第4話:真ん中に立つ人
キャプテンが決まってから、数日が過ぎた。
寮での暮らしにも、少しずつ慣れてきた頃だった。朝、誰かが先に洗面所を使っていても気にならなくなったし、夜、共有スペースで誰かの物音が聞こえても、それが誰の足音かを聞き分けられるようになっていた。
台所には、いつも寮母の山田がいた。夕食どきになると、良い匂いが共有スペースまで漂ってくる。味噌汁の味が少し濃い日は、理沙が決まってお代わりをした。玲香が「今日は肉が食べたい」とリクエストする日は、なぜか本当に肉料理が出てきた。
小さなことの積み重ねが、いつの間にか、十一人の生活のリズムを作り始めていた。
その日、十一人はいつものレッスン室ではなく、スタジオの一室に集められた。
壁には大きなモニターが設置され、スタッフの数もいつもより多い。
空気が、これまでとは違う。
「今日は、皆さんのデビューシングルについて発表します」
春宮修一の声だった。オーディションの面接で、翼の本音を見抜いた、あのプロデューサーだ。
全員の背筋が、自然と伸びた。
「タイトルは、まだ仮ですが――」
モニターに、文字が映し出される。
曲名。コンセプト。世界観を表すイメージ画像。
誰かが、小さく息を呑んだ。
翼にも、その熱量は伝わってきた。ずっと想像の中にしかなかったものが、初めて形になって目の前に現れる瞬間だった。
隣で、深海千里が小さく声を漏らした。
「うわ、本当にやるんだ」
「当たり前でしょ」
涼宮玲香が、呆れたように返す。それでも、その声にも、いつもより張りがあった。
「そして」
プロデューサーの声が、一段低くなる。
「フォーメーションについても、今日、発表します」
空気が、張り詰めた。
翼の心臓が、大きく跳ねた。
誰が、どこに立つのか。
この一ヶ月あまり、口には出さずとも、全員がどこかで意識していたことだった。レッスンの合間、誰かがふと黒板の前に立つたび、視線が一瞬だけそこに集まる。誰も言葉にしなかったが、それが何を意味するかは、全員が分かっていた。
*
モニターに、フォーメーション図が映し出される。
十一人の名前と位置。
一番前の、中央。
その場所に記された名前を見て、誰も驚かなかった。
白峰。
当然だ、と翼も思った。
オーディションの日から、ずっとそうだった。控室に現れた瞬間、誰もが目を奪われた。レッスンでも、一度も間違えたことがない。感情をあまり表に出さない静けさすら、ステージの上では強さに変わる。
この一ヶ月、誰もが心のどこかで分かっていたことが、正式な形になっただけだった。
「白峰さんに、デビュー曲のセンターをお願いします」
プロデューサーの言葉に、白峰は小さく頷いた。
「よろしくお願いします」
短い返事だった。けれど、そこには確かな覚悟が滲んでいた。
拍手が起きる。翼も、心から手を叩いた。
続けて、春宮が、フォーメーションを一人ずつ読み上げていく。
「前列、才賀さん」
才賀奏が、静かに一歩前へ出た。
「前列、姫野さん」
桃花が、少し緊張した面持ちで頷いた。
「中列、涼宮さん、二階堂さん、神楽さん、星野さん」
名前が、次々と読み上げられていく。
「後列、雨月さん」
自分の名前を呼ばれた瞬間、翼の心臓が、大きく跳ねた。頭では分かっていたはずなのに、実際に名前を呼ばれると、その現実の重さが、まったく違って響いた。
「後列、深海さん、灰原さん、黒瀬さん」
最後に、黒瀬の名前が呼ばれた。
黒瀬は、表情を変えずに頷いた。それでも、翼には分かった。
周りを見渡すと、神楽美咲が、真っ先に大きな拍手を送っていた。キャプテンとして、誰よりも早く空気を作る役目を、もう自然に担っている。
姫野桃花は、はしゃいだ様子で白峰に駆け寄りたそうにしていたが、発表の場の空気を読んで、その場に留まっていた。
当然の結果だと思う一方で、翼の胸の奥に、小さな痛みが生まれるのを感じた。
自分ではない。
それは、初めから分かっていたことだった。
*
翼は、自分の名前をフォーメーション図の中に見つけた。
後列。端の方。
それでも、そこに自分の名前があることが、素直に嬉しかった。
――ちゃんと、いる。
十一人の中の一人として。
視線を横に移すと、黒瀬の名前もあった。
同じく、後列。中央からは遠い位置。
翼は、そっと黒瀬の様子を窺った。
黒瀬は、モニターを見つめたまま、動かなかった。表情は、いつもと変わらない。けれど、その静けさの中に、何かが渦巻いているように見えた。
「黒瀬」
「うん」
「大丈夫?」
「別に。分かってたことだし」
いつもの投げやりな口調だった。けれど、その声には、いつもより少しだけ力がなかった。
「自分で分かってたのに、ちゃんと言葉で言われると、キツいね」
黒瀬は、そう付け加えて、小さく笑った。その笑い方には、無理をしている気配があった。
「レッスンでも、いっぱい間違えてたし。白峰さんが真ん中なのは、当たり前でしょ」
「でも……この間、歌褒められてたじゃん」
「歌だけでしょ。ダンスは全然」
黒瀬は、それ以上何も言わなかった。
翼にも、それ以上言葉が見つからなかった。
図の中では、二階堂理沙と灰原楓も、それぞれ中列と後列に並んでいる。二人とも、結果を静かに受け止めているようだった。理沙は、いつもと変わらない表情でモニターを見つめ、楓は、その様子を少し離れた場所からノートに書き留めていた。
「あー、私、後列か」
千里が、拍子抜けしたように呟いた。
「思ったより前だね」
玲香が、自分の位置を確認しながら言う。玲香は、中列の中でも比較的目立つ位置に配置されていた。
「玲香は目立つ場所、似合うよね」
「そう? でも、外仕事もやりたいから、正直あんまりこだわってない」
玲香は、あっさりとそう言った。すでに、この場所以外の景色も見ている口ぶりだった。
千里は、それを聞いて、少し羨ましそうな顔をした。
*
「それでは、実際の楽曲を聴いてもらいます」
スタッフの声で、スピーカーから音が流れ始めた。
イントロが数秒続いたあと、明るく跳ねるようなメロディが広がる。
翼は、思わず息を止めた。
これまで、振り付けの基礎練習や発声練習の中で、断片的にしか聞いていなかった曲が、初めて完成した形で耳に届いた。
「……すごい」
誰かが、小さく呟いた。
桃花は、両手を口元に当てたまま、目を輝かせている。
「これ、絶対売れるでしょ!」
「まだ早いよ、桃花」
美咲が苦笑いしながら窘めたが、その声にも、隠しきれない高揚があった。
曲の中盤、サビへ向かう部分で、白峰だけが一歩前へ出るパートがあった。
曲が終わったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、誰かが小さく拍手を始め、それがすぐに全員へと広がっていく。
翼も、手を叩きながら、隣に立つ黒瀬をちらりと見た。
黒瀬は、真剣な表情で、まだスピーカーの方を見つめていた。
*
発表のあと、フォーメーション確認のためのダンスレッスンが始まった。
センターに立つ白峰を中心に、全員が位置を確認していく。
翼は、後列の端から、白峰の背中を見つめた。
小さな背中なのに、そこに立つと、なぜか誰よりも大きく見える。
振り付けが流れ始める。白峰の動きは、これまでと同じように、一つも乱れなかった。
センターに立つというプレッシャーを、微塵も感じさせない。むしろ、その場所に立つために生まれてきたかのようだった。
後列は、センターほど注目されない代わりに、隊列全体の見え方を支える役割がある、とインストラクターは説明した。
「後ろが崩れると、前がどれだけ綺麗でも、全体が崩れて見えます」
その一言で、翼は、後列であることの意味を、少しだけ捉え直した。目立たない場所にも、崩してはいけない責任がある。
実際に動いてみると、後列の振り付けは、思っていたより複雑だった。前列の動きに合わせてタイミングをずらしながら、同じ形を保つ。翼は、何度も一拍遅れ、中列から下がってくる理沙とぶつかりそうになった。
「ごめん」
「大丈夫。ここ、みんな最初はずれるから」
理沙が、冷静にそう言って、もう一度同じ動きを一緒にやってくれた。三回目で、ようやく揃った。
「できた……!」
「うん、良い感じ」
理沙の淡々とした褒め方に、翼は少しだけ照れくさくなった。
「白峰さん、やっぱりすごいね」
休憩中、桃花が興奮した様子で言った。
「あんな真ん中で、緊張しないのかな」
「してると思うよ、たぶん」
声を上げたのは、才賀奏だった。
「見せないだけで」
「そう……なのかな」
「白峰さん、レッスンのあと、いつも一人で自主練してる。見たことない?」
翼は、初めて聞く話だった。
「知らなかった」
「誰にも言ってないと思う。私、たまたま見ちゃっただけ」
才賀奏の言葉に、翼は白峰を見た。
休憩時間も、鏡の前で自分の動きを確認している。誰かに見せるためではなく、ただ、確かめるように。
――あの人も、必死なんだ。
翼は、そのことに、少しだけ安心した。
「私も、実はこっそり練習してるんだよね」
千里が、翼のすぐ後ろでそう言った。
「え、そうなの?」
「うん。でも、あんまり上達しないから、誰にも言ってない」
「言った瞬間、誰にも言ってないことになってないよ」
玲香が、呆れたように口を挟む。
「あ」
千里が、少し照れくさそうに頭をかいた。その様子に、翼は小さく笑った。緊張していた気持ちが、ほんの少しだけ緩んだ。
*
全員での通し練習が始まったのは、その日の午後だった。
初めて曲に合わせて動く十一人の隊列は、まだあちこちがぎこちなかった。誰かが一歩遅れ、誰かが位置を間違え、何度も止まっては、同じ部分を繰り返す。
才賀奏は、フォーメーションの前列、白峰のすぐ隣に位置していた。センターではないものの、誰の目にも留まる場所だった。
休憩中、翼は思わず才賀奏に聞いてみた。
「才賀さんは、センターになりたいと思わなかったの?」
才賀奏は、少し意外そうな顔をした。
「思わなかった、わけじゃないよ」
「そうなんだ」
「でも、私は、歌う場所にいられればそれでいいと思ってる。真ん中に立つことと、歌が届くことは、たぶん別のことだから」
その言葉には、迷いがなかった。
「白峰さんは、届けるための場所に立ってる。私は、届けるための声を出す。役割が違うだけ」
翼には、その考え方が、まだうまく飲み込めなかった。それでも、才賀奏の静かな覚悟のようなものだけは、確かに伝わってきた。
通し練習は、日が落ちる頃まで続いた。最後の一回を通し終えたとき、誰からともなく、小さな安堵の息が漏れた。
*
その日の夜、寮に戻ってからも、フォーメーション発表の余韻は続いていた。
共有スペースでは、誰もがそれぞれの形で、今日という日を噛みしめていた。
白峰は、部屋に戻る前に、少しだけリビングに顔を出した。
「今日は、お疲れさまでした」
いつもより、少しだけ改まった言い方だった。
「白峰さんも、お疲れさま!」
桃花が、真っ先に声をかける。白峰は、小さく頷いてから、すぐに自室へ戻っていった。その背中を見ながら、翼は、白峰があの重圧をどう受け止めているのか、まだ何も分からないままだった。
テーブルの隅では、美咲が、明日からの練習スケジュールを紙にまとめていた。
「センター決まったし、明日からフォーメーションの微調整、増えると思う。みんな、体力残しておいてね」
「美咲ちゃん、もうキャプテンの仕事してる」
翼がそう言うと、美咲は苦笑いを浮かべた。
「これくらいしか、できることないから」
美咲は、そう言って、また紙に視線を戻した。
*
消灯時間が近づいた頃、翼は忘れ物を取りに、共有スペースの隣にある小さな練習室へ向かった。
電気は消えている、はずだった。
扉の隙間から、わずかに光が漏れていた。
そっと覗くと、白峰が一人、鏡の前に立っていた。
音楽は流れていない。無音の中、白峰は、今日発表されたばかりの振り付けを、繰り返しなぞっていた。
一つの動作を、何度も、何度も。
翼は、声をかけるべきか迷った。
結局、扉をそっと閉めようとした瞬間、白峰が鏡越しに気づいた。
「……見てた?」
「あ、ごめん。忘れ物を取りに来ただけで」
白峰は、小さく息をついて、タオルで汗を拭った。
「ちょっとだけなら、いいよ」
思いがけない言葉だった。翼は、恐る恐る中へ入った。
「センター、緊張する?」
翼が尋ねると、白峰は少し考えるように視線を落とした。
「する。……今も、してる」
「そう見えない」
「見せないようにしてるだけ」
白峰は、鏡の中の自分を見つめた。
「一回でも綺麗に踊れないと、次はもう見てもらえないかもしれないから」
その言葉には、翼が想像していたよりも、ずっと重いものが詰まっていた。
圧倒的な華を持つ人にも、それを失うかもしれないという恐怖があるのだと、翼は初めて知った。
「翼は、後列で良かったと思ってる?」
不意に聞かれて、翼は言葉を探した。
「……正直、分からない。悔しいとか、そういう感じじゃないけど。でも、何もないなって思う。私には、白峰さんみたいな光もないし、才賀さんみたいな歌もないし」
「そう」
白峰は、それだけ言うと、また鏡に向き直った。
「でも、後列にいる人がいないと、前に立つ人は目立てないよ」
翼は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。
「そういうもの、なの?」
「さあ。まだ、私にも分からない」
白峰は、小さく笑った。それは、翼が初めて見る、白峰の飾らない表情だった。
*
自室に戻ると、楓がまだ起きていた。ノートを開いて、何かを書いている。
「まだ書いてるの?」
「うん。今日は、書くことが多くて」
「私のことも書いてる?」
冗談のつもりで聞いたが、楓は少し考えるように手を止めた。
「書いてるよ」
「え、本当に?」
「後列に決まって、少しほっとしてるように見えたけど、本当は違う顔をしてる。そう見えた、って」
翼は、思わず言葉を失った。
「……見透かされてる」
「ごめん、気持ち悪かった?」
「ううん」
翼は、正直にそう答えた。
「誰かにちゃんと見られてるって、なんか、嬉しいかも」
楓は、少し驚いたように翼を見て、それからまた、ノートに視線を戻した。
「私、上手く話せないから。こうやって書くことしか、できないんだけど」
「それでいいと思う」
翼がそう言うと、楓は小さく頷いた。
楓との話を終えたあと、翼は母親に電話をかけるため、もう一度共有スペースへ出た。
*
共有スペースの隅で、翼は母親に電話をかけた。
「もしもし」
「あ、翼? どうしたの、こんな時間に」
「ううん、なんとなく」
翼は、今日発表されたことを、そのまま話した。デビュー曲のこと。フォーメーションのこと。自分が後列だったこと。
「そう……翼は、それでいいの?」
母親の声には、心配が滲んでいた。
「うん。今のところは」
翼は、正直にそう答えた。
「悔しくないの?」
「悔しいというより……なんか、まだ実感がない、って感じ」
電話越しに、母親が小さく笑う声が聞こえた。
「なら、いいけど。無理してない?」
「してないよ」
翼は、少し迷ってから、続けた。
「ここに来てから、毎日、誰かと一緒にいる。学校にいたときより、ずっと」
「そう」
「不思議だけど、そんなに嫌じゃない」
電話の向こうで、母親が何かを言いかけて、やめたのが分かった。
「じゃあ、良かった」
それだけ言って、母親は電話を切った。
翼は、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
寂しさと、安心が、同時に胸の中にあった。
*
部屋へ戻る途中、翼は、非常階段の方から小さな声が聞こえるのに気づいた。
そっと近づくと、黒瀬が一人、階段の踊り場で、口の中で何かを繰り返していた。
歌詞だった。今日聴いた曲の、後列パートの歌詞を、小さな声で何度も口ずさんでいる。
「……黒瀬?」
黒瀬は、びくりと肩を震わせた。
「な、なんで見てるの」
「たまたま通っただけ。何してたの?」
「別に、何も」
黒瀬は、明らかに動揺していた。
「歌詞、覚えようとしてたんじゃないの?」
「……うるさい」
黒瀬は、顔を背けた。それでも、逃げるようにその場を離れることはしなかった。
「後列でも、ちゃんと歌えるようになりたいから」
小さな声だった。
「誰にも見せたくなかったのに」
「言わないよ、誰にも」
翼がそう言うと、黒瀬は少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがと」
二人は、どちらからともなく、階段の隅に並んで座り込んだ。
「黒瀬、今日、元気なかったね」
「そんなことないけど」
「あった」
「……うるさいなぁ」
黒瀬は、小さくため息をついた。
「悔しいとかじゃないよ。ただ、当たり前だなって思っただけ」
「当たり前?」
「白峰さんが真ん中に立つのは、当たり前でしょ。私みたいなのが真ん中に立つ未来なんて、想像もつかない」
「そんなことない」
「あるよ」
黒瀬は、はっきりと言った。
「でも」
その声が、少しだけ変わった。
「この間、歌を褒められたとき……ちょっとだけ、思ったんだよね」
「何を?」
「別に、白峰さんみたいにならなくてもいいのかもって」
翼は、黒瀬の横顔を見た。
「私には、私にしかできないことが、あるのかもしれないって」
それは、これまでの黒瀬からは聞いたことのない言葉だった。
「まだよく分からないけど」
黒瀬は、少し照れくさそうに続けた。
「今は、後列でいい。焦ってない、とは言わないけど」
「うん」
「いつか、なんて思ってないから。でも……ちょっとだけ、頑張ってみようかなって」
その言葉には、これまでの「どうせ」とは違う響きがあった。
翼は、何も言わずに、小さく頷いた。
白峰が鏡の前で繰り返していた振り付けと、黒瀬が階段の踊り場で繰り返していた歌詞。
真ん中にいる白峰も。後ろにいる黒瀬も。
誰にも見られていないところでは、同じように練習していた。
*
白峰は、デビュー曲のセンターとして、すでに真ん中に立っている。
黒瀬は、まだ後列にいる。
いつか、この配置図も変わるのかもしれない。
誰かが前に出て、誰かが後ろに下がって。
それでも、今夜だけは、十一人全員が、同じ場所で同じ夜を過ごしている。
翼は、その事実だけを、確かなものとして胸にしまった。




