義妹の侍女
暗闇の中、痛みが体中を走った。目を開けると、冷たい鉄の鎖が手首と足首を縛りつけているのが見えた。
──ここはどこ?
目が暗闇に慣れてくると、あまり広くない牢屋の中にいることがわかる。
他にも二人、同じような状態だった。
ただ、そこにいるのはあまり話したことのない使用人。確か、洗濯係と掃除係。
未だに独身の、歳を重ねた平民のメイドだ。
二人もあまり状況を理解していない。
殿下に斬られたはずの首は確かに繋がっている。
殿下も人の子。無実の人間を殺すなんて、良心が許さなかったのね。
自分が死んでいないことに安心しつつも、私の目の前には限りない絶望が広がっていた。まるで深い闇の底に沈んだような感覚に襲われ、息をするのも苦しい。
暗闇を灯す明かりに包まれていたのは、厳格なお父様。これが夢でないと全身の痛みが教えてくれる。ここが現実だと、心の奥底で確信した。
「お、おと、うさま……」
震える声で父の名を呼んだ。
返事はなく、照らされた影がぼんやりと揺れている。
実家は古くからの名家であり、王族への忠誠心を何よりも誇りにしていた。
私もまた、教養やマナーを厳しく叩き込まれた。私はその教えに従い、完璧な淑女になれるよう努力を怠ったことはない。
──私を助けに来てくれたのね。
厳しかったとはいえ、私も家族の一員。大切な娘。
理不尽な目に遭っているからこそ、王族に抗議してくれた。
父の表情が険しいのはいつものこと。決して怒っているわけではない。
頭ではわかっているのに、心臓が激しく鼓動するのを感じた。心は不安でいっぱいだった。
──大丈夫。お父様は私を助けに来たのよ。見捨てるなんて、そんなこと……。
何度も自分に言い聞かせた。絶望の淵に立っても、希望を捨てたくなかった。
「このバカ者が!!」
「ひっ……!!」
父の怒鳴り声が響く。その声はいつも聞いていたものと違っていた。
私は震えながら、父の強い視線を受け止めた。すると突然、頬に強い痛みが走った。父の手が私の頬を叩いたのだ。
頭が真っ白になる。
じんわりと痛みが広がっていく。何が起きたのかわからないでいると、再び、父は手を振り上げた。
「お前は自分のしたことの意味を理解しているのか」
「わ、わた……私、は……」
私に向けられる父の目は怒りに満ちていた。
さっきよりも心臓が早鐘を打つように鳴る。
私は必死に声を振り絞った。
「わ、私は!!悪くないわ!ルビア様が言ったのよ。あの赤毛は盗っ人!罰を受けるべき存在だって」
「この期に及んでお前はまだ、スカーレット嬢の名前を呼ばないつもりか?」
「っ……、だって……」
ルビア様が言った。赤毛の名前を呼ぶと、その身が穢れると。
実際、赤毛を名前で呼ぶ人は誰もいなかった。家族でさえ、まるで名前なんてないかのように「赤毛」とばかり。
「子爵の身分でありながら、伯爵令嬢に対して無礼を働くなど。そんな愚か者が私の娘だったなど、汚点でしかない」
「お、お父様!!?」
父の口から出たのは、「だった」という過去形の言葉。まるで私が存在しなかったかのような冷酷な断罪。
胸が締め付けられ、息をするのも苦しい。目の前が霞み、涙が頬を伝う。
次に何を言われるか、想像がついてしまう。
「お前はもう我が家から除名した」
その言葉は、私の世界を一瞬で崩壊させた。家族、名誉、すべてを失うことを意味する。
父に擦り寄ろうにも鎖で繋がれているため動けない。父の冷たい目が私を見下ろし、言葉は容赦なく胸に刺さった。
「どうして……?」
何も答えてくれない。ただ無言で私を突き放すだけ。
幼い頃から家族の誇りを守るため、私は努力を重ねてきた。
厳しい教育にも耐えてきた私を、こんな簡単に見捨てるなんて……!!
「ま、待って!お父様!!どこに行くの!?」
背を向けた父は静かに牢屋を出た。
「私を助けてくれるんでしょ!?」
父は振り返らず、静かに答えた。
「助ける?罪人を?なぜ?」
「私は正統な貴族です!!このような不当な扱いは抗議すべきじゃないの!!」
「スカーレット嬢も正統な貴族だった。それも、お前より身分が高い伯爵令嬢だ」
父の声には嘲りが混じっていた。
「あんな醜くみすぼらしい赤毛なんて、今は関係ないじゃない!!」
「お前は殿下の温情によって生かされた。死ぬまでここを出られんと思え。いや……死んでも尚、出ることは叶わんだろうな」
わざとらしく視線を逸らした先には、無数の白骨が積み重なっていた。
私はその光景に戦慄した。
「ここは罪人の最期の地。残された時間で、スカーレット嬢に悔い改めろ」
父の声は冷酷で、私の心に深い傷を残した。家族であるはずの私は、父にとってはただの罪人。
「嫌っ……待って!!お父様ぁぁ!!」
必死に叫んだ声は、冷たく硬い石の壁に吸い込まれ、どこまでも虚しく響いた。父の足音は遠ざかり、私の心は深い闇に沈んでいく。聞こえるのは、鎖が擦れる音と荒い自分の呼吸だけだった。
私は、私の目の前に広がる景色しか見ていなかった。でも、同じように鎖で繋がれた二人の瞳は虚ろで、深い絶望の奥底に沈んでいた。
私が意識を取り戻す前に、同じように見放されたのだろう。
「どう、して……?」
過去の栄光も名誉も、今は何も私を救わない。
王族への高き忠誠心に恥じないよう、常に完璧を求められてきた。私はそれに応えてきたのに。
ある日。侍女を募集していたジュエール家に雇われた。
スカーレット・ジュエールは社交界に顔を出さないことで有名。屋敷で初めて彼女の姿を見たとき、私は驚いた。彼女はみすぼらしく、心の中で嘲笑ったのをよく覚えている。
一方で、ルビア・ジュエールは全く違った。彼女は平民の娘でありながら、その美しさと気品で屋敷中の注目を集めていた。まるで光と影のように対照的な二人。
仕えるべきお嬢様が平民の娘だと知ったとき、私はひどく気分を害したけど、他の使用人に羨ましがられた意味がわかったのはすぐ。
正統な貴族でもあるスカーレット・ジュエールはとんでもない悪女だった。
病弱な妹をいじめるだけでなく、主人の立場を利用して使用人にも嫌がらせをする冷酷な女。
しかし、私はその全てが嘘であると確信していた。
多くの貴族と接してきたからこそ、スカーレット・ジュエールは皆が言うような悪女でなく、繊細で思いやりを持っているとすぐにわかった。
この屋敷では私の持つ常識が通じない。
誰もがルビア・ジュエールを天使のように愛らしく、聖女のように慈愛に満ちていると讃える。
私は……沈黙を選んだ。
物心つく前から厳しい教育を受けてきた。礼儀作法、教養、マナー。淑女に必要なものを全て。
甘えも泣き言も許されず、感情を押し殺して笑顔をつくることが日常だった。
私の世界は、決められた時間に起き、決められた時間に勉強し、決められた時間に礼儀を尽くすだけのものだった。
それらを苦痛と思ったことは一度もない。私はいずれ貴族令嬢の憧れ、王妃殿下の侍女になるのだから。
優雅で美しく、気品に溢れた王妃様に適う女性はこの世にいるはずもない。
私の人生は死ぬその瞬間まで王妃様に捧げると誓った。そのためなら、どんな厳しい教育にも耐えられた。
それなのに、王宮に行き王妃様の侍女になったのは、私の姉だった。
私のほうが王妃様の侍女に相応しいというのに、たった五年早く生まれただけで姉が選ばれることに納得がいかない。
行き場のない怒りは私の心を錆びつかせた。
厳しい環境の中で育ってきた私からしてみれば、スカーレット・ジュエールの世界はぬるすぎる。
王族への高い忠誠心があるからこそ、厳しさと努力が当たり前だった。家族も教師も、常に自分自身を律し、磨き続けることを求めてきた。だから、貴族に生まれながらも大して努力もしない姿を見ると、どうしても納得がいかなかったのだ。
そのくせ、気持ち悪い笑顔で人を不快にさせることだけは一人前。
貴族に生まれながらも大した努力もしないなんて。
──こんなのが伯爵令嬢だなんて、私は認めない。
謎めいたスカーレット・ジュエールは、長年の私の努力を見下し嘲笑うかのような存在。
だから、この完璧な淑女である私が貴族としての在り方を教えて上げたのよ。
丸めた背筋を伸ばし、人と話すときも俯かない。汚らしい顔を隠すために化粧の仕方だって教えてあげた。
私のしてきたことは何も間違っていない!!伯爵令嬢のくせに教養のない赤毛が悪いのよ!!
それなのに、この私が罪人?いずれ王妃様の侍女になる私がこんな牢屋に閉じ込められるなんて。
どうして!?例え、身分が上の人間でも、間違っていることは間違っていると教えるのも淑女の勤め。家庭教師はそう言った。
私はその教えを忠実に守ったにすぎない。
物覚えが悪く、その姿を見るだけでもイラつく衝動を抑え、言わなければ感謝をしないような愚図に、根気強く教えてあげた私は賞賛されるべき。
「王妃様。早く迎えに来て下さい。貴女の優秀な侍女が、こんな地下に閉じ込められているんですよ」
私は待ち続けた。呼吸と鎖がすれる音だけが聞こえる、暗く冷たい空間で。
気高く美しい王妃様自らが、この場所に足を踏み入れ、私を抱きしめてくれるその瞬間を。
それでも、王妃様は来てくれなかった。
空腹。喉の乾き。変わらない景色に気が狂いそうになる。
「おかしい。こんなのおかしい。私は完璧な淑女。きっと何かの間違いだわ」
選ばれた価値ある人間を幽閉するなんて、国にとって損害でしかない。
私のような逸材は今後二度と、現れないのだから重宝すべきなのだ。
地下には日が当たらないため、何日経過したのかがわからない。
ただ、空腹は限界で、水を一滴も飲んでいないため声を出す余裕すらなかった。
家族に見放された孤独が今になって襲ってくる。
厳しくも優しい眼差しで私を見てくれていた父も、最後に会ったときはもう侮蔑の色しか見えなかった。
なぜこうなったのか。最初から考えた。そして、その答えは簡単だった。
スカーレット・ジュエール。
あの女が私から全てを奪った。
身分だけでなく、輝かしい未来さえも。
ルビア様の言ったことは本当だったのよ!!
あの女は盗っ人!!自分にないものを羨むだけでなく、手に入らないからと奪うなんて。
裁かれる罪人はあの女じゃない!!
ルビア様に仕えるこの私が、わざわざ赤毛なんかに教育をしてあげたというのに。
私の言う通りにしていれば、少しはあの醜さも緩和されたというのに。
恩を仇で返された気分だわ。
「呪ってやる。呪ってやるんだから。スカーレット・ジュエール!!」




