表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十六歳の妹の誕生日、私はこの世を去る。  作者: あいみ
伯爵と愛人の場合

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/42

4

 邪魔者を排除して一ヵ月後。


 空から彼が見守ってくれているのだから、いつまでも塞ぎ込んではいけないと、彼女はかつての暗さを脱ぎ捨て明るく振る舞うようになった。


 周囲の人々もそれを見て、ようやく安心した様子だった。


 平民だけでなく貴族も足を運ぶ酒場で働くようになった彼女はいつも、人を探している。


 爵位を持ち、騙しやすそうな男を。


 そこで出会った。伯爵と。


 周りの友人は期待するだけ無駄だが、この男は簡単に手に入る。


 彼女の美貌は美しいまま。あの頃の傷もすっかり治り、この体を使って誘惑すれば落ちると確信さえあった。


 酔ったふりをして近づき、キッカケを作ってしまえばこっちのもの。


 友人と別れた伯爵は下心満載で彼女と別の店に行くことになった。


 平民がよく行くその場所は下は酒場。上は……。


 一人の夜が寂しいとグラスを持つ手に、そっと自分の手を重ねた。


 ただでさえ開いた胸元を、熱いからと更に開けば伯爵は生唾を飲み込む。


 ベッドがあり、二人きりになれるように二階へと上がり、甘く刺激的な夜を過ごす。


 伯爵は一度の過ちで関係を終わらせようとしていたが、彼女がそれを許さない。


 身なりを整える伯爵の背中に抱きつき、涙ながらに一人の家に帰るのが寂しいと訴える。


 付き合っていた彼氏が病死して以来、恋に臆病となり男性との関係を持ってこなかった。

 こんなにも胸が高鳴り、傍にいたいと思ったのは初めて。


 真面目な伯爵は語られる彼女の嘘を信じ込み、一度でも関係を持ってしまったのなら責任を取るべきだと思い愛人として屋敷に連れ帰ることにした。


 伯爵家の屋敷はそこそこ大きく、贅沢がし放題だと内心では喜ぶ彼女に待っていたのは“現実”


 愛人で、しかも平民。誰も彼女に近づこうとしなかった。


 身の回りを世話する使用人さえいない。

 伯爵は伯爵で夜の相手を求めるときしか訪ねて来ることはなかった。


 それでも。伯爵家に入ってしまえばこっちのもの。好きなだけ宝石やドレスを買い漁り、すれ違う使用人達に見せびらかしても無反応。


 山よりも高い彼女のプライドを傷つけたのは使用人の態度ではなく、伯爵夫人カメリアだった。


 初めて顔を合わせたとき、こんな女に負けたのかと屈辱の炎で身を焦がす。


 艶やかな赤髪ではあるものの、顔にはそばかす。体型もややスリムとは言い難い。


 地味で何の取り柄もない女が伯爵の寵愛を受けて、美しく男なら引く手あまたの自分が愛人で、夜の関係しか持てないなんて。

 しかも!!その娘はもっと酷い。


 そばかすの数は母親よりも多く、不細工を通り越して醜いその顔で声をかけてきたのだ。


 だから彼女は、ありのままを素直に伝え、その場を去った。


 ある日のこと。彼女は妊娠したと伝えた。あまり嬉しくなさそうな伯爵に、子供は産むと宣言し、彼女に似た愛らしい娘が生を受ける。


 愛人だろうと貴族の血を引く子供を産んだのに、周りの目が変わることはない。

 むしろ、軽蔑さえされていた。

 下級貴族ならまだしも、平民が伯爵の子供を身篭るだけでなく産むなんて、常識がないと。


 立場が変わらない。その現実と事実だけが彼女の怒りを燃え上がらせた。


 平民や下級貴族ではなく伯爵位の愛人になれることは、ほとんどない。

 彼女は選ばれた特別。周囲はそのことを羨み、羨望の眼差しを向けなければならないのだ。


 愛しい我が子。この子がもしも、普通ではなく生まれてきたら……。


 娘に伸ばした手が優しく抱き上げるのではなく、首に触れていたと気付いてハッとした。


 この子が普通じゃなくなれば、周りの人間は嫌でも彼女に注目する。


 気分転換がしたいからと外出する彼女に同行する者は一人もいない。


 帰ってきたのは夕方頃。こんな時間まで何をしてたのかと、わざと聞こえる陰口を叩く使用人は無視した。


 「私の可愛いルビア。愛しているわ」


 彼女はずっと呪文のように、何度も何度も口にする。

 自分に似た美しい娘を本気で愛しているから。


 将来はきっと男に困らないほどの美人になること間違いなし。


 この子は自分と伯爵の血を引く子供。特別なのだ。

 そんな特別な子供を産んだ自分もまた特別。伯爵家に仕える人間はそのことを理解し、特別扱いしなければならない。


 採取した木の実を絞った果汁を、一滴飲ませた。


 イオス。毒の仲間ではあるが、死に至ることのない木の実。

 実そのものではなく果汁を飲み続けることで、体の免疫は下がり、病弱に変わっていく。


 だが、彼女にとって大誤算だったのは数年しか生きられない余命宣告をされたこと。

 元々、娘の体が弱かったこととイオスを飲ませたことにより、最悪の事態を招いてしまった。


 治すには万能薬とされるパナシア薬しかないが、伯爵家の全財産をはたいても、買えない高価な薬。


 絶望で目の前が真っ暗になる。


 こんなにも愛らしく生まれてきた娘が、“よりにもよって不細工な赤毛よりも先に死ぬ”

 その事実だけが何よりも耐え難い。


 彼女が何もしなければ、体は弱いが何十年と生きられた。

 自分の犯した罪から目を背け、可哀想な娘の母親として、醜いスカーレットよりも先に死んでしまう怒りと悲しみに苛まれる日々。


 娘の世話をしてくれるメイドは本当に最低限のことしかせず、出産したばかりだからと伯爵は部屋にも寄り付かなくなった。


 勝ち組の人生を送るはずだった彼女は、惨めだった。


 口でこそ何も言わないが、その態度は娘が早く死ぬことを望んでいたのだ。


 娘が成長するにつれて、彼女も屋敷を出歩く頻度が多くなる。

 このままではダメだと、打開策を見つけるために。


 そして、見つけた。今の惨めな状況から抜け出し、周りの意識を変える方法を。


 夜になればまた部屋を訪ねて来るようになった伯爵に、ベッドの中でいつもカメリアから意地悪をされていると涙を流す。


 その度に伯爵は


 「そんなはずはない。カメリアは優しい女性だ」


 決まってそう返すのだ。


 想定内のことなので、彼女はそこまで苛ついたりはしない。

 むしろ、これでいいとさえ思っている。


 大切なのは、すぐに信じてもらうことではなく、伯爵の心に小さな疑問を植え付けることだった。

 その小さな疑問の種はやがて大きな樹となり、伯爵の心に影を落とし始める。


 優しいカメリアが……?


 その思いが伯爵の胸に湧き上がるたび、信頼で埋めつくされていた心は疑心暗鬼に覆われていった。


 彼女はただ繰り返すだけ。


 貴族であるカメリアは平民の自分を見下している。

 顔を会わせるのも嫌なのだろう。


 伯爵はカメリアを優しいと言うが、本当に優しかったら愛人だろうと生まれたばかりの子供を見に来てくれる。

 カメリアは一度として、来てくれたことはない。


 当然だ。侍女に強く言われているのだから。愛人と関わることも、その娘に会いに行くなんて以ての外だ。

 祝いの品もあげてはならないとさえも。


 とあるツテから、上質のシルクのブランケットを手に入れたカメリアは、それを愛人母娘に贈るつもりだった。


 だが、実際には彼女の手元に届いてないため、彼女の発言は嘘にはならないのだ。


 最初こそ強く否定していたが、今では自信がないのか曖昧な返事しかしない。

 彼女が撒いた種は確実に育っていた。


 つい、笑ってしまいそうになるのを我慢して、今日もまた繰り返す。

 平民である自分の立場は、伯爵家では弱すぎると。


 そして……。カメリアが床に伏せ伯爵の心は揺れるようになった。


 医師は出来る限りのことをしてくれるが、症状は悪くなる一方で伯爵は感情を隠すことなく悲しむばかり。

 その悲しさを埋めるように夜遅くまで付き合ってくれる彼女の“優しさ”に、伯爵のカメリアに対する愛情は薄れていく。


 「大丈夫よ。この私が伯爵夫人の務めを果たしてあげるから」


 死期が迫ったカメリアを冷たく見下ろすその顔に感情はない。


 気付けば使用人は誰もカメリアの看病に来ることはなくなった。

 スカーレットだけが毎日のように部屋を訪れては、体を拭き髪を梳く(すく)。爪の手入れも忘れない。

 最後まで伯爵夫人としていられるようにスカーレットは手を抜かなかった。


 そのスカーレットが何やら激怒した伯爵に連れて行かれて、カメリアは彼女と二人きり。


 「あな、た……」


 満足に目が見えないカメリアには、ぼんやりとした人影しか映らない。

 それが誰か判別することは最早、不可能。


 「私ね……あなたと、結婚して……心から、良かっ、たと……思っているわ。ありがとう、私を……選ん、でく、れて」


 カメリアも伯爵も不器用だった。

 口下手ということもあり、いつだって大切な一言を伝えられずにいたのだ。


 真面目で愛を口にすることが恥ずかしかった伯爵。

 そばかすがコンプレックスだったカメリアはこの結婚が同情であり、父親同士の仲が良いことも知っていた。

 自分のせいで伯爵の未来を奪ってしまったのではと、本心(あい)を伝えることにおこがましく感じていた。


 でも、こんなにも早く伯爵の元を去ると知っていれば、嫌になるくらい想いを伝えていた。


 「あ、いし…してるわ」


 振り絞った声は、最後のほうにはかすれて消えた。


 もしも、この言葉を伯爵が聞いていたら何かが変わっていたのかもしれない。


 だが、現実と理想は違う。

 カメリアの前にいるのは彼女だけ。


 「最期の伝言。しっかりと伝えてあげるわ」


 今や抵抗さえしないカメリアなら、細く力の弱い彼女の指でも簡単に殺せてしまう。

 だが、なるべく痕跡は残してはならない。


 スカーレットが落としたハンカチを拾い、たっぷりと水で濡らしては、それでカメリアの口元を覆った。


 苦しむ様子はない。元から苦しんでいたのだ。これしきのことなど、感じるはずもない。


 数分もすればカメリアの呼吸は完全に止まる。


 カメリアの症状はヴェレーノによるもの。


 貴族の屋敷に毒草があるはずもなく、伯爵や使用人が使ったとは考えにくい。

 無論、彼女も“まだ”何もしていなかった。


 では、誰が彼女に毒を飲ませたのだろうか?


 思考は自然と、娘へと向かった。

 ありえないことではない。彼女は愛する愛娘に隠し事をすることなく全てを話した。


 命を守るための勇気ある行動として、暴力ばかりを振るう彼を毒殺したことを。


 その危険な毒草を、娘の心のお守りとして渡していたのだ。


 いつでも誰でも、自分の好きなときに排除出来るそのお守りは、娘の心を強く歪ませた。


 まさかこんなに早く使うとは思っていなかったが、娘の努力を無駄にしたくなかった彼女は、最後の最後に自らの手で確実に、カメリアの命を奪った。


 その瞬間の顔はとても醜く、美しさとはかけ離れすぎている。


 自らを優しいと思い込んでいる彼女は、今日だけはカメリアの死を黙ってあげることにした。

 一日でも長く、母親が生きていると思えるなんて幸せ。


 彼女は、親の死に目に立ち会わない親不孝者の娘のことを、こんなにも配慮してあげているんだと、優しさに酔っていた。


 翌朝、すぐにスカーレットに事実を伝えるとその目はひどく動揺して、彼女の言葉を理解するのに時間がかかってしまう。


 駆け出そうとするスカーレットの腕を掴み、放り投げる伯爵。


 「ルビアに挨拶もしないでどこに行くつもりだ!!」

 「お母様が……!!」

 「お前は今を必死に生きているルビアよりも、死んだ人間を優先するのか!?」

 「お父様。いいのよ。行かせてあげて」

 「しかし」

 「私だってお母様が死んでしまったら悲しいもの。体がどんなに苦しくても駆け付けるわ」

 「まぁ!ルビア……。こんなに優しく育ってくれて、私は嬉しいわ」

 「ルビア様ほど慈愛に溢れたお方はおりません」

 「ルビア様にお仕え出来て光栄です」

 「私こそ、みんなが仕えてくれて嬉しいわ。いつもありがとう」


 スカーレットが部屋を飛び出したことは誰も気にもしていなかった。


 ただただ、娘の優しさに感動するばかり。


 そして、カメリアの最後の伝言を伯爵に伝えた。


 「貴方と結婚したせいで私の人生は最悪だった。死んでも恨んでやる」


 伝わってほしいこととは全く別の、嘘だらけの言葉だけが伯爵に届けられた。


 カメリアの死は他の貴族にも伝えられ、葬儀はその日の内に行われた。


 一秒でも早く灰にしたかったのだ。自分を騙し続けたカメリアを。


 そのため、親族はおろか、他の貴族がカメリアを見届けることすらなかった。

 スカーレットと伯爵、彼女と娘。たった四人だけの悲しい葬儀。

 しかも、スカーレットを除く三人は娘の体調を理由に一足先に帰る。

 ヘルサン家からのお金を手にして。


 後々、面倒な噂が立たないように嫌々、伯爵はスカーレットを迎えに来た。


 葬儀が終わってすぐ、カメリアの実家でもあるフルール家から現当主でもあり、彼女の兄、フィオーレが抗議にやって来た。


 「妹の葬儀の日程をなぜ、我々に教えなかった」


 美しい顔立ちは夫である伯爵を睨む。


 フィオーレは外交の仕事が忙しく、ほとんどを国外で過ごす。

 そんなフィオーレの元にカメリアの体調が優れないと手紙が届いたのは亡くなった当日。


 戻ってきたときには、とっくに葬儀など終わっていた。


 届くまでに日数がかかってしまったことと、伯爵がフィオーレに手紙を書くのが遅すぎたことが原因である。


 「申し訳ありません。ですが、全て彼女の娘……スカーレットが望んだことなのです」


 横から口を挟んだ彼女は愛人ではなく、伯爵夫人として同席していた。

 手続きはまだ完了していないが、遅かれ早かれ、そうなることは決まっている。


 本物の貴族を前にしても彼女の堂々とした態度は、毅然としているというよりかは、ふてぶてしい。

 まだ伯爵夫人でもないのに女主人として、この場に居座り続ける。


 「スカーレットが?」

 「ええ。私達もせめてフルール家には伝えるべきだと説得したのですが、首を縦に振らなかったのです。私達はもうジュエール家の人間。今の家族に母を見送ってほしいと」


 目を細め睨んでくるフィオーレに恐怖することはない。


 彼女にとって怖いのは理不尽に自分を殺そうとする者だけ。睨んでくるだけの貴族なら、臆することはない。


 フィオーレが来たと知らせを聞いた伯爵は狼狽えていたが、「愛する娘のために私を信じてほしい」と手を握ってくれたおかげで、気持ちは落ち着いた。

 今はもう失われてしまったが、かつての伯爵は真面目だけが取り柄。あの頃を思い出しながら、伯爵家当主として向かい合う。


 「それが本当かはスカーレットに聞けばわかることだな」

 「おやめ下さい。あの子は今、母親を失った悲しみで部屋から出てきません」


 彼女の嘘は、最初から最後までが嘘ではない。

 嘘の中に小さな真実を混ぜることで、より真実味を持たせていた。


 実際、スカーレットが塞ぎ込んでいるのは事実。

 母親を亡くしたばかりの幼子に、最後の別れをした葬儀のことを聞くのは酷。


 しかも、息を引き取る瞬間、傍にいられなかったことを誰よりも悔いているのはスカーレット。


 無理に問いただすことは良心が咎める。


 何年と顔を合わせていないフィオーレよりも、スカーレットのほうがカメリアを失った悲しみは遥かに大きい。


 「ですが、ご安心下さい。これからは私が母親として、あの子を育てていきますので」

 「つまり。お前が伯爵夫人になるということか?」

 「カメリアもそれを強く望んでいましたから。もちろん!私もあの子が寂しくならないように父親の務めを果たします」


 死人に口なし。カメリアが本当に愛人を後妻に望んでいたかなんて、わかりはしない。

 わかっていることがあるとすれば、カメリアは優しいということ。


 優しさ故に、愛している夫の心に穴を開けたままこの世を去ることが苦しく、愛人を正式な夫人にと望んだ可能性がなくはなかった。


 フィオーレは知っているから。幼い頃から恋心を抱き、ずっと伯爵を愛していることを。


 真実が確かめられないこの状況で嘘だと決めつけるのは、カメリアの想いそのものへの否定。


 「まぁいい。スカーレットは俺が引き取る」

 「な、何を!!?」

 「不都合でもあるのか」

 「あの子には妹がいます!離れ離れにするつもりですか!?」

 「義妹だろう?」

 「ですが!!ルビアは体が弱く、そんなルビアを支えたいといつも献身的に進んで看病をするほど、仲が良いのです!!」


 愛人の娘にさえ優しく接するのは母親譲り。

 スカーレットが生まれてから顔を会わせたのは、まだ赤ん坊のとき。


 それ以降は会ったことがないため、当然のことながらフィオーレの顔を覚えていない。

 カメリアに兄がいることは聞いていても、記憶になければ他人としての線を引いてしまうだろう。


 家族になりたいと歩み寄っても気を遣わせてしまうかもしれない。


 仕事が忙しすぎるため自国に帰ってくることすら難しい、そんなフィオーレがスカーレットを引き取り、母親との思い出が溢れる国から遠ざけるのは抵抗がある。

 かといって、平民が伯爵夫人となったジュエール家に残したくないのも確か。


 「部屋から出られなくても話は出来るだろう。本人の意志を尊重する」


 フィオーレはすぐさま、伯爵にスカーレットの部屋まで案内させた。


 「スカーレット。カメリアの兄のフィオーレだ。少しだけいいか」


 遠慮がちに声をかけるも返事はない。


 優しすぎる心が、よりスカーレットを深く傷つけていた。


 「君が望むなら俺と一緒に暮らさないか?妻もきっと賛成してくれる」


 やはり返事はない。諦めようと扉に触れていた手を離した。


 「フィオーレ様」


 か細く、今にも消えてしまいそうな声が室内から聞こえてきた。


 「お心遣いありがとうございます。ですが、私はお母様と過ごしたこの屋敷を離れたくはないのです」

 「……そうか。そうだな」

 「それにルビアのことも放っておけません」


 フィオーレは静かに目を閉じた。ハッキリと言われてしまうと、どうしようもない。


 「俺は君の味方だ。何かあればいつでも手紙を書いてくれ。すぐには無理だが、必ず駆け付ける。約束だ」


 本人が屋敷を出ることを望まない以上、扉を壊しその手を引いて連れて行くなんて、出来るはずがなかった。


 この扉の向こうでスカーレットがどんな表情を浮かべて会話をしていたかなんて、知る由もない。


 フィオーレが帰ると二人はすぐ娘の様子を見に行く。


 死んでからも迷惑をかけるカメリアへの暴言は止まらない。

 骨になって清々したと声を荒らげて笑う伯爵の思い出(こころ)にはもう、カメリアがいないことを表していた。


 「遅くなってすまない」

 「ううん。大丈夫」


 退屈しないようにと渡していた本に栞を挟んだ。


 思いの外、体調は良さそうだった。それだけで何より。


 「お父様、お母様。私ね、頑張ったから褒めて?」


 愛らしく笑いながら、数分前の出来事を話した。


 廊下で応接室の会話を盗み聞きしていた娘の侍女が、フィオーレがスカーレットを引き取ろうとしていることをすぐさま報告した。


 この屋敷にはカメリアとの思い出が詰まっている。彼女が残した温かな笑顔や優しい声が今でも響く場所だとしても、絶対に出て行かない確証まではなかった。


 「行くな」と口でお願いしたところで、聞き入れてもらえないのなら、別の方法を採ればいい。


 元々、カメリア付きだった侍女もいるため、母娘が大切にしている思い出の品も知っている。


 葬儀が行われている間、その侍女がカメリアの部屋から古い懐中時計を持ち出していた。


 蓋にはスカーレットの花が刻まれている。


 壊れて動かない懐中時計ではあるが、その止まっている時間に意味があった。


 スカーレットが生まれてきてくれた時間なのだ。


 今はもう時計としての寿命を終えてしまったが、新しい命が芽吹いてくれた。


 他人からしたら古くて汚いだけの懐中時計だとしても、カメリアとスカーレットの愛を繋ぐ宝物。


 その宝物をあろうことか娘は、粉々に壊すと言ったのだ。


 が、優しい娘は提案した。フィオーレの誘いを断り、屋敷に残るのであれば懐中時計は壊さないと。


 スカーレットには迷う選択肢はなかった。屋敷を出て行くことも助けを求めることさえも、許されない(できない)


 「それでね、思ったの。これがあったらお姉様、私の言うことなぁんでも聞いてくれるって」

 「なんて賢い娘なの!一体誰に似たのかしら」

 「そんなの決まってるじゃない。私が愛しているお父様とお母様によ」

 「うむ。私達の聡明な血を引くルビアだからこそ、こんなにも賢いのだ」


 伯爵は気付かない。曇り、歪んだその目に映る物に。


 娘が手にしているその懐中時計は、かつて自分が贈った物であることを。


 二人の結婚の話が進む前、伯爵が祖父から譲り受けた宝物であることを。


 この時計のように二人で同じ時間を歩みたいと、プロポーズしたことさえ。


 かつて、愛し合っていた二人の思い出は、脆くも崩れ去っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ