第31話 ある人生
女はタケルを生かすでもなく、殺すでもなく、ただ深い昏睡の中に沈ませていました。ただ、その胸を抱きしめることだけを思い願って───。
ふと気がつくと、タケのまわりの景色は実家とは違うものになっていました。
え?・・・ここは、どこ・・・?
あたりを見まわします。
見まわすまでもなく、囲炉裏のすぐ脇で、布団の上に横たわっているタケルの姿が目に入りました。同時に、その胸に乗せられた白い腕も。
一体、何・・・?
訳がわかりません。何でタケルが目の前にいるのか。
あたりを見るにつけ、段々と自分が行ったこともない採掘場の小屋にいるのか? ということが感じられてきました。思いのあまり、小屋まで飛んできたとでも言うのでしょうか?
自分が何をしようと思ったのかもわからないまま、タケは立ち上がりました。
そこには、はっきりとタケルの傍らに寄り添う女の姿が・・・!
妖気のようなものを感じて鳥肌が立ったタケは思わず叫びました。
「何やっとんじゃ!?」
女がハッと目を見開いてタケを見上げました。
「そなたは如何なる者か?」 余韻の残るような低いかすれ声を女が上げました。途端に女は起き上がる動作も見せずに一瞬でタケに相対するように立っていました。
「そなた?・・・何言うとんじゃ、妖しのもんか? タケルを化かしとんのか?」 タケが問い詰めます。
「化かすと? そちらも同じであろうが。人のふりをしておるだけであろう」
タケはその言葉に唖然としました。「お前は、何もんじゃ・・・何を言うとるんじゃ」
確かに自分が『人の子』ではないことはもうわかっています。しかし、この女は一体・・・。
「タケル・・・タケル?」 タケはひざまづいてタケルの頬に手を添えました。「冷たい・・・」 タケは思わず呟きました。息はあります。が、それは浅く、まるで反応もなく、死んだように深い眠りに落ちているようです。端正な顔立ちが余計に生気のない、青白い彫り物のように見えます。
きっと女を見上げます。「タケルに何をした?」
「ふん、タケルと申すのか。民の名じゃな」 女は嘲るように言います。「教えておいてやろう。そなたが大人しく『月』へ帰らぬゆえ、死にきれずに漂っていた私が呼ばれたのじゃ」
「死にきれず?」
タケは守るようにタケルの向こう側に手をついていました。
「私はタケルをこのまま天へ連れて帰ることもできる」 女はタケを見てそう言いました。「そうなれば、そなたもじきに『月』へ帰るしかなくなるであろう。それが『月』の目論見なのじゃ」
女は淡々と『月の目論見』なるものを吐露していきます。
「何でそんなこと引き受けた?」 タケは心の内に怒りが溜め込まれていくのを感じていました。
「私のことなど関係ない。私は『月』の使命を果たすだけじゃ」 女は赤い唇を開いて笑い声を立てました。「十分楽しませてもろうた。やはり美しい男は良きものじゃ。最後に生きた男の生気に浸れるとは・・・思ってもみなかったことよ」
膨れ上がった怒りは返ってタケを冷静にさせていました。タケは立ち上がると、タケルをまわり込み、女のそばに近づいて行きました。笑い顔を浮かべたままの女を押し倒すかのようにドドドっとその両肩をつかんで壁に押しつけました。
「お前・・・何が不満なんじゃ?・・・何で死にきれんかったんじゃ」 顔を近づけ、優しく、囁くように問いかけました。微笑さえ浮かべています。
思わぬタケの豹変に、女の顔から笑いが消えました。タケは追い打ちをかけるかのように、その頬に優しげに指をすべらせました。タケの熱を帯びた指の感触が、冷え切った女の身内に何かを蘇えらせたようです。一気にその目に涙があふれ、タケの指を濡らしました。溶けたばかりの氷のような涙でした。抑えつけていたものがあったようです。タケは、慰めるように女の額に自分の額を当てました。どうしてそんなことをするのか自分でもわかりません。でもタケルを助けるにはこの女を何とかするしかないことだけはわかりました。女の押し込められた感情がタケの中に流れ込んできました。多分、女の理由をわかりたいと思ったのでしょう。訳がわからないと、自分も何かを恨んだままになってしまいそうで・・・。
何かを恨む───。
それは『月』の思う壺。
タケの中で女の人生が語られ始めました。
女が昇り詰めた場所は、帝の側室たる中宮という身分でした。皇后にも匹敵する地位です。
まだ年若い帝の、正妻である時の皇后とは公卿たちの政略の果てに半ば帝に当てがわれたような、外戚関係をつなぐだけの婚姻でした。それも、「今が最後」と陰口を囁かれるほどの高齢だったのです。それでも、皇后は男子をもうける、というお役目だけは果たされました。帝にとってはほとんど「職務」と言える関係でした。皇后にはその血筋ゆえに政略結婚に翻弄され続けた生涯でした。そしてそういう人生を達観してもいました。最後の最後に、こうして皇后という最高位に辿り着いたのですから、後はここで余生を誰に気兼ねすることなく存分に過ごすつもりでした。帝はこの余生を支えてくれるだけの存在───。
なので、本心としては側室が誰であろうが帝の御心がいずれにおわそうがどうでもよかったのです。
帝の御心は常に中宮のもとにありました。こちらは本当に心が通い合っていました。数多の側室たちの中からここまで来れたのも、ほとんど帝が引き上げて下さったようなものでした。しかし、皇后となると、そうはいきません。帝はほとんど恋心だけで宮中に引っ張り込んだような身分の低いこの娘を何とか正妻に迎えたいと思っていたのですが、後ろ盾になるような高貴な家族もおらず、中宮になったとしても誰も喜ぶ者はいないのです。単なる側室の一人であれば、公卿たちも大目に見てくれたのでしょうが。
帝はこの娘の名『すずは』から『涼上』と名づけて寵愛しました。聡明な娘で、宮中の礼儀なども教育係が驚くほどすぐに身につけたので、帝が妃として主張しやすくもなったのです。
涼上との間には二人の女の子が生まれました。男児をもうけた側室も他にいるにはいるのですが、その子が早くに亡くなったり、側室自身の家系や宮中での振る舞いなど有る事無い事を理由に公卿たちは「皇后に能わず」として、軒並みに帝の婚儀を先送りして来たのです。それでも「涼上を是非に」というその心を悟られたかのように、帝は今の皇后に引き合わされたのでした。公卿たちにとっては前々から目星をつけていた納得の血統でした。ただ今から入内するには高齢だというのだけが難点だったのです。それでも涼上に入られてしまうよりはと公卿たちは踏み切ったのでした。帝と上にとっては、明からさまな妨害行為に思えたのですが、抗うこともできず、帝にとって初めての正妻を迎えることとなったのです。
皇后が帝にあまり関心を示さないことも幸いとなり、帝と涼上は逢瀬を重ねました。いずれにしろ、皇后が先立たれたらその時こそ、次の皇后に迎える、と、今度こそは誰にも何も言わせない、と帝は約束なさいました。もう正統な世継ぎとなる男児もおられるのですから、中宮が後に入ろうが何も問題はないはず。たとえその後に男児をもうけたとしても、正統なお世継ぎを脅かすものにはなり得ない。中宮が皇子の母となり、立派にお育てすれば良いこと。それは涼上も覚悟したことでした。
もちろん、今も時には「形として」他の側室たちのもとにも通われますが、将来を約束されたのは涼上だけでした。
美貌の帝でした。涼上はその美しさにも淡々としている年増の皇后にもそれを分け与えるのは悔しいような気がしていました。でもその美しさが一番輝くのは、自分と共にいる時・・・
ある意味、涼上は幸せそうに微笑む帝に、帝の真の美しさを知っているのは自分だけだという自信のようなものを感じていました。
それから二年ほどがたち───
皇后が病死されました。もともと無理をした産後の肥立ちが悪く、その意に反して体調が不安定なまま過ごされていたのですが、その分、わがまま、人使いが荒いという悪評を残して逝去されたのです。無理からぬこと、とその生涯を知る者たちからは同情の声もありましたが。
涼上は哀悼の意を表しながら、胸を膨らませて喪が明けるのを待ちました。帝からのお召しがかかるのを。
もちろん、喪中は帝も側室のもとへ通うのを控えられます。それを埋め合わせるように、密かに帝の側の者を介しての和歌や文のやり取りで二人は語り合いました。
しかし、ようやく喪が明けてしばらくもしないうちに帝からの文が突然止まりました。遣いの者が来なくなったのです。多分、その必要がなくなったから、と涼上は思っていました。が、待てど暮らせどお召しはかかりません。それどころか、中宮へのお渡りすらまだないのです。独り身になられたというのに、何を遠慮することがあるものか───。
何もわからぬままただ待ち続ける涼上の背後で、思いもかけない事態が起こっていました。
ある時、たまらなくなった涼上は所用の遣いと称してこちらから人を遣りました。噂話でもいいから何が起こっているのか見てきてほしい、と。
そしてわかったのです。あまり表立ってはいないが、何やら帝のおそばでは準備が進んでいるようだ、と。さらに、それは新たな婚儀の準備のようだと言うのです。
涼上は混乱しました。自分がおそばに呼ばれてもいないのに、そんなものが勝手に進められるものなのだろうか?
いや・・・そういうものなのだろう。ただでさえ、自分は一度排除されているのだ。それを二度目に受け入れようというのは、大々的にできるものではないのだろう。
あくまでも帝を信じていました。
そしてある日突然、新しい妃が宣下されました。中宮ではなく───。
その宣下を知る暇もなく、屋敷にドカドカと男たちが現れ、否応なく涼上とまだ幼い娘たちを何の装飾もない古びた牛車に押し込んでどこへともなく連れ去りました。京から遠く離れた地へ。御付きの女房たちが泣き叫び、取りすがるのも足蹴にするようにして。




