第3話:十一人の家
レッスンが始まって、一ヶ月ほどが経っていた。この日、正式に寮生活が始まった。
二人部屋を中心とした居室と、広めの共有スペースが用意されていた。十一人だから、一部屋だけ三人部屋になる、とスタッフから説明があった。翼は、自分の荷物を抱えて、その入口の前に立った。
スーツケース一つと、紙袋二つ。それが、翼がこれから暮らす場所に持ち込める、生活のすべてだった。
「思ったより、ちゃんとした建物だね」
隣で同じように荷物を抱えていた桃花が、興味深そうに見上げている。
「うん」
「緊張する?」
「……ちょっと」
母親と離れて暮らすのは初めてだった。学校に行けなかった自分を、それでも毎朝見送ってくれた人。その距離が、これから物理的にも遠くなる。
昨夜、荷物をまとめる翼の後ろで、母親は何度も同じことを言っていた。
「無理だったら、いつでも帰ってきてね」
その言葉に、翼は「うん」とだけ答えた。本当は、他に言葉が見つからなかった。
「大丈夫だよ、みんないるし」
桃花が、翼の肩を軽く叩いた。
その一言だけで、少しだけ、胸のあたりが軽くなった気がした。
エントランスをくぐると、すでに何人かの姿があった。
一ヶ月も一緒にレッスンをしているのに、まともに話したことのない子もまだいる。
「ちゃんと話すの、初めてだよね。涼宮玲香」
背の高い、はっきりとした顔立ちの少女が、翼に軽く頭を下げた。物言いに迷いがなく、まっすぐに翼の目を見て話す。
「雨月翼です」
「知ってる。翼ちゃんって呼んでいい?」
「あ、はい」
距離の詰め方が、桃花とは違う種類の自然さだった。人と話すことに、慣れている。
その少し後ろで、荷物の重さを測るように持ち上げたり下げたりしている少女がいた。
「これ、思ったより重いな……」
誰に言うでもない呟き。翼が近づくと、少女は顔を上げた。
「ちゃんと話すの初めてだね。深海千里」
「雨月翼です」
「翼ちゃんって、たしか中学生だよね。何県出身?」
「え、都内です」
「都内かぁ。私は向こうの、田舎の方から出てきて」
千里は、そう言って笑った。方言までは出ていないが、言葉の間に、少しだけ都会の子とは違う緩さがある。
「都会の人って、みんな洗練されてるイメージだったけど、意外と普通だね」
「……それ、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
千里は、悪びれることなくそう言って、また荷物と向き合った。
*
部屋割りは、くじで決まった。
翼は、灰原楓と同室になった。
「よろしくお願いします」
翼が頭を下げると、楓は少し驚いたように顔を上げた。
「……うん、よろしく」
言葉は少ないが、拒絶している空気ではない。むしろ、どう距離を取ればいいのか、楓自身も分からないようだった。
「私は誰だろう……」
桃花が、くじを開きながらそわそわしていた。
「才賀さんだ! よろしくね!」
「よろしく」
才賀奏は、いつもの落ち着いた声で答えた。二人が同室になったことに、桃花は特に驚く様子もなく、むしろ楽しみにしているようだった。
「奏ちゃん、静かだから、私が喋りすぎたらごめんね」
「大丈夫。にぎやかなの、嫌いじゃない」
その一言に、桃花はぱっと顔を輝かせた。
共有スペースには、すでに何人かが集まっていた。
「ここ、キッチンも使えるんだ!」
桃花が、はしゃいだ声を上げる。
「基本的なお食事は、私が用意しますよ」
声をかけてきたのは、寮の管理を任されている女性だった。四十代くらいだろうか、柔らかい物腰で、すでにキッチンの奥で夕食の下ごしらえを始めている。
「寮母の山田です。困ったことがあったら、何でも言ってくださいね」
「山田さん、よろしくお願いします!」
桃花が、真っ先に頭を下げた。
「キッチンは、おやつを作ったり、遅い時間にちょっと何か食べたい、っていうときに自由に使ってもらえればいいので」
「理沙ちゃん、料理できるの?」
桃花が、隣にいた二階堂理沙に聞いた。
「できる。時間がないから、手早く作るのは得意」
「頼りになる……! でも、ご飯は山田さんが作ってくれるんだね」
「うん。だから、余計な時間を取られなくて済む」
理沙は、少しほっとしたように呟いた。
「山田のおばちゃんって呼んでもいい?」
桃花が、無邪気に聞いた。
「おばちゃんは否定しないけど、私が答えていいのかしら」
山田は、笑いながらそう返した。その気さくな受け答えに、何人かが小さく笑った。
少し離れた場所では、白峰が静かに荷物を整理していた。誰かに声をかけられるたび、短く相槌を返す。感情の起伏は見えないが、拒んでいるようにも見えなかった。
「白峰さんも、ここに住むんだ」
黒瀬が、翼にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。
「うん」
「なんか、不思議」
「不思議?」
「あの人が、隣の部屋にいるって考えると」
黒瀬の声には、憧れと戸惑いが半分ずつ混ざっていた。
キッチンの方から、賑やかな声が聞こえてくる。
「玲香ちゃん、それ持ち方危ないよ!」
声をかけていたのは、星野陽菜だった。誰にでも気軽に話しかけ、相手の懐に入るのが上手い。玲香が抱えていた鍋を、さっと受け取って笑いかけている。
「ひなちゃん、細かいね」
「細かくないよ、心配してるだけ!」
その場に、笑い声が上がった。
翼は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
まともに話したこともなかった人たちが、もう自然に名前を呼び合っている。
自分にも、いつかそんな相手ができるのだろうか。
そう考えると、少しだけ不安になった。
*
その夜、共有スペースに、なんとなく人が集まった。
誰かが提案したわけでもない。レッスンで疲れた身体を休めながら、自然と全員がリビングに顔を出していた。
「なんか、修学旅行みたい」
桃花が言うと、いくつかの笑い声が上がった。
「修学旅行、行ったことないけど」
黒瀬が、ぽつりと呟く。
「私も」
翼も、そう答えた。
中学一年生になってから、学校行事にはほとんど参加していない。
「じゃあ、これが初めての修学旅行みたいなものだね」
桃花が、うれしそうに言った。
翼は、その言葉に、少しだけ救われた気がした。
テーブルの隅では、神楽美咲が、みんなの部屋割りをメモしていた。
「何それ」
「緊急連絡先とか、部屋番号とか。まとめておいた方がいいかなって」
「もうキャプテンみたいなことしてる」
翼がそう言うと、美咲は少し照れくさそうに笑った。
「そんなつもりじゃないんだけど」
それでも、誰も否定しなかった。むしろ、その存在に、すでに何人かが自然と頼っているようだった。
*
消灯後、部屋に戻った翼は、隣のベッドで本を読んでいる楓に、思わず声をかけた。
「楓、まだ起きてる?」
「うん」
「今日のこと、また書くの?」
「たぶん」
楓は、ノートを閉じて、少しだけ翼の方を見た。
「翼は、ここに来てよかったと思う?」
不意な問いに、翼は少し考えた。
「……分からない。まだ、全然自信がないから」
「私も」
楓は、それだけ言うと、また静かにノートを開いた。
翼は、電気を消した部屋の中で、遠くから聞こえる誰かの笑い声に耳を澄ませた。
壁の向こうにも、隣の部屋にも、それぞれの少女たちがいる。
まだ、全員のことを知らない。
それでも、同じ屋根の下で夜を迎えるという事実だけで、少しだけ心が軽くなった気がした。
*
翌朝、翼が洗面所に向かうと、すでに理沙が歯を磨いていた。
「おはよう」
もごもごとした返事が返ってくる。
廊下の向こうから、桃花の元気な声が聞こえてきた。
「奏ちゃん、先に朝ごはん行ってていいよ!」
「一緒に行く」
二人が連れ立って歩いていく後ろ姿を、翼はぼんやりと眺めた。
レッスン場では知らなかった、みんなの朝の顔。
この光景に、いつか慣れる日が来るのだろうか。
そう思いながら、翼も身支度を整えた。
*
その週の半ば、共有スペースから、少し張り詰めた声が聞こえてきた。
「ごめん。明日レコーディングだから、少し静かにしてほしい」
才賀奏の声だった。いつもの落ち着いた口調とは違う、はっきりとした響きがあった。
「あ……ごめんね!」
桃花が、慌てて口をつぐんだ。夜遅くまで、理沙や千里と話し込んでいたところだった。
「全然、大丈夫だから。ただ、喉のことがあって」
奏は、そう言って、静かに自分の部屋へ戻っていった。
残された桃花は、しばらく、しゅんとした顔をしていた。
「私、そんなに喋ってたかな……」
「気づかなかったよね、たぶん」
千里が、フォローするように言った。それでも、桃花の表情は、すぐには戻らなかった。
誰も悪くなかった。それぞれが、それぞれの事情の中で、精一杯生活していた。
それでも、十一人で暮らすということは、こういう小さなすれ違いが、避けられないということでもあった。
翼は、その夜、そのことを、初めて実感した。
*
寮生活が始まって、二週間が経った。レッスンも、日に日に厳しさを増していた。
最初の緊張感は薄れ始めていたが、代わりに別のものが十一人の間に広がっていた。
疲労と、焦りだった。
*
「今日のフォーメーション確認、もう一回やります」
インストラクターの声に、何人かがあからさまに肩を落とした。
基礎パートの確認は、もう三時間を超えていた。翼の足は、とっくに感覚が鈍くなっている。
「……もう無理」
黒瀬が、小さく呟いた。
「頑張ろう」
「頑張ってるよ、ずっと」
棘のある言い方だった。翼は、何も言えなくなった。
列の端では、理沙が教科書を鞄に入れたまま、じっと壁の時計を見ていた。今日は塾の日だと、前に聞いたことがある。
少し離れた場所では、深海千里が小さく咳き込んでいた。誰かが「大丈夫?」と声をかけたが、「平気」とだけ返して、また列に戻る。いつもの軽口も、今日は出てこなかった。
涼宮玲香は、いつも通り表情を変えないまま、正確にステップを踏んでいた。それでも、その正確さの中に、余裕のなさがにじんでいるのが翼には分かった。
寮での生活が始まってから、休む暇がなくなった。レッスンが終われば、着替えて、簡単な夕食を済ませ、次の日のための自主練をして眠る。以前は、電車の中や家に帰る道が、唯一の「一人になれる時間」だった。今は、その時間さえもなくなっていた。
空気が、ぴりぴりとしていた。
「もう一度、頭から」
インストラクターの声。
誰かが、小さく舌打ちをした。
翼は驚いて振り返った。声の主は分からなかったが、その音は確かに聞こえた。
スタジオの空気が、目に見えて悪くなった。
*
その日、レッスンを終えて寮に戻ったあとも、空気は晴れなかった。
共有スペースに集まっても、いつもなら誰かが口を開く。けれど、今日は誰も口を開かなかった。
いつもなら桃花が場を盛り上げる。けれど、今日は桃花自身も俯いたまま、ペットボトルの水を一口飲んだきり、動かなかった。
翼は、周囲を見渡した。
白峰は、いつも通り静かに壁にもたれている。疲れているはずなのに、それを表に出さない。
才賀奏は、目を閉じて何かを堪えているように見えた。
黒瀬は、床に座り込んだまま、膝を抱えている。
千里は、いつものように誰かをからかう軽口を探しているようだったが、結局何も言わずに視線を落とした。玲香も、いつもの迷いのない口調が、今日は出てこない。
楓は、部屋の隅で、ノートを開くこともせず、ただ黙って皆の様子を見ていた。
寮という同じ空間にいるからこそ、その重い空気からも、簡単には逃げられなかった。
以前の翼なら、こういう空気の中で、どうしていいか分からずただ黙っていただけだったと思う。学校の教室で、誰かの機嫌が悪いとき、いつも息を潜めてやり過ごしていた。
でも、今は違った。
この十一人から、逃げたくなかった。
このままでは、何かが崩れる。
翼は、そう感じた。けれど、自分に何ができるとも思えなかった。
そのとき。
「ねえ、みんな」
声が上がった。
美咲だった。
全員の視線が、彼女に集まる。
「しんどいよね、正直」
誰も、否定しなかった。
「私も、正直きつい。毎日、部屋に戻ったら泣きそうになる日もある」
意外な告白だった。誰よりも堂々と振る舞っていた彼女が、そんなことを言うとは思っていなかった。
「でも」
彼女は、一人ひとりの顔を見渡した。
「同じ場所で暮らしてる私たちが、ここでイライラをぶつけ合うようになったら、たぶん一番しんどいのはこれからだと思う」
その言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
「私たち、十一人しかいないんだよ。デビューできない子もいるかもしれないって言われてる中で、選ばれた十一人が、同じ屋根の下で嫌な空気になったら……もったいなくない?」
沈黙が続いた。
彼女は、少し照れくさそうに続けた。
「私、別にリーダーとかそういうのじゃないけど。でも、誰かが言わないといけない気がして」
「……ううん」
声を上げたのは、才賀奏だった。
「言ってくれて、ありがとう」
静かな声だったが、はっきりと届いた。
「私も、正直つらかった。でも、それを誰かに言うのが、なんか違う気がしてて」
「わかる」
白峰が、初めて口を開いた。
全員が、驚いたように白峰を見た。白峰が自分から感情を言葉にすることは、これまでほとんどなかった。
「一人で抱えてても、意味ないよね。特に、家に帰るわけでもないんだし」
短い言葉だったが、その場の空気を変えるには十分だった。
黒瀬が、膝を抱えたまま顔を上げた。
「……ありがと」
小さな声だった。誰に向けての言葉かは分からなかったが、彼女に向けられたものだということは、翼にも分かった。
*
翌日のレッスンでは、空気は完全に晴れたわけではなかった。それでも、昨日までとは明らかに違っていた。
誰かが間違えても、舌打ちは聞こえなかった。代わりに、小さく「ドンマイ」という声が飛んだ。
翼は、その変化を肌で感じていた。
――あの一言で、変わった。
*
その日のレッスンを終えたあと、スタッフの一人が、全員を集めた。
「昨日、寮で少し空気が悪くなったと、山田さんから聞いています」
全員が、気まずそうに視線を落とした。
「同時に、それを立て直そうとした人がいたとも聞きました」
スタッフの視線が、一人の少女に向く。
場をまとめた、あの美咲だった。
「今後、皆さんの中でリーダー的な役割を担ってもらう人を、正式に決めたいと思っています」
全員が、顔を見合わせた。
「私たちとしては、神楽さんに――」
「え……私ですか?」
「はい。もう決まっているみたいですね」
スタッフが、そう言って、少しだけ笑った。
「昨日のような場面で、自然と皆さんをまとめていたのは、神楽さんでした。肩書きだけ、追いつかせようと思います」
沈黙のあと、拍手が起きた。
最初は控えめに。けれど、すぐに全員の手が重なった。
翼も、大きく手を叩いた。
美咲は、しばらく戸惑った表情を浮かべていたが、やがて、まっすぐに前を見た。
「……分かりました」
その声には、迷いがなかった。
「みんなが、しんどいときに言い出せなかったことを、私が代わりに言う。それがキャプテンの仕事なら、やります」
誰かが、小さく拍手を大きくした。
「その代わり」
美咲は、少しだけ笑った。
「私が間違えたら、ちゃんと言ってね。一人で全部背負うのは、無理だから。……これから、同じ屋根の下で暮らすんだから」
その言葉に、いくつかの笑い声が上がった。張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
*
寮に戻る車の中、翼は黒瀬と並んで座った。
「キャプテン、決まったね」
「うん」
「よかった。あの人がキャプテンで」
黒瀬は、珍しく素直に頷いた。
「昨日、あの人が声上げてくれなかったら、たぶん私、もっとひどいこと言ってたと思う」
「そんなことないでしょ」
「ある。……ありがとうって、ちゃんと言えてよかった」
その横顔には、いつもの投げやりさが、少しだけ薄れていた。
寮に着くと、共有スペースには、すでに明かりが点いていた。
山田が、遅れて帰ってきた分の夕食に、ラップをかけて残しておいてくれていた。
誰かが、誰かの部屋を覗いて、今日の出来事を話している。
その光景を見て、翼は、十一人という数字を改めて意識した。
この中から誰か一人がいなくなる未来を、翼にはまだ想像できなかった。
誰か一人が、皆の代わりに声を上げてくれることもある。
そして、誰か一人の帰りを、こうして待っていてくれる人もいる。
共有スペースの隅では、才賀奏が、静かに夕食を口に運んでいた。
「奏ちゃんは、今日の空気、どう思った?」
翼が尋ねると、奏は少し考えてから答えた。
「みんな、疲れてたと思う。でも、美咲がちゃんと声上げてくれたから、大丈夫だった」
「奏ちゃんも、疲れてない?」
「疲れてるよ。でも、歌う時間だけは、不思議と疲れを忘れられる」
その言葉に、翼は、才賀奏という人の、静かな強さを感じた。
雨月翼は、まだ自分の役割が何なのか、分からないままだった。
けれど、昨日までとは、少しだけ違う。
レッスンが終われば帰る場所に、十一人がいる。
誰かが疲れていれば、それに気づく人がいる。
誰かが言葉にできなければ、代わりに声を上げる人がいる。
ここはもう、ただ寝るための寮ではなかった。
翼にとっても、十一人にとっても。
少しずつ、家になり始めていた。




