第3章 近づく距離編 - 第8話「来たる試練」
美月は一度だけ大きく息を吸った。
そして。
自分の襟元へ手をかける。
「……?」
鳳の黄色い瞳が、その動きを追った。
美月の指先が襟を緩め、首筋が見える程度までそっと横へずらされる。
「吸って?」
美月のその言葉に、鳳の目が見開かれた。
「 」
完全に停止。
声どころか、息すら忘れてしまったように石化している。
「鳳?」
数秒後。
ふっ、と美月の目の前から鳳が消えた。
「え?」
視線を巡らせると、部屋の端。
壁へ背中をぴったりと張りつけた鳳がいた。
「い……いきなり何を申すか!!」
顔どころか、耳も首も真っ赤だった。
美月は、先ほどまで抱きしめられていた場所と、現在鳳が立つ壁際を交互に見る。
「え、だって鳳、『不惜身命の覚悟で応えよう』って言ったし……」
「だからと言い、首筋からの吸血を許可するとは何事でござる!!」
「そんなに!?」
「そんなに、でござる!!」
口では必死に拒絶している。
しかし、美月は気づいた。
鳳の黄色い瞳。
その瞳孔が、先ほどまでよりも明らかに細くなっている。
「……やっぱり、効いた?」
「やはりと申されておるなら、なぜそのようなことを……!」
すると、先ほどまで照れていた美月の顔から表情がすっと消え、真顔になる。
「乙女の夢です」
「乙女の夢」
鳳は復唱するしかなかった。
「だって吸血だよ!?」
美月が急に熱を帯びる。
「数多の乙女が憧れたシチュ!」
「しちゅ」
「優しく抱きしめられてるのに、首筋には牙!」
「牙」
「しかも牙に込められてるのは、その人を求める欲そのもの!」
「よ…欲…」
「優しいのに本能は全然優しくない!そのギャップがもうきゅんきゅんするじゃん!?」
「…………」
鳳はしばらく黙った。
美月は完全に熱弁している。
怖がっている様子など、一欠片もない。
「……そうか」
鳳の口から、ぽつりと落とされた言葉。
その瞬間。
鳳が、消えた。
「え?」
美月の声に重なるように、背中へ大きな腕が回る。
「っ……!」
気づいた時には、再び鳳の胸元へ身体が収まっていた。
先ほどとは違う。
腕に込められた力が、ほんの少しだけ強い。
明確に、“捕らえられた”と分かる力だった。
そして。
首筋へ、熱い吐息が触れた。
「―――っ!」
肌のすぐ近くに、僅かに牙が触れかける感覚。
噛まれてはいない。
それでも、その存在を意識するには十分だった。
「……美月殿が求めているものと、相違はないでござるか?」
「……っ」
鳳が話すたび吐息が首筋を撫で、美月の肩が震えた。
すると、それを見た鳳の目が、わずかに伏せられる。
「……」
怖がらせたか。
そう思った。
だがむしろ、それでいいとさえ思えた。
自分は今、満たされている。
それでも、美月の首筋を前にした瞬間、内側の僵尸が確かに反応した。
―――もし。
いつか、再び飢えた時。
己が理性を失い、美月へ不用意に血を求めてしまったなら。
今のような関係には、戻ることはできないだろう。
いっそ、それならば。
今ここで自分を恐れさせ、距離を置かせた方がいいのかもしれない。
「……そなたの勇気は、目を見張るものがある」
鳳は低い声で告げた。
「だが、そのように煽られれば、拙者は―――」
ゆっくりと身体を離す。
そして。
美月の顔を見た瞬間、鳳は言葉を失った。
「……ご、ごめ……」
美月の頬から耳までが、真っ赤に染まっている。
わずかに伏せられた目は潤み、両手は所在なさげに胸元へ添えられていた。
「す、すまぬ!!」
鳳が慌てる。
「怖がらせすぎたであろうか……!?」
「いや」
美月は片手を胸元へ当てた。
「アドレナリンが出すぎて」
「あどれなりん」
聞き慣れない単語に、鳳は再び復唱するしかなかった。
「すごかった……」
「何が、でござるか」
「心臓がうるさい」
そう言って、美月は両手で自分の頬を包んだ。
熱い。
顔から火が出そうだった。
それを見た鳳の胸も、どくん、と大きく鳴る。
「……拙者は、そなたが心配でござる」
思わず美月を包む腕に、わずかに力がこもった。
「え、でも吸ってほしいのは本心だよ?」
「無防備すぎるのでござる!!」
「だって、鳳なら大丈夫かなって」
「その信頼の使い方を、もう少し考えてほしいでござる!」
「じゃあ今日は諦める」
「……“今日”は?」
鳳の顔が引きつる。
美月は襟元を直しながら、何でもないことのように続けた。
「うん。いつか腕からじゃなくて、こっちから吸血してね」
自分の首筋を、とん、と指先で示す。
「…………」
鳳は目を覆うように、手を当てる。
「……拙者の心臓は……」
そのまま天を見上げる。
「美月殿により、止められてしまう可能性が高いでござる…」
「なんでよ」
美月はくすくす笑うと、ようやく鳳の腕から離れる。
「じゃあ私、ご飯の準備してくるね」
「…………あぁ」
鳳の返事が、ほんの一瞬遅れた。
「かたじけない。頼むでござる」
「うん」
美月は何事もなかったかのように台所へ向かっていく。
その背中を見送りながら、鳳は、ふと胸の内へ浮かんだ言葉を思い出した。
『そなたを、娶らせてくれ』
「…………」
先ほど、美月が『女として覚悟のいることをする』と告げた時。
自分は、あの問いへの答えを期待した。
吸血を求められたことが嫌だったわけではない。
むしろ、あれほど自分を信頼してくれたことが嬉しかった。
―――それなのに。
あの返事ではなかったことへ、わずかに肩を落としている自分がいる。
「……」
鳳は、自分の胸元へ手を置いた。
責任を取るため。
最初は確かに、ただそれだけのはずだった。
しかし、今の自分が抱いているものはもう、それだけではなかった。
鳳は小さく息を吐く。
そして、台所から聞こえる美月の鼻歌へ耳を傾けながら。
自分の中に増え始めたその感情を、否定することはしなかった。
―――その時。
外の木々が不自然にざわめいたことなど、二人は知る由もなかった。
第3章 近づく距離編 - 第8話
「来たる試練」- 完 -
→第3章 近づく距離編 - 第9話
「荒ぶる心」
読んで頂きありがとうございます。
面白かったらぜひ評価や★を押して頂ければ、やる気が上がります。




