第1章 夜の来訪者編 - 最終話 後編「夜と月」
花畑の空はすっかり夜へと変わっていた。
百之鬼職員は、開いた腕の目を細める。
「妖力を飛ばしてください。届けば、相手側から辿れます」
脳裏に、ジャジーの言葉が響いた。
『俺を思い浮かべて、飛ばせばいい』
躊躇ってなど、いられなかった。
妖力を手のひらへと集めながら、彼の存在を頭へ浮かべる。
「……勝手に来てたくせに」
徐々に手のひらの光が強まっていく。
「緊急なのに、意地張って⋯⋯」
美月は手のひらを掲げる。
「早く来てよ…ジャジー」
白い光が、美月の手から弾けた。
光は花畑を真っ直ぐ駆け抜け、空の向こうへ消えていく。
数秒、何も起きない。
その時。
遠くの場所で、晶石が砕かれる音が響いた。
刹那、空間が大きく歪んだ。
漆黒の穴が開くと夜の匂いを纏った風が吹き荒れ、あの黒い羽が見えた。
「ジャジー!!」
しかし。
現れた彼は、その身を倒した。
二メートルもの巨体が、そのまま地面へ打ち付けられる。
「……え……」
翼はざんばらで力なく広がり、金色の目にもほとんど光がない。
息も浅く、ダークグレーの輪郭は辺りの景色と溶け始めている。
それでもジャジーは、美月を見つけるとわずかに口角を上げた。
「……呼んだ、な……」
声は掠れている。
「なにその状態……!」
あまりにも信じられない光景に、美月は駆け寄り、膝をついた。
ジャジーの上半身を自分の膝に移動させる。
通常なら2メートルの体などびくともしないはずなのに、異常に軽かった。
その事実に、美月の目元が嫌な歪み方をする。
「なんで…っ…なんで言わなかったの!」
「……言った」
「何を!」
ジャジーは一度息を整える。
「俺…お前に拒否されたら…死ぬ、って…」
美月の胸がひどく痛んだ。
「なら、来てよ…!なんでそんな意地張ってまで…!」
ジャジーが眉を寄せる。
「意地じゃ、ねぇ」
「じゃあ何!」
「…お前とした、約束…」
「え…」
「守る、ためだ…」
美月の目頭が熱くなっていく。
溜まった熱は今にもこぼれそうに視界を揺らしていた。
美月はぐいっと目元を拭うと、ジャジーの頬へ手を添えた。
触れたところから妖力が流れ込み、ジャジーの羽がわずかに揺れた。
それでも当然、足りない。
なのに、ジャジーは一切、自分から手を出さなかった。
わずかな沈黙のあと、美月が口を開く。
「……聞きたいことは、山ほどある」
美月は少しだけ息を飲み、顔をジャジーへと寄せる。
「…おい…」
体は一切動かないまま、ジャジーは口だけで反応を返す。
鼻先が触れ合う直前。
美月は一度止まった。
「……私がいた世界ではね」
一度深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
「キスって、それなりの意味があるの」
それを耳にしたジャジーの目が、わずかに見開かれる。
このあと、何が起こるのか。
それを察した様子で、ジャジーはまっすぐに美月を見つめている。
美月はその距離で続ける。
「……悪いけど、今からするのは恋人としてじゃない」
一瞬だけ、金色の目が伏せられた。
「……でも」
美月は更に顔を近づける。
「消えてほしくない相手にするくらいの重さは、ちゃんとあるよ」
そして。
ジャジーの唇へと、自身を重ねた。
触れるだけでは終わらない。
美月自身の意思を乗せるように、しっかりと重ねる。
その瞬間。
白い光が二人の間で弾けた。
ジャジーの翼に張りが戻り、薄れていた身体の輪郭が一気に色を取り戻す。
荒かった呼吸も整い、金色の瞳へ光が戻った。
ゆっくりと唇が離れていく。
ジャジーは一瞬だけ美月の唇を追ったが、止める。
「……もう一回頼む」
「調子に乗らないで!」
「回復のためじゃねぇ」
「余計ダメ!」
ようやく戻ったいつもの軽口に、美月は大きく息を吐いた。
そして、少し迷ったあと、口を開く。
「……月」
小さな声。
「……あ?」
聞き取れないと言うように、ジャジーは美月へ耳を寄せる。
「美月。私の名前」
ジャジーが目を瞬く。
「……美、月……」
初めてジャジーに呼ばれた、自分の名前。
それが、妙にくすぐったかった。
「ちゃんと教えたからね」
美月は目を逸らす。
ちゃんと、自分の存在を渡した。
今は、これで充分だった。
しばらくジャジーは黙っていたが、ゆっくりと口を開く。
「……俺には、なくちゃならねぇ存在だな」
唐突に落とされた重たい響き。
「え?」
美月は目を丸くすると、ジャジーを見た。
ジャジーは美月と視線を合せると、次に空を見上げる。
雲一つない、満月の輝く夜だ。
「俺は、夜の種族だ」
見上げていた視線を美月に落とす。
「夜には、月が必要だろ」
牙を見せて笑う。
「それが“美”しい“月”なら、最高じゃねぇか」
当たり前のように投げられた気恥ずかしい言葉に、美月はふいっと視線を外す。
「……毎日、綺麗な月が出るとは限らないよ」
その言葉には、どこか影が差している。
「別にいいだろ」
美月の様子に気づいているのか否か、ジャジーは変わらないトーンで続ける。
「笑ってるみてぇに光る日も、傷ついてるみてぇに欠ける日も、雲に隠れる日だってある」
ジャジーは美月へ視線を戻した。
「それでも、夜を照らす月だ」
美月は、なにも言えなかった。
無言のまま、数秒見つめ合う。
先に崩れたのはジャジーだった。
ダークグレーの耳の先が、ゆっくりと赤く染まる。
「耳、赤いよ」
「見んな。格好つかねぇ」
少しだけ照れたように目を逸らす。
「もう目の前で思いっきり崩れてるの見てるから、大丈夫だよ」
「傷口に塩塗んな!」
それでも、言葉は止めなかった。
「っ…だから…!」
ジャジーは美月の指先に手を伸ばす。
手を取って良いか、確認するように。
美月は手を引かなかった。
ジャジーの指にほんの少しだけ、自身の指を絡める。
伝わるぬくもりにジャジーは目を細め、そっとその手を取った。
「安心して光れ。そんでもって、無理して光り続けんな」
少しだけ、ジャジーの手に力が入る。
「俺に、お前を守らせてくれ」
『守ってやる』ではない。
それは、願いだった。
「……ずるいなぁ」
美月は小さく笑う。
「そんなこと言われたら、断れないじゃん⋯」
そう言いながらも美月の指先は、自らの意思でジャジーの指へと絡んでいる。
「断る理由、最初からねぇだろ」
ジャジーは嬉しそうに目を細めた。
まだ恋人ではない。
契約もしていない。
それでも。
離したくないと思える程度には、互いの距離は近づいている。
花畑の上には、雲一つない夜空と満月。
繋がれた二人の手を、まるで答えを知っているように、静かな月光が照らしていた。
第1章 夜の来訪者編 - 最終話
後編「夜と月」-完-
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