血塗られた聖職者
「起きなさい壮太、遅刻するわよ」
恵美子は、急かす口調で布団越しに呼び掛ける。いつもならとっくに朝食を食べている時間にも関わらず、なかなか降りて来ない息子に痺れを切らし、二階の部屋まで起こしに来たのだ。
「学校、行きたくない……気分悪い」
壮太はベッドに潜り込んだまま、か細い声で主張する。
「熱でもあるの?」
恵美子は布団をめくって壮太の額と自身の額に手を当て、比べるが、
「熱なんてないわよ。具合が悪いなら病院行ってから学校行きましょう」
有無を言わせぬ言い方に、壮太は観念したのか「やっぱり学校行く」とボソッと呟き、のろりとした動作で起き上がる。
「やっぱり仮病だったのね。ずる休みなんて許さないわよ。さっさと支度して降りて来なさい」
恵美子は溜息混じりにそう言うと、部屋を出ていった。
壮太は夢うつつ状態で着替え、目を擦りながらランドセルに教科書を詰めていく。
昨夜塾の帰り道で見た光景を、すべて夢のせいにしてしまいたかった。しかし、眠ろうとすればするほど返って目が冴え、結局そのまま朝を迎えた。
壮太の脳裏には、まだ鮮明に生々しい映像が焼き付けられている。
初めは何をしているのか分からなかった。でも徐々に、人が人を刺しているのだと悟った。恐怖に凍り付いていると、ナイフを突き刺す手が止まり、相手が自分を見た。
血に塗れた鬼の形相。それが誰であるか認識した刹那、壮太はもつれる足でがむしゃらに駆けていた。
知りたくなかった。人気のない公園の方から帰るんじゃなかった。視力の良い自分が恨めしい。目が悪ければ、暗がりで誰であるか判別できなかったはずなのに、はっきりと犯人の顔を目にしてしまった。
記憶から消し去りたい。嘘だと信じたい。
壮太の心は混乱と憂鬱さに渦巻いていた。
ほとんど朝食を口にする事ができないまま、壮太はふらつく身体で学校へ向かった。
四年二組と書かれたプレートを確認してから教室の扉を開ける。もう少しで遅刻する時間だったので、教室には大分生徒がいた。でも、いつにもまして騒がしいと壮太は感じた。
「おい暮内、知ってるか? カマキリのヤロー死んだんだぜ」
クラス一お喋りでお調子者の羽村健吾が、得意げに話し掛けてくる。
「えっ……カマキリが、何で?」
壮太は驚きのあまり上擦った声を上げた。
“カマキリ”というのは、生徒達が付けた鎌倉のニックネームである。
社会と図工を担当する教師で、逆三角形の顔にひょろ長い体躯がカマキリを連想させ、名字も文字っていつしか陰でそう呼ばれるようになったのだ。
壮太の反応に気分を良くした健吾は、さらに鼻高々とした顔つきで詰め寄り、小柄な壮太の肩を抱いて囁く。
「それがよ、どうやら殺されたみたいだぜ。K公園で死体が見つかったってニュースで言ってた。いい気味だよな〜。朝っぱらからテンション上がったわ。てか、あいつってまだ三十二歳だったのな。老け過ぎてて吹いた」
健吾は途中から囁き声ではなく、笑いを含んだ普段の声量で言った。
「ころ、された……公園で……」
言葉にするのも恐ろしい現実に、壮太は目眩がした。犯人の顔は見たものの、刺されている方は顔が見えずに誰か分からなかったのだ。
「ちょっと、先生が亡くなったっていうのに不謹慎よ」
学級委員の森崎綾菜が腰に両手を当て、鋭い語調で健吾を窘める。
「出たよ優等生。ヘイヘイふきんしんでした〜」
健吾はおどけた調子で身体をクネクネさせながら、その場を離れていった。
「しょうがない奴ね。でも、私もびっくりしちゃった。あの鎌倉先生が殺されたなんて……何か、まだ信じられない」
いつも落ち着いた言動で他の同級生より大人びて見える綾菜も、この時ばかりはか弱い少女の顔をした。
「ぼくも、信じられない……」
壮太は綾菜と同じ言葉を口にしたが、意味合いはまるで違っていた。
「犯人、早く捕まるといいわね。事件のあった公園って学校からも割と近いし」
「捕まったら、犯人ってどうなるのかな……?」
壮太は自分の席に着き、机の中に教科書をしまいながら問う。綾菜は訝しげに大きな目をいっそう見開いて、
「それは……人を殺したんだから、罰を受けて、罪を償うんじゃないかしら」
綾菜が答えたその時、チャイムが鳴り、教室の扉が開いた。
「さあ、皆席に着いて。ホームルーム始めるぞ」
担任の赤嶺修二の優しいテナーの声が響き、騒いでいた生徒も素直に席に着き、静かになる。
壮太は緊張で全身が強張った。心臓が早鐘を打ち始める。
教卓で出席簿を開く赤嶺を、恐る恐る窺う。
そこには、いつもの垂れ目で柔和な顔があった。曇りのない晴れやかな表情。白いカッターシャツの上に若草色のセーターを着ていて、それが爽やかを絵に描いたように似合っている。
壮太がテレビや本などを通じて抱く殺人鬼のイメージとは、あまりにも掛け離れた風貌。外見からは恐怖を微塵も感じさせず、寧ろ心に安らぎを与える癒しのオーラを放っているぐらいだ。
見間違いだったのかもしれないと思う程、今目の前にいる赤嶺と昨夜見た赤嶺は、壮太の中で一致しなかった。
「嶺っち先生しつも〜ん。何でカマキリ先生は殺されちゃったんですか?」
健吾は右手を挙げ、さも可笑しそうに顔をニヤつかせて聞く。その言葉を皮切りに、教室内に再び騒めきが生まれる。
恨まれてたんじゃない?――何十ヶ所も刺されるなんて――あんな奴死んで当然――やだ怖い――犯人に感謝――もうアイツの授業受けなくて済む――。
生徒の口から次々零れる思いに、実情を知る壮太は居たたまれない気持ちになって俯いた。
「はい、皆静かに。鎌倉先生の事件は、今警察の人達が調べてくれているから。決して興味本位で騒ぎ立てたり、公園に近づいたりしないように。それで、しばらくは安全の為集団下校になります」
他人事のように至って平静に述べる赤嶺に、壮太は困惑の色を隠せなかった。
鎌倉武彦は、生徒達から嫌われていた。
鎌倉は、自分が気に入る気に入らないで生徒を判断、差別化し、言う事を聞かない者に対しては泣くまで罵詈雑言を浴びせ、成績下位の者に対しては馬鹿にして笑い者にした。鎌倉の授業前に具合が悪くなって倒れる生徒もいた。保護者からクレームがきても、教育の一環だと正当性を主張し、逆にモンスターペアレントだと跳ね返した。
問題教師――それが、鎌倉を知る人間の共通認識だった。
「きっと天罰が下ったんだぜ。普段の行いが悪いからよ。ざまあみろってんだ」
給食の時間になっても意気揚々と事件について語る健吾。彼は鎌倉の授業中、何度も居眠りをしては鎌倉に黒板消しやチョークを投げつけられ、長々と怒鳴り散らす説教を食らっていた。
壮太も、図工で製作したウサギの置物をクラスメイト全員の前で嘲笑された事がある。手先が不器用なのは自覚していて、確かに不細工な出来ではあったが、心を踏み付けられた思いがした。
でも、だからといって健吾のように鎌倉の死を喜べない。それはひとえに、鎌倉を亡き者にしたのが赤嶺だと知っているから。それに、たとえ最悪な教師であろうとも、死んでくれて良かったとは到底思えない。
死は、誰であっても悲しく、気分が沈む。
「嶺っちも気が楽になったんじゃね? しょっちゅうカマキリにイヤミ言われてたし」
同じ班の健吾と向かい合う形で給食を食べていた壮太は、思わず箸を止める。
赤嶺が鎌倉に抗議している場面を、壮太は何度も目にしている。
生徒に対する行為がともすれば体罰であり、心を傷つけるものだと訴える赤嶺に、鎌倉はよく食ってかかっていた。教師にあるまじき行為を指摘される度に激昂し、人格を否定するような厭味を散々赤嶺に投げつけながら。
それでも赤嶺は決して取り乱したりせず、努めて冷静に、穏やかな口調で説得していた。
だからこそ、赤嶺がそれだけの理由で鎌倉を殺すなんて壮太には思えなかった。しかも、あんな惨い形で……。
「プリンいっただき!」
箸を止めたままの壮太の隙を狙って、もう自分の給食を食べ終えた健吾が壮太のプリンを横取りする。
「あ……」
壮太は小さく声を上げたが、健吾は悪びれた様子をこれっぽっちも見せずにプリンのフタを開けようとする。
「こーら。それは暮内のだろ。返しなさい」
赤嶺がやって来て、健吾の頭をコツンと叩く。
「だって、こいつ食べるの遅いんだもん。女みたいにちまちまさー」
「だからって友達の物を取っていい理由にはならないだろ。自分がされて嫌な事をやっちゃいけない。分かるよな?」
赤嶺は少し屈んで、言い訳する健吾を真っすぐ見つめながら、幼子を宥めるように諭す。すると健吾は「悪かったよ」と言って、壮太にプリンを返した。
「よしよし。偉いぞ羽村」
赤嶺は健吾の頭を撫でると、今度は壮太に近づき、
「暮内、食欲がないなら無理に食べなくていい。ただ、プリンだけは誰かさんに取られる前に食べておきなさい」
「はい……」
壮太は赤嶺の方を見ずに、伏し目がちに答える。食が進まない理由を知った上での発言に聞こえた。
赤嶺がその場を離れてから、壮太の右横に座る綾菜が話し掛けてきた。
「赤嶺先生って本当に生徒想いよね。絶対頭ごなしに叱ったりしないもの。鎌倉先生とは大違い。ああいうのを教師の鑑って言うんだわ」
「教師の、かがみ?」
小首を傾げる壮太に、綾菜はしばし思案し、
「つまり、先生のお手本って事よ」
「先生の、お手本……」
確かに綾菜の言う通りだと、壮太は思った。
赤嶺修二は鎌倉とは対象的に、生徒から慕われている。保護者からも、生徒の事を親身になって考えてくれる誠実さで信頼されていた。二十八歳と若く、清涼な好青年の容姿と、誰からも好意的な印象を抱かれる実直な性格も、鎌倉は気に入らなかったに違いない。誰に対しても尖った態度の鎌倉だったが、相手が赤嶺になると、より棘のある攻撃をしていたように見受けられた。
壮太はプリンを口に運びつつ赤嶺を一瞥する。
普段と変わらぬ様子で接してくる赤嶺。まるで、殺人を目撃された事を気にも留めていないようにすら感じる。
だが実際、壮太は他言できずにいた。もしこれが露見したら、赤嶺は自分の前からいなくなってしまう。そして、自分のせいで罰を受ける事になる。壮太はそれが嫌だった。
勉強も運動も苦手な自分に、お前は絵が上手いと褒めてくれた。父親にもっと男らしくしないかと叱られた時も、そのままでいいんだよと慰めてくれた。学校で飼っていた兎が死んでいたのを見つけて、一人泣いていた時も、一緒に悲しんでくれて墓を作って埋めてくれた。
どんな時も優しく微笑んで勇気づけてくれた赤嶺。そんな心強い味方を失ってしまうなんて、壮太には考えられなかった。
更新は不定期になりそうです。




