第8話:空席
地方でのミニライブは、デビューしてから初めての遠征だった。
雨月翼たちは、朝早くにバンで寮を出発し、電車を乗り継いで、東京から少し離れた街の小さなホールへと向かった。
車窓を流れる景色は、少しずつ緑が増えていった。マンションの数が減り、田んぼや畑が目立つようになる。
「なんか、修学旅行みたいだね」
千里が、窓に頬杖をつきながら言った。
「遠征って言うほど遠くないけどね」
玲香が、苦笑いしながら答える。
「それでも、東京離れるの、初めてじゃない? 仕事で」
「言われてみれば」
千里は、少し嬉しそうに頷いた。
「思ったより、こぢんまりしてるね」
控室に入るなり、桃花がそう呟いた。
会場は、デビューイベントで使ったライブハウスよりもさらに小さい。それでも、翼にとっては、東京を離れて初めての「外の世界」だった。
控室の隅では、理沙が、移動中の車内で解けなかった問題集を、まだ開いていた。
「理沙、休憩中まで勉強?」
「移動時間、けっこう長かったから。遅れを取り戻さないと」
理沙は、そう言いながらも、視線はまだ問題集に落としたままだった。
その隣では、灰原楓が、いつものノートを広げていた。
「楓は、何を書いてるの?」
「今日の会場のこと。天井の高さとか、控室の広さとか」
「そんな細かいことまで?」
「東京と地方だと、空気の質感が違う気がして。あとで見返すと、面白いから」
楓は、そう言って、また鉛筆を走らせた。
*
開演前、舞台袖から客席をそっと覗いた翼は、思わず息を呑んだ。
客席の後方、そして左右の端に、明らかな空席がある。
前の三列だけは、埋まっていた。その後ろから、急に椅子の色が目立ち始める。人のいない座面の色は、埋まっている場所よりも、ずっと目に焼きついた。
満席にはほど遠かった。
舞台袖の奥から、スタッフ同士の会話が、途切れ途切れに聞こえてきた。
「今日、どれくらい入りました?」
「百二十くらいです」
「キャパ二百五十ですよね」
「まあ、地方一発目だから。こんなものかと」
その数字が、翼の耳に、はっきりと残った。
二百五十席のうち、百二十席。
半分にも届いていない。
オリコンでは一位を獲った。それなのに、目の前の現実は、その数字とはまるで結びついていなかった。
「……空いてるね」
隣に立っていた黒瀬が、小さく呟いた。
「うん」
「東京のときより、全然」
黒瀬の声に、落胆の色が滲んでいた。
翼にも、同じ気持ちがあった。オリコンでは一位を獲った。それでも、この街では、まだ誰も自分たちを知らない。
その事実が、空席という分かりやすい形で、目の前に広がっていた。
舞台袖には、他のメンバーも、一人また一人と集まってきていた。
「……思ったより、少ないね」
桃花が、いつもの明るさを少しだけ落として呟いた。
才賀奏は、何も言わず、ただ静かに客席を見つめていた。その横顔には、悔しさよりも、確かな決意のようなものが見えた。
「これも、記録しておかないと」
灰原楓が、そっとノートを開き、客席の見取り図を描き始めていた。座席の列を線で表し、人が座っている場所には、小さく丸をつけていく。
「記録して、どうするの?」
千里が、小声で尋ねる。
「今との差が分かるように。いつか、この空席が埋まったときに、比べられるように」
楓の静かな言葉に、千里は、何も言えなくなった。
楓の手元では、空席の部分に、うっすらと斜線が引かれていく。
その図を、翼は、しばらく見つめていた。
空いている場所の方が、埋まっている場所より、ずっと広い。
その事実を、紙の上で見ると、口で言う何倍も、重く感じられた。
少し離れた場所では、美咲が同じ客席を見つめていた。
「美咲ちゃんも見てた?」
「うん」
美咲は、静かに頷いた。
「悔しいけど、これが今の私たちの実力だから」
その声には、落胆よりも、現実を受け止めようとする強さがあった。
「でも、今日来てくれた人には、絶対後悔させない。それだけ」
その一言に、翼は、少しだけ背筋が伸びる思いがした。
*
サウンドチェックのため、一度全員がステージに上がった。
「マイクの返り、ちょっと小さいかも」
美咲が、スタッフに向かって声をかける。地方の会場は、東京のように設備が整っているとは限らなかった。
「音響さん、頑張ってくれてるみたい」
千里が、スピーカーの方を見ながら言った。
小さなステージの上、十一人が横一列に並ぶと、それだけで、ほとんど余白がなくなった。
「窮屈だね」
「でも、これはこれで、なんか近く感じる」
桃花の言葉に、何人かが頷いた。
東京の大きな会場とは違う、この距離の近さもまた、今日という日の特別さの一つだった。
サウンドチェックが終わったあと、翼は、舞台袖で一人、発声練習をしている白峰の姿を見かけた。
「白峰さん、まだ練習してるんですか?」
「うん。地方の会場だと、音の響き方が違うから。少しでも慣れておきたくて」
白峰は、そう言いながらも、手を止めなかった。
空席がどれだけあっても、白峰の姿勢は、いつもと変わらなかった。
その姿を見て、翼は、少しだけ勇気をもらった気がした。
*
それでも、本番が始まれば、全力を出すしかなかった。
埋まっている席の分だけ、精一杯届けよう。翼はそう自分に言い聞かせながら、ステージに上がった。
照明が点くと、空席の存在は、意外なほど気にならなくなった。目の前にいる一人ひとりの顔の方が、ずっと鮮明に見える。
空席は、確かにあった。
それでも、埋まっている席からは、確かな声援が届いていた。
小さな会場だからこそ、その声はよく響いた。誰かの拍手の音、誰かの掛け声、誰かが曲に合わせて口ずさむ声。東京の大きな会場では気づけなかった、一人ひとりの気配を、翼は肌で感じた。
白峰の一挙手一投足に沸く声。才賀奏の歌声に息を呑む気配。そして――。
「琴葉ちゃーん!」
客席の一角から、そんな声が上がった。
黒瀬が、一瞬だけ動きを止めた。すぐに、また振り付けに戻る。それでも、翼には分かった。今の一瞬で、黒瀬の中の何かが変わったことが。
*
終演後、物販とミニ握手会が行われた。
長い列ができたのは、やはり白峰の前だった。それでも、黒瀬の前にも、数人が並んでいた。
翼の前にも、ぽつぽつと人が並んでくれた。多くはなかったが、一人ひとりが、ちゃんと言葉をかけてくれた。
「遠くから来た甲斐があったよ」
「今日、めちゃくちゃ良かったです」
その一つひとつに、翼は精一杯の言葉を返した。数の多さでは測れない何かが、その短いやり取りの中にはあった。
理沙の前には、一人の中学生くらいの女の子が立っていた。
「理沙さん、勉強と両立してるって、雑誌で読みました。私も受験生で、勇気もらいました」
「……ありがとう。お互い、頑張ろうね」
理沙は、いつもの淡々とした口調の中に、確かな温かさを滲ませて答えた。
「今日も来たよ」
一人の女性が、黒瀬に声をかけた。
「……今日も、ですか?」
「うん。前回の東京のイベントも行ったから」
黒瀬は、少し戸惑ったように瞬きをした。
「琴葉ちゃんの声を聴きたくて。CDだと分からない部分まで、生だとちゃんと届くから」
その一言に、黒瀬は、何と返せばいいのか分からない様子だった。
「……ありがとう、ございます」
やっと絞り出した声は、いつもより小さかった。
女性が列を離れていったあとも、黒瀬はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
翼は、少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
どう反応すればいいか分からない。黒瀬の背中が、そう語っているように見えた。
*
帰りのバンの中、窓の外を流れる景色を眺めながら、桃花がぽつりと言った。
「空席、悔しかったね」
「うん」
翼は、素直に頷いた。
「でもさ」
桃花は、少し身を乗り出した。
「次来たときは、全部埋めようよ」
その言葉に、根拠はなかった。ただの願望に近い、桃花らしい前向きさだった。
それでも、翼の胸には、その一言が、まっすぐに響いた。
「うん。埋めよう」
隣に座っていた黒瀬が、小さくそう呟いた。
翼は、驚いて黒瀬を見た。
黒瀬は、窓の外を見つめたまま、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「次は、埋めよう」
その声には、迷いがなかった。
今日、大きな声で名前を呼ばれた黒瀬。何度も足を運んでくれる人がいると知った黒瀬。
その黒瀬が、今、確かに前を向いている。
翼は、その横顔を見つめながら、静かに思った。
この空席は、いつか、埋まる日が来る。
根拠はまだ、どこにもない。
それでも、今日という日が、その始まりの一つになる気がした。
バンの窓の外には、来たときと同じ田園風景が流れていた。行きに見たときよりも、その景色は、少しだけ違って見えた。
次にこの街に来るとき、この座席は、どうなっているだろう。
翼は、その答えをまだ知らない。
それでも、今は、その日を思い描くことができた。
バンの前方の座席では、美咲が、今日の反省点を静かにノートにまとめていた。
「美咲ちゃん、まだ仕事してるの?」
翼が声をかけると、美咲は顔を上げた。
「今日の空席のこと、ちゃんと記録しておこうと思って。次に活かせるように」
「そんなことまで、美咲ちゃんがやってるんだ」
「誰かがやらないといけないから」
美咲は、そう言って、小さく笑った。それでも、その表情には、疲れよりも、確かな使命感が見えた。
*
撤収作業のため、翼は、一度だけ、誰もいなくなった客席に戻る機会があった。
さっきまで人がいた席も、いなかった席も、今はもう、同じように空っぽだった。
それでも、翼には、どの席に誰が座っていたか、まだ何となく覚えていた。
今日、埋まっていた場所を、覚えておこう。
翼は、そう思いながら、もう一度、客席をゆっくりと見渡した。
いつか、この景色が、丸ごと違って見える日が来る。
根拠のない予感だったけれど、翼は、それを信じることにした。




