火遊びの囁き
翌日、土曜日で学校は休みとなり、昨日は一日中張り詰めていた壮太もやっと肩の荷が降りた気がした。
誰もいないリビングでテレビを見る。朝早くから父親はゴルフに出掛け、母親の恵美子も、友達とコンサートに行くと言っていつもより念入りに化粧をして出て行った。ただし、壮太には「遊びに行かずにちゃんと勉強してるのよ。ただでさえ成績落ちてきてるんだから」と言い残して。
壮太は先程からチャンネルをザッピングしていたが、どこも鎌倉の事件についてやっていないと分かるとテレビを消した。特に進展はないらしい。ホッとする自分に、壮太は少し驚いた。
母親の言い付けを守って二階の自室で勉強しようとソファーから腰を上げたその時、インターホンが鳴った。誰だろうと思いながら、壮太はドアホンの受話器を取り「はい」と応答する。
『その声、暮内か?』
聞き覚えのある柔らかい声音が耳をくすぐり、壮太はモニターを見遣った。
そこには、笑顔の赤嶺が映っていた。
壮太が外に出ると、門越しに手を振る赤嶺の姿があった。モッズコートに臙脂色のマフラーを巻き、ジーンズといった格好。
硬い表情のまま固まる壮太に、赤嶺は言った。
「暮内、今から先生と遊園地に行かないか?」
「え……」
思いも寄らない言葉に呆気にとられる壮太。赤嶺は、そんな壮太の凝り固まった心を解きほぐすような慈愛に満ちた微笑を浮かべ、
「先生、暮内にお詫びがしたいんだ。罪滅ぼしを、させてくれ」
壮太は戸惑いを隠せなかった。目の前にいるのは、紛れもなくいつもの赤嶺なはずなのに、今の発言で、やはり赤嶺はあの夜の殺人者なのだと明白になってしまった。
「暮内、行こう」
逡巡する壮太に手招きする赤嶺。
胸に蟠る靄を晴らしてくれるのは、張本人である赤嶺だけかもしれない。そう思った壮太は、ゆらゆらとした足取りで赤嶺に近付いて行った。
電車に乗って三つ先の駅で降りたところに遊園地はあった。
土曜日の割に人は少なく、似つかわしくない程閑散としている。レトロな雰囲気が漂う古い造りで、テレビのCMでよく見る最新鋭の遊園地と比べるとアトラクションも見劣りした。いつ廃園になってもおかしくないムードを醸し出している。
それでも、ジェットコースター、フリーフォール、ミラーハウスにコーヒーカップと、壮太はそれなりに楽しんだ。
「遊園地なんて子供の時以来だなぁ。暮内は?」
「ぼくも、久しぶり」
休憩する為、二人は白いベンチに並んで座り、赤嶺は缶コーヒーを、壮太はオレンジジュースを飲んでいた。
「どうした? 元気ないな」
赤嶺は、長い睫毛を伏せて俯き加減の壮太の顔を心配そうに覗き込む。
「ぼく、後でお母さんに叱られるな。遊びに行かずに家で勉強してなさいって約束、破っちゃったから……」
壮太は母親の怒る顔を想像して項垂れる。
「ちょっと待ってろ」
赤嶺は、ベンチから立ち上がってどこかへ走って行く。
間もなくして戻って来た赤嶺は、赤い風船を手にしていた。それを壮太に差し出す。
「子供は遊ばないと。勉強ばかりじゃ息が詰まるだろ」
色とりどりの風船を持つパンダの着ぐるみが、こちらに手を振っていた。壮太は呆然とした顔で風船を受け取り、眺める。
「あ、もう風船もらって喜ぶ歳じゃないか」
赤嶺は照れ臭そうに頭をかく。
「ううん。ありがとう、先生」
壮太が赤嶺の方を見て顔を綻ばせると、赤嶺は目に見えて安堵の表情を浮かべた。
「良かった。やっとこっちを向いて笑ってくれたな」
「え?」
「暮内、ずっと先生の事を避けてたろ。目が合わないように。それは、あの夜見た先生の目が怖かったからじゃないか?」
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で謝る壮太。その垂れた頭に赤嶺はふわりと手を乗せ、
「謝るのは先生の方だ。ごめんな、怖い思いさせて」
「……先生。どうして、あんな……」
壮太は、上目遣いに赤嶺を見ながら思い切って尋ねようと試みたが、上手く言葉を繋げる事ができずに口籠もる。それ以上聞いてしまったら、これまでの楽しかった思い出がすべて壊れてしまいそうな気がした。
口を噤み、また目線を落としてしまった壮太を察したのか、赤嶺は「よし!」と殊更大きな声を出し、
「最後にあれに乗ってから帰るか」
と言って、観覧車を指差した。
ゴンドラの中。向かい合って座る壮太と赤嶺。錆び付いた軋み音を立てながら、緩やかに観覧車が廻る。そんな中、赤嶺が静かに口を開いた。
「一昨日見た事、誰にもしゃべってないのか?」
頷く壮太。
「どうして?」
「先生がいなくなるのが、嫌だったから……」
壮太の答えに、赤嶺は「そうか」と呟き、コートのポケットにそっと右手を忍ばせる。
「ぼく、あれは夢だと思った。だって、いつも誰にでも優しい赤嶺先生があんな怖いこと、するはずないから。だけど、忘れようとしてもダメだった。赤嶺先生の、今まで見たことないぐらい怖い顔が浮かんで……鎌倉先生の、あの時は誰か分からなかったけど、その、すごく苦しそうな声が聞こえてきて……」
壮太は、あの夜の光景を思い起こしながら声を震わせる。
「鎌倉先生、イヤな先生だったけど、死んじゃったら何か、悲しかった。いっぱい刺されて、たくさん血が出て、かわいそうだった。きっとものすごく痛かったと思う」
膝の上で両手をぎゅっと握り締める壮太。
「ぼく、よく分からない。先生どうして? 先生は、学校で飼ってたウサギの太郎が死んじゃった時、ぼくと一緒に悲しんでくれた。お墓を作って埋めてくれた。それなのに、どうしてあんなことしたの?」
壮太が言い終えると同時に、突然耳の側で破裂音が響いた。
驚きのあまり身体を跳ねさせる壮太。赤いゴム片が散らばる。風船が割れたのだ。
赤嶺の手に、いつの間にかジャックナイフが握られている。その刃が風船を割ったらしい。
壮太はナイフの存在に目を見張り、思わず身を引いた。わずかにゴンドラが揺れる。
そんな壮太を、赤嶺は目を細めて見つめる。
「風船と同じだよ、暮内。我慢して、耐えて、少しずつ膨らんで、限界まできて、そして、爆発した。どうしようもなく許せなかったんだ。鎌倉先生が、お前達生徒の柔らかくて真っ白な心を傷付けるのが」
赤嶺は、何事もなかったかのように普段通りの穏やかな口調で続ける。
「鎌倉先生の容赦ない攻撃が、いつかお前達を殺してしまうんじゃないか……先生はそれを怖れた。どんなに抗議しても、幾ら教頭先生や校長先生に掛け合っても、保護者から教育委員会に訴えると言われても、鎌倉先生は変わらなかった。正そうとしても聞き入れてはくれなかった。このまま放っておいたら、暴言という名の刃で本当に誰かが死んでしまうような気がした。だから、可愛い子供達の心が壊れてしまう前に、この手で……」
赤嶺は、沈痛な面持ちでナイフを握った手を見つめた。
「そんな……」
壮太は赤嶺を見た。その目は、もう少しで涙が落ちそうなぐらい潤んでいる。
赤嶺はわずかに眉間にしわを寄せ、窓の外を見遣った。ゴンドラが頂点に達したらしく、人がまばらに、粒のように動いている。空は茜色に染まろうとしていた。
観覧車の緩慢な動きに合わせて、赤嶺はゆっくりと視線を壮太に戻して言った。
「暮内、先生はお前が心配だ」
「えっ……?」
唐突に自分の話題になり、壮太はたじろいだ。
「お前を見ていると、子供の頃の自分を思い出す。親に押さえ付けられて、言いなりになって、我慢して、それでも耐えて良い子を演じる。この前家庭訪問して思ったよ。先生と暮内は似てるなって。だからきっと、ここに毒が溜まってる」
そう言って、赤嶺は壮太の胸を人差し指で軽く突く。
「ぼくは……そんなの……」
壮太はゆるゆると首を振る。
「暮内は我慢強い子だから気づいてないだけだよ。良い子でいたいから、鎌倉先生に対して悪い感情を抱けない。死んでも素直に喜べない。喜んだら、良い子じゃなくなるから。だから悲しいふりをして涙を流さなければいけないって、頭にインプットされてるんだ。今日だって、家に閉じこもって勉強してなさいって言われたんだろ? お父さんもお母さんも遊びに行ったのにどうしてぼくだけ。ズルイ、不公平だ、ぼくだって遊びに行きたいのに、どこか連れてってほしいのに、自分達ばかり楽しい思いして……そう思ったろ? 学校でも、掃除当番や飼育係を無理矢理押し付けられたのに、何も言わずに引き受けてたな。文句があるのに飲み込んで、心の中がどろっとして気持ち悪いのに、吐き出す事もできなくて。塾に通っているのに成績はちっとも上がらない。だからお母さんに叱られる。他の男子に比べて小柄で体力もなくてトロいせいか、体育の時間に同じチームに入ると嫌な顔をされる。女の子のような見た目から、女子から男子扱いされない。それでお父さんにもっと男らしくしろと責められる。どうだ? 自分の気持ちに正直になってみると、不満や腹が立つ事がたくさんあるだろ?」
赤嶺は、ゆったりとした物言いで話しながら、ジャックナイフの切っ先を自分の人差し指に当てて引いた。たちまち鮮血が溢れ出す。壮太は喉の奥で「ひっ」と声にならない悲鳴を上げた。
赤嶺は、血が滴る指を見せ付けるようにして前に出し、
「心も攻撃されると、見えない傷から血を流す。先生は、鎌倉先生を殺す事で、お前達の心から流れていた血を止めた。守ったんだ」
一呼吸間を置いてから、
「暮内、お前は優しい。でもその優しさは、攻撃の格好の的になりやすい。鎌倉先生に工作品を笑われても、クラスメイトに女みたいだとからかわれても、両親に勉強ができないと叱られても、お前は優しいから反撃しない。でも、心はしっかり傷付いて血を流してる」
指から流れる血が、滴となって絶え間無く床に落ちる。一定のリズムで、ポタポタと……。
赤い染みがじわじわと広がっていくのを、壮太は目を逸らさずにじっと見つめた。
「お前も、今の内に溜まった毒を吐き出せばいい。先生みたいに。そうすれば、心が軽くなって楽になる。血が止まる」
赤嶺の聞き心地の好い甘い声が鼓膜を震わせ、壮太は夢心地な気分に浸る。本当に眠りに堕ちてしまいそうだ。
壮太は、床の血溜まりを凝視しながら胸に手を当てた。自分にも毒が溜まっているのだろうかと考える。
鎌倉に工作品を馬鹿にされ、クラスメイトに女みたいだと揶揄され、両親に成績の事で叱責され――今までの不満や憤る気持ちがまざまざと蘇ってくる。それが知らず知らずの内に心の中で澱のようになってしまっているのだとしたら……。
赤嶺はコートのポケットからハンカチを取り出し、ジャックナイフを拭いてから、柄の方を壮太に向ける。
「これをお守りとして持っているといい。誰かに攻撃されそうになった時、必ず守ってくれるよ」
壮太は、銀色に光るナイフを見つめた。それはもう壮太にとって鋭利な凶器ではなく、とても頼れる武器になっていた。
壮太は少しの迷いも見せずにスッと手を伸ばし、ナイフの柄の部分をしっかりと、掴んだ。
「良い子だ」
赤嶺の温かみのある声が耳元で囁かれるのを、壮太は虚ろな想いで受け止めた。
「壮太! お母さんとの約束破って一体こんな時間までどこへ遊びに行ってたの!」
日が暮れた頃家に着き、壮太がドアを開けた瞬間、母親の恵美子が血相を変えて玄関まで飛んで来た。
「すみません、お母さん。壮太君を長い事お借りして。悪いのは僕なので、どうか叱らないであげて下さい」
「あら、先生……」
壮太の後から赤嶺が姿を現し、恵美子は慌てて表情を和らげ、よそ行きの顔になる。
壮太は恵美子の唇に目を向けた。そこは、朝見た時と同じように深紅に塗られていた。
「どういう事なんですか?」
恵美子は怪訝そうに聞く。
「実は、僕の家で勉強を見てあげていたんです。昨日壮太君、少し元気がなかったので気になって電話をしたら、一人で勉強していると言うので、だったら先生の家でしないかと誘ったんです。それで、気づいたらこんな時間になってしまって……連絡を怠ってしまい、申し訳ありませんでした」
赤嶺は頭を下げた。遊園地に行っていたと言ったらどんな怒りを買うか恐れていた壮太は、内心ホッとした。
「まあ、そうでしたの。とんだ早とちりをしてしまって……。ご迷惑おかけしました」
恵美子は、ばつが悪そうに謝った。
「いえ、こちらが勝手にした事なので。では……僕はこれで。じゃあ暮内、明後日学校でな」
赤嶺は、柔和な目で壮太を見てから「失礼します」と恵美子に一礼して帰って行った。




