1【リヒト】
スカーレットはもう、貴族令嬢として扱われてなどいなかった。
スカーレットから奪われたのは、人として最低限の尊厳。
最後に見たときよりもなお痛ましい姿が、その歳月を何より証明していた。
孤独な死を選ぶしかなかったスカーレットをせめて、美しく天に還したかった。
スワール商店の簪を全て持ってきてもらい、その中からスカーレットに一番似合う物を選ぶ。
ドレスも最高の物ではなく、スカーレットに一番似合う物を。
そんな思いを抱きながらスワール商店の到着を待つ。
翌日には、スワール商店の紋章を刻んだ馬車が葬儀場の前に静かに停まった。
大旦那のジュアとその妻セレーネー。将来、商店を継ぐ娘のアステール。
そして……新しく雇った従業員であろう女性は、棺で眠るスカーレットを見て言葉を失う。
大切な物に触れるかのように、その手は優しく頬に触れた。
伸ばされなかったもう片方の手は、拳を握り締める。爪が食い込むほど強く。
「貴女は……」
スカーレットの死を悲しんでくれる彼女に、静かに声をかけた。
彼女は震えながら立ち上がった。
「私はスカーレット様の侍女をしておりました、エーレと申します」
「そうか。貴女が……」
死んだと聞かされていた。
現伯爵夫人付きの侍女が、馬車の前に突き飛ばしたと武勇伝のように語っていたから。
それを聞いたとき、怒りより先に深い悲しみが込み上げた。
彼らは、スカーレットにとって大切な人までも簡単に奪ったのだと。
「生きていたのか。良かった」
心の底から、そう思った。
改めて名乗ると、女性はすぐ膝を付き、礼儀を尽くす。
「頭を上げて。少なくとも、今の僕はただのリヒトだから、かしこまらなくていい」
「お気遣い感謝致します」
エーレはヘルサン公爵とも面識があったらしく、丁寧に頭を下げた。
記憶を失っていたというエーレは、目の前の現実を受け止めきれずにいた。
敬愛するスカーレットの死を目の当たりにした以上、真実からは避けて通れない。
使用人達の証言をもとに、スカーレットに何が起きたのかを語った。
その度に、エーレの顔から少しずつ血の気が失われていく。
「リヒト様。こちら、当店で扱う簪でございます」
エーレの瞳に影が落ちていく寸前、ジュアが一歩前に出て簪の入った箱を開けた。
繊細な細工の数々に、自然と息を呑む。
中でも深紅の簪は、ひと目で視線を奪った。
艶のある黒木に、赤い椿を象った細工。花弁に散らされた金が、光の角度で微かに表情を変える。
他と比べて派手さはない。だが、スカーレットによく似合う気がした。
もっとよく見ようと簪に触れた。ほんの少しの冷たさが、スカーレットの死と重なる。
変わらない現実が、ただ冷たく指に残った。
力を抜けば落としてしまいそうで、指に力が入る。
失ったら二度と元には戻らない。僕はそのことを、嫌というほど知ってしまった。
「……これを買わせてほしい」
声を出した瞬間、自分の声がやけに静かに聞こえた。
乱れていない。震えてもいない。
それが少しだけ、遠く感じる。
もう一度、簪を見る。視線だけは、どうしても逸らせなかった。
「これが一番、スカーレットに似合うよ」
そこにはいないスカーレットに向けられた言葉は届くはずもなく、宙に消えた。
「リヒト様。マダム・ローヴィをお連れ致しました」
体の内側に悲しみが広がっていく前に、オルバスの声でハッとした。
「……なんてこと」
スカーレットを見たマダム・ローヴィは、驚いたように呟いた。その目が、静かに鋭さを帯びる。
彼女は“自分が一番輝く姿”を追い求めるドレス職人だ。
だからこそ、美しくあるべきはずのものが踏み躙られていることを、黙って見過ごせないのだろうと、そう思った。
「マダム・ローヴィ。忙しい中、呼び出してすまない。スカーレットに一番似合うドレスを用意してくれるかな」
マダム・ローヴィはリヒト様からスカーレット様に視線を移し、小さくうなづいた。
「承知しました。最高のものをお持ちします」
マダム・ローヴィは短く礼をすると一度、葬儀場を後にした。
扉が閉まり、静寂が戻る。エーレは一度だけ唇を噛みしめ、それからゆっくりと顔を上げた。
「スカーレット様の化粧を、私にやらせて下さい」
その声は震えていた。
力強い瞳とは裏腹に、表情は痛みと後悔に歪んでいる。それでもエーレは、真っ直ぐスカーレットを見つめていた。
彼女が罪の意識を感じることはない。少なくとも僕には、責める気にはなれなかった。
エーレは殺されかけた。 記憶を失うほどに。
自分が何者で、命を狙われた理由さえわからない。ただ一つわかるのは、あのままこの国にいれば、生きていないことだけは理解していた。
命を守るための決断を、誰が責められるのか。
それでも、エーレは罪として背負うと決めていた。
「うん。お願いするよ」
エーレは静かに一礼すると、棺の傍らへ歩み寄った。その足取りは慎重で、まるで少しでも強く踏み込めば、眠るスカーレットを傷つけてしまうと恐れているようだった。
棺の前に膝をつき、小さく息を呑む。
震える指先が、そっとスカーレットの髪に触れた。
「……失礼致します、スカーレット様」
返事はない。当たり前の現実が、静かに胸へ沈んでいく。
エーレは目を伏せたまま、化粧道具の入った箱を開いた。
誰もが見守る中で、素早く丁寧に整えられていく。
どれほどの時間が過ぎたのかはわからなかった。
けれどエーレの手が止まる頃には、棺の中のスカーレットから、先ほどまでの痛ましさは薄れていた。
青白かった肌には穏やかな色が戻り、乱れていた髪も丁寧に整えられている。
エーレはそっと化粧筆を置く。
「終わりました」
小さく息を吐いたエーレは、最後に侍女として仕事が全う出来たことを喜んでいるようにも見えた。
そのとき、再び扉が叩かれる。
マダム・ローヴィは数人の職人と共に戻ってきていた。
その腕には、深紅の布に包まれたドレスが抱えられている。
ローヴィは棺へ近づくと、化粧を終えたスカーレットを見て小さく目を見開いた。
「綺麗ですわ」
目を細めて微笑んだ。
亡きスカーレットに最上級の敬意を払い、職人達が慎重にスカーレットの体を起こす。
男性陣は退室し、流れる雲を眺めながら待った。
一つのことが終わる度に、スカーレットとの別れが近づく。
「お待たせ致しました」
声をかけられて中に入ると、スカーレットの美しさに言葉を失う。
髪色と同色のワインレッドのドレスには、金色の刺繍が施されている。
装飾品はスワール商店の物だろう。小ぶりのエメラルドグリーンを誂えたイヤリング。
「リヒト様」
マダム・ローヴィは静かに歩み寄ると、両手で大切そうに簪を差し出した。
深紅の椿を象った簪。先ほど選んだそれは、灯りを受けて静かに光を宿している。
「これで最後です」
簪を受け取る僕の手は微かに震えている。
あの日とは違う緊張。これで本当に全てが終わってしまう。
数える程しか会うことのなかった時間は特別で、何があっても忘れることはない。
深紅に輝く簪を見て、自然と口角が上がる。
──あの日も赤い簪だったな。
他の色も似合うが、スカーレットに一番となると、赤色を選んでしまう。
息を潜める空気の中、僕はそっとスカーレットを見下ろす。
化粧を施された顔は穏やかで、眠っているようにしか見えない。
スカーレットが奪われ続けたものを、最後の最後にようやく取り戻せた。
胸の奥で暴れる感情を押し込めるように、ゆっくり息を吸った。
こんな形でしか、彼女の美しさを守れなかったことが苦しい。
「すごく綺麗だよ、レッティ」




