3
「スカーレット様が?」
ある日のことだった。
平民の娘に呼ばれて、部屋を訪ねた。
あんなに嫌がっていた平民の娘の世話を、今ではメイドが嬉々として引き受けていた。
どういう心境の変化があったのか。スカーレット様の思いが通じたのなら、それでいい。
でも、違う。彼女達は変わったのだ。
平民の娘を主とし、スカーレット様への不遜な態度。
何度注意しても、彼女たちの態度は変わらなかった。平民の娘を主として崇めることを、誇らしげに振る舞う始末。
伯爵様に相談しても、私の勘違いだと、そう言われるだけ。何の解決にもならなかった。
スカーレット様も屋敷内の変化には、多少なりとも気づいているだろう。
「ええ。貴女のことを無能な侍女だって。私は貴女がお姉様に尽くしているのを知っているから」
甘えるような声音でそう言われ、私は思わず眉を寄せた。
「スカーレット様がそのような陰口を叩くはずがありません」
何を言い出すかと思えば。
──くだらない。
胸の内に浮かんだのは、呆れにも似た感情だった。
スカーレット様は、誰かを貶めることでご自身を保つような方ではない。
むしろ他人を傷つけたことで、先にご自身が傷ついてしまうほど優しいお方だ。そのことを、私は知っている。
ずっと傍で見てきたのだから。
なのにこの娘は、そんなお方を悪人のように語る。
無垢な顔をして、震える声を作って、誰かの善意を利用して。
──気分が悪い。
吐き捨てたい衝動を飲み込みながら、私は冷えた目で平民の娘を見下ろした。
私の態度が気に食わないのか、メイドのほうが叱責してくるけど、立場を弁えない人間の言葉に耳を貸す必要はない。
最低限の礼儀だけを尽くして部屋を出た。
カメリア様が病に伏せられてから、屋敷内の空気が淀んだ。良好だった人間関係に細かい亀裂が入ったように感じる。
平民の娘が吐いた言葉が嘘であることを証明するため、私はスカーレット様のもとへ向かっていた。
確かめれば済む話なのだ。
「え……?」
不意に、背中へ強い衝撃が走った。
ぐらり、と視界が傾く。足元が消えた。
何が起きたのか理解するより先に、身体が宙へ投げ出される。
次の瞬間。
激しい浮遊感と共に、景色が凄まじい勢いで反転した。
天井。壁。手すり。床。全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、視界を掻き回していく。
咄嗟のことに受け身を取れるはずもない。全身を強打しながら転がり落ちた。
私を突き落としたのが、部屋にいたメイドであることはすぐにわかった。
こんなことをして、メイドに何の得があるのか。
考えたくもなかった。
私が起き上がるよりも早く、メイドは他の使用人に耳を疑うようなことを告げた。
「この女!ルビア様を殺そうとしたのよ!!」
緊迫した声が、本当にそうであるかのように思わせる。
でも、信じられないのが証拠もないその嘘を信じている使用人がいたこと。
力任せに箒で叩かれ、頭を守るように丸まっていても、階段から落ちた痛みと合わさって意識が飛かける。
何が起きているのか。考えるだけの余裕がない。
腕を乱暴に掴まれ、逆らう間もなく身体を引き起こされる。足は震え、まともに力も入らない。それでも容赦なく引きずられ、私はどこかへ連れて行かれた。
「あら、どうしたの?」
ここは……愛人の部屋。初めて入ったけど、随分と豪奢な造り。
派手な紫色のカーテンに、甘ったるい香の匂い。磨き上げられた鏡台の前で、ゆるく脚を組み私を見下す。
「この女がお嬢様を手にかけようとしたのです!」
「まぁ!なんてこと!!私の娘を……!?貴女、赤毛の侍女でしょ?ご主人様にそうするように頼まれた?」
「正当な貴族であるお嬢様をそのように見下す権利があると思っているのですか。愛人如きが」
私のことならともかく、スカーレット様を侮辱する言葉だけは聞き流せなかった。
「なっ!!奥様に失礼な口を聞くな!!」
「さっさと謝りなさい!!」
「いいのよ。それより、今のは図星と捉えていいのよね?」
教養のない平民は今の態度をそう捉えるのね。
喉まで出かかったを、私はかろうじて飲み込んだ。
「まぁいいわ。貴女。今日限りでクビよ」
「愛人が使用人の雇用を決められるとでも」
「私はね。伯爵夫人になるのよ。当然でしょう?現夫人はもう長くないのだから」
「カメリア様は病に負けるお方ではない!!」
それは……私が信じたいこと。病に打ち勝って、また元気な姿を見せてくれると。
すぐそこまで迫ってきている、最悪な未来を想像したくはなかった。
「そう。じゃあ彼女が元気になったら、今の言葉を伝えてあげる。早く荷物をまとめて出て行きなさい」
まさか、カメリア様に毒を盛った……?
その可能性に気付くことが遅すぎた自分が腹立たしい。
愛人が欲に溺れ、正妻の座を奪おうとするなんて、よくあること。珍しくもない。
ましてや、平民なら尚更。これまでになかった権力と財を手にした結果。
後悔が一気に押し寄せてきた。
あの状態では解毒は間に合わない。
なぜ、気付けなかった?なぜ、もっと早く疑わなかった?
深く考えるよりも先に、答えはすぐそこに出ていた。
私は、スカーレット様の“人を信じる心”を守りたかったのだ。
その優しさを壊したくなくて、知らぬうちに自分の目まで曇らせていた。
疑うことを避けていたわけではない。ただ、スカーレット様の周囲で起こる小さな歪み全てを、“誤解”だと片付けたかった。そうであってほしいと、願ってしまっていた。
その甘さが、判断を鈍らせたのだ。
だから私は、致命的な違和感を見逃した。そして……気付くのが遅れてしまった。
もう救う手立ては残されていない。
これでは……カメリア様を殺したのは私も同然。
「あら、その目は何?犯罪者である貴女を、クビにするだけで許してあげると言っているのに。あぁ、お金ね」
立ち上がった愛人は宝石箱をひっくり返し、私の上にバラまいた。
見覚えのある宝石。真紅に輝くルビーは、フィオーレ様がカメリア様の婚約祝いにプレゼントしたものだ。
カメリア様の赤い髪とよく似合うからと。
他の宝石も全て、カメリア様が大切に保管していた物。
「ほら。拾いなさい」
「これらは全て奥様の宝石です。なぜ貴女が持っているの」
「病人に宝石が必要なのかしら?」
盗んだのは伯爵様だけではなかったのね。
カメリア様の持つ地位も名誉も、大切にしていた居場所さえ、この愛人は盗んだ。
まるで、自分こそが正当な伯爵夫人だと言わんばかりの態度に吐き気がする。
人の人生を踏み荒らしておきながら、どうしてこんなにも平然としていられるのか。
当然だと思っているのだろう。カメリア様の持つ物は例外なく、自分の物になると。
平民がどう足掻こうとも、貴族になれはしないのに。平民の血を引く娘もだ。
夢を見るのは勝手だけど、常識がなく現実を見ないのは致命的。
ジュエール家という小さな世界でしか生きられないことを、愛人達は知らないのだ。
慈悲を与えていると優越感に浸る、その傲慢な顔を引っぱたいた。
乾いた音が部屋に響く。
愛人は頬を押さえ、信じられないものを見るようにこちらを振り向く。だが、怯んだのは一瞬だけだった。
「よくも奥様に!!」
感情に飲み込まれて激怒したのは周りのほうだった。
「いいのよ。心が貧しい者は暴力に訴えることしかできない。可哀想な人なんだから」
赤くなった頬をさすりながら、殺意の宿った瞳が私に向けられる。
醜い傲慢さに溢れたこの表情が誰にも見えていない。
──なんて愚かな……。
「警備隊に通報しない私の優しさに感謝しなさい」
感謝?警備隊に調べられて困るのは私ではなく愛人。
それをさも、私のためと口走る図太い神経。
たった一発だけでは腹の虫が収まらず、反対の頬もぶとうとすると男衆に両腕を掴まれ、そのまま屋敷を追い出された。
「スカーレット様……」
門の向こうに一人残されたスカーレット様に手を伸ばすも、届くはずがない。
約束をした。カメリア様と。
スカーレット様を守ると。
でも、今の私にはどうすることも出来なのが現実だった。
実家に頼ったところで、結果は同じ。スカーレット様を救い出せるほどの力はない。
──どうすれば……。
その瞬間、雲に隠れた月が顔を出す。月夜に照らされると、一筋の道が開けた。
ヘルサン公爵様なら、きっとスカーレット様を救ってくれる。
希望が見えた。
重たい足を無理やり前へ踏み出す。全身の痛みに耐えながら、足を止めることはない。
──早く、早く……!!
一秒でも早く、スカーレット様をあの屋敷から救い出さなければ。
「申し訳ございません。カメリア様」
二人の関係は墓場まで持っていくと誓ったのに……。
でも、もうそんなことを言っている場合ではなかった。
スカーレット様だけではなく、死期が近いカメリア様も一緒に助けてもらい、絶望を感じることなく、せめて安らかな眠りについてほしい。
公爵邸へと急いでいる最中だった。
夜道に響く馬の蹄の音は、遠くからはっきりと聞こえていた。
暗くとも、馬車がこちらへ向かって来ていることくらいわかる。だから私は、道端で通り過ぎるのを待っていた……はずだった。
次の瞬間、不意に身体が前へ傾いだ。
「え……?」
まるで誰かに背中を押されたような感覚。咄嗟に振り返ろうとしたが間に合わない。
足がもつれ、そのまま私は車道へ倒れ込んだ。
目前に迫る眩いランタンの光。
「危ない!!」
激しく引かれる手綱。耳をつんざく制動音。
けれど、体は動かなかった。冷たい石畳へ手をついたまま、私はただ迫り来る馬車を見上げることしか出来ない。
御者の驚く顔だけがよく見える。
──轢かれる。
避けられない死ならばせめて、私を突き飛ばした人間が誰なのかだけでも突き止めたい。
そう思い、必死に周囲へ視線を走らせる。でも、そこに人影はない。
月明かりに照らされた夜道が静かに伸びているだけだった。
どうやら、私を突き飛ばしてすぐ逃げたみたいだ。
顔は確認出来なかったけど、犯人に心当たりはあった。愛人の部屋にいた使用人の誰か。
私の態度に腹を立て、愛人を叩いた私を許せなかった。怒りに任せて私を排除しようとした。
随分と過激な忠誠心。主人のために、その手を赤く染めることを厭わないなんて。
いいや。本当にあの愛人が知らなかったのだろうか?
私を生かしておくつもりのない、殺意を宿した瞳。
きっと、黙認しているのだろう。
私の死が事件だと明るみに出たところで、使用人が勝手にやったこととシラを切るつもりだ。
自分の手は汚さず、罪も責任も、全て他人へ押し付けて。
それを狡猾と言うには、あまりにも卑怯だった。
……もう、どうでもよかった。
悔しさも、怒りも、急速に遠のいていく。
胸に残っているのは、たった一つだけ。
約束を守れなかった。
その後悔だけが、鉛のように心に沈む。
「最後までお傍にいられず、申し訳ありませんでした」




