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目が覚めると、見知らぬ天井が視界に入った。
顔を覗き込む男性は、私が目を覚ましたことにひどく安堵していた。
「ここは……?」
「病院です。昨夜、私の馬車が貴女を轢いてしまい、すぐさま運び込みました」
申し訳なさそうに眉を下げる姿に、私はゆっくり瞬きをした。
「轢かれた?」
その言葉が妙に遠く聞こえる。
昨夜。私は、何をしていたのだろう。
思い出そうとした瞬間、頭の奥が鈍く痛んだ。
何も思い出せない。なぜ夜道を歩いていたのか、どこへ向かっていたのか、全てが空白だ。
目の前にいる二人を見る限り、嘘をついているようには思えなかった。
若い男性は真摯な眼差しでこちらを見つめ、年配の男性もまた、必要以上に不安を煽らないよう配慮しているのがわかる。
少なくとも、悪意を持っているようには見えない。
では、やはり私は……。本当に馬車に轢かれたのだろうか。
「っ……」
記憶を探ろうとするたび、指の隙間から零れ落ちていくような不安だけが胸に広がっていく。
私の不可解な言動に、男性は目を見開いた。
「まさか、記憶が……?」
男性の声が心配そうに響いた。
すぐに医師が呼ばれ、慌ただしい足音が病室へとなだれ込んできた。
私に記憶がないことと、事の詳細を聞いた医師が判断した。
「強い衝撃による、一時的な記憶障害の可能性が高いでしょう」
白髪交じりの医師は、顎に手を当てながら慎重に言葉を続ける。
「幸い命に別状はありません。しかし頭を強く打っている。記憶が混乱していても不思議ではありません」
記憶障害。他人事のような響きだった。
「……記憶は戻るんでしょうか」
不安が滲んだ声に、医師は穏やかに頷く。
「時間と共に回復する例は多いですよ。焦らず安静にしてください」
医師が病室を去った後、小さく息をついた。
閉まった扉の向こうで足音が遠ざかっていく。
「本当に申し訳ありません」
若い男性が深々と頭を下げた。
「貴女が家族のもとに帰れるよう、全力を尽くします」
家族……。
形にならない記憶が零れ落ちる度に、胸の奥がひどくざわつく。
何か大切なことを忘れている気がするのに、その“何か”がわからない。
焦燥感だけが理由もなく心を掻き乱していた。
帰りたい場所。きっと、どこかにあるはずなのに、断片的にすら思い出せない。
「何でも構いません。一つでも覚えていることはありませんか?」
白く靄がかった記憶を手探りで探すように、必死に思い出そうとすれば漠然とした恐怖が体にまとわりついた。
寒いわけでもないのに体が震える。目の前が暗闇に覆われた。
「思い……出すのが怖いのですか?」
その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
私は静かに息を呑む。
──怖い?
違う、と否定しかけて、言葉が喉で止まった。本当に、違うのだろうか。
記憶を探ろうとするたび、胸を掴まれるような圧迫感に襲われる。
頭の奥で、警鐘のような音が鳴る。
思い出してはいけない。触れてはいけない。そう、本能が叫んでいた。
男性はそんな私を見つめながら、目を伏せた。
「……無理をさせるつもりはありません」
私の心を見透かしたかのように言った。
「貴女を診てくれた医師が言っていました。今回の件とは別に、貴女の体に暴行を受けた真新しい傷があると」
視線を落とすと、自分の腕に包帯の隙間から覗く傷が見えた。
馬車で轢かれたものではない。もっと別の……。何かで殴られたような傷跡。
てっきり全身の痛みは事故のものだと思っていたけど、そうではなかったのだ。
「あ、あの。こんなこと、言い訳でしかありませんが、その……。貴女は飛び出したというより、突き飛ばされたかのように見えました」
突き飛ばされた。誰に。どうして。
考えようとするたび、頭の奥が拒絶するように痛んだ。
まるで記憶そのものが、扉を内側から押さえているみたいに。
「もし、それが本当だとしたら、誰かが貴女の命を奪おうとした。そういうことか」
──私は、殺されかけた?
病室の空気が薄くなったかのように、息が苦しくなる。
多くの疑問が頭を巡るのに答えは出ない。
誰かが、私を殺そうとした。
その事実だけが、冷たい水みたいに胸の奥へ沈んでいく。
「あの。もし良ければですが……。我々と行きませんか?」
「え?」
「申し遅れました。私は隣国で商いをしております、ジュアと申します」
男性、ジュア様はスワール商店の大旦那。
御者の人曰く、スワール商店は隣国だけでなく近隣諸国で人気が高い大店。
美しい装飾品の数々。
「スワール商店では、簪が一番の人気なんですよ。贈り物に買われていく方が多い」
銀細工でかたどられた花々。繊細な透かし彫り。揺れる宝石飾り。
一本一本が職人の手で作られたそれは、まさに芸術品と呼ぶに相応しい。
スワール商店の簪は、王侯貴族だけでなく平民にも憧れの品らしい。
特に恋人や婚約者への贈り物として人気が高く、店が市に出る日には行列ができることもあるという。
スワール商店は時折、この国へ商隊を送り、不定期で露店販売を行っているという。
だが、その際に“スワール商店”の名を表に出すことはない。絶対に。
露店に並ぶ品々にも店紋は刻まれず、商人達も素性を明かさない。
知らぬ者が見れば、ただ旅の装飾商が店を開いているようにしか見えないだろう。
「今の貴女は、この国に居続けるには危険な状態です」
穏やかな声音だった。脅かさぬよう配慮しているのがわかるほどに。
「もちろん、強制するつもりはありません」
ジュア様の言いたいことが、理解出来ないわけではない。
でも、この国に留まれば、また殺されるかもしれない。
そう理解しているのに、胸の奥で何かが引き止めていた。
提案を受け入れることが私にとっての最善であるはずなのに、心に引っかかる何かが言葉を詰まらせる。
恐怖の正体がわからないことが、怖い。
思い出さなければならないはずなのに、触れてはいけない気がした。
私の命よりも大切にしたい何かが、この国にあるのだろうか?
「私なんかを連れて帰ってしまえば、ジュア様にご迷惑がかかるのではありませんか」
命を狙われる厄介者なんて、店の評判に関わること。
現段階では、私は被害者かもしれないけど、本当は犯罪者の一味で、仲間割れをして殺されかけたという可能性だってある。
記憶を失っている以上、それを否定する材料はどこにもなかった。
つまりは、リスクしかないのだ。私を連れて帰ることは。
そんなことが、わからないわけではないだろうに。
もし、怪我を負わせてしまった負い目から言ってくれているのだとしたら、責任など感じる必要はない。
悪いのはきっと、命を狙われるような状況にいた私のほうなのだから。
むしろ、巻き込んでしまったことを申し訳なく思う。
「一つだけ言わせてほしい」
開けていた窓から吹き抜けた風が、ジュア様の髪を揺らした。
「長く商いをしていると、“人を見る目”というものが多少は養われる」
ジュア様は穏やかに目を細めた。
「それこそ、人の善悪は見抜けるくらいには」
慰めでも、気休めでもない。長い年月をかけて培われた経験からくる言葉なのだと、自然と思わされる。
でも……。
自分がどんな人間だったのか、私自身ですら知らない。そんな私を、どうして他人が信じられるというのだろう。
「貴女が信じるべきは、私の言葉ではありません」
「……では、何を?」
「貴女自身です」
思わず笑いそうになった。
「自分が何者かもわからない人間に、ですか?」
「わからないからこそです」
ジュア様は静かに言った。
「完成された人間なら、我々は迷わない」
「……?」
「善人なら利用する。悪人なら切り捨てる。それだけの話です」
ぞくり、と背筋が冷えた。
まるで、他者を切り捨てることに慣れているかのような言い方。
いや、商人だからこその言葉なのだろう。
一番に考えるのはあくまでも店の利益。
「ですが、貴女は違う」
ジュア様は私を真っ直ぐ見た。
「利益にもなり得る。損失にもなり得る。だから判断できない」
「それ、褒めてます……?」
「商人にとっては、最も恐ろしい評価ですよ」
穏やかな声なのに、その言葉は妙に重かった。
「ですが……」
一拍置いて、ジュア様は目を細める。
「未完成ということは、まだ何者にでもなれるということです」
その言葉だけ、どこか借り物のように優しかった。
「……昔、そう妻に言われたんです」
静かな声。過去を懐かしむような表情を浮かべていた。
「仮に……。私が提案を受け入れたとして。ジュア様にどんな利益をもたらすと言うのですか」
「利益、ですか」
ジュア様は少しだけ考えるように目を伏せた。
「……少なくとも、損失ではない」
冗談とも本気ともつかない声音だった。
「我々は商人です。理由もなく他人を庇ったりはしない」
その言葉は妙に正直で、だからこそ信用できる気がした。
「貴女には、娘の世話役を頼みたいのです」
「お世話役……?」
「えぇ。今年で十歳になるのですが……」
ジュア様は首筋に手を当てて、困ったように笑った。
「少々、気性が強くてですね」
その言葉だけで、なんとなく察した。
強気な性格で、年上の商人相手にも一歩も引かない。
初対面の客に「その程度の目利きで値切るのですか」と言い返し、周囲を青ざめさせたこともある。
しかし、値切り交渉に腹を立てて、買えないなら帰ればいい、と言い放ったこともあったそうだ。
いずれはスワール商店を継ぐ一人娘。早くから経験を積ませていた。
月に一度は一人で店番をさせる日があり、その日を狙って値切りに来る客もいる。
その客も客で、相手が子供だからと大声で恫喝し、定価の半額以上を値切ろうとしていた。
スワール商店の偉大さ。商人の娘としての誇り。どちらも譲れないからこそ、誰が相手でも堂々とした態度を取れる。
聞けば聞くほど、何が問題なのかわからない。
そういう客にこそ、強気でいられるのは良いことではないのだろうか?
「先程も説明したように、スワール商店は貴族や、時には王族相手にも商売をします。平民相手になら許される態度も、身分がある方々に対しては絶対に許されない」
「つまり、お淑やかになるよう教育をしてほしい?」
「そういうことです。お願い出来ませんか」
「これまでに教育を頼める方はいなかったのですか?」
「スワール商店の娘は、それだけで価値があります。見返りを求める者が多いので、慎重に選ばないと娘に嫌な思いをさせてしまう」
きっと、ジュア様の目に留まったことは名誉なこと。喜んで引き受けるべきなのだろう。
私のような厄介者ではなく、身元がハッキリしている人のほうが安全だ。それなのに、記憶のない私にお願いする意味……。
あぁ、そうか。ジュア様は私を保護してくれようとしているのか。
私を馬車の前に突き飛ばした誰かは、きっとまだ諦めていない。
記憶を失ったからといって、安全になったわけではなかった。
むしろ、その逆だ。いつ思い出すかもわからない私を、今度こそ確実に殺そうとする。
それこそ、私が生きていると知ったら尚更。
少なくとも、現段階でその“誰か”は私が死んだと思い込んでいる。
──そんなときに私の姿を見かけたら……。
この国に私の居場所はないのだと、自覚してしまった。
「私で良ければ、お引き受けします」
その選択は間違っていない。
それなのに、何かが静かに途切れた気がした。
「ありがとうございます」
ホッとした次の瞬間、ジュア様はまたも困ったように笑った。
「そういえば、貴女を呼ぶ名前が必要ですね」
名前。その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
「エーレ」
記憶の奥底で私のことをそう呼ぶのは、陽だまりのように優しく温かい声。
振り向いても、そこには誰もいない。
それがなぜ、私の名前だと思ったのか自分でもわからなかった。
ただ……そうであってほしくて、ジュア様に「エーレ」と名乗った。




