第6話:まだまだ強くなる
デビューシングルの発売から、二週間が経った。
この日は、発売記念イベントの最終日だった。会場は、デビューイベントと同じライブハウス。けれど、そこに漂う空気は、あのときとは少しだけ違っていた。
「今日で、最後だね」
控室で、桃花がぽつりと呟いた。
「発売記念イベントの、ね」
翼が答えると、桃花は小さく頷いた。
「なんか、寂しいような気もする」
「まだ始まったばかりだよ」
「そうなんだけどさ」
桃花は、鏡の中の自分を見つめた。
「この二週間、あっという間だったなって」
翼にも、同じ感覚があった。
発売初日。握手会。ミニライブ。トークイベント。慌ただしい日々が、あっという間に過ぎていった。
発売初日は、朝から寮全体が浮足立っていた。山田が、玄関先に「祝・デビューシングル発売」と書かれた小さな紙を貼ってくれていたのを、翼は今でも覚えている。
「これ、山田さんの手作り?」
「うん。裏に、みんなの似顔絵も描いてあるよ」
桃花が嬉しそうに紙を裏返すと、十一人分の、お世辞にも上手とは言えない似顔絵が並んでいた。それでも、誰も文句は言わなかった。
寮に戻る時間も、日によってはバラバラだった。それでも、誰かしらがリビングにいて、その日あった出来事を話す時間だけは、欠かさず続いていた。
この二週間で、翼にとって一番忘れられないのは、三日前の握手会だった。
デビューに合わせて公開されたインタビューでは、翼が学校に通えなかった時期についても、短く触れられていた。
長い列の中に、小学生くらいの女の子がいた。母親らしき人に手を引かれ、緊張した様子でブースの前に立った。
「翼ちゃん、大好きです」
小さな声だった。
「ありがとう。お名前、聞いてもいい?」
「……なお、です」
女の子は、少しはにかみながら答えた。
「私も、学校あんまり好きじゃなくて……でも、翼ちゃんが頑張ってるの見て、私も頑張ろうって思いました」
その一言に、翼は、一瞬、言葉を失った。
まさか、自分の過去が、誰かの力になるなんて、考えたこともなかった。
「……ありがとう。私も、頑張るね」
それだけ言うのが精一杯だった。女の子が列を離れたあとも、翼はしばらく、その場から動けなかった。
あの日、面接室で「学校に行きたくないから」と俯きながら答えた自分。
あの頃の自分が、誰かの力になる日が来るとは、想像もしていなかった。
*
控室の隅、誰も見ていないと思っているのか、美咲がスケジュール表を前に、小さくため息をついていた。
「美咲ちゃん、大丈夫?」
翼が声をかけると、美咲は慌てたように表情を戻した。
「あ、うん。大丈夫」
「疲れてる?」
「ちょっとだけ。この二週間、移動と調整ばっかりで」
美咲は、正直にそう答えた。
「でも、みんなの前では、あんまり見せたくないから」
「無理しなくていいのに」
「無理はしてないよ。ただ、キャプテンが疲れた顔してたら、みんな不安になるでしょ」
その言葉に、翼は何も言えなくなった。
美咲が背負っているものの重さを、翼は改めて実感した。
「大丈夫、練習通りやれば大丈夫だから」と、いつも誰かに声をかけている美咲自身は、誰にそう言ってもらっているのだろう。
「私が言うから」
翼は、思わずそう口にした。
「え?」
「美咲ちゃんも、大丈夫だよ」
美咲は、少し驚いたように翼を見て、それから小さく笑った。
「……ありがと」
その一言だけで、翼は、少しだけ役に立てた気がした。
*
少し離れた場所では、黒瀬が一人、飲み物を口に運んでいた。
「黒瀬」
「……何」
「今日で最後だね、発売記念」
「うん」
黒瀬は、いつも通り短く答えた。
「この二週間、どうだった?」
黒瀬は、しばらく考えるように黙っていた。
握手会のたび、翼は、それぞれの列の長さを、なんとなく目に入れてしまっていた。
白峰の列は、いつも一番長い。桃花や奏の列も、それなりに伸びている。翼と黒瀬の列は、その隣で、いつも数人ほどだった。
誰かと比べて、悔しいと思っているわけではなかった。それでも、その差は、見ないようにしていても、自然と目に入ってしまう。
「……握手会、私のところに来てくれる人、少ないかなって思ってた」
「そうなの?」
「うん。でも」
黒瀬の口元が、わずかに緩んだ。
「毎回、ちゃんと数人は来てくれた。同じ人が、二回目も来てくれたこともあって」
「よかったじゃん」
「うん」
その返事には、これまでのような投げやりさがなかった。
「デビューイベントのとき、名前呼ばれたの覚えてる?」
「覚えてる」
「あのときの人、また来てくれたんだよね」
黒瀬の声が、少しだけ弾んでいた。
「私のこと、覚えててくれたんだって思ったら……なんか、変な感じだった」
「変って?」
「嬉しいのに、慣れてなくて。どうしたらいいか分からなかった」
翼は、その言葉に、静かに頷いた。
黒瀬の中で、確かに何かが変わり始めている。翼には、それがはっきりと分かった。
*
開演前、美咲が、全員に向けて声をかけた。
「最後のイベントだから、今日は特に気合入れていこう」
「はーい!」
真っ先に返事をしたのは、桃花だった。
全員の顔つきが、初めてのデビューイベントのときとは違っていた。緊張よりも、確かな手応えのようなものが見える。
*
最後のイベントは、これまでで一番大きな声援に包まれた。
翼は、ステージの上から客席を見渡した。
デビューイベントのときよりも、明らかに顔ぶれが増えている。何度も足を運んでくれている人の顔を、少しずつ覚え始めていた。
センターに立つ白峰の姿は、あの日よりもさらに堂々として見えた。緊張で震えていた手は、もうどこにもない。
黒瀬は、後列で、以前よりも大きく口を開けて歌っていた。声援に向かって、小さく手を振る仕草も、初めて見せていた。
才賀奏の歌声は、この二週間でさらに磨きがかかっていた。
桃花は、いつもの笑顔で、客席の隅々にまで視線を送っていた。
最後の曲を歌い終えたとき、翼の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
悲しいわけではない。
ただ、ここまで来られたことが、信じられなかった。
客席の中に、あの日握手をした女の子の姿を探した。見つけられるはずもないと分かっていても、目が勝手に動いた。
どこかにいるかもしれない。
この声援の中に、あの子の声も混ざっているかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥が熱くなった。
*
イベント終了後、バックステージには、これまでで一番大きな拍手が響いた。
全員が、汗だくのまま、互いの労をねぎらい合った。
「お疲れさまー!」
「今日、最高だったね!」
賑やかな声が飛び交う中、美咲が、少しだけ声を張った。
「みんな、ちょっと聞いて」
その声に、全員が自然と静まった。
翼は、この二週間を振り返った。
握手会で交わした、たくさんの短い言葉。名前を呼ばれるたびに感じた、くすぐったいような喜び。そして、あの女の子の一言。
十一人は、確かに、少しずつ前に進んでいた。
それでも、その進み方は、全員が同じ速度というわけではなかった。
白峰は、もう何歩も先を歩いているように見える。桃花や奏も、着実に自分の場所を広げている。翼と黒瀬は、まだ、その一歩を確かめている段階だった。
それは、悔しさというよりも、翼にとって、初めて実感する現実だった。
売れるということは、十一人が同時に、同じ速度で進むことではないのかもしれない。
美咲は、一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡した。
「オーディションから、ここまで、本当にあっという間だった」
声が、静かに響く。
「まだ全然だと思う。私たちの名前を知らない人の方が、ずっと多いし」
誰も、否定しなかった。それが、今の自分たちの現実だと、全員が分かっていた。
「でも、ここまで来られたんだから。これからもっと強くなれると思う」
美咲は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「十一人で、頑張ろう」
その言葉が、静かな控室に響いた。
誰かが、小さく拍手をした。それが、すぐに全員の拍手へと広がっていく。
黒瀬は、しばらく黙ったまま、やがて小さく呟いた。
「……うん。頑張る」
その一言に、これまでの「どうせ」は、もうどこにもなかった。
翼は、心の中で、その言葉を少しだけ言い換えた。
――まだまだ強くなる。
デビューは、ゴールではなかった。むしろ、ここからが本当の始まりなのだと、翼にも分かり始めていた。
拍手の音が響く狭い控室に集まる、まだ駆け出しのアイドル十一人。
*
控室を出て、寮への道すがら、翼は車窓から見える街の明かりを、ぼんやりと眺めていた。
隣に座っていた理沙が、ふと口を開いた。
「今日で、一区切りって感じがするね」
「うん。デビューから発売記念まで、ずっと走り続けてた気がする」
「これから、どうなっていくんだろう」
理沙の問いかけに、翼は、しばらく考えた。
「分からないけど、悪い方には進まない気がする」
根拠のない自信だった。それでも、この二週間で積み重ねてきたものを思うと、自然とそう思えた。
「私は、これからも受験勉強、続けないといけないんだけどね」
理沙が、少し苦笑いしながら言った。
「大変そう」
「大変だよ。でも、辞めるつもりはない。どっちも、私の一部だから」
その言葉に、翼は、深く共感した。




