真っ赤な嘘
緋色に輝く太陽が、室内を朱色に照らしている。
俺は、自宅マンションの窓から見える夕日を見つめていた。いや、睨んでいると言った方が正しいかもしれない。他人に見せる顔とは違い、苦虫を噛み潰したような顔をしているのが自分でも分かる。
部屋には赤い物を一切置いていない。理由は一つ。不愉快だから。今座っている革張りのソファも漆黒だ。唯一ある赤っぽい物と言えば、臙脂色のマフラーぐらい。
赤には、自分の中に溜め込んでいた感情を目覚めさせる作用があるという。
もしも眠れる赤がネガティブなものなら、それは悲劇を生むだろう。
怒りを露にする人間は醜い――それが、子供の頃からの母の口癖だった。その言葉は幼心に擦り込まれていき、いつしか当たり前になっていった。
実際、怒りに心を乗っ取られる人間は醜い。目を血走らせ、口汚い怒号を浴びせる。些末な事でキレる短気な人間を何度か目の当たりにした事があるが、あれ程低俗な生き物はいない。恥を知れと内心で罵りながら、自分は出来た人間だと自尊心が高まった。
友人とも喧嘩せず、弟や妹の手本となる品行方正な兄を努め、不平や不満を一切口にせず、誰に対しても物腰は丁寧に、常に清い心で笑顔を振り撒く。母の教えに従っている内に、俺は周囲の人間からまるで聖人か菩薩のようだと言われるようになった。
神聖な者を崇めるように見つめる目。気分が良い。もっと敬え――俺は人格者の自分に酔い痴れた。
しかし、時折俺を善の目で見ようとしない愚劣な人間もいた。
そんな一部の愚か者のせいで、ふとした瞬間感情が煮え滾りそうになる事もしばしばあった。
抑え込むのは容易い。自分は怒りに我を忘れたりなんかしない。そう思っていたはずなのに、気が付いたら一日中虫を踏み殺して回っていたり、同級生の女子が飼っている犬をボウガンで撃ち殺していたりする自分がいた。そうしなければ、人格者である自分が崩壊してしまいそうな気がして……。
人前で感情的なはしたない姿を晒せば、俺の評価は一気に下落する。羨望や憧憬の眼差しは、一瞬で失望と軽蔑の白い目に変わる。万が一衆人環視の中でコントロールが効かなくなる程忘我してしまったら、俺は破滅する。終わってしまう。それが何よりも恐ろしい。
だから人格者のバランスを保つ為には、必要不可欠な代償行為なのだ。
鎌倉を殺したのもその為であって、他意はない。
鎌倉は、俺が最も嫌悪するタイプの人間だった。所構わず怒りを爆発させ、己のフラストレーションを他者の心をサンドバッグにする事で解消する、まさに侮蔑に値する人間。
それでも俺は、奴に接する際も人格者としての態度を崩さなかった。下衆な奴の側にいると、返って俺の品格が映える。評価が高くなる。
だが、俺に説き伏せられて素直におとなしくなればいいものを、鎌倉は反発し続けた。
気に入らない。不快だ。改心すれば俺の功績となり、人格者としてますます認められるというのに……。
そんなある日、鎌倉は不意に吐き捨てるようにして俺に言った。
お前は偽善者だ――。
たったその一言で俺の心はぐらついた。中二の時にも言われたのを頭の隅で思い出す。あの時はこうも言われた。笑顔が嘘臭い――。
俺の全てを見透かしたような言葉。俺の全てを否定する言葉。
くだらない嫉妬から出た戯言だと分かっていたはずなのに、俺はその時も虚を衝かれたように言葉を失い、狼狽えた。
どんな言葉を浴びせられてもさざ波一つ立たなかった心に、動揺の波が生まれた。
俺の人格者としての誇りを傷付け、優位に立ったと勘違いした鎌倉は、事あるごとに偽善者という言葉をぶつけてくるようになった。異様に赤い舌を蛇のようにチロチロ見せながら、弱点を見つけたとばかりに執拗に。
その攻撃は不快指数を上昇させ、俺の神経を少しずつ、確実に擦り減らしていった。
誰もが俺を人格者として認める中で、その善を無理矢理剥がして堕落させようとする鎌倉。何度他の教師や生徒の前で殴り掛かろうと拳を握ったか分からない。
鎌倉の悪意ある態度を堪える気持ちが、日々弱まっていくのを感じた。
このままでは、奴の思惑通りになってしまう。
人々に白眼視される悪夢まで見るようになった俺は、決心した。
この胸の内にある不発弾を処理しよう。そうすれば、俺は人格者に戻れる。
かくして鎌倉は、ただの赤い肉塊と化した。
俺は殺しても殺し足りないぐらいに突き刺した。その感情の爆発は自分でも驚くものがあったが、鎌倉だけに対するものではないと思った。
幼少期からの鬱積した怒りや憎しみといった赤い毒が、鎌倉を刺した瞬間噴出したのだ。
暮内壮太に目撃されたのは誤算だったが、俺は気にしなかった。
壮太は消極的な性格で、生徒の中で一番御し易い。そして、俺を絶対的に信頼し、依存に近い好意を寄せている。壮太にとって俺は、言わば精神安定剤のような存在だ。だから警察に売るような真似はしない。俺がいなくなって困るのは壮太なのだ。それに、同じように負の感情を押し殺しながら生きている壮太なら、俺の行為に理解を示してくれるだろう。そう思っていた。
だが、それは俺の驕りに過ぎなかった。
翌日教室に入ると、いつも通り生徒達の信頼に満ちた眼差しが向けられた。ただ一人、壮太を除いて。
壮太は見るからに俺を恐れていた。無理もないかと最初は思ったが、殺した相手が壮太にとっても害悪であった鎌倉だと分かっても、壮太の瞳から恐怖の色は消えなかった。
顔は青ざめ、目を合わせず、身を固くし、声を震わせる……その態度に、苛立たしさともどかしさが込み上げた。
壮太は事件について知らない振りをし、沈黙を決め込むだろう。だがその代わり、あの澄んだ目が俺を責め立てる。
“お前は間違っている。お前の善はまやかしだ”と――。
御免だ。ずっとあの目に責め苛まれるなんて。
俺は打開策を考えた。そして思い付いた。
鎌倉を殺したのは、お前達生徒を守る為だったのだという心苦しさを吐露すれば、壮太の信頼を取り戻せるのではないか。
しかし、俺の告白を聞いても壮太の瞳は恐怖を色濃く湛えたまま変わらなかった。
何故だ……? 何故そんな怯えた目で俺を見る? いつもいつも可哀相なお前を救ってやっていたのはこの俺なのに。どうして辱めを受けた鎌倉の死を悼む? あんな下劣なゴミ人間なんかを……。
全身の血が一瞬で沸騰する思いがした。
思い知らせてやりたい――そう思った。
俺はソファーに仰向けに横たわり、左手の人差し指を目の前にかざす。少々深く切ってしまったそこは、白い包帯に包まれていた。
解らないなら、解らせてやればいい。身を以て体験すれば、理解できるだろう。俺の言った事は正しかったのだと。そうすれば、あの目に信頼の光が戻り、再び俺を尊敬するようになる。
俺は顔を横に向け、テーブルの上に置かれたケータイを見遣った。
早ければ、今日にででも連絡が来るかもしれない。期待に胸が高鳴る。
部屋の中が暗闇で満ちていく。どうやら先程まで真っ赤に燃えていた夕陽が沈んだらしい。
俺は夜の訪れに安堵の吐息を漏らし、照明を点ける為にソファーから起き上がった。




