第5話:初めての客席
デビューイベントの会場は、都内のライブハウスだった。
武道館でもホールでもない。それでも、翼にとっては十分すぎるほど大きな場所に見えた。
一週間前、十一人のメンバー写真とプロフィールが、公式サイトで一斉に公開されていた。名前、簡単な経歴、そして一人ひとりの一言コメント。翼のページにも、拙いなりに考えた言葉を載せてもらった。
当日の朝、寮の共有スペースには、いつもと違う緊張感が漂っていた。
「今日、寮母さんが早起きしてお弁当作ってくれたんだって」
姫野桃花が、テーブルの上の弁当箱を見て声を上げた。
「験担ぎだって。山田さん、張り切ってたよ」
二階堂理沙が、いつもより少し早口に言う。彼女も、いつもの落ち着きの中に、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「勝負飯って感じ?」
深海千里が、弁当箱を覗き込んで言った。
「験担ぎと勝負飯は、たぶん別のジャンルだと思う」
涼宮玲香が、冷静に突っ込む。
朝食を口に運びながらも、誰もがどこか上の空だった。
開演の一時間前。バックステージには、独特の緊張が張り詰めていた。
「……緊張する」
翼は、鏡に映る自分の衣装姿を見つめながら呟いた。
初めて袖を通す、揃いの衣装。鏡の中の自分が、少しだけ知らない誰かのように見えた。
「私も」
隣で衣装を整えていた黒瀬が、小さく頷いた。
「でも、ツバサよりはマシだと思う」
「なんで?」
「ツバサ、顔死んでるもん」
「え」
翼は慌てて自分の顔を鏡で確認した。黒瀬が、珍しくくすりと笑う。
「冗談。ちゃんと可愛いよ」
「からかった?」
「ちょっとだけ」
軽口のやり取りが、少しだけ緊張をほぐしてくれた。
少し離れた場所では、深海千里が、何度も自分の衣装の裾を引っ張っていた。
「なんか、落ち着かない……」
「似合ってるよ、千里」
涼宮玲香が、鏡越しに声をかける。
「玲香は落ち着いてるね」
「落ち着いてるように見えるだけ。内心バクバクだよ」
玲香は、そう言いながらも、いつもと変わらない堂々とした佇まいだった。
灰原楓は、鏡の前で自分の衣装を確認したあと、そっとノートを閉じてバッグにしまった。今日は、さすがに書く時間もないようだった。
スピーカーから、開場を知らせるアナウンスが微かに聞こえてきた。客席側の扉が開く音、続いて、たくさんの足音。
翼は、その音を聞くだけで、心臓が跳ねるのを感じた。
――本当に、今日、始まるんだ。
これまで練習してきたことが、頭の中で早送りのように蘇る。何度も間違えたステップ。何度も指摘された発声。そのすべてが、あと数十分後には、目の前の客席に向けて放たれる。
*
「五分前です」
スタッフの声が、控室に響いた。
全員が、一斉に姿勢を正す。
翼は、そっと周囲を見渡した。
白峰は、鏡の前で静かに深呼吸をしている。いつもと変わらない静けさだが、その手が、わずかに震えているのを翼は見逃さなかった。
才賀奏は、目を閉じて何かを口の中で繰り返している。おそらく、歌詞の確認だろう。
キャプテンの神楽美咲は、一人ひとりに声をかけて回っていた。
「大丈夫、練習通りやれば大丈夫だから」
「うん」
「緊張してるのは、みんな同じだから」
その言葉に、何人かの表情が少し緩んだ。
美咲は、翼のところにも来て、両肩に軽く手を置いた。
「翼、大丈夫?」
「……たぶん」
「たぶんでいいよ。本番まで、まだ少し時間あるから」
その一言で、翼は少しだけ肩の力が抜けた気がした。
美咲は、そのまま隣の理沙のところへ移動していく。理沙は、いつもと変わらない顔をしていたが、指先だけが小さく震えていた。
「理沙は、緊張してないみたいに見えるけど」
「してるよ、普通に」
「そうは見えない」
「見せないようにしてるだけ」
その言葉に、美咲は小さく笑った。
星野陽菜は、緊張している様子のメンバーを見つけては、さりげなく話しかけて回っていた。
「大丈夫だよ、みんなで一緒だから」
その声のかけ方は、美咲とは少し違う。指示ではなく、寄り添うような温度があった。
桃花は、いつもより口数が少なかった。それでも、翼と目が合うと、いつもの笑顔を作ってみせた。
「頑張ろうね、ツバサ」
「うん」
翼は、頷いた。
これから、初めてお客さんの前に立つ。
その事実が、今更のように重くのしかかってきた。
*
「本番、一分前です」
声が響く。
全員が、舞台袖に移動する。
幕の向こうから、微かにざわめきが聞こえた。
人の声。人の気配。
翼は、これまで感じたことのない緊張に包まれた。
オーディションのときとは違う。あのときは、審査員だけを相手にしていた。
今は、違う。
自分たちを見るために、わざわざ足を運んでくれた人たちがいる。
「大丈夫」
隣に立つ黒瀬が、小さく呟いた。
誰に向けての言葉かは分からなかった。自分に言い聞かせているようにも、翼に言っているようにも聞こえた。
「大丈夫だよ」
翼も、同じ言葉を返した。
幕が上がる合図が、静かに響いた。
*
照明が点いた瞬間、視界が真っ白になった。
次の瞬間、目の前に広がっていたのは、想像していたよりもずっと近い距離にある、たくさんの顔だった。
声援が、身体全体を包む。
翼は、一瞬、頭が真っ白になった。
けれど、身体は覚えていた。
何度も何度も繰り返した振り付け。
音楽が鳴り出した瞬間、自然と足が動いた。
センターに立つ白峰が、最初の一歩を踏み出す。
その姿は、これまで見てきたどのレッスンよりも、輝いて見えた。
緊張していたはずの震えは、もうどこにもなかった。まるで、この場所に立つために生まれてきたかのように、白峰はステージの中央で光を放っていた。
中列では、玲香が堂々とした表情で客席を見渡し、理沙の動きには、いつもの練習と変わらない正確さがあった。後列では、千里が緊張を隠しきれないまま、それでも懸命に振り付けをこなしていた。
翼は、後列から、必死にステップを踏んだ。
間違えたら終わりだ、という緊張は、いつしか別の感覚に変わっていた。
――楽しい。
その感覚に、翼自身が一番驚いていた。
声援が、自分に向けられている。
顔も名前も知らない誰かが、自分たちのために、ここに来てくれている。
その事実だけで、身体の奥から熱いものが込み上げてきた。
二曲目、サビ前の間奏で、才賀奏の歌声が一人、静かに響いた。
振り付けの手を止め、ただ声だけで空間を満たすパート。
客席が、一瞬、静まり返った。
その静けさの中に、才賀奏の声だけが通っていく。
翼は、その瞬間、レッスン室で初めて聴いたときと同じ感覚を思い出した。
この人の声は、届く場所が違う。
曲が再び動き出すと、客席から、大きな歓声が上がった。
黒瀬は、後列で、まだぎこちない動きのまま、それでも懸命に手を伸ばしていた。何度も練習した振り付けなのに、本番の客席の熱量は、練習とはまるで違う圧を持っていた。
翼は、隣の黒瀬をちらりと見た。
黒瀬は、客席の一点を見つめたまま、一瞬だけ動きを固くしていた。誰かと目が合ったのかもしれない。
けれど次の拍には、また懸命に腕を伸ばしていた。
*
MCコーナーでは、美咲が中心となって進行を務めた。
「今日は、来てくれて本当にありがとうございます!」
その声には、練習のときには聞いたことのない力強さがあった。
客席から、大きな拍手が返ってくる。
翼は、その光景を、ステージの端からじっと見つめていた。
――この人がキャプテンで、本当によかった。
改めて、そう思った。
自己紹介のコーナーでは、一人ひとりに小さな歓声が上がった。
「白峰美鈴です」
その名乗りの瞬間、客席から、これまでで一番大きな歓声が上がった。白峰は、小さく微笑んで一礼しただけだったが、それだけで十分だった。
「才賀奏です」
落ち着いた声が、マイクを通してよく響いた。歌声とはまた違う、静かな存在感があった。
他のメンバーの名乗りにも、それぞれ声援が返っていく。誰の声も、決して小さくはなかった。それでも、その大きさには、はっきりとした違いがあった。
「雨月翼です! よろしくお願いします!」
翼が名乗った瞬間、思いがけず、大きな声援が返ってきた。
小さな驚きと、それ以上の喜びが胸に広がる。
――私の名前を、呼んでくれる人がいる。
その事実が、これまでのどんな言葉よりも、翼の心に残った。
黒瀬の番になると、彼女は少し緊張した様子で、小さく頭を下げた。
「黒瀬です……よろしくお願いします」
声援は、他のメンバーに比べれば、控えめなものだった。
それでも、確かに、黒瀬の名前を呼ぶ声があった。
小さな声援だったが、黒瀬はそれをはっきりと聞き取ったようだった。ステージの上で、一瞬だけ、目を見開いていた。
翼は、その表情を見逃さなかった。
同じ十一人が、同じ舞台に立っている。
それなのに、客席から返ってくる音の大きさは、一人ひとり、はっきりと違っていた。
その事実を、翼は、深く考えないようにした。今はまだ、ただ、受け止めるだけで精一杯だった。
*
最後の一曲を歌い終えたとき、翼の息は上がりきっていた。
汗が、頬を伝う。
それでも、身体の奥には、これまで感じたことのない充足感があった。
「ありがとうございました!」
全員で頭を下げる。
鳴り止まない拍手の中、翼は、静かに顔を上げた。
客席には、まだ多くの人が残っていた。
自分たちのために、時間を使って、ここに来てくれた人たち。
その光景を、翼は目に焼きつけた。
*
バックステージに戻ると、誰からともなく、歓声が上がった。
「やったー!」
桃花が、真っ先に飛び跳ねた。
才賀奏も、珍しく大きく息を吐いて、頬を緩めていた。
美咲は、一人ひとりの肩を叩いて回っている。
「みんな、本当にお疲れさま」
玲香は、興奮を隠さずに笑っていた。
「思ったより声援もらえたね」
「私は、緊張で何も覚えてない……」
千里が、椅子に座り込んだまま呟く。
「でも、ちゃんと最後まで立ってたよ」
楓が、そっと言葉をかけた。千里は、少し驚いたように楓を見て、それから小さく笑った。
白峰は、静かに椅子に座り込んでいた。いつもの静けさの中に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
「白峰さん、大丈夫?」
翼が声をかけると、白峰は小さく微笑んだ。
「大丈夫。……楽しかった」
その一言に、翼は少し驚いた。白峰の口から、そんな素直な感想を聞いたのは、初めてだった。
「私も、楽しかったです」
「うん」
白峰は、それだけ言うと、また目を閉じた。まるで、今日という日を、静かに噛みしめているかのように。
*
黒瀬は、少し離れた場所で、一人、荷物を整理していた。
「黒瀬」
「……何」
「今日、名前呼ばれてたね」
黒瀬は、手を止めた。
「聞こえてた?」
「聞こえてたよ」
「……そう」
黒瀬は、それ以上何も言わなかった。けれど、その横顔には、これまで見たことのない表情が浮かんでいた。
戸惑いと、そして、確かな喜び。
翼は、そっとその横に座った。
「よかったね」
「うん」
小さな声だった。
「……ちゃんと、いてもいいのかもって、思った」
その言葉に、翼は何も返さなかった。ただ、隣に座り続けた。
*
控室の入口から、春宮修一が顔を出した。
「お疲れさま」
その一声で、部屋の空気が少しだけ変わった。
「みんな、良い顔してる」
プロデューサーは、一人ひとりを見渡すように言った。
「今日は、本当のスタートラインに立った日だ。ここから、良いことも、悪いことも、たくさん経験すると思う」
誰も、口を挟まなかった。
「でも、今日みたいに声援をもらえる日が、これからも続くとは限らない。むしろ、しばらくは、今日よりも小さな会場が続くかもしれない」
その言葉に、何人かが表情を曇らせた。
「それでも」
春宮は、少しだけ表情を緩めた。
「今日、ここにいた誰かは、絶対に忘れないよ。今日のことを」
その一言で、翼の胸の奥に、小さな熱が灯った。
春宮は、それだけ言うと、静かに控室を出ていった。
*
着替えを終え、荷物をまとめた十一人は、スタッフに連れられて会場の裏口へ向かった。
裏口の前には、まだ何人かのファンが残っていた。出待ちというには小規模な、数人程度の輪だった。スタッフが周囲を確認しながら、十一人をゆっくりと先導する。
「短い時間だけ、少し離れたところから見送ってもらいます」
「お疲れさまでした!」
声をかけられ、翼は反射的に足を止めた。
「あ……ありがとうございます」
どう返せばいいのか分からず、ぎこちなく頭を下げる。
桃花は、すぐに手を振り返し、満面の笑みを見せていた。
「来てくれてありがとう! また来てね!」
自然な振る舞いに、翼は感心した。
白峰の前では、いくつかの声が重なった。
「白峰さん、すごく綺麗でした!」
「ありがとうございます」
白峰は、短くそう言って、小さく頭を下げた。それだけの言葉なのに、声をかけた側の表情が、ぱっと明るくなるのが分かった。
翼は、その様子を見ながら、白峰という人の持つ引力を、改めて思い知った。
「才賀さん、歌、すごかったです!」
才賀奏にも、何人かが声をかけていた。
「ありがとうございます。届いてたなら、良かったです」
才賀奏は、いつもの落ち着いた声で、それでも心なしか嬉しそうに答えていた。
輪の端で、一人の女性が、遠慮がちに手を挙げた。
「黒瀬さん……ですよね」
黒瀬は、驚いたように顔を上げた。
「あ、はい」
「歌、良かったです。声、すごく残る感じがして」
黒瀬は、しばらく言葉が出てこないようだった。
「……ありがとうございます」
やっと出た声は、いつもより小さかった。
その女性が輪を離れていくのを、黒瀬はしばらく見つめていた。
車に乗り込むと、誰もが今日のことを話し続けていた。
「今度は、もっと大きい会場でやりたいね」
桃花が、夢見るように言った。
「まずは、今日のことをちゃんと振り返ろう」
美咲が、いつものように現実的な一言を添える。
その言葉に、何人かが小さく笑った。窓の外を流れていく夜景を眺めながら、翼は、今日一日の熱をまだ身体のどこかに感じていた。
寮に着くと、山田が、玄関先で待っていた。
「お疲れさま。みんな、良い顔してるね」
その言葉に、誰もが、今日の充足感を改めて実感したようだった。
「山田さん、見に来てくれればよかったのに!」
桃花が言うと、山田は柔らかく笑った。
「私は、ここでみんなを迎える係だから」
その言葉に、誰も何も言わなかったが、翼には、それがどれだけありがたい存在なのか、少しだけ分かった気がした。
共有スペースに入ると、テーブルの上には、遅い時間でも食べられるようにと、軽い夜食が並んでいた。
「うわ、嬉しい……!」
千里が、真っ先に手を伸ばす。
「今日くらい、好きなだけ食べていいよ」
山田の言葉に、何人かが歓声を上げた。
その光景を眺めながら、翼は、今日という日を、もう一度胸の中でなぞった。
*
消灯前、自室に戻ると、楓が、いつものようにノートを開いていた。
「今日は、何を書くの?」
翼が聞くと、楓は少し考えるように視線を上げた。
「みんなの、初めての顔」
「初めての顔?」
「緊張してた顔、楽しそうな顔、名前を呼ばれて驚いてた顔」
楓は、そう言って、ページをそっと翼に見せた。今日の出来事が、短い言葉で、いくつも書き留められていた。
「これ、いつか使うの?」
「分からない。でも、今日の顔は、今日しか見られないから」
その言葉に、翼は、何も返せなかった。
ただ、自分の顔も、そのノートのどこかに残っているのかもしれないと思うと、少しだけ照れくさかった。
消灯前、隣の部屋からは、理沙と陽菜の話し声が、小さく聞こえてきた。
「今日のステージ、緊張したけど、楽しかったね」
陽菜の弾んだ声。
「うん。でも、私、まだ完璧には程遠いから。明日からも頑張らないと」
理沙の、いつも通り現実的な返事。
その対照的な二人の声を聞きながら、翼は、小さく笑った。
十一人いれば、感じ方も、進み方も、それぞれ違う。
それでも、みんな同じ場所を目指している。
雨月翼は、まだ何者でもない自分を、今日、少しだけ好きになれた気がした。




