第3章 近づく距離編 - 第1話「責任」
夜が深くなった頃。
美月の家では、今日出会ったばかりの鳳がベッドを占領し、静かに眠っていた。
「……顔色、だいぶ戻ったね」
美月は椅子へ腰掛けながら、包帯を巻いた左手を見る。
その隣では、ジャジーが腕を組んだまま壁へ寄りかかっていた。
「お前は自分の心配しろよ」
「だから大丈夫だって」
「自分で手ぇ切った奴の『大丈夫』は信用しねぇ」
その時だった。
「……ぅ……」
鳳の眉がピクリと動き、僅かに身じろぎした。
黄色い瞳が、ゆっくりと開いていく。
「起きました?」
目の前には、小柄な女性。
鳳は数度瞬きをすると、天井を見上げた。
「……ここは……」
「私の家です。あなた、あの後倒れたんですよ」
「倒れ……?」
記憶を辿るように眉を寄せる。
やがて、自分の胸元へ手を置いた。
「……それにしても……これは……」
男の顔に明らかな困惑が浮かんだ。
「飢えが……治まっておる……」
「そりゃ美月がお前に血ぃ飲ませたからな」
「ジャジー!」
余計なことを、と美月が振り返る。
「…………は?」
鳳はベッドから起き上がった状態で固まった。
数秒後、鳳の視線が、美月へ落ちた。
視線を巡らせると、美月の左手に巻かれた包帯を見つける。
「せ……拙者は……」
額に汗が滲む。
「必死にこいつの掌から血ぃ吸ってたぞ」
「追い打ちしないで!」
みるみる血の気が引いていく。
「お……女子に……なんということを……」
次の瞬間。
ふっ、と鳳の姿がベッドから消えた。
「え!?」
直後。
美月の目の前に、見事な土下座が完成していた。
「早ぇ!」
額が床へぴったりと貼りついている。
「誠に申し訳ござらぬ!!」
鳳の声が響いた。
「緊急とはいえ、女子の肌へ……く、口づけ……、その血まで啜るなど……!」
「ちょ、そこまでしなくていいですから!」
「否!!」
「いや勢い!」
「拙者が傷物にしたも同然!!誠に申し訳なかった!!」
美月は困ったように眉を下げる。
しかし、床へ頭を下げ続ける姿を見ているうちに、頬が少し緩んだ。
「……すごく、誠実な人だぁ……」
ジャジーの眉が動く。
「しかも、かっこいい……」
「おい!」
鳳がゆっくりと顔を上げる。
その顔は、妙に覚悟を孕んだ表情だった。
「無論、責任は取るでござる」
「責任?」
ジャジーの目が細くなる。
「すげぇ嫌な予感すんな」
鳳は正座へ戻ると、黄色い瞳でまっすぐ美月を見た。
「拙者に、そなたを娶らせてくれ」
一拍。
「早い早い早い!!」
美月が両手を振る。
「いつの時代の考え方よ!?」
その横で、ジャジーが口を挟んだ。
「おいふざけんな!ここには俺もいんだろ!」
鳳はそこで初めて、まともにジャジーを見た。
「見たところ、この方に印は見当たらぬ。お主はこの方と、どのような関係でござるか」
「っ……それは……」
ジャジーの言葉が詰まった。
「え。“印”って何?」
今度は鳳が固まった。
「……そなた、印を知らぬのでござるか」
「数日前まで人間やってたので」
「……なるほど。人間界より転生したという者は、そなたのことでござったか」
「遅くなりましたが、美月です。あと、娶る件はいったん保留で」
「保留なのかよ!」
ジャジーの声が響く。
「だって、誠実で優しくて、しかも命まで助けてくれた人だよ?そんなの女子は普通に惚れるって!」
「……っ……あーそうかよ」
声の温度が落ちた。
ジャジーが壁から背を離す。
「お前には、新しく守ってくれる奴が来たんだな」
「……は?」
「……俺は、必要ねぇんだろ」
「ジャジー、ちょっと待っ―――」
「………ちょい、頭冷やしてくる」
美月の言葉を最後まで聞かず、ジャジーは扉を開けた。
漆黒の翼が夜気を孕む。
「ジャジー!」
その声にも振り返らない。
家を飛び出したジャジーは一度だけ窓越しに鳳を見ると、舌打ちした。
「……俺とは、真逆じゃねぇか」
羽音が遠ざかっていく。
一枚だけ落ちた黒い羽を、美月は拾い上げた。
「なんで、あんなに怒ってるんだろ……」
指先で羽を撫でる。
「ジャジーにとって私は、ただのご飯でしょ……?」
口にした瞬間。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……変なの……」
今まで正座を保っていた鳳が立ち上がる。
「……すまぬ。拙者が来たばかりに」
「鳳さんのせいじゃないよ」
美月は羽を大切そうに握り、少し笑った。
「良かったら何か食べていってください。まだ心配だし」
「ならぬ」
「え?」
「契約前の女子の家へ、男が易々と居座るものではない」
「さっき『娶らせてくれ』って言った人が?」
「“保留”と申されたのであれば、留まる理由はござらぬ」
美月がぽかんとした。
「すごい。段階踏み抜こうとした人が、自分で倫理の玄関閉めた」
「誤解を生まぬためでござる」
「ふふっ。不器用で、お硬い人だなぁ」
その時、管理所から、妖力通信が届く。
『皆様。お加減はいかがでしょうか?』
「百之鬼さん!」
「そなたは、管理所の…」
百之鬼はにこりと微笑み、通信を続けた。
「皆様のご様子の確認のため、明日まで映像を繋げさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。私は大丈夫です」
「拙者は只今よりこちらを去るつもりでござるが……」
『ダメです』
「……は?」
鳳が固まる。
『あれだけ消耗していたのです。いつどうなるか分かりません』
「もう大事ない。契約前の女子のもとに居座る方が問題でござる」
鳳の意思は硬い。
しかし百之鬼は引くことなく、鳳へ言葉を重ねる。
『相変わらずお硬いですね。ですが、女子の善意を無碍にする方が、男性の恥ではありませんか?』
「そ……そうであるか……?」
鳳の意思が明確に揺れる。
美月が個人として善意を投げるよりも、管理所職員である百之鬼に告げられた方が、彼には届きやすいようだった。
『古い価値観を大切にすることは良いことですが、しばらく美月さんの善意を甘んじて受け取ってください。今夜は私が見ておりますので』
「しょ、承知した……」
百之鬼の視線が美月へと移る。
『ところで、ジャジー様はどちらかに向かわれたのですか?』
「あはは…まぁ……」
美月が苦い顔をする。
すると、百之鬼の口元が、にんまりと上がる。
まさに、“美味しい状況”になってきたことを喜ぶような表情だった。
「え、なんですかその妙にツヤツヤした笑みは」
『お気になさらず』
「いや気になるよ!」
『では皆様、本日はお疲れ様でした。ゆっくり休んで下さい』
「あ、ありがとうございます。百之鬼さんも無理せず」
『楽しませ…ではなく無理は致しません』
「今の怖いな!?」
「拙者も助かった。礼を言うでござる」
『はい。では、失礼いたします』
そして、妖力通信は切れた。
「というわけで、しばらくの間休んでいってくださいね」
「……承知。世話になるでござる」
そして、台所へ向かう途中の窓から、美月は空を見上げた。
もう既に、ジャジーの姿は見えない。
「……早く、帰ってきてね」
その声は届かない。
夜の森の奥へ向かうように、強く羽を打つ音だけが遠く響いていた。
第3章 近づく距離編 - 第1話
「責任」- 完 -
→第3章 近づく距離編 - 第2話
「補給で埋まらぬ穴」へ




