第2章 隠世の問題編 - 最終話 後編「命を分ける」
※軽い血表現があります。
どさりと倒れた男の前で、美月はただ膝をついて声をかけるしかなかった。
「青札が倒れました!」
緑札の職員の声が飛び、避難誘導に当たっている職員以外が集まった。
「原因は!?」
「今、捜索監視課の百之鬼職員へ連絡をしています!」
美月は地面へ伏せた男へ声をかけ続けた。
「ねぇ!聞こえていますか!?」
返事はない。
薄いミントグリーンの肌は血の気を失い、先ほどまで炎を押し返していた手からも力が抜けている。
何より恐ろしいのは、その輪郭だった。
指先が、景色へ溶けるように透け始めている。
「これ……ジャジーの時と同じ……!」
「美月、触んな!」
ジャジーが肩を掴む。
「でも、この人私を助けてくれたんだよ!?」
その時、慌ただしい足音が近づいた。
「美月さんお待たせしました!」
「百之鬼さん!」
百之鬼は男の横へしゃがみ込む。
「この方は…」
説明している暇を惜しむように、腕に並ぶ無数の目を一斉に男へ向け、集中する。
普段柔らかな百之鬼の表情が、明らかに変わった。
「どうしたんですか?」
美月が百之鬼の顔を覗き込んだ。
「この方は“鳳”様……以前は純粋な河童族、九千坊河童であったはずなのに……」
百之鬼が息を呑む。
「別の妖が、混ざっています」
「別の……?」
「僵尸です」
「きょうし……?」
「人間界では、“キョンシー”という呼び方の方が馴染み深いでしょう」
「でも、九千坊河童さんに、なんでキョンシーが……?」
美月の眉間に皺が寄る。
「噛まれたとか……?」
「分かりません。私もこの方と数日会っておりませんでした。一体その間に何が……」
鳳の輪郭がさらに薄くなり、美月は慌てて百之鬼を見る。
「で、でも名前があるなら存在は消えないんですよね!?」
「名は確かに存在を留める楔です。ですが、生存に必要なものまで補えるわけではありません」
「そんな……」
「俺と同じだ」
「え?」
ジャジーが男を見下ろす。
「俺がどんだけ食い物食っても、お前から精気を貰えなきゃ意味ねぇのと一緒だ」
「ちょ……今その話……!」
「必要だろ。名前あったって、自分達の栄養になるもん取れなきゃ消える」
「じゃあ、この人に必要なのは……」
百之鬼が静かに答えた。
「生き血です」
美月の顔が固まる。
「僵尸が混ざったことで、妖力補給の方法まで変質したのでしょう。通常の妖力を流しても、まるで入りません」
「なら、採血してそれを飲ませれば……」
「難しいです」
百之鬼は首を振った。
「必要なのは、今まさに生きている者から流れる血です」
ジャジーが顔を顰める。
「クソ面倒くせぇ体だな……」
緑札の職員が周囲を見渡した。
「誰か!直接血を分けられる者はいないか!」
返事はない。
住民は既に避難し、残ったのは緑札の職員のみ。
職員達も互いを見るだけで、手を挙げなかった。
「……なんで……仲間なんでしょ……?」
美月が呟く。
「そりゃこうなるだろ」
ジャジーの声が低くなる。
「どれだけ吸われるか分かんねぇ。下手すりゃ今度は血ぃやった方が消える」
隠世の者に、輪廻の保証はない。
助けたい。
それでも、自ら消滅する危険まで背負えるかは別の話だった。
美月は一度だけ鳳を見る。
炎に包まれた自分の前へ、迷わず立った背中。
『怪我はないでござるか』
その声を思い出した。
「……なら、私があげる」
「は!?」
美月が左手首の袖を捲った瞬間、ジャジーの表情が変わった。
「やめろ!!」
怒声が響き、美月の手首を掴んだ。
「吸い尽くされたらどうすんだ!消滅すんだぞ!?」
美月は自分の手首を掴むジャジーの手を外す。
「ジャジーは私がいなくても、必死に探せば他の人を見つけられるでしょ?」
「っ……それは……」
ジャジーの言葉が止まる。
「でも今、この人に血をあげようとしてるのは、私しかいない」
美月は震える手首を、鳳の口元へ近づけた。
唇の隙間から鋭い牙が見え、一瞬だけ身体が強張った。
―――それでも。
「鳳さん、噛んでください」
意識のない鳳の口元へ手首を触れさせる。
すると。
僅かに反応した牙が、美月の皮膚へ沈んだ。
「っ……!!」
注射とは違う。
明らかに噛まれていると分かる鋭い痛みに、美月の顔が歪む。
だが。
鳳の喉は動かない。
「……力が残ってない……?」
吸うことすらできない。
美月は手首を引くと立ち上がり、自宅へ駆け込んだ。
「おい!どこ行くんだ!」
すぐに戻ってきた美月の手には、小さな果物ナイフが握られていた。
ジャジーの顔色が青ざめる。
「待て美月!」
「黙ってて!」
美月は自分の左掌へ、刃を滑らせた。
「っ……ぅ……」
「美月!!」
「いい!大丈夫だから!」
赤い血が、ぽたりと落ちた。
その光景に、ジャジーと百之鬼は、思わず目を瞑る。
「これで……お願い……!」
美月は掌を、鳳の口元に近づけた。
百之鬼も再度目を開け、美月の血液が危険域に達しないように注視している。
美月の血が鳳の唇へ触れた瞬間。
―――ゴクッ。
喉が動いた。
「……!やった……!」
すると。
意識のない鳳の手が、美月の手首を掴んだ。
「っ……!」
鳳は美月の掌を自分の口へと寄せた。
必死に血を啜る、生々しい音が響く。
―――怖い。
思わず手を引きそうになるが、それでも美月は耐えた。
この人は、自分を助けた。
なら。
自分も、この人を助ける。
ジャジーは何も言わなかった。
ただ、歯を食いしばり、美月の手と鳳を睨むように見つめている。
やがて、鳳の口が離れた。
薄かった輪郭が戻っている。
呼吸も、先ほどより明らかに深い。
「よかった……」
美月はその場へ座り込む。
百之鬼が鳳を確認し、ゆっくり息を吐いた。
「峠は越えました」
「美月、手ぇ見せろ」
「私、昔から交通事故で跳ねられても骨折しないくらい丈夫だったし、出血多量でもピンピンしてたし」
「なんも安心できねぇよ!」
ジャジーが乱暴な口調のまま、美月の手を取る。
それでも触れ方だけは、ひどく慎重だった。
美月は自宅を振り返る。
「鳳さん、とりあえずうちで休ませます」
「はぁ!? 家入れんのかよ!」
「私の家なんだから私が決めます。ジャジーは鳳さん運んで」
「……チッ」
ジャジーは不満を隠そうともせず、気を失った鳳を抱き上げた。
「……美月さん」
百之鬼が後ろから声をかけた。
「はい?」
「ありがとうございました。あなたが動かなければ、間に合わなかった可能性が高いです」
美月へ頭を下げると、周囲の職員達も頭を下げた。
美月は慌てて首を振った。
「お礼はいいです! それより他の焼けた場所をお願いします!」
「ありがとうございます。何かあれば、管理所に連絡を。一連のことは、私から管理所に報告します」
そして美月は、鳳を抱えたジャジーの後を追って家へと入って行った。
夜。
焼け焦げた匂いの残る居住区の中で、美月の家にだけ、小さな灯りがともった。
その部屋では、今日出会ったばかりの“水の者”が、静かに眠っていた。
第2章 隠世の問題編 - 最終話
後編「命を分ける」- 完 -
→幕間「写仝の苦悩」
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