5
穏やかな日々だった。
過去も名前も曖昧なまま、それでも私は“エーレ”としてこの場所に受け入れられ、静かな生活の中で息をしていた。
朝は窓から差し込む光に目を細め、昼は淡々と手を動かし、夜は何も思い出せぬまま眠る。
それが、いつしか当たり前になっていた。
失われた記憶が戻ることなど、もうないのだと。
そう、どこかで諦めていた。
この瞬間までは。
閉ざされていたはずの扉が軋んで開く。胸の奥が、ひどくざわついた。
脳裏に、知らないはずの光景が流れ込んでくる。
……なぜ、私は忘れてしまったのか。
あれほど大切で、愛おしかった時間を。
その答えは目の前にある。
殺されるべきだった私が生きていること。
もし、あの日。ヘルサン公爵様へ助けを求めていたなら。
あの人達なら、きっとスカーレット様を道連れにしただろう。
理解した瞬間、全身から血の気が引いた。
忘れていたのではない。
忘れなければ、生きていけなかったのだ。
どんな理由があれ、守り、味方でいると誓ったスカーレット様を見捨てた。
思い出してしまえば、きっと私は正気ではいられなかった。
胸の奥で、鈍い痛みがじわじわと広がっていく。
断片の中に浮かぶのは、赤い髪をした伯爵令嬢の姿。
痛む頭を抑えながら、心配するジュア様に同行をお願いする。
店頭分だけではなく、在庫も含めた全ての簪を持ち、隣国へと急ぐ。
一日かけて辿り着き、馬車が向かったのは葬儀場。
赤い椿とスカーレットの花で飾られた棺。そこに眠る人を見た瞬間、喉の奥がひゅっと凍りつく。
「ぁ、っ……あぁ……」
違う。こんなのは、違う。
最後に見たあの人は、ぎこちなく、でも、綺麗に笑っていた。
けれど棺の中の彼女は、痩せ細り、白い肌には痛々しい痕が残り、とても貴族令嬢とは思えなかった。
まるで、長い間壊され続けていたみたいに。
喉の奥が張り付いたように苦しい。声を出そうとしても、息だけが掠れて零れた。
近くで見れば見るほど、信じられなかった。
触れてしまえば、本当に戻らない気がした。
それでも確かめずにはいられなくて、崩れ落ちるように棺へ縋りつく。
冷たい。触れた頬が、信じられないほど冷たかった。
指先から伝わる冷たさが、どうしても現実だと認めさせてくる。
呼吸の仕方を忘れたみたいだった。
この人は、生きていなければならない人だ。
誰より優しく、気高く、懸命に生きていた。それなのに、どうして。
どうして誰も、この人を守らなかったの。
爪が掌へ食い込む。痛みがあるはずなのに、何も感じなかった。
ただ、胸の奥だけが、凍り付くように冷えていく。
「貴女は……」
整った顔立ちの青年は、低く落ち着いた声で問いかけた。
震える足に力を入れて立ち上がり、深々と頭を下げる。
「私はスカーレット様の侍女をしておりました、エーレと申します」
「そうか。貴女が……」
悲しげな表情を浮かべながら目を伏せた。
でも、すぐに
「生きていたのか。良かった」
その言葉に、胸の奥が強く軋んだ。
青年はリヒトと名乗り、慌てて膝を突いた。
「頭を上げて。少なくとも、今の僕はただのリヒトだから、かしこまらなくていい」
「お気遣い感謝致します」
立ち上がると、リヒト様の後ろに立つ男性と目が合った。
「ご無沙汰しております。ヘルサン公爵様」
「君が生きていて、本当に良かった」
ヘルサン公爵の声音は低く、静かだった。
けれど、その奥には隠しきれない安堵が滲んでいた。
私は戸惑いながら頭を下げる。
どうして皆、そんな顔をするのだろう。まるで、二度と会えないと思っていた相手を見るように。
リヒト様と公爵様は何があったのかを教えてくれた。
私がジュエール家を追い出されて、スカーレット様がどんな仕打ちを受けていたか。
それはまさに地獄の日々。
どうして私は、あの日。あの人の傍を離れてしまったのだろう。
思い出すほど、胸の奥が鈍く抉られていく。
「食事を抜かれるの当たり前。部屋は屋根裏に移され、使用人以下の扱いを受けていたそうだ」
思わず口元を押さえた。
次々と思い出す記憶。
スカーレット様にと外国から取り寄せた数少ないお菓子を、使用人に分けてくれた。
量が少なかったので、スカーレット様の分が一つだけになってしまった。
でも、私は知っている。その最後の一つでさえ、自分で食べることなく平民の娘にあげたことを。
とても喜んでくれたと、そう笑っていた姿を思い出して、胸が痛んだ。
更には結晶石を押し付けられ、死ぬことを強要された。
捕らえられた使用人達の口から語られた内容は、事実として積み上がっていった。
愛人の侍女は自慢げに、私を殺したと語った。
奥様の平穏を守るための名誉の行動だと、胸を張る姿に警備隊は呆れるしかなかったそうだ。
責められるべき私が生きていたことに、安堵してくれる。
その優しさが、どうしようもなくスカーレット様を思い出させた。
「リヒト様。こちら、当店で扱う簪でございます」
張り詰めた静けさを断ち切るように、ジュア様は持参した箱を開いた。
深紅の簪へ指先が触れた瞬間、その手が止まった。
リヒト様は何も言わない。
ただ、その簪を持つ指先だけが、僅かに強く握られていた。
まるで、離してしまえば二度と届かなくなるものを掴むように。
「これを買わせてほしい」
差し出されたのは、深紅の簪。
艶やかな黒木に、赤い椿を模した細工。花弁には淡い金が散らされ、光を受けるたびに静かに煌めく。
決して派手ではない。けれど一度目に入れば、忘れられない存在感を持つ簪だった。
スカーレット様の髪に、とてもよく似合う。
リヒト様は簪を見つめたまま、しばらく動かなかった。
その横顔は静かなままだったけれど、張り詰めた沈黙が、胸を締め付ける。
「これが一番、スカーレットに似合うよ」
誰へ向けた言葉だったのかは分からない。
けれど、その場にいた誰もが息を呑んだ。
張り詰めた静寂の中、控えていた侍従が静かに頭を下げる。
「リヒト様。マダム・ローヴィをお連れ致しました」
現れた女性を見て、思わず息を呑む。
マダム・ローヴィ。
王国中の貴婦人達が憧れる、最高峰のデザイナーだった。
葬儀場に通されたというのに、彼女の足取りに迷いはなかった。
「……なんてこと」
口元を押さえたまま、息を呑むように視線を落とし、やがてその瞳が鋭く細まった。
「マダム・ローヴィ。忙しい中、呼び出してすまない。スカーレットに一番似合うドレスを頼む」
マダム・ローヴィはリヒト様からスカーレット様に視線を移し、小さくうなづいた。
「承知しました。最高のものをお持ちします」




