第7話:誰も知らない
デビューから、一ヶ月が経った。
雨月翼は、その実感のなさに、正直なところ戸惑っていた。
発売記念イベントの熱気は、まだ身体のどこかに残っている。名前を呼ばれた喜びも、握手会で交わした言葉も、色褪せてはいない。
レッスンのスケジュールは、相変わらず詰まっていた。新しい振り付け、次のシングルに向けた発声練習、そして週に数回のメディア対応。忙しさだけで言えば、デビュー前と何も変わらない。
それなのに――。
朝、目覚まし時計で起きる。洗面所に並ぶ。レッスン着に着替える。ストレッチをする。
その一つひとつの動作は、デビュー前と、何一つ変わっていなかった。
翼は、ふと、そのことに気づいて、少し戸惑った。
デビューという大きな出来事を経たはずなのに、朝の景色は、驚くほど同じだった。
*
休みの日、翼は理沙と二人で、駅前まで買い出しに出た。
寮の消耗品を買うだけの、ただの外出だった。それでも、久しぶりに私服で街を歩くのは、どこか新鮮だった。
人混みの中を歩く。誰も、振り返らない。
当たり前だ、と頭では分かっている。それでも、心のどこかで、少しくらい気づかれるのではないかと思っていた自分がいたことに、翼は気づいた。
「理沙、なんか変な感じしない?」
「変って?」
「誰にも、気づかれないの」
理沙は、少し考えるように歩調を緩めた。
「気づかれる方が、むしろ変だと思うけど」
「そうなんだけど」
「デビューしたからって、いきなり有名になるわけじゃないでしょ」
理沙の言葉は、いつも通り現実的だった。分かっていたはずなのに、改めて言われると、少しだけ胸の奥が冷えた。
信号待ちのあいだ、翼は周囲を見渡した。
スーツ姿の会社員。学生服の集団。ベビーカーを押す母親。誰もが、自分の生活の中を歩いている。
その誰にとっても、翼たちは、まだ「知らない誰か」でしかなかった。
*
駅前のCDショップに、二人は何気なく立ち寄った。
入口を入ってすぐの新譜コーナー。翼は、思わず足を止めた。
「……あった」
平積みにされた自分たちのCDの上に、小さなポップが立てられている。
『オリコン週間シングルランキング 1位!』
「本当だ」
理沙も、驚いたように覗き込んだ。
「サニーグループって、やっぱりすごいんだね。新人であれだけ動かせるんだ」
「そう、なんだろうけど……」
翼は、周囲を見渡した。
同じ棚の前を、何人もの客が通り過ぎていく。誰も、足を止めない。ポップに書かれた順位にも、ジャケットの十一人の顔にも、視線一つ向けない。
オリコン一位。数字の上では、紛れもない結果だった。それなのに、この場所にいる誰一人として、翼たちの存在に気づいていない。
「売れてるはずなのに、誰も知らない」
翼が呟くと、理沙は少し考えるように黙った。
「たぶん、買ってくれてるのは、もう応援してくれてる人たちなんだと思う。握手会に来てくれる人とか」
「そっか……熱心な人には届いてるけど、それ以外には、まだ」
「うん。数字と、知られてることは、別なんだよね、たぶん」
理沙の言葉に、翼は小さく頷いた。
棚の隅ではなかった。むしろ、良い場所に置かれていた。それでも、翼たちの顔は、まだこの街の誰にも覚えられていない。
悔しさとも違う、不思議な感覚だった。結果は出ている。なのに、実感だけがどこにもない。
そのとき、一人の女性客が、新譜コーナーに近づいてきた。
翼は、思わず身構えた。
もしかしたら、手に取ってくれるかもしれない。
その期待は、一瞬で消えた。
女性は、翼たちのCDの隣に並んでいた、別のアーティストの新譜を手に取り、そのままレジへと向かっていった。
翼たちのCDには、目もくれなかった。
ジャケットには、確かに翼がいる。十一人全員の顔が、そこにある。
それでも、誰も気づかない。
店を出ると、駅前の大型ビジョンに、有名アイドルグループの新曲のCMが流れていた。
道行く人が、次々と足を止める。
「あ、これ知ってる」
「新曲出たんだ」
そんな声が、あちこちから聞こえてきた。
翼は、思わず振り返った。
さっきまでいた、あのCDショップの入口が見える。
そこには、もう誰もいなかった。
*
寮に戻ると、共有スペースに、何人かが集まっていた。
「ただいま」
「お帰り」
桃花が、いつもの調子で声をかけてくる。
山田が用意してくれた夕食には、大きなエビフライが並んでいた。
「桃花、尻尾食べないんだ」
千里が、桃花の皿を覗き込んで言った。
「アイドルだから」
「なにそれ、理由になってない」
「殻、口の中に残るの苦手なの!」
「私は食べるけどね。栄養あるし」
千里が、器用に尻尾までかじる。
「どうだった、買い出し?」
「うん……あ、そういえば」
理沙が、ご飯を一口食べて、ふと呟いた。
「このお米、美味しい」
「山田さん、新潟のお米使ってるって言ってた」
美咲が答える。
翼は、駅前のCDショップでの出来事を、なんとなく話した。
オリコン一位のポップが立っていたこと。
それでも、誰も足を止めなかったこと。
「あー、それ分かる」
千里が、あっさりと言った。
「地元の友達に『オリコン一位だったんだよ』って伝えたら、『すごいじゃん、テレビとか出てるの?』って聞かれて。出てないって言ったら、なんか微妙な空気になった」
「なんか、地味にきつい質問だね、それ」
玲香が、苦笑いする。
「オリコン一位って、普通に考えたらすごいことなんでしょ?」
千里が、少し不思議そうに言う。
「うん。サニーさんの規模だから、っていうのも大きいと思うけど」
玲香が答える。
その空気を見かねたように、美咲が口を開いた。
「数字はちゃんと出てる。それは事実。あとは、その数字を、顔と名前まで知ってもらうことに変えていく段階なんだと思う」
「美咲ちゃん、冷静」
「冷静というか、当たり前のことを言ってるだけ」
美咲は、そう言いながらも、少しだけ笑った。
その一言に、翼は、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「そうだよね。まだ一ヶ月だもんね」
桃花が、うんうんと頷く。
「私たち、まだ始まったばっかりだし」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
*
食事のあと、翼は、理沙が受験勉強をしているのを見かけた。
「理沙、模試の結果、どうだった?」
「悪くはなかった。でも、まだ油断できない」
理沙は、いつもの淡々とした口調でそう言った。
「アイドル活動しながら、よく両立できるね」
「時間の使い方が上手くなっただけだよ。移動時間も、全部勉強に使ってる」
その徹底ぶりに、翼は、改めて感心した。
「理沙にとって、アイドルって何なの?」
翼が、ふと尋ねると、理沙は少し考えてから答えた。
「証明したいことがあるの。勉強もアイドルも、どっちも諦めなくていいんだって」
その言葉には、静かな決意が込められていた。
*
夕食のあと、誰かがスマートフォンで、配信サイトのランキングを開いていた。
「見て見て、これ」
声を上げたのは玲香だった。画面を覗き込むと、暁ノ柱の名前が、ジャンル別ランキングの下の方に載っている。
「二百位くらい?」
「うん。でも、先週は三百位台だったから、上がってる」
「オリコンは一位なのに、配信だとこんなものなんだね」
翼が呟くと、玲香は小さく頷いた。
「CD買ってくれる人と、配信で聴く人って、たぶん層が違うんだと思う。まだ、応援してくれてる人の外側には届いてない、ってことなのかな」
「それ、誰かが定期的にチェックしてるの?」
翼が尋ねると、玲香は少し得意げに頷いた。
「毎日見てるよ。伸びてるとテンション上がるから」
少し離れた場所では、灰原楓が、静かにノートを開いていた。
「楓、また書いてるの?」
「うん。今日のランキング、あとで見返せるように」
「そんな細かい数字まで?」
「数字は、そのときの気持ちより正確だから」
楓は、そう言って、また鉛筆を走らせた。
オリコン一位と、配信ランキング二百位。同じグループの、同じ一週間の結果とは思えないほど、数字の顔つきが違っていた。それでも、先週より順位が上がっているという事実は、翼の中に、小さな灯りのように残った。
*
白峰は、その輪から少し離れた場所で、静かに夕食の片付けを手伝っていた。
「白峰さんは、ランキングとか気にならないの?」
翼が声をかけると、白峰は手を止めた。
「気になるよ。ただ、数字を見て落ち込む時間があったら、次のレッスンをした方がいいと思ってる」
「……ストイックだね」
「そういうわけでもないけど」
白峰は、少しだけ困ったように微笑んだ。
「みんなが数字を見て盛り上がってるの、私は好きだよ。ただ、自分は違う関わり方をしてるだけ」
その言葉に、翼は小さく頷いた。十一人いれば、同じ現実への向き合い方も、十一通りあるのかもしれない。
*
その夜、翼は自室で、レッスンの復習をしながら、今日一日のことを思い返していた。
オリコン一位という結果。
それでも、誰も足を止めなかった、駅前のCDショップ。
千里の、友達との気まずいやり取り。
悔しいというよりも、翼はただ、事実を一つ知っただけのような気がしていた。
結果を出すことと、誰かに知られることは、イコールではない。
その当たり前のことを、翼は今日、初めて実感として飲み込んだ。
思えば、今日という一日も、いつもと同じように過ぎていった。レッスン、食事、それから今日みたいな発見。
デビューは、何か特別な魔法のように、生活を一変させてはくれなかった。
変わるのだとしたら、それは、こうした一日一日の積み重ねの先にしかない。
翼は、そのことを、少しずつ理解し始めていた。
握手会で名前を呼んでくれた人。
小学生の女の子。
あの声は、確かに本物だった。
でも、それはまだ、ほんの少数の人たちだけが知っている事実だった。
世界は、翼たちのことを、まだほとんど知らない。
窓の外には、無数の明かりが瞬いていた。
その一つひとつの下に、まだ自分たちを知らない誰かがいる。
――なら、これから知ってもらえばいい。
翼は立ち上がり、もう一度、振り付けの確認を始めた。




