【一章外伝】 The♡World's♡End
私は不幸だ……。
世界一不幸な存在だった……。
多分私より不幸な人間はそうはこの世にいないだろう。
お父様、そしてご先祖の皆様、そして右府様、本当に御免なさい。
この家は私の代で潰してしまうかもしれません、どうか力無き私をお許しください。
どうかこの私をあの世でたっぷりと叱って下さい。
——お父様、もしそうならなかったとしても貴方の娘は、貴方が手塩に掛けて育て、守ってきたこの身は、血で穢してしまうことになりそうです。
それでも私は貴方の仇を取りに行きます。絶対に私は彼奴からこの家を奪い返して見せます、絶対に、絶対に、ゼッタイ。
——今は一人の明智梨奈として、貴方の育て上げた天童莉乃という甘ったれたお嬢様を殺してまでもお家を守って見せます。
彼奴を殺す、必ずコロス、いつか必ず。
私は戻ってきた、私は帰ってこれた。
大和君、大和君、大和君。
貴方のお陰……。
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始まりは私の知らない所で唐突に起きていた。
世界が崩壊の兆しを見せてなお、私はそんな事も知らずに屋敷の庭で冬の風に当たりながら父の部下でもある我が屋敷の使用人を傍に置き紅茶に舌鼓をうっていた。
その時飲んだ紅茶はやっぱり美味しかった。
平和な世界での温かくそしてぬくくていい香りのする琥珀色の液体の最後の一滴……。
気に入っていたティーカップと共に、私を中心に回っているのではないかと感じるくらい満ち足りていた世界は音を立てて落ち、崩れていった。
カップは地面に激突して音を上げる。
世界の悲惨な、悲壮な叫びはまだ私の耳には入ってこない、聞こえていたとしても耳に入るわけがない。
大丈夫ですか? お嬢様。
私はそれを飲むことが出来なかった……。
それが最後の御茶会なるとも思いもしなかった。
割れたカップを拾い上げようとした手を制して使用人がカップを片付けようとしたとき……。
私が大好きな、そして私がこの世で最も尊敬している父がスマートフォンに耳を当てながら今まで見たことも無い恐ろしい顔でやってきた。
「そうか、そうか……。今すぐ向かう……」
父は慌てたように電話の相手に返事をして電話を切った。
「屋敷にいるものは皆広間に集まってくれ……」
私の前でいつも温厚な父が初めて大声を出したのだ。
「どうなされましたか? お父様」
世界が崩壊しかかっているというのに私は父が発している異常という空気すら読めず、まるでいつものことのように朗らかに父に問いかけていた。
「兎に角話は広間に集まってからだ。莉乃お前も早く来い」
貴方の娘はそんな時にも落ちたカップの処理の方を使用人に優先させてしまいました。それでも貴方は怒ることなく、その使用人が広間に来るのを待っていてくれましたよね。
父は屋敷にいた皆が広間に揃ったのを見て一言だけ呟いた。
「鬼が攻めて来た」
私の家の家柄が普通よりも何倍も何倍も特別なことくらい昔から知っていたし、父からも幾度となく聞かされた来た。
それが私の自慢であり誇りだった、今でも。
しかし私は今になるまでその家柄の価値を知らなかった、正直に言えば父の仕事だってどんなことをしているのかイマイチ分からなかった。
勿論だが、この屋敷で忙しそうに活動している父の部下も何をやっているのか分からなかったし、家柄に固執しているこの家を時代遅れにさえ感じていた。
——お父さんたちはね、ずっーと昔から鬼を倒すのを仕事にしているんだよ。
幼い頃父から聞いた話だ、私はそれをずっと御伽噺だと思っていた。
——莉乃に伝えなければならない事がある……。
13歳になった時に父が一度屋敷から従者を去らせて、真剣な面持ちで私に本当の仕事内容を話してくれた。
やはり私はそれにも半信半疑であった。
あの父が嘘を言うはずが無いって気持ちと、学校やごく普通の極めて一般的な考え。どちらを信じていいのか、どちらに天秤を傾けさせればいいのか。
結局それは私にとって虚偽妄言としてしか聞こえていなかった。
今回だってそうだ、イマイチ言っている意味と実感が湧かなかった。ただし何故か屋敷の父の部下たちが声を上げ動揺を隠せないような状態に陥っているのである。
意味が分からない。私だけが取り残されている。
父は今後の対応や今日の部下の仕事などを急ぎ割り振っていたが、私の耳にはそんなことは入って来なかった。
私は未だにこの状況や、この状態を理解出来ていなかった。
世界の崩壊崩壊や文明の終わり、近年だってマヤの世界崩壊の予言は外れているのだし、そんなこと口で言われても信じれる訳が無かった。
私は未熟だ……。もし過去に戻れるならそんな私を引っ叩いてやりたい。
「車を出すぞ、莉乃付いてきなさい」
父の声が聞こえる、どうしていいかも分からず困惑した私は言われるがままにそれについて行ってしまった。
父はいつもの運転手を運転席に乗せると助手席に座り、私は後部座席にちょこんと座る。基本時間にルーズな父がいつにもまして慌てふためいている。
化け物や鬼などをこの世に見た事はないが私はそれの存在は完全に否定はしない、否定はしない。
ただどうやっても実感が湧かなかった、鬼も、世界の崩壊も、秩序が乱れるのも、古き強者が攻めてくるのも。
世界が壊れようが私はいつもの日常が続くとばかり思っていた。
私は手に持ったペンダントを握りながら車に揺られる。何も知らずに、何も考えずに、もう脳は考える事を止めていた。
ここから先は知らなかった、気付かなかったは許されないそんな世界に身を置くことになるがその時の私はまだまだ全然周りに頼り切っていた。
私は甘えきっていた……。
崩壊とは突然に起きてしまう。
今まで取り繕ってきたものが何かの拍子に綻びそこからどんどんと崩れ落ちて、最後は見るも無残な目を背けたくなるような残骸しか残っていない。
そこには影すらも残らない、形あるものは全て無くなっている。
私の崩壊も一瞬で私はその崩壊を止める事も抗うことも出来なかった。
あっという間の、アッとさえ言わせてくれない。
あの事を考えただけでも自分が憎くて、憎くてどうかなりそうになる。あの甘ったれた少女を、あのぬるま湯に浸かり込んでいたお嬢様を私は湯船に沈めたい、そんな気分。
暴れても、もがいても、あぶくが浮かんできても私はその手を湯の中に押し込め続けたい。
——もし許される身ならとっくに私は私を葬り去っているだろう。
父の車は市街に向かって走っていっている。しかし父は……。
「おい、遠藤、道を間違えているのではないか?」
父は何かに気が付いたのか部下である運転手に声を掛ける。
その声は何故か鋭い剣幕が張られていて、あの優しかった父を私は初めて怖いと思ってた。
「いや~、奴らが攻めて来た事が知れ渡って混乱が起きているみたいで道が少々混雑しておりまして、裏道を通っているのですよ」
今起こっている騒動の何たるかを知っているのかこの運転手は終始震えていた。本当はもっと違う理由があったのに何故私はそれに気づけなかったのだろうか……。
「この車を止めろ」
父は運転手に小刀を突き付けた。
どこからそれを出したのか、何故一瞬で刀が出てきたのか、そんなことすら疑問に思わない馬鹿な自分。
ただ後ろで見ていた私は父の行動に酷く混乱した。少々気が立っているのは分かっていたがそこまでやる必要はあるのか……。とまぁ残念なことにこの時の私はこの話の本質を全く見抜けていなかった。
そして運転手は震え上がりながらも車を脇に寄せた。
「おいおい、それはおかしな話だ。情報が伝わるにはまだちと早すぎる。鬼が攻めてきたら混乱が起きない様に額田が情報操作を行っているはずなのだが」
父は首筋に小刀を軽く押し付けているのが見えた。
「最近はSNSなどのツールもありますし……」
私はもうどうしていいか分からなかった。
「君は本当に都心だけが大混乱のお祭り騒ぎになると思っているのか? 本当にそんな騒ぎが起きているならきっと私たちは屋敷から一歩も出られなかったと思うよ、特にSNSなんかの拡散は場所を問わずだからねぇ。さあお前の目的を吐いて貰うぞ」
運転手の首下から血液が滴り落ちる。
私は混乱していた。そしてどうしていいかすら分からなかった。だから私は空気も読めず、その場に見合った行動も出来ず、ただただ見ていられなくなって、お金もないのに私は自動販売機でジュースを買ってくるなどと適当な事を言ってシートベルトを外し車から抜け出した。
その時だった……。
「私一人でこんな反逆行為なんてしませんよ、残念ながらお嬢様には逃げられてしまいましたが、こんな千載一遇のチャンス決してあのお方が見逃すことはないでしょう。そしてあの人の計画通りに動けなかった私も……」
男は小刀を持った父に襲い掛かった。男は血まみれになりながらも父を車から出そうとはしなかった。
私は叫んだ、私は泣いた。
「お嬢様まで連れていくことは出来なかったが、当主様を道連れに出来るなんて遠藤君大金星ですね。死んだら二階級特進と君の家族は私が面倒を見ましょう」
遠藤の胸ポケットから別の人間の声がする、見知った声が聞こえたような気がした。
冷静になればあの声の主くらい分かった筈だ。
憎い、憎い、思い返すだけでもとても憎い。そうこの声の主こそがこの事件の黒幕、そして私が殺さなければならない人間。
「お前まさか……。莉乃兎に角ここから離れなさい」
クラクションの音が私の耳に響く。嫌に耳に残るエンジン音と、父の最後に見せた朗らかな笑顔。
私は周りが見えていなかった。
「でも……」
「・・・家の事は頼んだぞ」
思い返すとそれが最後の父の言葉、それが当主としての最後の頼み。お家という言葉が重く重く私に圧し掛かったのである。
突然車に大型トラックが衝突した。衝突してからトラックの存在を知ったのだ。
その一瞬がやけにスローモーションに感じた、音も飛散も全部。
後部座席だけがポッカリと空いている車……。
車は私の眼の前で遠くに吹き飛んだのだ。近くに居た私もその余波を受けて軽く吹き飛ばされていた。
頭がぼーっとする、こんな痛み生まれて一度だって受けたことがない。頭から血が出る怪我など一度もしたことがない。
何故だか大きな爆発音が響き、ぼやけた視界の隅でトラックと車が炎上している。私は全く以て状況が掴めていない。
そんな中私は血が流れて止まらない額を押さえながら火元に向かってよろよろと歩き始めた。 一度も受けたことなない体中を駆け巡る痛みに耐えながら私は火元に向かって懸命に歩みを進めた。
まだ父が生きているかも……。そんな淡い期待。
あの時の私はもう私の処理できること以上の現実が頭の中に流されてもう思考を止めていた。ただただ私はまだ父が生きているのではないかという僅かな希望の糸を手繰りながら前に進んでいた。
そんな事だから私は自分の身に危機が迫っている事すら気付くことが出来なかった。
突然私の口にハンカチが当てられ、抵抗する間もないく私は意識を失った。
私は無力だ……。抵抗する力はあってもそれを振りかざすことも出来ない。
振りかざすことすら恐れてしまっている。綺麗事で済ませられると信じていたのだ。
——それが私たちの家の歴史だ。そして13歳になった莉乃には渡さなくてならないものが有る。分かってるな、莉乃も私の跡を継ぎ子供が出来て13歳になったら同じようにその子にもこれを渡すように。
そしてこれは誰にも伝えてはいけないし然るべき時以外は、自分の中で大切だと思った人の為にしか人前では使ってはいけませんよ。
守れるかい?
よし分かった。今日お前に我が家の家督を譲る証である神話の剣、天之尾羽張を託す。
願わくばこの剣が今世も使われぬことを……。
今でも覚えているその剣に触れた瞬間私の心にその剣が突き刺さったという感覚。
そして今もその剣は私の心の中に存在して居る。
私は私の危機を感知していてもその剣を抜けはしなかっただろう。私は未だに甘えていた、自らが手を汚すことを恐れ、命を奪うことを躊躇っていた。
屋敷の人がどうにかしてくれる、父の部下がきっと手を貸してくれる。きっとそうであると信じていた。
しかし現実は驚くほど残酷で厳しかった。
何でも手に入っていた私が、何にでも満ち溢れた私が、ある男の手によって全てが奪われ私自身も殺され亡き者にされた。
私が望むものも、望まぬものも手にすら出来なくなってしまった。
何より私は抜け殻になってしまった。
私は逃げ出した、私は全て押し付けた。あの時から少しずつ頭から流れ落ちている血と共に私も何処かへと流れ落ちてしまっていた。
目が覚めてもこの目に光が差し込むことは無い……。というか身動きすら取れない状態であったのだ。
私はどこか知らない所で縛られていた。
暴れたが満足に動くことすら出来ない、だから叫んだ。みっともなく泣き叫びながら助けて、助けてと、同じ事しか言わない人形の如く。
私は叫び続けた……。私が父の部下の前で人質にされているとも知らずに私は命乞いを行っていた。
私のそれのせいで、忠臣であった部下たちは何もすることが出来ず、追い出され、力の持った者は殺された。
私のこの行動によって父の部下の一派の乗っ取り作戦は成功してしまった……。
そして私が彼らの枷となった。
それから私は力ずくで引っ張られとあるところに連れて来られた。そしてそこで目隠しと拘束を解かれた。
「やぁやぁこんにちは元この屋敷の主」
父のいつも座っていた椅子に部下の分際で踏ん反り替えって腰かけている奴がいた。父のお気に入りの部下の一人……。
我が家はどうも昔から部下の反乱が多い。
「土岐九十九いつも父がその仕事ぶりを褒めていたのにどうしてこんな事を」
頭がくらくらする。体から血が少し、また少しと段々と抜けていく感覚がある。正直もう倒れそうだ、倒れて楽になってしまいたかった。
眼の前の土岐は意地悪気に笑った。
「どうしてこんな事をとは愚問も愚問、私は貴方の家が欲しかったのです」
私はこの逆臣を引っ叩いてやろうと前に進もうとしたとき。
「そこまでですよ、没落貴族さん」
私と同じくらいの年の子の声が耳に響いた時にはもうその感覚はあった。私の首下に薄くて冷たい鉄が当てられた。
包み込むように私に向かって伸びてきている刃……。
「神器をどうして貴方が、何故貴方もそれを持っているの?」
「まぁだ分かってないようだね、ここはもう貴方の屋敷ではなくて、九十九様のお屋敷なのですよ。それに神器の在処も知らずにこんな事をすると思う?」
顔すら見れぬ少女は鈴のような音でケタケタと嘲るように笑った。
「私たちの方が貴方たちよりも何枚も上手だというわけだ。土岐家は戦後よりこの時を待ち望んでいたからな」
私と同じくらいの年の男が部屋に押し入ってきて九十九を守るように私の前に現れる。視界が急に降下する……。
「よせお前ら、このなぁんにも知らないお嬢様にはもう誰とも戦う力なんてものは残っちゃいない」
いつの間にか私は絨毯にペタリと座り込んでいた。 視界がぼやけてごちゃごちゃだ。頭もごちゃごちゃグルグルグルグル。
もうこれは悪い夢だとすら思っていた。
私は血と涙を流す、絶望も死も恐怖も全てを全て垂れ流していた。私と同じくらいの年の子たちのあの侮蔑的な目は未だに忘れる事が出来ない。
乞うたよ、乞うたよ、盛大に恥も、家柄も、かつての関係も忘れて私はみっともなく命乞いをした。怖かったよ、何時私の首に彼の鎌の刃先が滑り込んでくるのかが。
怯えた、怯えた。
生まれて初めての思い通りにいかなかったこと、生まれて初めての人に大切なモノを奪いとられことを。
最悪の命乞いだ。
「そうですね、私も貴方の父君には多少なりとも恩義を感じております。私が提示した条件を飲むというのなら生かすことも考えてあげましょう」
地獄に落ちて来た蜘蛛の糸に私は私の全てを託してしまっていた。
「一つ、天童家の神器の所有権を譲る事。一つ、父と同様に君は死んだとハッ評することになる、だからその天童莉乃という名を捨てろ。一つ、自分のけじめは自分でつけろ、そして最後に……」
土岐九十九はあえて話を止め私にそれを受け入れるかどうかを聞いて来た。 もうどうでもよくなっていた私は血と涙と朦朧とする意識の中で首を縦に振ってしまっていた。
この瞬間私は私という存在を捨ててしまった。 この瞬間に別の私の生きる可能性は生まれて来た、その代わりに天童莉乃は消えて無くなりそうになっていた。
最早どうでもよかった、死にたくなかった。
「全てを捨てて土岐家に、我に仕えよ」
色々な思いが頭を駆け巡ったが私はこの身を第一に置いてた。
今思えば屈辱だ、本当に屈辱感しかない……。
「分かりました……」
静かにそして物事を諦めるように私はそっと呟いた。 私は騙されたのだ。私は何もすることが出来ない。
何も知らない私は最初から最後まで奴の手の上で踊らされっぱなしだった。もしあの時私じゃなくて父が生きていたのならばきっと状況は変わっていただろう。
私があの時死んでいるべきだった。
私が死ねば良かったのに。
私が……。
「そうかならばお前に名前を与えてやらねばな……」
土岐は引き出しの中から紙とペンを取り出し、何やらそこに書き連ねている。
【明智 梨奈】
半紙の上に一際大きな字でそれは書かれていた。しかし私の眼球はぼんやりとしかそれを捉える事が出来ない。
父や部下たちの顔が私の心の中に映し出される。重しでしかない、重りでしかない。家名も家柄も歴史も伝統もその時の私の枷でしかなかった。
私があの時死んでいるべきだった。
私が死ねば良かったのに。
私が……。
父ならそんなことはせずに済んだ、私が末代なのか。私がこの家を潰すのか、私のせいで、私の弱さが原因で……。
本当に
私があの時死んでいるべきだった。
私が死ねば良かったのに。
私が……。
「天童莉乃という娘と他人だということとを証明するために自分の名前を言ってみるがいい」
土岐は悪い笑顔を此方に向けた。
震える口を、その名を認めるなと言う内なる父や部下を抑え込み僅かに口を開き息を通した。
「あけち」
土岐は机を叩いた、此方を凄い目で睨みつけながら。
「私の名は明智莉乃であります。天童莉乃とは全くもって無関係であります」
嫌いな顔、嫌いな目、嫌いな存在で目障りな眼前の男が拍手をし始めた。
視界が色を失っていっている、だが私の中の感情が、私を私足らしめている感情が色の腐敗を防いでいた。
しかし今はそれすらも失われてしまった、私には何もない、私は無力だ。
自分すらも守れないほどに無力、もうこの世に天童莉乃という人物は居なくなってしまった。
そうだ、そうだ、そうだ。天童という足枷を付けさせられた莉乃という少女はもういない、私は明智……。
ダメッ。
そんな声すらもあの時の私には聞こえていなかった。
私はいつの間にか前に倒れ込んでいた。
「手当てしてやれ」
蔑むような声がだけが私の耳の中に嫌に響くのである。
もう全部明智梨奈のせいにして天童莉乃は消えたかった。でも天童の家名がすんでのところで踏みとどまらせた。
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見えない、見えない、見えない。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈……。
動けない、もがけはすれど満足に動くことが出来ない。手が痛い、血が堰止められているこの感覚、多分縛られている?
暗い、暗い、暗い。
声すら出せない、声すら聞き取れない。私はどこかに転がされ目隠しされて軟らかいベットか何かに転がされている。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈……。
耳に直接届く声、とても恐ろし気な、とても悍ましい叫び。
イヤダ、イヤダ、イヤダ。
どれだけ心の底で拒絶しようが口は塞がれ、耳のヘットフォンのようなものからは誰かを呼んでいる声。
イヤダ、イヤダ、イヤダ。
私は必死に暴れもがき、抗った。それは天童莉乃の最後の抗いか、明智梨奈が天童家の亡霊を見てしまったからか。
手が動かない、足が動かない。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈……。
頭を地面に打ち付け、必死に私につけられたそれを外そうと抵抗する。
耳に響く声。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈……。
ジタバタと争う、抗う、諍う。
私の名前は―― あれ? 誰だったっけ?
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈……。
声が遠ざかる、これで耳障りな音が。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈
声が声が声が声が、コエガ、名前が、名前が、ナマエが
そこら中から、何処からも聞こえる、キコエル。まだあの状態の方がマシだった。
争えない、耳を閉じる事なんて出来ない。
イヤダ、イヤダ、イヤダ、イヤダ。この音を掻き消したい、鼓膜を破ってでも聞こえなくしたい。
「貴女の名前は明智梨奈。起きたみたいだねぇ」
微かに聞こえてくる少女の声、がっちりと掴まれ動けなくなる体。私の耳元で何かが囁かれている。
「アハッ、ここに私も長くいると気が狂っちゃいそうですねぇ」
誰かが私の髪を優しく撫でる。
「本当は色々とオ・ト・ナな玩具を使って快楽から逃れられないようにしたかったんですけどねぇ、もう人格とか、人間であることとかどうでも良くなっちゃうくらいに」
くるりと向きを返され顔を軟らかい地面に押し込まれる。
「でもそれだダメみたい、だからね、代わりに貴女に教えてあげるの」
何者かの手が私の体を走る。
「私ねっ、クールな女の子の仲間が欲しかったの」
耳の傍でそっとその言葉は呟かれる。
「貴女は明智梨奈、冷めた雰囲気だけど本当は私の事が大好き、俗に言うツンデレって奴だね」
何者かの手が私の脇辺りまで下りてくる。
周囲には未だに耳障りな声が響く。
「貴方の名前は明智梨奈、いいのよもう楽になっても、いいの貴方はあの目障りなお嬢様なんかじゃない、貴方は明智梨奈」
違う、私の名前は……。
あれ? 私の名前は?
「貴方の名前は明智梨奈、土岐家の部下で私の仲間、そして私の一番の友達でもある。クールでかわいくて、そしてヒトゴロシよ、冷徹で無慈悲なヒトゴロシ」
私の名前は明智、私は明智梨奈。クールで、可愛い人殺し。
あれ? 何か大切なことを忘れているような。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈
胸をまさぐられ……。
塞がれていた口が開く。
「ほら言ってごらん、貴方の名前」
「うっっ」
声が漏れる、これは本当に私の声なのか?
「わっ、私の名前は明智梨奈」
私は明智、明智は私、梨奈は明智、明智梨奈。
私はクールで、人殺しで。
——お前の名は明智梨奈、明智梨奈、明智梨奈……
「じゃぁ梨奈らしく髪は切ってあげる、私昔っからこの長い髪が嫌いだったの、切り刻んでやりたいって思ったの、梨奈は髪が短い方が似合っているよ」
胸から感じた不思議な感覚が突如として消える。
嫌な雑音だけが周囲に響く。
「怖い、怖い、こわい」
「はいはい、心配しなくても私はここにいますよぉ」
その声がしたのちにチョキンという乾いた音が耳に入る。
その瞬間自分の中の最後の線が切れた。
私は明智梨奈、土岐家の部下で目の前の誰かの友達、クールで冷徹なヒトゴロシ。
私の名前は、
明智梨奈。
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私は未だに記憶を私を失っている。正直言って過去の自分がどんなんだったかすらも思い出せない。
一応私は土岐家の部下だったらしい、全然覚えてないけど。
ここにいるのは私、私に似た誰かだが未だに何処かで名前を叫んでいる。
だがそれも誰かを基準に考えてだ、私は誰かじゃない。私は梨奈だ。
怖い怖い、と誰かは言った。
でも復讐しなけらばならないと私は誰かに言い返した。
復讐って何にだ?
痛い痛い、と誰かは言った。
でも私はやらねばならないと誰かにに優しく私は呟いた。
私は何をやらねばならないのだ。
消さないで、と誰かは泣いた。
しかし私はそれに返事をしなかった。
例え記憶がなくなったとしても、私は私自身を忘れたとしても私はここにいる。もうお前は私ではない、私の中から消えろ。
私は明智梨奈、何者でもないただの明智梨奈。
例えどこかの外に出る事が出来ない特別室で頭に包帯を巻いた私の枕もとで一日中大音量で私の名前を流されたとしても。
そうだ私は梨奈だ。
例え土岐家にに養子として迎えられたとしても。
土岐梨奈ではない、私は土岐家の部下の明智梨奈。
この手で土岐家の敵である天童家の部下を何人も殺したとしても。
何をしても私がやったこと、梨奈がやったことだ。
この手で捕獲された鬼で神剣の試し斬りをする役を仰せつかったとしても。
私は私でしかないんだ。
日々夢に誰かが出て来たとしても私は私、この世に私は一人だけだ。
あの甘ったれた少女はこの手で消した。
あの甘ったれた少女?
怖くても、手が震えても私は絶対に殺す。奪い返しはする。
――だからそれはどういう意味なんだ。
それでも無理だったらごめんなさい。お父様、おじい様、右府様、ご先祖様。自然と頭に浮かび上がるコトバ。
頭がイタイ、頭が破裂しそうだ。
しかし私は屋敷を追い出されることになるみたいだ。だが九十九様の命令、私はただその命をこなすのみ。
いつも通りの屋敷の庭で鬼の試し切りと仇人の断頭を行った後に私は九十九から呼び出されて重大な任務を受けた。
とある避難民の監視……。とは名ばかりの優秀な避難民を自分の派閥に入れ込むための捧げものな私。主命だから仕方ないと言えば仕方ない。
ただ私じゃない誰かが私を使って、勝手にその避難民の中にもし鬼が混じっていて私はそれを見つけ討ち果たしたら財産からなどはいいから家を復権させろと呟いていた。
いつの間にかだ、気が付いたらそんな言葉を口走ったあと。
家ってなんだ?
そして九十九からそれを認めて貰う言質は取った。
ただ私自身でもあの言葉には呆れている、ないモノを作り出してそれにすがっている。 時々私は私ではない時が多々ある。
何故なのだ、--は死んだはずだ。死人が勝手に私の体を使って喋ってんじゃない。
避難民が暮らしている仮設住宅街、そんなところに私は足を踏み入れた。指令の対象者を遠目から見る為に。
私は世界一不幸だ。この世に私以上の不幸な人間はいないだろう。私は記憶を失った、私は私ですらないときがある。
私は私の正体がわからない。
もし私以上の不幸な人間がいるとするならばきっと優しくすることが出来るだろう。
無性に私は誰かを優しくしたい。無性に私は私の下が欲しいんだ。
私よりも下の人間にこの複雑な気持ち全てを注いで、今の不安を掻き消したい。私は一番下で無くなりたい。優越感に浸りたい。
ただそんな人間なんてここにいない、皆逃避しきっている。
ズキッツ、この人々が誰かと重なる。
誰かのせいにして逃げだし逃避している。
私よりも絶望を見た人間なんてこの世の何処を捜しても見つける事が出来合いだろう。
私は私よりも下の人間が欲しい、ほしいほしいホシイ。
いったいこれは誰の願いなんだ? 少なくとも私では……。
私の前をとある二人組が横切った。
——いや、見つけた。
「そろそろ炊き出しが行われる時間ですね。行きますか大和」
一目見ただけで分かる。彼は私と同じ……。
いや私以上。私のこんな事なんて些細な事だと言っているようなあの目……。
きっと彼も世界に絶望したのだろう。
私なら彼を分かってあげられる、私なら貴方を。
貴方なら私を必要としてくれるはず、こんな私でも。
——私はまた新たにこの世に生を受けた。
彼に何かしてあげたい、彼を助けてあげたい。彼に何かを。彼に私の優しさを。彼の虚ろな目を、荒廃しきったその眼を私で埋めてみたい。
そうか私は梨奈にすがっていただけなのか……。梨奈に全てを押し付けて、梨奈に全てを背負わせて。
梨奈なんていないのに、梨奈を作り出して。
梨奈演じているのは楽だった。何者にも捕らわれていない、梨奈になっているのが心地よかった。
梨奈は強くて私とは全然違って、どこかで私は自分はそんな人間になったんだと暗示を……。いや本当に成りきっていた。私を忘れてしまうくらいに。
私は弱いままだ。
でもどうやらこんな小さな手でまだ全てを救おうとしている。奴に追い出された部下の為、奴に反逆して囚われこの手で討ち果たしてしまった部下の為に、もう私は私を見失わない。
きっといつか絶対に私は私の受けた苦痛を土岐家に返してやる。
草薙大和……。私は手元の資料の写真を覗きこんだ。
草薙大和、やまとやまとやまと大和大和大和、大和君。
私は貴方を。
貴方を……。
私を助けてくれたヒト、私は貴方に必要とされたい。
私は貴方を分かってあげたい。
私は貴方の特別になりたい。




