子供たちが、すっかり話しかけてくれるようになったこと。
レオニスの本に書いてあったことが、結界を見る時に少し役に立ったこと。
ユーリスの方からも、第三室で今日あったことをいくつか聞いた。
長い話ではない。
ノエルも明日の仕事があるし、ユーリスにも仕事がある。それでも、こうして時々声を聞くのは悪くなかった。
「今度、もう少し時間がある時にゆっくり話そう」
『ああ』
「じゃあ、おやすみ」
『おやすみ、ノエル』
水晶から光が消える。
静かになった部屋で、ノエルは少し伸びをすると、読みかけの本を閉じた。
寝る前に、もう一つだけやることがある。
窓辺へ椅子を寄せ、傍らに置いていた一冊のノートを開いた。
ザーレンへ来てからつけ始めた、天体日誌だ。
何時頃に空を見たか。雲の量。月の位置。見えた星の特徴。
専門家でもないノエルが書いているものなので、内容は簡単なものばかりだった。
始めた一番の理由は、ラザである。
夜に目が効く即興魔術。これを夜間活動の騎士たちへ提供する案は、ノエルの頭の中に残っていた。
ラザに術式を教えてほしいと頼んだところで、素直に頷くかはわからない。そもそもノエルに理解できるかも怪しい。
そうなると、本人に魔術提供をしてもらう必要があるのだが、頼まれてもいない騎士団のためにラザが進んでやる気を出すとは思えない。
『ははは〜、騎士様は鍛錬がお好きだからなぁ。魔術師に頼まんでも自分達でどうにかすんだろ』
想像の中ですら、顔に「めんどくせぇ」と書いて笑う姿がはっきり見える。
そこで、星好きの彼が喜びそうなものを用意しておけば、交渉材料の一つくらいにはなるのではないかと考えたのだ。
星の聖地と呼ばれるザーレンで毎晩記録を取っておけば、少なくとも興味は持つだろう。
あとは、単純にちょっとしたお土産という気持ちもある。
そんな、いくらか打算的な理由もあって始めたものだったが。
「……今日は駄目かな」
窓の外を覗く。
昼から降り始めた雪はまだ止んでおらず、雲の向こうに星を見ることはできなかった。
それでも、天候と時刻を書き込み、昨日までの記録を何気なく読み返す。
晴れた日のザーレンの夜空は、本当に綺麗だ。
毎日見ていると、同じように見えて少しずつ違うことにも気づく。
ラザへの交渉材料になればと思って始めたことではあるが、こうして一日の最後に空を眺める時間を、ノエル自身もいつの間にか楽しむようになっていた。
「明日は晴れるといいなぁ」
そう呟いて、日誌を閉じる。
ザーレンへ来て、二週間。
知らなかった道を覚えた。
知らなかった人たちの名前を覚えた。
そして最近では、向こうから自分の名前を呼んでもらえることも増えた。
まだ、ここでの生活を知ったとは言えない。
それでも少しずつ、この土地の日常の中に自分の居場所ができ始めているような気がした。
ノエルは最後にもう一度、窓の外を見た。
星の代わりに、今夜は白い雪が静かに舞っている。
「おやすみなさい」
誰にともなく呟いて、窓から離れる。
ザーレンに来て初めての雪の夜は、そうして静かに更けていった。




