料理長
俺は早くに両親を亡くした。歳の離れた弟と、力を合わせて生きてきた。
両親が事故でいなくなってから世界は一変し、孤独と不安に押し潰されそうになりながらも、弟の笑顔が俺の唯一の救いだった。
弟のために朝から晩まで寝ずに働いて、努力が報われたと思った瞬間はあの日。
下町のレストランで働いていた俺を、伯爵夫人が引き抜いてくれた。
今の美しいミュル夫人ではなく、前妻の醜いほうだ。
お貴族様の厨房で働けるのは名誉なことだが、俺みたいな平民の中でも更に貧しい人間と働きたいもの好きなんていない。
どんないじめがくるのか、覚悟していたが、想像と違って伯爵家の厨房は思ったよりも暖かい場所だった。
今はもう遠い夢のような記憶に浸っていると、聞き慣れた足音が牢の前で止まる。
揺れる炎に照らされているのは、紛れもなく俺のたった一人の家族。
伯爵家で働くようになってから、あまり家に帰ることが出来ずにずっと手紙のやり取りを続けていた。
とっくに成人を迎えているとはいえ、俺にとって弟は弟。子供のままだ。
「どうして……?こんなことになっているの」
ツァールは震える声で問いかけた。その瞳には、驚きと困惑、そして少しの悲しみが混じっていた。
「聞いてくれ、ツァール!これは冤罪だ!!」
俺は必死に叫んだ。絞り出した声が空気に溶けて消えそうになるのを必死で抑えながら。
「冤罪?」
「そうだ!俺は何も悪くないのに」
ツァールはこれまで俺がどれだけ努力をしてきたか、一番知っている。
今回だって俺が無実であると信じてくれているに違いない。
俺達はずっと二人で支え合って生きてきた。ツァールの幸せのためなら、俺はどんなことでも頑張れたんだ。
自分の幸せは二の次。ツァールが笑っていることが、俺の幸せでもあった。
だからこそ、今回の事件が俺の人生をこんなにも狂わせてしまったことに、心を痛めているはずだ。
「兄さん。四年前の手紙の内容を覚えてる?」
「四年前?お前が怪我をしたというものか?」
「うん」
倒れてきた積荷の下敷きになり、足の骨を折ったんだったな。
二ヵ月ほど安静にしていれば治ると医者に言われて、その間の治療費は俺が負担した。
そのことを伝えれば、優しいルビア様は伯爵様にお願いして、わざわざ見舞金を用意してくれた。
あの優しさは、今も俺の胸に残っている。
それなのに。醜い赤毛はというと。
同じ部屋にいて、俺の話を聞いていたにも関わらず、安っぽい心配の言葉と、変な薬草を渡してくるだけ。
貴族のくせに、働いてやっている使用人のために金を出すのも渋るなんて、ケチでセコい。
「ここに来る前、スカーレット様に会ってきたよ」
「何?赤毛にか!?ツァール!目は大丈夫か!?あんな汚いものを見て、心は平気か!?」
俺の心配なんて聞こえていないのか、ツァールは目を伏せた。
「手紙に書いたでしょ?とても優しい人と出会ったって。それがスカーレット様だったんだよ」
「………………は?」
「怪我をしたあのとき、誰よりも早く駆け付けてくれて、あんな細い腕で荷物を退けてくれたんだ」
そっと開かれた目は、当時を懐かしむようだった。
語られる出来事は俺の頭を混乱させる。
ルビア様をいじめていた赤毛が、人を助けるなんてありえない。きっと人違いだ。
ツァールを助けたとされる赤毛は、痛みに苦しむツァールのために痛み止めを作った。
それは、一般に処方される薬ではなく、アンタルという薬草で作られたとてもよく効く薬。
ドゥーの実と一緒にすり潰すと苦味はなく、子供でも簡単に飲めるようになる。
アンタル……。赤毛が俺に渡してきた薬草。
そうだ。四年前のあの日。時間よりもかなり遅く帰ってきた赤毛を、伯爵様と夫人がお仕置していた。
ルビア様が食べたいと言っていた菓子を、買いに行かせてもらったくせに、売り切れていたと嘘までついてルビア様を悲しませた。
きっと妬んでいたんだ。自分が食べたことのない菓子を、ルビア様が食べることに。
リックフォード様もひどくお怒りになり、罰として週に一度、辱めの日を作った。
俺達にとってそれは娯楽。
仕事で疲れてストレスが溜まる週の終わりに、屋敷にいる人間が全員、大広間に集まる。
あれほど醜く愉快な見世物は、どこを探しても見つからないだろう。
リックフォード様の天才的の発想はまさに、次期公爵に相応しいものだ。
「兄さんはどうして、そんなにスカーレット様が嫌いなの?」
純粋な疑問をぶつけられ、俺はあの日を鮮明に思い出す。
忘れもしない。いや!忘れるわけがなかった。
「あの女!!この俺が作ってやった料理を、床にぶちまけやがった!!」
しかも、「それは食べてはダメだ」と、まるで俺の料理が不味いみたいに言いやがった。
味もわからない小娘の分際で!!この俺の料理をだ!!
料理に使えば味を引き立てる香草デルテを使った、自慢の一品だった。
「兄さん。もしかして、デルテと豚肉を一緒に煮込まなかった?」
「当然だ。デルテは食材と煮込むことで、香りや旨味を最大限に引き出すんだからな」
「原因はそれだよ。確かに、デルテを料理に使うのは一般的だけど、豚肉と一緒に調理をすると毒になるんだ」
「そんな話、聞いたことがないぞ」
「ほとんどの人は知らないよ。毒と言っても、健康な人なら被害はないけど、体の弱い人は死に至る可能性だってある」
「ま、待て!!それが本当だとしても、なぜお前がそのことを知っているんだ」
「スカーレット様に教えてもらった」
「だったらそれは嘘だな!!あんなバカが、薬師も知らないことを、知っているわけがない!!」
人体に有害なら、誰もデルテを料理に使っていない。
ツァールにまで見え透いた嘘をついて、自分は賢いアピールでもしたかったようだな。
──ふん!その考えが既にバカなんだよ!!
「……いよ」
「うん?何だ?」
「効果を知っている平民は、体の弱い人に食べさせていないよ」
「い、いや!だとしても、貴族の屋敷で働く俺が知らないなんておかしいだろ」
「貴族は体の弱い人はほとんどいないからだよ。それに、万が一、食べてしまってもアンチの実を水で溶かして飲めば解毒されるから大事には至らない」
「そ、そうだとしても!俺の料理をぶちまける理由にはならないだろ!!」
「兄さん!!現実から目を逸らさないで。スカーレット様がいなかったら、兄さんは貴族殺しで、とっくに死刑になっていたんだよ」
ルビア様は余命宣告を受けるほど病弱だった。
もしも、そんな人がデルテを食べてしまったら……?
最悪の未来を想像して、背筋が凍りついた。
どんな理由があれ、俺が作った料理でルビア様が死んだのなら、責任は全て俺にある。
下手をすればツァールも連座に巻き込まれてしまう。
「ねぇ、兄さん。ちゃんと思い出して。そのときのスカーレット様を」
「この目で見たんだ!!床にぶちまける瞬間を!!」
「スカーレット様が理由もなく、そんなことをするはずがない」
「だから!!ルビア様が食べよう、とした、のを……」
俺は怒りに飲み込まれて、その前に繰り広げられていた会話をすっかり忘れていた。
赤毛は……ルビア様に有害だから料理を食べるなと言っていた。だが、ルビア様が忠告を無視して食べようとするから、だから……。
「そ、それ以外にも!!俺の料理を不味いと言ったんだ!!」
「本当に?スカーレット様が兄さんに言ったの?」
「……」
俺はいつも、それを聞くだけだ。ルビア様から。
嘘を……つくはすがないと思った。そんなことをしても、何の得にもならないから。
「あ、ぁぁ、っっ……俺は何てことを……」
思い出した。
赤毛は……スカーレット様は一度として俺の料理を「不味い」と言ったことはない。
食事の後、貴族が来るべき場所ではない厨房に足を踏み入れては、慣れない笑顔で
「今日の料理もすごく美味しかった。ありがとう。いつも私が苦手な野菜を食べられるように、色んな工夫をしてくれて」
感謝をしてくれた。
その言葉は、まるで暖かな春の日差しのように俺の心を温めた。スカーレット様はいつも、俺の努力を見ていてくれたのだ。
それ以来、俺はもっと頑張ろうと思った。スカーレット様のために、そして自分の誇りのために。
謝らなければ。スカーレット様への、酷い仕打ちを。全て!!
「ツァール!!スカーレット様に伝えてくれ。愚かな俺が悪かった。どうか許してくれと」
「兄さん……」
一縷の希望が胸に灯る。ツァールがいれば、きっと伝わる。そう信じていた。
胸に希望の光が差し込む。しかし、次の言葉にすべてが砕け散った。
「伝えるわけないだろう?」
その言葉は刃のように俺の心を刺した。
なぜ?どうして?俺がどれほど苦しんでいるか、わかってくれないのか?
ツァールの顔が一変した。今まで見たことのない冷たい表情。
ずっと、俺のことを兄として慕ってくれていた輝かしい瞳が暗い影が宿る。
「俺は……スカーレット様を傷つけてしまった。取り返しのつかないことをしてしまったんだ。だから、せめて謝罪だけでも……」
深いため息をついたツァールの目は失望を表していた。
一歩、近づいたツァールは格子を掴んだ。
「スカーレット様は優しい人だから、謝罪を聞けばきっと許してしまう。僕はそんなの嫌だ」
「ツァール。な、何を言って……」
ツァールの言葉は重く、俺の心を締め付けた。
「お前がスカーレット様を信じず、勝手に仕出かしたことだろう。死ぬまでここで、孤独に懺悔だけしていろ。お前の安っぽい謝罪なんて、誰も求めてないんだよ」
俺の胸は、冷たい絶望で満たされた。過去の罪がどれほど重いものか、改めて思い知らされた。
「待っ……ツァール!!」
「僕とお前は兄弟でもなければ、赤の他人だ。金輪際、名前を呼ばないでくれ。不愉快だ」
ツァールの瞳からはかつての温もりが消え失せ、そこにあるのは冷徹な断絶だけ。
思い出が壊れる音がした。
二人で支え合い生きてきた時間はガラス玉のように弾け飛ぶ。
絶望は絶望でしかなかった。どこまでも永遠に苦しみが広がる。
傷は更なる傷を作り、痛みが癒えることもない。
スカーレット様は希望の欠片すらない、孤独な世界に生きていた。
そんな世界を作ったのは俺達で、醜いから心が傷つかないなんて、バカみたいな理由を並べてどんな行いも正当化してきた。罪の意識すら感じることなく。
「ツァール、お願いだ……。どうか、スカーレット様に……」
涙が溢れ、声が震える。こんなにも弱く、脆い自分を見せるのは初めてだ。
ツァールの前で泣くなんて、今までの俺には考えられなかった。
いつだって、兄としてお手本にならなければならない俺は、弱音なんて吐いていられない。ツァールが間違った道に進まないように、俺が道を示してきた。
その俺が間違っていたことに、ようやく気付いたとき、何もかもが手遅れ。
もっと早くに気付くチャンスはあった。俺はそれを見て見ぬふりして、目の前にいる幼い少女を傷つけることばかりしていた。
そういえば……一人だけいたな。スカーレット様を信じた侍女が。
その侍女も俺達からしてみれば悪で、ルビア様のありもしない噂を流すかもしれないからと、排除したんだ。
俺はそれを聞いて、なんて勇気ある行動だと心の底から賞賛したのを覚えている。
どうかしていた。人の命を奪うことを、素晴らしいと思うなんて。
兄弟の縁を切られても、俺にはツァールに縋るしかなかった。深い後悔に身を焦がしながは、俺が犯した最大の過ちを謝罪しなければいけないのだ。
だが、ツァールは振り返ることなく、冷たい背中を向けて歩き去ってしまった。
振り返ることすらなく。まるで俺の存在を拒絶するかのように。
「待ってくれ……!!」
手を伸ばすが、手首には冷たい鉄の鎖が絡みつき、身動きは取れない。まるで罪の重さが体を縛りつけているかのようだ。
──俺が信じるべきはスカーレット様だったというのに……!!
料理をダメにしたスカーレット様は、何も悪くないというのに俺に謝罪をしに来てくれた。
それなのに俺は、頭に血が上っただけでなく、怒りに我を忘れて暴言を吐いてしまった。
子供には耐えられない、酷い言葉を浴びせた。
口から出る言葉が全て、見え透いた嘘と決めつけて。
「祈りなよ。お前の大好きな、ルビア様に」
最後に聞こえたのは、完全に俺を突き放すものだった。
暗闇がじわじわと視界を覆い、世界が消えていく感覚に襲われる。孤独と絶望に押し潰されそうになりながらも、最後の力を振り絞って呟いた。
「ツァール……スカーレット様に、どうか……」
俺の精一杯の願いは届かない。
たかが平民にも、優しく接してくれていたスカーレット様の尊厳を踏みにじった。
平民の分際で貴族を躾けてやると意気込み、過度な虐待で心身共に傷つけ続けた。
謝って許されることではないが、このまま謝らずに死にたくはない。
俺の後悔も思いも、全てを飲み込むかのように、ただそこに、静寂だけが残った。




